黒田官兵衛の足跡n豊前国 16 宇佐・時枝城祉

2013-01-29 08:18:28 | Weblog

播磨学研究所長中元さんとは城井谷でお別れの予定でしたが中津城まで来たのでついでに別府石垣原まで案内しようと1600年(慶長5年)9月9日官兵衛が中津城を出発し行軍した道を辿る事にしました。

関が原の合戦の前、早船で石田三成の挙兵の知らせを知った黒田官兵衛は、九州中の西軍の城を攻めんと出陣し中津市の郊外にある如水原で九千もの兵を閲兵そのまま南下しはじめに寄ったのが宇佐市にある時枝城です。

時枝氏は黒田軍が豊前国に入った時、時代の流れを読む目があったのか黒田官兵衛の人柄に魅力を感じたのかいち早く従属した国人領主です。関が原の合戦で長政が活躍し黒田氏が52万石の大大名になって筑前福岡に移ったときも家来として取り立てられ行動をともにしました。今でも福岡には時枝姓の方が多くいらっしゃるそうです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田官兵衛の足跡n豊前國 15 中津城

2013-01-27 07:51:04 | Weblog

求菩提山を後にして山を下り中津の町へ向かいました。途中以前訪ねた中津市の隣り上毛町の日熊城祉(黒田軍と激闘した日熊氏の城)をご案内し続いて中津城へ。豊臣秀吉に天下を取らせた戦国時代の名軍師黒田官兵衛が大名になって築いた中津城です。

穴太積の石垣や太閤との関係が偲ばれる金箔瓦、桐紋瓦などを中元播磨学研究所長さんに詳しく説明させていただきました。これまで中津市の石垣や堀の発掘調査でかなり詳しく中津城築城当時の様子が調べられてきました。これからはより充実した観光案内が重要になります。県や市の踏ん張りどころです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田官兵衛の足跡n豊前国 14 求菩提山資料館 秀吉禁制

2013-01-24 08:03:36 | Weblog

求菩提山資料館にはもう一つ貴重な官兵衛の足跡が残されています。

官兵衛は1587(天正15年)年7月3日、秀吉より賜った豊前国に入封。直後に豊臣秀吉禁制という求菩提山の山伏たちに出した命令書です。日付けが1587年(天正15年)11月となっていますので秀吉がほぼ天下統一したことを知らしめようとした側面もありますね。

求菩提山は当時お茶の名産地であり、官兵衛は茶を挽く[茶臼]を所望すべく訪ねたのではないかという説もあります。茶の湯は秀吉に勧められ千利休に学んでいたほど傾倒していたのでそうとも取れます。

態々求菩提山まで出かけたのは求菩提山山伏たちの兵力や情報力を頼みにしようとしていたのではないかと思いますが、、、。如何でしょうか?

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 中津市寺町松巌寺さん

2013-01-19 08:33:18 | Weblog

つい先日、中津市寺町にある松巌寺さんで黒田官兵衛について講演させていただきました。松巌寺さんに座禅講座がありそこに来られている方から官兵衛について知りたいということで河村玄裕住職さんからお話があり行ってきました。案内状も立派なもので住職さんのお人柄が窺えます。本堂には椅子がずらりと並べられ演台も用意されていました。気合が入ります。1時間半ほど時間を頂きお話をさせて頂き、残り30分ほど質疑応答です。

まず最初に豊前国中津黒田武士顕彰会員の浦橋さんに「豊前中津の黒田武士」を唄って頂きそのあと講演に入りました。皆さん真剣に聞いていただき『初めて黒田官兵衛の素晴らしさを知りました。多くの中津の方に知って欲しいですね』と感想を言って頂きました。終わりころに新曲「軍師官兵衛」をまた浦橋さんに唄って頂き大サービスです。講演も歌もとても喜ばれました。

後日、住職さんから丁寧なお礼状が届きました。なんと自作の黒田家の家紋「藤巴」入りです。年賀状に出したそうです。軍師官兵衛がNHK大河ドラマに決まって市民の方々の関心も徐々に高くなってきました。講演に行って良かったです。

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田官兵衛の足跡 in 豊前国 13 求菩提山 桜狩

2013-01-17 10:24:28 | Weblog

求菩提山の歴史資料館には修験道の様々な資料が展示されています。

そのなかに黒田官兵衛が桜狩りをして和歌を詠んだ短冊が展示されていました。

  「山深く分入花のかつ散りて春の名残もけふのゆふ暮」  円清

歌意:中津平野ではもう桜は終わってしまった。花を求めて求菩提山の山深く分け入ると桜の花は咲きつつもはや散り始めている。春の名残もいよいよ尽きようとしている今日の夕暮れだなあ。  (解釈:松本達雄)

短冊に残しているだけあって素晴らしい歌です。

  年代が不詳ですが隠居したあとの法名「円清」と署名されていますので文禄の役(1592年4月~1593年・7月)で石田三成との確執(囲碁事件)があり無断で帰国して秀吉に蟄居させられ隠居し法名の「如水円清」と号した(黒田家譜より)のでその後何時の年か官兵衛が心安らぐひと時を求めて、従者を連れて求菩提山の桜を愛でに行った時に歌会を催し歌を詠んだものではないかと思われます。

黒田官兵衛は豊前の国に入封(1587年7月3日)してまもなくまず情報網に長けていた山伏の力を頼みにして求菩提山に上り挨拶方々友好関係を築いたと思われます。その後、幾たびか求菩提山を訪れているようですので戦乱の世において求菩提山の座主と過すひと時は何物にも変えがたい心安らぐひと時であったのかもしれません。座主との信頼関係の深さが窺えます。

黒田官兵衛が名勝求菩提山を訪れ桜狩りをしたシーンが来年の大河ドラマに登場すると大河ドラマも一層華やかになり視聴者も心がほっとする名場面になるのではないかと思うのですが、、、、。NHKさん、よろしくお願いいたします。地元の豊前市ももっとアピールして欲しいものです。

因みに中津城を築いたとき求菩提山の座主を招き地鎮祭をしています。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田官兵衛の足跡n豊前国 12 霊場・求菩提山

2013-01-15 07:50:19 | Weblog

宇都宮氏の城井の上城を後にして城井川に沿って少し下り二別れになった道を南へ右折し尾根伝いに車を走らせると求菩提山があります。ここは数百年の間、多くの山伏たちが住み着いて厳しい修行に挑み修験道の霊地であり中心地でした。途中若き山伏に遭遇しました。今でも修行は続いているのです。ここに求菩提山資料館があります。館内には黒田官兵衛がこの地で桜狩りをし和歌を詠んだ記録が残っています。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田官兵衛の足跡n 豊前国 11 城井の上城祉本丸跡

2013-01-13 08:11:40 | Weblog

宇都宮氏が400年もの間、一族の永続を頼みにしていた城井の上城です。その表門をくぐりしばらく上って行くと少し平らな広地がありそこに本丸跡の標識がありました。案内の標識板も雨風に打たれて曲がったり落ち葉に汚れていました。次回来た時はきっと新しい案内板に変わっていることでしょう。

後ろには絶壁の大きな岩が聳え立っています。ここに籠れば如何なる大軍が攻めて来ようとも落とせるものではありません。しかし、それは篭城ということで、篭城とは援軍が来るあてがあって始めて可能な戦法です。ただの篭城は兵糧が絶えると飢えてしまいます。官兵衛は徒に攻め込むことをせずに下流に向い城を作りじっと兵糧の絶えるのを待ちつつ、次なる豊前や下毛、宇佐などで反抗する国人領主を攻めて行きました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田官兵衛の足跡 in 豊前国 10 城井の上城址表門

2013-01-11 07:58:32 | Weblog

城井の上城址の表門をくぐりぬけて行くとまだ急な坂があり息を凝らしながらなおも上ってゆきます。丁度その表門の内側から後続の皆さんが上ってくるのをじっと見守りました。皆さんふうふう言いながら上ってきます。これでは大軍は攻められませんね。表門をくぐったところで弓矢の餌食になってしまいます。恐ろしいところです。一族を守るには最適な場所といえます。

長政が攻めあぐねた後のことですが、官兵衛は無理攻めをせずしばらくここより少し下流に向い城を作り監視する体制をとりました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田官兵衛の足跡n 豊前国 9 城井の上城址入口

2013-01-09 07:48:59 | Weblog

宇都宮氏の居城『城井の上城址』の入口です。上城表門の標識の彼方に自然石の大岩で出来た城門の下に人一人がやっと通れるほどの空間が見えます。これを見ると黒田軍ならずとも大軍で攻め込むことはとても困難と思われます。 

この表門をくぐり、一族を守らんとして多くの宇都宮家の兵が勇み命をかけて駆け上ったのです。つわものどもが夢の跡といわれるだけあって流石に存在そのものが物悲しくふと吹きすぎてゆく風や遠くから聞こえてくる城井川のせせらぎの音が諸行無常の趣を伝えてきます。この表門をくぐるといよいよ城井の上城の本丸へと続いているのです。何かミステリアスな胸がわくわくするような雰囲気のする場所です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田官兵衛の足跡 In 豊前国 8 城井の上城址 三丁弓の険

2013-01-07 08:00:14 | Weblog

山道を少し登ってゆくと目の前に絶壁が聳えてきました。この上からたった三人の弓の射手に弓三丁あれば大勢の敵を倒せるということから三丁弓の険と名付けられたというのです。なるほどこの下を攻めてゆくにも人が一人やっと通れるほどの道なので大勢が押し寄せてゆくことは出来ません。如何なる大軍が押し寄せようとも三人の射手がこの上から弓を射れば次々に敵をやっつけることが出来るのです。それほど険しい道を登りきったところに城井の上城址があるのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする