中津城石垣 3

2008-05-19 18:26:37 | Weblog
中津城の石垣の説明板のもう一つのものです。1588年に築城されましたが当時の姿はきっと素晴らしいものだったに違いありません。築城の名手黒田如水がこの地に築いた中津城は高層建造物の無かった当時において近隣の人々に驚嘆されたことは想像を難くしないものであり、今の六本木ヒルズや東京ミッドタウンを見物しようと押し寄せる人々のように大きな話題になったことでしょう。今まで見た事のないこのような凄い城を築ける武将が統治するために入国して来たのですからその力には畏敬の思いを抱いたに違いありません。
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中津城南側石垣とお堀

2008-05-16 14:56:31 | Weblog
中津城の石垣の復元調査の説明板です。発掘調査の様子が詳しく説明されて一見の価値があります。中津城にこられたら黒田如水が心血を注いで築いた九州最古の穴太積の石垣をじっくりとご覧くださいますように。
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中津城の石垣

2008-05-13 12:00:15 | Weblog
かねてより補修復元工事中の中津城南側石垣が完成しお堀に水が入った。満々と水を湛えている優雅な姿を見に行ってきました。石垣は黒田如水が築いたものだが、後に入国した細川忠興が増築しその後江戸時代に上の部分の積み上げガ行われた。以前ははすの畑やごみなどでお堀の態をしていなかったのだが今日見ると素晴らしい景観に感動しました。先日発掘調査のときに胴木(石を積む基礎の木組み)が現れていましたがそれもきちんと調査された後、埋め直されてこの水の下に横たわっているのだ。九州最古の穴太(あのう)積の石垣はとても美しく如水の息づきが感じられるようでした。
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黒田如水公の妻、長政公の妻 2

2008-05-05 11:18:43 | Weblog
黒田如水には幸圓というただ一人の正室が居たが、長政には時を違えて3人の正室が居た。本能寺の変(1582年)で信長が亡くなった後天下統一を狙った秀吉のはからいで1584年(天正12年)秀吉の養女となった蜂須賀正勝の娘「糸姫」を娶る。その後、秀吉の九州征伐の軍功により豊前12万3千石を賜り中津に入国するが中津では宇都宮氏との和睦のために娘「鶴姫(千代姫ともいう)」を娶ることになる(宇都宮文書には和睦のために婚儀があったとあり、黒田家譜には糸姫がいるのに婚儀は無いはずという異なった記述があり真意の程は分からず諸説あり)。秀吉が亡くなった後、関が原の合戦の前、徳川軍に付いた黒田家は蜂須賀氏の糸姫を離縁し家康の養女「ねね姫(保科正直の娘)」を家康の命で娶ることになった。豊臣から徳川へと天下が移ろうとしていたとき妻も交代させられたのだ。いずれも戦国時代に家と家をつなぐための婚儀でありおのずから時代の波に翻弄された女性たちである。離縁された糸姫は4歳の菊を残して黒田家を去ったがその後の行方は分からず多分国へ帰って蜂須賀家の菩提を弔ったのではないだろうか。また鶴姫は父宇都宮鎮房が中津城にて誘殺されたとき中津川の対岸の河原でお付の女姓ともども磔にされ悲しい最期を遂げた。ねね姫は長政に嫁いで間もなく関が原の合戦の前、如水の妻幸圓とともに大坂天満の黒田屋敷に居た折、石田三成の人質要請の難から母里太兵衛等の機転により九死に一生を得て無事中津へ帰り着いた。ねね姫は筑前52万石の太守となった長政の正室として四男二女をもうけ幸せな一生を送った。写真はねね姫の墓(福岡市少林寺)
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中津みなと藤まつりと如水の藤

2008-05-01 11:24:16 | Weblog
中津みなと藤まつりの藤は我々の所属する中津沖代LCの姉妹クラブ(明治の先覚者福沢諭吉が生まれたのが中津藩蔵屋敷のあった大坂福島/大阪大学医学部辺り、中津藩士の父上が大坂で亡くなり一家で引き揚げ幼年期を過ごしたのが中津という縁で締結)である大坂福島LCより友好の印として贈られたのを中津港にある田尻緑地公園に植栽し育ててきたものです。藤といえば黒田如水が33歳小寺家の家老の時、伊丹有岡城主荒木村重が毛利方に寝返ったのを翻意させるため単身入城するも捉えられ1年もの間劣悪な牢に入れられ生きるか死ぬか日々無念の思いを抱いていた折、高窓に伸びてきた藤のつるを見上げながら「この藤に花が咲いたらきっと自分は助かるだろう」とほのかな希望を抱きつつ耐え忍んでいたのであるがその願いが通じたのか藤の蔓に花がつき数ヵ月後織田軍の猛攻により有岡城は開城し栗山善助(利安/備前守)母里太兵衛等により無事救出された。後、その僥倖により如水は黒田の紋を藤巴と定めた。鎌倉、室町時代の昔から「吉野の桜か野田の藤」と言われてきたほど野田の藤は有名でありました。私が思うに伊丹有岡城の藤は野田藤ではなかったかと。そう思うとここ中津みなと藤まつりの藤は1579年黒田如水公が牢の中より見上げていた藤につながるのではないかとロマンいよいよ高じるところであります。430年もの時を越えて如水の藤が中津で息づいて居ると思うと嬉しくなります。そう思いつつ藤祭りの藤を楽しんでおりました。
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