稀代の軍師 黒田如水

2012-05-27 08:04:50 | Weblog

このほど「稀代の軍師 黒田如水/興膳克彦著・叢文社」が出版されたので読んでいます。黒田官兵衛(如水)が豊臣秀吉や徳川家康とどのように渡り合ったか、中津城主となってから福岡へ移封して行ったのちまでの如水の生き様が面白く描かれています。その当時の武将の年齢を表記しているのでより分かりやすくなっています。是非多くの皆様に読んでいただきたい一冊です。

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黒田官兵衛の早船

2012-05-24 08:15:46 | Weblog

中津城黒田の石垣から遠く周防灘を望み、その先の上方に思いを馳せました。

慶長5年(1600年)家康が関東の上杉征伐に出陣した隙を捉え、上方で石田三成が挙兵したとの報が中津に届いた。黒田官兵衛(如水)は上方から中津まで3日で情報が届くように早船の基地を大坂から中津の間に鞆の津(岡山県)、上関(山口県)に作っていました。

その情報が届くや否や黒田官兵衛はこれから天下が争乱するだろうとの直感により中津の地で今まで節約していざという時のために溜めていた金銀銭を城内の大広間に積み上げ近在の男子を徴兵し、集まった9千名もの兵を9月9日中津領内の如水原にて閲兵し宇佐時枝城、宇佐高森城、豊後高田城を進軍し国東半島を横断、大友義統に攻められていた木付(現在杵築)城を助け、別府石垣原で大友氏との合戦に勝利した後、九州の西軍の城を攻めてゆきました。豊後、豊前から筑前、筑後、肥前、肥後を平定し残った薩摩の島津家を攻めんとした時に関ヶ原で勝利した家康から停戦命令が届き中津へと帰ってゆきました。

僅か2ヶ月ほどの間に電光石火の如くほぼ九州の大半を席捲して行ったのです。関が原の合戦が1日で終わらなければその勢いのまま山陽道を攻め上り故郷の姫路で増兵し関ヶ原に割っていってあわよくば天下を!狙っていたのではないかと言われています。

黒田官兵衛(如水)がその生涯で生き生きと活躍し最も輝いていた時代の一時期といえるでしょう。豊臣秀吉や徳川家康が恐れ警戒した黒田官兵衛(如水)の智能、知略の凄さが分かるというものです。

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黒田官兵衛(如水)の石垣 Ⅲ 発掘調査

2012-05-22 07:28:57 | Weblog

中津城の石垣とお堀の発掘調査により黒田官兵衛(如水)の築いた石垣の様子が説明版に詳しく解説されています。石垣と堀の発掘調査の折、金箔瓦が出土しました。これは全国でも数少なく、太閤秀吉の許しがないと製作、使用できないものでした。太閤と黒田官兵衛の微妙な信頼関係が良く分かります。

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黒田官兵衛と石垣 Ⅱ

2012-05-19 07:39:24 | Weblog

中津城の南側の石垣の断面は黒田官兵衛が築き、後に入封して来た細川忠興が拡張した様が良く分かる遺構です。左の写真正面左側が黒田官兵衛が築いた石垣で右(城内)に向かって増幅されています。埋められていた堀は近年発掘調査され以前のような美しい石垣と堀に復元され堀の水が美しい空を映しています。

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黒田官兵衛の石垣

2012-05-16 07:35:03 | Weblog

中津城の石垣は黒田官兵衛の築城した後、後から入封してきた細川忠興により増築されているのが分かる遺構があります。城の南側の大鳥居のあるところですがこれは明治の頃、中津城は堀を埋められ石垣が壊され道路が出来、城への入口になってしまいました。写真はその断面です。左側が黒田官兵衛の築いた石垣ですが内側に向かって城壁が厚く細川忠興によって増築されたのがよく分かります。

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黒田官兵衛の築いた石垣 Ⅱ

2012-05-14 08:23:59 | Weblog

黒田官兵衛(如水)は中津川(山国川)沿いに築城しましたがその時中津川の上流にある古墳などの石を船や筏に組んで運びました。中津川の上流には古墳群や豪族の屋敷跡などが数多くありその大きな石がお城まで運ばれ「黒田の石垣」として今に残っています。

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黒田官兵衛の築いた石垣

2012-05-11 15:30:06 | Weblog

久しぶりに中津城のほとりを散歩がてらに歩いてきました。黒田官兵衛が築いた中津城ですが今でもその遺構が残っています。写真の中央辺り右上から左下に斜めに石垣が築かれていまがその右側が黒田官兵衛の築いた「穴太(あのう)積」の石垣です。近江の穴太衆により作られたので穴太積と呼ばれています。左側の石垣は黒田家の後に中津城主となった細川忠興が築いた石垣でその違いがよく分かります。穴太積の石垣は表面だけ石を積んでいるのではなく、奥まで深い石を使っているので壊れにくく頑丈に出来ているのです。                                                                                       

           穴太積の石垣ここに残りけり四百年の時を抱きて   (達)

 

 

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大河ドラマへ!いざ出陣!!

2012-05-06 14:49:13 | Weblog

中津市日の出町商店街のポールに「初代中津城主・黒田官兵衛を大河ドラマへ」の幟旗がずら~と掲げられていて買い物客の皆さんに強烈にアピールしています。これを見ると市民の方々の盛り上がりや注目度も徐々に上がりつつあるのが分かります。今からが大事です。全国の黒田官兵衛フアンの皆さん、いま少し声を大きく上げましょう。

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中津みなとふじまつりと黒田武士

2012-05-03 07:46:30 | Weblog

中津沖代ライオンズクラブ主催の第10回中津みなとふじまつりが中津市田尻の緑地公園で催され我々豊前国中津黒田武士顕彰会も参加しました。中津市民吹奏楽団の生演奏をバックに「豊前中津の黒田武士の舞」をご披露し、黒田官兵衛(如水)を大河ドラマへと大勢の観客の皆さんへアピールしました。

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福岡より黒田武士ゆかりの地中津を訪ねて

2012-05-01 08:01:15 | Weblog

先日、福岡よりバス1台を仕立てて中津の黒田家ゆかりの史跡を訪ねんとお見えになりました。福岡を発ち高速で日田市から山国町へ。黒田家の出城となった「一つ戸城」、「平田城(栗山大膳の生まれた城)」、「後藤又兵衛の墓」を巡り中津へ来られ中津城傍の福沢諭吉旧居にて待ち合わせ。バスから降りられた皆さんを横断幕と幟をたてて豊前中津黒田武士顕彰会が大歓迎しました。その後、中津城の黒田の石垣やゆかりの地、如水原などをご案内しご一同は築城の宇都宮家の史跡を訪ねるべく発って行かれました。日帰りの旅とのことでしたが中津のご案内をバスの中でさせて頂きました。中津での印象が良ければと思いながらお別れしました。

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