如水井戸の跡

2007-03-31 18:07:29 | Weblog
中津市大塚にあった如水井戸の跡です。道路拡張のため移設しました。ここで如水が毎日水を汲んで飲んだりお茶をわかしていたと思うと何か離れがたい気がします。

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黒田如水の長政への遺訓

2007-03-30 16:38:12 | Weblog
如水は福岡城の三の丸の居館に長政を招き寄せ、人君の心得について子々孫々に至るまで守るべき訓戒を申し聞かせた。『神明の罰より、主君の罰おそるべし。主君の罰より、臣下万民の罰おそるべし。その故は、神明の罰は祈りて免るべし。主君の罰は、詫びて赦しを受くべし。ただ、臣下万民に疎んぜられては、祈りても詫びても逸れがたし。かならず国家を失うにいたる、最も恐るべし。』『大将たる人は威というものがなくては万民のおさえがなりがたい。しかし、誤って解釈しわざと威を張ろうとすればかえって害になる。まことの威というのは高慢とは違う。まずその身の行儀を正しくし臣下にも礼譲の心を持って接し理非賞罰を明らかにすれば、おのずから臣下万民に敬い畏れられて、上をあなどり法を軽く思うものはいなくなる。これこそまことの威というものである。』=黒田家譜=どうですか?今の時代にも通じる言葉ですね。会社や組織の長たる人はかくあらねばならないのです。馬上天下を取っても、馬上天下を治め難し(武力で天下を取っても、武力で天下は治められない、仁なる政治が肝要である)ということを常に心に留めておきましょう。(写真は福岡城祉)
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閑話休題4

2007-03-29 15:56:37 | Weblog
少し重い話題が続きましたので話題を変え一息いれましょう。今、当社は社内で新聞を作っていますが今月号のスタッフ紹介で私の記事が出ましたので紹介します。若い頃?シベリア鉄道に揺られドイツ(旧西ドイツ)に世界最高の技術を学びたいと単身旅立ちました。初めは人口3万ほどの小さな町に滞在しましたが周りはすべて外人(当然ですね)日本人は私一人で心細い日々でした。必死で学んだドイツ語も少しずつ通じるようになり、ドイツ南部の人々もはるばる遠くから来た異国の若者にとても優しく親切で楽しい日々を過ごすことが出来ました。毎日飲んだドイツビール、ワインの美味しさ。ハムやソーセージそれにとても美味しかったドイツパンは日々の食事の楽しみでした。休日はヒッチハイクで訪れた隣のスイスの山や湖、フランスアルザス地方の田園風景、オーストリアアルプスのチロルの町並みが今でもつい昨日のように目に浮かんできます。黒田武士には関係ないのでこの話はこの辺で、、、、。またの機会に続きはお話しましょう。
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鶴姫哀歌

2007-03-28 12:21:35 | Weblog
濡れ髪大明神の祠の東隣りに鶴姫塚があります。黒田に関する史実として触れざるを得ないことで辛いのですが、宇都宮鎮房誘殺の後、長政に輿入れしていた(人質説あり)鎮房の娘鶴姫(別名千代姫)も中津城の川向こうの吉富町小犬丸の千本松河原で磔殺された。彼女は獄舎に自分の処刑用の磔の柱を作っている音を聞き「 なかなかに聞いて果てなん唐衣たがために織るはたものの音 」と辞世の歌を詠んだ。はたものとは磔刑のことだが布地を織る機(はた)とかけている。この時、姫とともに13人のお供の女性も絶命させられた。村人たちは悲惨な最期を悼んで経を唱えながら大きな松の根元に小塚を築いて埋葬した。時に鶴姫13歳であった。宇都宮家は地方の豪族であったが鎌倉以来の名家だけあってまだいとけなく13歳と思えないほどの鶴姫の教養の高さに驚くとともにその儚き運命に涙落つるを禁じえないのは私一人ではないだろう。(辞世の歌・たがためをわがためとする説もあり)
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宇都宮鎮房の塚

2007-03-27 16:03:56 | Weblog
宇都宮鎮房の塚は木の生い茂った下あたりの盛りあがった形で祀られていました。黒田に誘殺されたあとここに葬られたとのことです。濡れ髪大明神の祠に隣り合わせとなっていますが世の無常を儚み、しばし戦国時代の荒波に翻弄された宇都宮氏の運命に思いをはせたことです。
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如水の大明神

2007-03-26 16:56:15 | Weblog
中津市三ノ丁は中津城の傍で西御門近くの閑静なところで、昔の上級武士の屋敷がありました。そこのK歯科医院の大奥様をお訪ねしいろいろお話をお聞きしました。その庭に如水に関わる史跡が3点あるようです。写真は黒田如水が宇都宮鎮房の霊を鎮めるために建立した濡髪大明神の祠です。中津城主として統治していたころ秀吉、如水の言うことをきかなかった宇都宮氏の統領鎮房を中津城内で討伐したことからその霊を鎮めるためでした。それは京都知恩院の濡髪さまを分祀したものです。その祠の西隣に宇都宮鎮房を埋葬した塚があり東隣には鶴姫の供養塔があります。お話を聞くうちに身震いがしてきました。安らかにお眠りくださいとお祈りしてその場を離れました。宇都宮家のご子孫の方々もご供養に詣でているとのことです。
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如水井戸

2007-03-25 10:45:49 | Weblog
如水井戸を移設したときの証書です。中津市大塚町の八杜神社境内に移設されていますが、その当時の証書です。郷土歴史家故今永先生は中津に残る唯一の黒田時代の遺跡だとその書物に記されています。今は他にも中津城の石垣の穴太(あのう)積みの箇所が黒田如水の築いたものと断定されています。また赤壁の合元寺、如水弟開基の西蓮寺、中津城内の城井神社などがあります。そして如水縁りのものをまたまた一つ二つ発見したのです。それは明日のお楽しみ。といたします、、、、。

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如水井戸発見

2007-03-24 11:08:16 | Weblog
昨日は天気も良く麗らかな気候でしたので社用の配達方々道路拡張工事のため移設された如水井戸の探索に行って来ました。まず市内竜王町の安全寺。如水が堂宇を寄進したといわれる古刹であるが残念ながらありませんでした。次にかねてより中津の歴史を語る会の本徳氏がありそうだと仰っていた市内大塚町の八杜神社に行くとなんとあったのです。近所にお住まいの大家慎司氏のご案内で社務所に入れてもらいその当時の書付を見せていただきました。昭和60年6月20日付。大塚の道路拡張にかかったので当神社に移設した。井戸桁の下方の石組は中津歴史民族資料館に保管したとのこと。目近でみると一枚岩から中をくり抜いた立派なものでした。説明文の立て札もなくこのままだと知らない間に解体撤去されそうな感じがして寂しい思いがしました。どうにかしなくっちゃ。また、大家氏のご案内で如水井戸のあった場所を訪ねました。少し海岸よりの今は道路となっているところでした。大家さんもこの井戸は水が柔らかくとても美味しいのでよく飲んでいたそうです。とにかく良かった。これで4月に福岡歴史市民の会の方々がお見えになってもご案内出来ます。



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如水と長政

2007-03-23 12:18:53 | Weblog
如水がある日長政に譲った物に草履と下駄が片足ずつと面桶(めんつう/弁当箱)がある。「戦は生死の境であるから考えすぎると勝機を逸する。草履と下駄とちぐはぐに履いてもすぐ駆け出すほどの決断が必要だ。おまえは賢すぎて万全を考えるから大きな武辺は成しがたい。また、この面桶は兵糧のこと。兵糧がなければいざと言うとき戦は出来ない。平生から節約し貯蓄するのが肝心である。これらのことをおまえが忘れぬようにこの器物を譲るのだ」如水の胸には本能寺の変の折、秀吉に天下を取らせるべく即座に決断し風のごとく京に引き返し(中国大返し)山崎の合戦で光秀を破り天下人への足がかりとした。逡巡していた他の武将は一歩遅れを取った。また、関ヶ原の前、豊前中津でこの時の為に日々節約し蓄えた城内の有り金をすべてはたいて領内の男子を召集、家来として召し抱え九州の西軍の城を攻め上方に攻め上らんとし、もう少しで天下を狙えるほどの軍略をしたことが去来したのであろう。如水は息子に黒田藩のことを頼むぞという意味でこの三点の物を与えた。意味することが深い。さすが如水!と思うのは私一人だけではあるまい。おっと、俺も如水に倣って草履と下駄と弁当箱だけを跡継ぎに残せば良いんだ、と思うお方がどこぞにいらっしゃるかも。家から放り出される前にちゃんと威厳を持って如水の遺訓をご説明あれ。
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如水の心配り

2007-03-22 19:52:28 | Weblog
黒田如水は病に伏せる日々の中、己の死を予測していた。病の床で昼夜を分かたず口をきわめて家臣たちを罵倒したり、つらくあたりちらした。家臣たちは驚いて乱心ではないかと気遣った。余りにもひどい言動に長政が諫めに行くと如水は長政の耳元で囁いた。「自分はもう長くないだろう。これはすべてそなたのためである。決して乱心ではない。家臣に嫌われ早くそなたの世にならないかと家臣達に思わせるためなのだ。」すべて長政がやりやすいようにわざとやっていることだった。自分の死期を予測し、黒田藩の行く末を案じてのことだった。死に及んでもおのれを捨てこのような心配りのできる武将であった。ますます黒田如水が好きになったのは私一人ではないと、、、、。

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