黒田官兵衛(如水)公ブログより一年間の感謝

2016-12-31 10:57:01 | Weblog

激動の2016年も本日、大晦日を迎えました。

この一年間、黒田官兵衛(如水)のブログをご愛読して戴き、ありがとうございました。

大河ドラマが放映されて2年が過ぎました。

官兵衛ゆかりの地では、まだまだ熱い顕彰の催しがなされています。

当地、中津市でも多くの官兵衛フアンの皆様が訪ねて来られています。

中津城黒田の石垣傍の、「官兵衛・光姫像」も観光客の皆様の写真スポットとして大忙しです。

お正月にはお近くに来られましたら、ぜひお寄り下さい。

官兵衛公もきっとお喜びになることと思います。

来る年2017年が皆様にとって、今まで生きて来た年月の中で、最も記憶に残る素晴らしい年になりますように祈念申し上げ、お礼の言葉とさせていただきます。

一年間ご愛読して戴きありがとうございました。

これからも黒田官兵衛公のブログを宜しくお願い申し上げます。

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黒田官兵衛(如水)と高取焼4 ぐい呑み

2016-12-26 08:54:14 | Weblog

高取焼のぐい呑みです。

藤香会(黒田家家臣のご子孫の方々を中心に、黒田武士を顕彰する会)の記念行事で戴いたものです。

黒田家の家紋入りで、色合いといい、形といい、何か上品な趣がします。

末永く手元に置いて、ハレの時に取り出してまずは一献。

そのかみの黒田官兵衛(如水)、長政公を偲びつつ美味しいお酒を戴きましょう。

 

 

 

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黒田官兵衛(如水)と高取焼3 窯マップ

2016-12-18 08:40:54 | Weblog

黒田官兵衛(如水)と長政が文禄・慶長役(1592~1598/朝鮮征伐)の際、朝鮮人の陶工八山を日本に連れ帰ったことから始まった高取焼ですが、初期の窯の様子はまだ謎の部分が多く、良く分かっていません。

この地図では窯の年代が1580~1860年となっていますが、黒田家がこの地を治めたのは、豊前国六郡から筑前に転封した1600年(関ヶ原の合戦勝利)以降ですから、間違いだと思われます。

1600年までは豊前国中津城(大分県中津市)に居ましたので、高取焼の窯はそれ以降です。

ただ、文禄・慶長役(1592~1598)の折に朝鮮から連れて帰ったことから、陶工たちは中津(大分県)に1600年まで滞在したので、その間領内の何処かで官兵衛のために窯を創り、作陶していたことは想像に難くはないと思われます。

察すれば、高取焼のルーツは中津(官兵衛の豊前国六郡時代)ではないかという思いに至りますが如何でしょうか?。

ただ、1580年から窯があったとすれば、朝鮮の陶工八山ではなく、それ以前に別の陶工が窯を築いたとも考えられます。

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黒田官兵衛(如水)と高取焼2

2016-12-10 08:33:25 | Weblog

高取焼は黒田家が朝鮮出兵に際して、連れ帰った朝鮮人陶工八山(日本名八蔵重貞)によって筑前鷹取山(福岡県直方市)山麓一帯で焼かれたことによるが、その第一番目の窯を永満寺宅間、その後内ヶ磯に焼かせたことに始まる。

その後、白旗山、小石原鼓窯などで焼かれ、小堀遠州の指導を受けて銘品の名を得たものである。

ただ、その作品は長く謎に包まれ、初期作品は永く唐津焼とされていたが、近年の調査で高取焼と判明され、全国的に注目されることとなった。

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黒田官兵衛(如水)と高取焼

2016-12-01 08:28:41 | Weblog

文禄・慶長の役(1592~1598/秀吉の朝鮮出兵)の折、黒田官兵衛、長政は朝鮮の陶工「八山」を日本に連れて帰った。

その後、八山たち陶工はしばらく黒田家の領地である豊前国中津に居住していたが、官兵衛・長政が関ヶ原の合戦で武功をあげ、筑前52万石福岡藩へ転封したのでそのまま、共に福岡へと移った。

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