中津城黒田の石垣から遠く周防灘を望み、その先の上方に思いを馳せました。
慶長5年(1600年)家康が関東の上杉征伐に出陣した隙を捉え、上方で石田三成が挙兵したとの報が中津に届いた。黒田官兵衛(如水)は上方から中津まで3日で情報が届くように早船の基地を大坂から中津の間に鞆の津(岡山県)、上関(山口県)に作っていました。
その情報が届くや否や黒田官兵衛はこれから天下が争乱するだろうとの直感により中津の地で今まで節約していざという時のために溜めていた金銀銭を城内の大広間に積み上げ近在の男子を徴兵し、集まった9千名もの兵を9月9日中津領内の如水原にて閲兵し宇佐時枝城、宇佐高森城、豊後高田城を進軍し国東半島を横断、大友義統に攻められていた木付(現在杵築)城を助け、別府石垣原で大友氏との合戦に勝利した後、九州の西軍の城を攻めてゆきました。豊後、豊前から筑前、筑後、肥前、肥後を平定し残った薩摩の島津家を攻めんとした時に関ヶ原で勝利した家康から停戦命令が届き中津へと帰ってゆきました。
僅か2ヶ月ほどの間に電光石火の如くほぼ九州の大半を席捲して行ったのです。関が原の合戦が1日で終わらなければその勢いのまま山陽道を攻め上り故郷の姫路で増兵し関ヶ原に割っていってあわよくば天下を!狙っていたのではないかと言われています。
黒田官兵衛(如水)がその生涯で生き生きと活躍し最も輝いていた時代の一時期といえるでしょう。豊臣秀吉や徳川家康が恐れ警戒した黒田官兵衛(如水)の智能、知略の凄さが分かるというものです。