1600(慶長5)年9月9日、黒田官兵衛が中津城から出陣し豊後の大友氏と戦った別府石垣原に向かったとき中津郊外の如水原で閲兵し兵を整えました。
その時、兵の数をまとめて数えた「人枡」のあとが中津市上如水字如水野にお住まいの元高校教諭今井先生の屋敷付近に最近まで残っていたと古老から代々言い伝えられていたという記事が大分合同新聞に載りました。
大正のころ付近は果樹園開拓農家の入稙があり一部埋め立てられたようですが「官兵衛(如水)の人枡」のことはその付近にお住まいの方には昔からよく知られていたことだそうです。
昔中国でもそのような人枡があったそうです。古今の文献を学んでいた官兵衛は孫子の兵法などにより人枡もそこから用いたのではないかと思われます。
黒田官兵衛が「軍師官兵衛」として大河ドラマに登場することが発表されてから市内外各地に伝わる官兵衛に関する様々な事柄が掘り起こされるのはとても興味があるところです。
これからそれら一つ一つの虚実を検証して行かなければなりませんがロマン溢れることに違いありませんね。楽しみです。
このほど福岡より藤香会(黒田武士のご子孫の会)の皆様が黒田官兵衛ゆかりの地を訪ねるということで中津へおいでになりました。
豊前国中津黒田武士顕彰会の有志でお昼まで「軍師黒田官兵衛」の卓話をさせていただき昼食時には軍師官兵衛の歌と踊りで歓迎し、その後市内の官兵衛ゆかりの地をご案内しました。
会場の中津駅前ヴィラルーチェには社員の方が軍師官兵衛の甲冑姿でお迎えしてくださり、新作料理「官兵衛御膳」を堪能して頂き記念撮影をしました。
「官兵衛御膳」がことのほか好評で皆さんとても美味しいとのお言葉を戴きました。(このお店の「官兵衛御膳」は私共顕彰会の監修ですからまさに絶品です。素晴らしいですよ。どうぞ一度味わってください。)
市内をご案内した後、中津市郊外の如水原を横切り別府石垣原古戦場まで足を伸ばしゆかりの地をご案内しまして無事皆さんを別府ITでお見送りしお別れしました。
軍師黒田官兵衛連載12は「石垣原の合戦」です。
太閤秀吉が薨去し、天下分け目のの大きな争乱が起こることを予想していた官兵衛は上方からの情報をいち早くキャッチするために早船を用意し作戦を練っていました。
石田三成が挙兵したとの知らせに素早く反応し中津城に蓄えていた金銭を惜しげもなく兵として参集した近在の男子に分け与え如水原で閲兵し電光石火の如く一気に九州中の西軍の城を攻めるべく出兵した。
そのとき細川家の飛び地である木付(杵築)城が大友軍に攻められていたのを救援し別府立石に退却した大友軍と雌雄を決したのが「石垣原の合戦」です。
黒田官兵衛が今までの鬱憤を晴らすかのように誰にも頼ることなく己自身の才覚で兵を集め軍兵を采配し動かしていった乾坤一擲の大勝負に出たのが黒田家譜では「九州陣」とも呼ばれているこの「石垣原の戦い」でした。
その時、今こそ俺の力を世に問える時が来たのだと官兵衛の胸中は血湧き肉躍るような高揚感に満たされていたに違いありません。
その意味でも歴史家が「西の関ヶ原」と呼ぶのもむべなるかなという思いがします。
三木城祉、竹中半兵衛の墓を後にして黒田官兵衛が織田信長に反旗を翻した荒木村重を翻意させるべく赴きそのまま捉えられ牢に入れられた伊丹の有岡城祉を訪ねました。
有岡城祉は伊丹駅の直ぐ前にあり当時の石垣が少し残っているだけで残念ながら城祉の真ん中を鉄道や道路が開通して伊丹駅舎が建ち、城祉のあたりはビル群に囲まれ昔の面影は残っていませんでした。
官兵衛が捕らえられた牢は一体何処にあったのか?皆さんの知りたいことでしたが今は断定できないということです。
せめて官兵衛が捕らえられた牢の中から行く末を託した藤の花をこの地で再び見たいものです。
播磨路の旅も実りある楽しい旅になりました。皆さんとても満足して戴いたのではないでしょうか。
三木城祉を後にして近くにある竹中半兵衛の墓を訪ねました。
秀吉の軍師として官兵衛とともに「秀吉の二兵衛・にひょうえ」と謳われた竹中半兵衛は官兵衛が有岡城に幽閉されている間、三木城攻めの陣中で亡くなりました。
人質として秀吉に預けられていた官兵衛の嫡男長政は信長の邪推により殺害されるところを秀吉の家臣竹中半兵衛が身をもって自分の城に匿いその命が助けられたのです。
半兵衛がいなかったら後の黒田家は無かったであろうし関が原の合戦でも家康が勝利することも無かったに違いない。
竹中半兵衛の墓はなだらかな平地の細い道を少し歩き果樹園らしきほとりの小高い丘の上に在りました。
半兵衛らしい上品なお墓にはまだ新しい花が供えられていて地元の方に大切に守られているようで安心しました。
有名な竹中半兵衛の墓に御参りできた事は同行の皆さんにも印象に残る旅となったようでした。
姫路駅に着いてすぐ(小生を除いて)皆さんは広峰神社へ向かいましたがそのときの写真を戴きました。
黒田家譜によると黒田家は北近江木之本(長浜市)から流れてきた備前福岡(瀬戸内市)の地で零落していましたが姫路の広峰神社を頼って行きそこで家伝の目薬が神社の御師のお札に添えられて全国へ配られ、その薬効がとても評判を呼び次第に財を成していったという黒田家にとってとても恩あるゆかりの神社です。
疫病を鎮める牛頭天王を祀り京都の八坂神社の本宮でもあります。
播磨の黒田武士顕彰会の神澤副会長さんのご紹介で神社の幸田宮司さんが直々ご案内してくださり普段は見れない神社の内なるところまで見せてくださったとのことです。
黒田家ゆかりの神社に参詣できその謂れを聞くことにより皆さん姫路に親しみを感じたのではないでしょうか。
幸田宮司様そして神澤副会長様本当に有難うございました。
灘菊さんでの交歓会の余韻の残るなか翌日はホテルを出発し三木城祉に向かいました。
別所長治の治める三木城は秀吉軍の猛攻を受けるも直ぐには降参せず篭城したため食料が枯渇し後に「三木の干殺し」という悲惨な結末を迎えました。
このとき黒田官兵衛は信長に謀反した荒木村重を翻意させるべく説得に赴いた有岡城に幽閉され生死の境をさまよっていました。
有岡城に入ったまま帰ってこない官兵衛を寝返ったと邪推した信長は人質にしていた息子長政を殺せと秀吉に命じます。
しかし官兵衛がそのような人間ではないと固く信じていた秀吉の軍師竹中半兵衛は命に反して密かに長政を自分の城に匿いました。
官兵衛が尊敬していた盟友竹中半兵衛は病身をおして三木城攻めに参陣していましたが養生せよとの秀吉の言葉に「戦場(いくさば)で死ぬのが本望である」と三木城攻めの途中陣中で亡くなっていたのです。
織田軍の猛攻により落城した有岡城の牢から九死に一生を得て助け出された官兵衛は竹中半兵衛が陣中で亡くなり尚且つ息子長政の命を助けてくれたことを聞かされ号泣した。
後になって、官兵衛はその恩に報いるため竹中家を生涯大切にしました。