高野山黒田家墓所

2007-12-31 11:03:21 | Weblog
親しい友人の尾満社長(「平成」の年号を上申した易学の泰斗故安岡正篤の流れをくむ平成の易学の大家で現在満月斎として活躍中/実家は名槍日本号を侠客より買い戻しに尽力し黒田家に寄贈させまた玄洋社を起し幕末から昭和にかけて日本国の為に大活躍した黒田藩士の末裔頭山満(とおやまみつる)を陰乍ら助け保護した/本人のお名前の満は頭山満より名付けられたという)より高野山から我が息子を経てメールが届きました。高野山には黒田家の墓所がありその写真を送ってくれました。これをもって今年度の豊前国中津黒田武士顕彰会のブログを納めたいと思います。実は昨年の12月14日に最初の1ページを開き逡巡する中、同24日より1年間は毎日ブログを更新し黒田武士の顕彰に努めるべく精進すると願をかけやってきました。拙いブログでしたが勤務の傍らでしたので走り書きもあり、またこの12月には胃の手術というアクシデント(ベットの上で点滴を受けながらブログ作りをしました)もありましたがお陰で丁度今月の24日に満願成就となりました。長い間多くの皆様に読んでいただき感謝しております。本年は黒田武士の会として4月29日中津みなと藤祭りに出演と新曲「豊前中津の黒田武士」のご披露、5月3日博多どんたくに出演、5月19日中津市南部公民館中津の郷土史を語る会で「豊前中津の黒田武士」の演題で講演、同27日中津市リルドリーム中津音頭大会、6月6日母里太兵衛の命日に嘉摩市麟翁寺に詣で、8月3日姫路お城祭り、10月20日福岡市西公園光雲神社遷座100年祭出演,また数々の祝賀の式に招かれたりして大いに中津の宣伝と黒田武士の顕彰に勤め、会としても良くやってこれたなと思える1年でした。戦国武将黒田如水、長政そして名槍日本号を福島公より飲み取り民謡黒田節でその名を残した母里太兵衛をはじめとする黒田24騎の兵(つわもの)どもは黒田武士としてその勇猛果敢な生涯は調べるほど奥が深く一人ひとりの人物はまことに魅力ある「武士/もののふ」そのものでした。それも黒田如水、長政父子が傑出した戦国武将であったがゆえにそれを支えた家臣達もそれに準じて素晴らしかったのだといえます。今後は今までのように毎日ブログを更新とはいかないと思いますが黒田武士顕彰会としては秀吉、家康に天下を取らせた戦国時代の名軍師、幾多の戦にその冴え渡る軍略を駆使し戦国史に燦然と輝く豊かなエピソードを残した「黒田如水、長政をNHK大河ドラマに」取り上げられるように頑張って行きたいと思います。全国の黒田武士フアンの皆様本年は大変お世話になりありがとうございました。来るべき平成20年が皆様にとって輝かしい一年と成りますようにご祈念申し上げます。豊前国中津 黒田武士顕彰会 会長小野眞宏、事務局長松本達雄他会員一同。

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黒田二十四騎・野口左助一成(1559~1643)

2007-12-31 10:31:06 | Weblog
野口左助一成は吉田長利とともに黒田家臣傅中の巻に修められている豪者である。幼時より如水に仕え播磨での戦、九州平定戦、朝鮮出兵でも活躍。関が原の合戦では長政に従い陣頭で奮戦した。筑前入国後は鉄砲大頭となり二千五百石を賜る。島原の乱では藩主となった長政の嫡子忠之につき従軍した。母里太兵衛の妹を妻に迎えている。80歳を超える長命で初期黒田藩の重鎮として重用された。
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黒田二十四騎・吉田壱岐守長利(1547~1623)

2007-12-30 10:54:43 | Weblog
吉田壱岐守長利は幼名六之助、後に六郎太夫、晩年壱岐と号す。天分16年(1547年)播磨の国飾東郡生。母は孝高(如水)誕生の時乳を参らす。始め如水の父黒田職隆に仕え九州平定や朝鮮の役等で武功あり。関が原の合戦時には中津より如水に従って九州征討に従戦した。一生の間合戦57度、討ち取りし首数37、されど豊前城攻めの時、左頬に受けた鉄砲傷1ヶ所のみという剛勇の士であった。
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黒田二十四騎・久野四兵衛重勝(1545~1592)

2007-12-29 10:43:10 | Weblog
黒田八虎と呼ばれる八侍大将(文禄の役で黒田軍五千人の兵を分担し指揮した大組頭を黒田二十四騎と呼ぶがその中でも如水の3弟を含む上位8名をさす)に並ぶ猛將が久野重勝である。黒田家臣傅には上、中、下巻があるが上巻に記述されている6名(5名は如水3弟以外の黒田八虎)のうちにその名がある。幼いころから如水に仕え九州平定戦の後、「秀吉より如水に荒廃した博多の町を復興させる命が下りその司に四兵衛を指名。其の時博多の町は兵火に焼て、其の跡は草深くして町を割べき縦横も定がたかりしに、ふるき井を尋ね屋敷の有所を定め町の経営をなしければ速にはかゆきける」と黒田家臣傳にある。朝鮮出兵の時、肥前名護屋城の諸軍勢の小屋の地割を秀吉から如水に命じられた時、四兵衛にまたも命じたがこれも見事に土地整備の才を発揮し秀吉に褒められる。文禄の役で深手を負い惜しくも陣没した。
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黒田八虎・黒田図書助直之(1564~1609)

2007-12-28 11:01:15 | Weblog
黒田図書助直之は如水の異母弟で播磨において如水とともによく戦い、後に秀吉、秀長に仕え、如水が九州征伐の恩賞で豊前中津に入国後、黒田家に戻り4千5百石を賜る。中津城下の教会で洗礼を受け如水、長政、利高とともにキリスト教の信者となるが直之がもっとも敬虔な信者であり、天正18年の小田原北条攻めでは北条家の家臣由良氏の娘を娶りともに洗礼を受け熱心な信者となった。朝鮮の役、石垣原(大分県別府市)の合戦、富来(とみく/大分県国東町)城、安岐(あき/大分県国東安岐町)城攻めに従戦し、接収した久留米城(福岡県久留米市/城主毛利秀包もクリスチャンであったが訳あって関が原の合戦では西軍に付くも、もしその間東軍の武将が攻めてきて久留米城の攻め手の中にに黒田如水が居れば速やかに城を明け渡すようにと家臣に言い残し関が原に出兵していた)の城番を命じられる。久留米はキリスト教徒が多く如水の配慮であった。筑前入封後は秋月城主として1万2千石を拝領。秋月城下にはキリシタンが多勢保護されていた。慶長18年徳川幕府がキリシタン禁教令を発布、長政は即教会を閉鎖した。先に没した父如水についても記録上ではキリシタンの棄教を装い、キリシタン臭を消し、また長政は福岡城の南蛮造りの天守閣を壊し黒田家は生き残りのためキリスト教の痕跡を消すことに必死となり幕府に恭順の姿勢を示した。どうにか黒田家が転封を免れ明治まで続いたのは藩祖如水と初代藩主長政の武勲によるところが大であるが時代が変わっても藩の存続を賭けて歴代の藩主や家臣達が黒田家を必死で守りぬいた。
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黒田八虎・黒田修理亮利則(1561~1612)

2007-12-27 10:31:08 | Weblog
黒田修理亮利則は如水の母違いの弟で兄利高と同じく秀吉に仕え九州平定後黒田家に戻る。文禄・慶長の役、石垣原の合戦に従事。関が原の合戦の時は中津城を守る。筑前入国後は津屋崎城代として1万2千石を賜る。晩年、正岸寺に父職隆の画像を、黒田家の菩提寺である福岡市崇福寺に孝高(如水)の追福画像を奉納した。
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黒田八虎・黒田兵庫助利高(1554~1596)

2007-12-26 12:18:19 | Weblog
黒田兵庫助利高は如水の弟で早くから秀吉に抜擢され三木城攻め、山崎の戦い、小牧・長久手の戦いに参戦した後、黒田家へ戻る。豊前入国後はよく長政を助け宇佐神宮を守り高森(宇佐市高森)城代として1万石を賜る。中津では教会堂を建てた如水の勧めによりキリスト教に入信し洗礼を受ける。甥で年下でもあるが長政は城主なれば、道で長政の駕籠に出会ったとき利高は馬から飛び降り頭を地につけて平伏した。家中の諸士に手本を示したのだ。物事に動ぜず、実直で柔和、知恵深く人情家であった。晩年は長政と北政所(秀吉正室)を看取り、余生は自由に暮らした。文禄の役に従軍中朝鮮で病を得て帰国し療養中没した。如水の活躍には勇猛果敢な黒田武士が支えていたが、如水の3人の弟達の活躍も見逃せない。それぞれ自分の役目を熟知し黒田家のために一致団結したのが後の筑前福岡52万石の大名として結実したのである。又家臣団にそのような働きをさせたのは棟梁としての如水の人柄、器量の大きさであり、それにより家臣団の団結はより堅固なものとなった。
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黒田八虎・黒田美作守一成(1571~1656)

2007-12-25 15:02:50 | Weblog
黒田美作一成は幼名玉松、長じて三左衛門と名付く。筑前に来て美作と改む。父加藤又左衛門は如水を牢に入れた荒木村重の家臣で、如水が1年ほど有岡城の牢に幽閉された時、牢番だったが如水の面倒を良く見たので「自分がもし運よく生きてこの牢から出られればお礼としてそなたの息子をわしに養育させ給え」と約束した。有岡城落城の後如水は助け出され、息子玉松に黒田姓を与え懇ろに遇す。岸和田の陣、四国陣、筑紫陣、日向耳川、豊前国一揆、城井宇都宮攻め、朝鮮出兵に高名を挙げる。其の性格は謙虚にして「日本朝鮮にて度々の戦功多し。然れども天生武功にほこらず、只長政の下知にて戦に利を得たるのみ語る」と黒田家臣傅にある。筑前入国後、三奈木(甘木市)城代一万千石を賜る。身の長六尺に及び其の力人にすぐれたり。鹿角を引き裂くほどの大力であった豊前国城井中務(宇都宮鎮房)の剛弓を引けるほどの強力であった。明暦2年福岡城下にて没。行年86歳。其の人となり寛容にしてせまらず、温柔にしてはげしからず、、、隠居しては客を好んで日夜笑談する者前につらなれり。花月景物を愛し、和書記録を好み自適安閑にして身を終わりける。幸せな一生というべきか。

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黒田八虎・後藤又兵衛基次(1560~1615)

2007-12-24 12:29:58 | Weblog
後藤又兵衛基次は後に隠岐と号す。幼時より長政に可愛がれ、孝高長政に従きて所々の軍に赴き戦功多く武勇甚人にすぐれたり。天承15年筑紫陣、豊前国逆徒退治に功あり。また文禄元年朝鮮征伐には抜群の高名をあげる。関が原の合戦には長政の先手を勤め合渡川の先陣をし、石田三成勢と戦うに粉骨浅からず。筑前に転封後、嘉摩郡小隈に1萬6千石を賜る。その後禁じられた近隣の城主と書状を交わしたり、他国と交わりして藩主長政の叱責をうけ慶長11年筑前を立ち退き浪人する。慶長19年、豊臣秀頼に軍監として召抱えられるも大坂夏の陣にて伊達政宗陣より放たれた鉄砲に当たり戦死。豊臣、徳川双方に恩義あれば戦死を持って其の恩に報いようとした。大分県中津市耶馬溪町伊福に後藤又兵衛の墓が伝えられている。愛妾が又兵衛を弔うために建てたとか。又中津市片端町に又兵衛屋敷跡と古くから古老より言い伝えられている区画がある。
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黒田八虎・栗山備後守利安(1551~1631)

2007-12-23 11:50:13 | Weblog
栗山備後利安は天文20年姫路生。幼名善助、後に四郎右衛門と号し、筑前入国後は備後と改、隠居後卜庵と号す。利安15歳の折、風説に黒田氏の秀でたるを聞き孝高(如水)の許に仕えたいと申し出た。生まれつき正直に心ざまけなげにして奉公にも精を尽くしたので殊の外孝高に気に入られた。領内の戦に於いて数々の高名を上げ、天正6年荒木村重に幽閉された如水の牢近く忍び込み其の安否を伺い落城の際は一番に駆けつけ半死半生の如水を助け出した。秀吉公九州征伐のときは島津勢を追散させ、仲津郡に入国後は豊前下毛の長岩城主野仲鎮兼はじめ嘉来、福島、犬丸の国士を攻め落とし後6千石を賜り下毛地区を平田城(耶馬溪町/息子で黒田騒動の折黒田家を救った大膳が生まれた)を預かり、一つ戸城(耶馬溪町)代として治めた。文禄元年朝鮮出陣の折数々の高名を挙げ四五郡を預かるも慈愛を以って民に接したので民も利安を慕った。慶長5年関が原の前、石田三成の人質要請のお触れが出たとき、母里太兵衛と共に如水・長政の内室を三成の兵に囲まれた大坂の黒田屋敷から助け出し無事に仲津まで送り届けた。如水が九州征討に豊後を攻め大友氏を石垣原で撃破、後九州一円を攻めたときも数々の手柄を立てた。黒田家が筑前に入国後も左右良(まてら)城代として1萬5千石を与えられ善政をしいた。慶長9年如水死去の際、如水は直々に利安にしかうしの冑、からかはおどしの鎧を与え長政のこと頼むと遺命した。利安は謙退の心深く主君を大切に思い高下によらず傍輩に慇懃であり道で傍輩に行き逢えば必ず下馬して禮を厚くした。寛永8年没、行年83歳。戦国時代をちょうど黒田如水と共に生き抜き戦に明け暮れたが、其の生涯は良き主君に行逢え仕えたとても幸せな生涯ではなかったかと思われる。自分の人生を託すに足る主君(上司)に巡り合え、存分に尽くした黒田藩筆頭家老栗山備後利安を羨ましく思うのはわたしひとりではあるまい。


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