軍師黒田官兵衛ゆかりの地探訪ツアー 6 木之本官兵衛大河ドラマ館

2014-09-30 07:47:15 | Weblog

木之本町の賤ヶ嶽古戦場をあとに、同町の官兵衛大河ドラマ館を訪ねました。

大河ドラマで使用された数々の小道具や着物などが展示されていました。

設備も自分の顔が武将の姿に変身するコーナーなどがあり、来場者を楽しませる工夫があちこちにされていて飽きさせません。

戦国時代の街道の要所でもある木之本町は古くからの街並みがそのまま残されています。

思わず通りに見つけた古い薬屋があり、歴史を感じさせる看板に思わず写真を撮りました。

 

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軍師黒田官兵衛ゆかりの地探訪ツアー 5 黒田家御廟所

2014-09-26 08:47:53 | Weblog

賤ヶ嶽古戦場を後に木之本町の黒田家御廟所を訪ねました。

ここは黒田家発祥の地と云われています。

この地より黒田家が起こり備前福岡、播州姫路へと移り官兵衛という戦国時代最強の軍師が生まれ、豊前中津、筑前福岡と今日まで綿々と黒田家が続いてきたのだと思うと感慨深いものがあります。

「黒田氏旧縁の地」石碑の前にきれいな池があり、そのほとりに黒田家が財を成したというゆかりの「目薬の木」が植えられていました。

御着城址にも植えられていましたが、なぜかホッとした気持ちになりました。

中津城の官兵衛石像のそばにも全国からお見えになる観光客の皆さんに喜んで戴きたく「目薬の木」を植えて欲しいと、中津市役所にお願いしたのですが、、、、。お役所仕事か中々首を縦にしません。残念です。

 

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軍師黒田官兵衛ゆかりの地探訪ツアー 4 賤ヶ嶽古戦場

2014-09-24 07:38:14 | Weblog

長浜城を後にして琵琶湖湖畔に沿って北上し、木之本町の賤ヶ嶽古戦場に向かう。

賤ヶ嶽古戦場は麓からリフトでしばらく上り、終点で降りてからそのまま少し急な坂道を歩いて上り着いたところにありました。

賤ヶ嶽の山頂に立つと遥か眼下に琵琶湖や余呉湖が見えます。

この地で秀吉が陣を張り、遥か余呉湖の彼方に見える柴田勝家の軍と織田家の跡継ぎをめぐって戦ったのです。

敗れた柴田勝家は小谷城に退却してお市の方と共に自刃します。

秀吉にとっても生涯における運命の一戦でもありました。

この戦に黒田官兵衛も参戦していた古文書が近年発見されました。

天下の流れを決定したこの地に立ち、静かに眼を閉じていると、何処ともなく諸行無常の風が頬を吹き過ぎてゆくのを覚えるのです。

歴史書でしか知らなかった地の上に立つと、その歴史的な事実とも相俟って何か心の中からじ~んと込み上げてくるものがありました。

*この戦で手柄を立てた賤ヶ嶽の七本槍の一人福島正則に秀吉は褒美として天下の名槍「日本号」を与えます。その槍が黒田家中津藩の時代の文禄の役のころ、母里太兵衛が伏見城の福島屋敷での宴席で飲み取った逸話によりのちに有名な福岡民謡「黒田節」となったのです。賤ヶ嶽の長浜市と中津市、福岡市が日本号で繋がっていることに、何か運命的なものを感じました。

 

 

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軍師黒田官兵衛ゆかりの地探訪ツアー 3 長浜城址

2014-09-22 08:30:00 | Weblog

 

 

 

 

関ヶ原の感動をそのまま胸に抱いて今夜の宿泊地長浜市のホテルに向かい一休みした後、夕食会場までバスで送って戴きました。

ホテルには播磨の黒田武士顕彰会の新福様がわざわざ姫路から駆けつけてくださっていてとても嬉しく友情に感謝です。一緒にに会場に行きました。

会場に入ると長浜市の黒田武士顕彰会の皆さんはじめ、藤井長浜市長、長浜市商工会議所会頭、長浜ライオンズクラブ会長様などが拍手でお迎えして戴いてとてもびっくりすると同時に感動しました。

ご多忙な中ご参加してくださり、中津市と長浜市の黒田武士をゆかりにしての交歓会です。

中津からのお土産は高椋団長から幻の焼酎「耶馬美人」、会から大分名産のカボス、黒田幸子先生作の「若き黒田官兵衛像」などをお渡しし、今夜のおもてなしのお礼に浦橋さんの歌に合わせて小生と中尾君の舞「軍師官兵衛」を、その後新福さんの歌舞、そして小野京子先生の踊りとご披露させて戴き、宴は大変盛り上がりました。

翌日、観光ボランティアの方のご案内で長浜城を見学しました。

秀吉の築城した長浜城では幼い長政が加藤清正、福島正則と共に秀吉の正室おねに育てられました。

黒田家にとってもゆかりの地です。

長浜市の皆さんの心こもったおもてなしに、一同こころより感動し、長浜市での一夜は一生忘れがたい思い出となって語り続けられることでしょう。

長浜市長様はじめ皆様、本当にありがとうございました。

*写真は長浜城址

 

 

 

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軍師黒田官兵衛ゆかりの地探訪ツアー 2 関ヶ原古戦場

2014-09-20 08:03:42 | Weblog

織田信長の安土城址を出発し、バスは琵琶湖沿岸を離れ関ヶ原合戦場へ。

夢に見た関が原古戦場にははや諸行無常の秋風が吹いていました。

まず、関ヶ原記念館で各武将の陣取った跡をパノラマを見ながら説明を受けました。

徳川家康と石田三成の陣地はわずか2キロ弱のところにあり、ほぼ目の前に総大将同士の対峙する本陣がありました。

そのあとバスで移動した黒田長政の陣跡に立った時は胸がじんときました。この地より関ヶ原の合戦場が見渡せます。

今から414年前この地に20万弱の兵が対峙し家の存続をかけて陣を張り戦ったのです。

この地に黒田長政が陣を構え、松尾山の小早川秀秋を寝返りさせ、西軍の総大将毛利家と密約し陣にとどまらせたのです。

そして、黒田隊は石田三成の大将島左近隊に突撃し左近を打ち破り石田三成は敗走したのです。

黒田官兵衛の内意を含んだ長政の活躍により家康は論功行賞として黒田家を筑前52万石を与えました。

実際に関ヶ原合戦場に立つと、書物では味わえない臨場感が全身を身震いさせます。

*写真は関ヶ原合戦場の黒田長政陣地跡

 

 

 

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軍師黒田官兵衛ゆかりの地探訪ツアー 織田信長・安土城跡

2014-09-18 07:53:04 | Weblog

黒田官兵衛の足跡を辿るツアー一行は、中津駅を出発。

一路近江の国を目指す。

京都駅で新幹線を降り、バスで琵琶湖南岸を走りまず安土城祉へ。

信長が天下布武の旗印にして快進撃した本拠地安土城址と信長の館を見学。

天気にも恵まれ皆さん元気で信長が天下を狙った地を堪能しました。

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軍師黒田官兵衛と関ヶ原、石垣原の合戦

2014-09-15 05:43:48 | Weblog

今日、9月15日は414年前の天下分け目の関ヶ原の合戦の日です。

また、西の関ヶ原といわれた石垣原の合戦の日でもあります。

本日、我々豊前の国中津黒田武士顕彰会は「官兵衛の足跡をたどる旅第8弾関ヶ原ツアー・(安土城跡、長浜城、関ヶ原古戦場、賤ヶ岳古戦場跡、木之元黒田家御廟)」を催します。

これから出発です。幸い天気にも恵まれそうですので、良い旅になりそうです。

長浜市の黒田顕彰会の皆さんともお会いできる予定になっています。楽しみです。

では行ってまいります。

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軍師黒田官兵衛と豊前国中津黒田武士顕彰会小野会長

2014-09-14 08:27:47 | Weblog

このほど我々豊前国中津黒田武士顕彰会が「初代中津城主黒田官兵衛を大河ドラマへ」と活動してきて、丁度10年になったことと小野会長が古希を迎えたことから、記念写真を撮ることになった。

黒田官兵衛に扮した小野会長の晴れ姿はなかなかのもので、出来上がりも気に入って戴いたようです。

小野会長はライオンズクラブ国際協会337B地区(大分県・宮崎県)2015~2016年ガバナー(議長・トップ)に就任します。

古希になってもますます元気です。

経営する会社と黒田武士顕彰会で多忙なところ、来年はもっと忙しくなりそうです

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軍師黒田官兵衛と黒田一成と荒木村重

2014-09-10 07:53:12 | Weblog

 

福岡県朝倉市甘木歴史資料館で「官兵衛を救った男たち・黒田一成と加藤家展」が催されている。

黒田一成とはあの大きな角の兜が他を圧倒している画像で有名な黒田二十四騎の一人である。

官兵衛が有岡城の牢に幽閉され、一年間ほど生死の境を彷徨っていた時に、密かに世話を焼いた牢番の荒木村重家臣加藤重徳に感謝して「もし俺が生きてこの牢を出れたら、そなたの子を預かって養育したい」と約束をした。

織田軍による有岡城開城により生きて助け出された官兵衛はその約束通りに重徳の次男玉松を養子とし、長政の弟として育てた。

玉松は黒田三左衛門一成となり、数々の戦で手柄を立てた。

黒田二十四騎にも選ばれているが黒田家が福岡に転封後、三奈木(福岡県朝倉市)黒田家として城代を務め、代々の重臣たちが藩主により減封されて行く中、三左衛門の子孫は幕末まで高禄のまま家が続いた。

甘木の近くには、黒田長政の三男長興ゆかりの秋月城址もあり紅葉、桜の名所として有名ですので、ぜひ訪れて欲しいですね。

 

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黒田二十四騎図贈呈

2014-09-06 07:59:02 | Weblog

 黒田二十四騎の一人、小河信章のご子孫が重代の家宝である 黒田二十五騎図 をゆかりの行橋市に寄贈したとの記事が載っていました。

普通、黒田二十四騎図ですが初期の図には黒田長政を入れて二十五騎図となっています。

状態も良いようですので機会があれば見学に行きたいと思っています。

 

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