肥前名護屋城祉 Ⅱ 城下町再現

2012-09-27 07:33:05 | Weblog

豊臣秀吉は天下統一の後、朝鮮出兵を行うために肥前(佐賀県唐津市)名護屋の地に前線基地として名護屋城を築城します。

全国から召集された大名たちは築城の割普請を命じられ石垣や城壁、二の丸、三の丸などの普請をし、百数十の各大名の陣屋が城下に城の周りを囲むように建てられました。今や太閤様のご威光は天下にあまねきその逆鱗に触れようものなら国替え、取り潰し、切腹などその一声で決まるのです。

資料館には当時の名護屋城下の模型が造られその壮大な城郭跡が再現されています。

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肥前名護屋城祉

2012-09-23 18:48:00 | Weblog

中津地方文化財協議会の皆さんと肥前名護屋城祉を訪ねました。豊臣秀吉が朝鮮出兵の基地として築いた城ですが、黒田官兵衛(如水)が縄張りをしました。大坂城に次ぐ日本で二番目に大きな城です。

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2014年大河ドラマ 明智光秀?

2012-09-19 08:45:54 | Weblog

2014年の大河ドラマが明智光秀か?との記事が某スポーツ新聞に載った。本日のヤフーにも載っている。

フムフム、なるほどこれは考えられることである。例年6月ごろに発表があるのですが今年は未だに発表が無いので心配していました。今年の清盛が視聴率の低迷に悩んでいるようなのでNHKさんも真剣に成らざるを得ないのでしょう。本当は黒田官兵衛を放映されると手に汗を握る場面、歴史に名を馳せた天下人との濃密な拘わりや歴史的な場面に関わっているので視聴者にも分かりやすい情景や人間関係、相関関係がドラマを一層面白いもにすると思われます。

さて、発表まで厳密に緘口令がしかれ絶対秘密がNHKさんの方策なので、ちらほら漏れてきたことによって明智光秀がぽしゃるのか、決まるのか今後の楽しみとして見守ってゆきましょう。

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関が原の合戦と石垣原の合戦

2012-09-15 08:02:31 | Weblog

(関が原の合戦と黒田軍)

 

1600年(慶長5年)9月15日は石田三成率いる西軍と徳川家康の東軍が天下分け目の戦をした関が原の合戦の日である。

丁度其の日、奇しくも黒田如水軍と大友軍が戦った「九州の関ヶ原」といわれた別府石垣原の合戦で大敗した大友義統が降伏した。

大友家は鎌倉幕府の守護として400年間豊後の地を治めていた名門でしたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、敵前逃亡(諸説あり)の咎で領地召し上げられ毛利家に預けられていました。石田三成が決起したとき天下分け目の大きな戦が起こるだろうと読んだ黒田如水や大友家の家臣方は東軍につくように進言しますが豊臣家から西軍に付けば旧領を再び与えるとの甘言をうけたため義統は西軍に付いた。鉄砲や槍などを与えられ豊後に着いた義統は東軍の杵築城を攻めた。杵築城から援軍の要請を受けた黒田如水は中津で兵を挙げ大友軍と石垣原で戦うことになった。

大敗した大友義統は頭を丸め黒田如水の前に降伏し、400年続いた名門大友家は滅んだ。大将の時代を見る器量が無かったのかもしれない。しかし、後世からは如何とでも言える。もし、関ヶ原で西軍が勝利していたら(後世の戦争歴史家は関ヶ原の布陣を見た時、西軍勝利の布陣であると言ったという説がある)、もし義統が東軍についていたら歴史は如何様になっていただろうか?と考えてみるのも歴史を学ぶものの楽しみではある。

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九州の関ヶ原ー別府石垣原の合戦

2012-09-13 08:27:42 | Weblog

(石垣原古戦場跡)

9月13日は後に「九州の関ヶ原」と呼ばれた別府石垣原の戦いで黒田軍と大友軍が激突した日である。

9月9日中津城を出陣した九千余の黒田如水軍は自領の宇佐時枝城、宇佐高森城を経て豊後高田城から国東半島を横断し別府湾に面した豊臣方の富来(とみく)城、安芸(あき)城を巡り大友軍に攻められていた細川家の飛び地である木付(杵築)城の救援に向かう。黒田軍来るの報を受けた大友軍は一旦兵を退き別府立石山に本陣を敷いた。

9月13日、大友軍の大将大友義統(大友宗麟の嫡子)と別府加来殿山・実相寺山に本陣を敷いた黒田軍が一斉に坂を下りて激突したのがここ石垣原であった。激闘の末、大友軍は大敗し退却した。石垣原の中ほどを流れる境川が真っ赤な血で染まったという。

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三成蜂起! 如水動く。 

2012-09-07 06:56:03 | Weblog

〈杵築城/木付城よりはるか上方・畿内を望む〉

慶長五年(1600年)九月、上方(かみかた・大坂)より三成蜂起の情報が早船で届く。黒田官兵衛(如水)は如何に動いたか?

黒田家譜十二巻には 『~只今城普請も無益なり、修理をやめさせ、いそぎ陣用意すべしとぞ仰ける。~其後勘定奉行杉原氏を召て、蓄をける金銀の員数をはかりて、天守より金銀多く取出させ、広間につみをき、~奉公に出べきいふ者あらば、貴賤をえらばず、此金銀を与えて召抱べしとて~都合三千六百餘人かかへたりける。

~如水は諸勢に先立ちて、中津川より一里半東なる、広き原の少高き所に、床机を立て、腰をかけ、総勢の備押を見給ふ。一番に母里太兵衛一備、二番に黒田兵庫助~都合其勢八千餘人、いづれも一備一備引分れて、しづかにおさせ、其の行列を見給ふ。如水の本陣の勢千餘人、すべて九千餘人なり。~如水の床机に越しかけて下知し給ふ所を、後年如水原と号す。』

大坂で三成蜂起の報をいち早く早船で知った如水は船で国東半島を巡り豊臣方の富来城などを探察し細川領の杵築城に上陸し三成蜂起を伝え城の守りを堅固にするべしと伝え引き返す。中津城では篭城すべしという重臣たちを説き伏せ傭兵し総勢九千余人の兵を指揮していよいよ九州の豊臣方(三成方)の城を攻めて行くべく陣立てをしたのだ。

今から丁度412年前の九月、中津には如水の乾坤一擲の号令が如水原の原野に響き、勇み昂ぶった兵の勝鬨の声が辺りを圧していたのである。

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あ!官兵衛くんと盆踊り大会in双葉が丘幼稚園

2012-09-02 08:27:17 | Weblog

中津市内の双葉が丘幼稚園の盆踊り大会に あ!官兵衛くん が招かれて行きました。園には多くの園児たちが手をつないでスタンバイOKです。PTA,祖父母の皆さんがカメラを構えて待っています。運動場にちびっ子たちが大きな輪になって中津音頭に合わせて盆踊りが始まりました。その中心には あ!官兵衛くん が愛嬌を振りまいています。ちびっ子には大人気です。あ!官兵衛くんの中には園のPTA会長さんが入って頑張ってくれました。傍にちゃんと 黒田官兵衛を大河ドラマへ の幟を立ててアピールしました。これからも市民の皆さんが集まるところには あ!官兵衛くん はどこにでも出かけて行き 初代中津城主黒田官兵衛(如水)を知っていただき大河ドラマへをアピールしながら市民の関心を高め盛り上がりを期待して頑張ってゆきたいと思っています。

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