中津城

2007-08-31 08:56:05 | Weblog
中津城が売りに出されました。この城は何代か前の市長が観光用に城を作るよう要請したのを受けて中津藩最後の藩主奥平家のご子孫が建てた城で、旧中津城を正確に復元したものではありません。当時、全国的に築城ブームでした。司馬遼太郎が取材に来た時、城を見て・・・?・・・!とのことでした。中津市が買うのか、個人が買うのか市民としては気になるところです。中津黒田武士の会が名乗りを上げたいところですがなにしろ資金が、、、。さて「一城の主」となるのはどなたでしょう。

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荒木村重と一族

2007-08-30 08:40:03 | Weblog
如水を1年ほど劣悪な牢に幽閉した伊丹有岡城主荒木村重は織田信長に謀反をおこし籠城するも遂には家族や部下を見捨てて単身城を脱出、やがて城は落ちた。信長の怒りは天を突き城内の女、子供、一族郎党六百余人は京の六条河原で見せしめに惨殺。まるでこの世の地獄であった。これが戦国時代のなせる狂気であり負けた者の宿命であった。
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屋形船

2007-08-29 12:54:54 | Weblog
昨日より東京出帳です。夜、東京湾に屋形船を浮かべ美味しい天ぷらを戴きました。東京に居ても一刻たりとも黒田武士のことを忘れてはいませんぞ!

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黒田三左衛門

2007-08-28 10:32:03 | Weblog
如水が荒木村重に伊丹有岡城に幽閉された時の牢番が加藤又左衛門で敵将である如水の面倒をよくみた。恩に感じた如水は信長軍より牢から助け出された後その息子を養子にし立派な武士に育てた。それが黒田三左衛門である。後の二十四騎の一人に称される勇者となり城井一揆、朝鮮役を始め関ヶ原の合戦でも大活躍した。筑前入国後三奈木城代となる。如水には何故かしら人を惹きつける何かを持っていたのだろう。牢番にさえこの人の為ならと情をかけさせる何かがあった。人徳とでもいえるものであろうか。

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黒田の石垣

2007-08-27 17:54:24 | Weblog
久し振りに散歩方々中津城の石垣を見に来ました。城跡から眺めると眼下に山国川が滔々と流れ周防灘に続いています。夏の雲が勢いよく頭をもたげるように湧いています。石垣と勇壮な夏の雲はよく似合います。写真は中央より左斜め下方に線が入っていますがその右側が九州最古といわれる黒田の石垣です。左側は黒田の後に入封した細川忠興が築いた石垣で、石の積み方を比べてみると黒田の石垣の堅牢さ、美しさがよくわかります。思えば407年前、如水は遥か周防の彼方から来るであろう天下の一大事を告げる早船を今か今かとこの城の上で待っていたのです。その胸中には天下を耽々と窺おうとした壮大な秘策が描かれていたのでしょう。男のロマンを感じます。
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石垣原合戦

2007-08-26 19:42:06 | Weblog
昨日の「歴史街道」の20・21頁に石垣原合戦が森計哉氏のイラストで今にも鬨の声が聞こえてきそうな感じで紹介されている。このイラストを見ると黒田、大友両軍が勢揃いしその兵の位置や人数,勢力図が一目瞭然である。このようにして合戦が始まったのだ。私事になるが小生はこの地に生まれた。小学校は黒田本陣のある実相寺の麓、中学はその少し北西、高校は石垣原のど真ん中、図の中央左、大友軍先鋒吉弘隊と黒田軍時枝隊が戦闘開始して合戦が始まった場所である。実家は右上方黒田如水の旗のところで高校生の時は正しく実相寺山を横切り吉弘神社(黒田の二番家老井上九郎右衛門と大友の重臣吉弘統幸が一騎打ちをし吉弘が敗れその霊を祭っている〉のそばを通り石垣原の上を3年間も通学していたのだ。その頃は石垣原で昔合戦があったくらいしか記憶してなくまさか黒田如水と大友義統が関ヶ原の前にこの地で戦をしたなんぞ思っても見なかった。ますますもってこの石垣原がすごい場所なのだと驚くと同時に愛しささえ感じてくる。とまれ、この地は今は名だたる別府温泉の住宅街になっており、少し高台から見晴るかす別府湾の美しさはえもいわれぬほどである。全国の黒田武士フアンの皆様黒田軍が大活躍した歴史上の地「石垣原」をお訪ねになり、そのあと別府温泉にゆっくり浸かり美味しいふぐ料理を食うなんてのは如何ですか?ぜひお出でください。
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歴史街道

2007-08-25 10:40:27 | Weblog
PHPより歴史街道9月号に「黒田如水と関ヶ原」で如水の特集が組まれています。表紙の裏の第一ページに漫画家の黒鉄ヒロシ氏が「如水の水」というコラムの中で宇都宮鎮房が「宇都宮吊り天井」で殺されたと述べられている。宇都宮吊り天井は家康の側近だった本多正信の息子正純が将軍秀忠の訪問を受ける際屋敷に吊り天井をしかけ秀忠を暗殺しようとしたとのでたらめな情報を秀忠が信じ本多正純を失脚させた有名な事件で黒田と宇都宮鎮房とは全く関係のない話を間違って載せている。黒鉄さんも悪いがPHPもこのくらいの話が間違っているというのに気付かないのはもっと悪い。怖いのはこれを読んだ読者がその話を信じまた他に書いたり伝えたりすることだ。それはさておき黒田如水に光が当てられてきているのは嬉しい限りだ。今、戦国武将の中できらりと光るのは黒田如水、長政そして黒田武士の面々であろう。一日も早くNHK大河ドラマに戦国時代最強の軍師黒田如水が登場する日を願ってやみません。

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官兵衛と織田信長

2007-08-24 08:10:41 | Weblog
戦国の世に播州の小大名小寺氏に仕えていた官兵衛は西の大名毛利と東の新興勢力織田信長(写真)の間に挟まれどちらの陣に入れば小寺家が安泰か日夜考えていた。小寺家の重臣は毛利を推す中ただ一人信長の志の高さと勢いを見抜き主君小寺政職を説いて信長陣営に付くことを進言した。官兵衛は家伝の目薬を付けた広峰神社の御札を配る御師を通じて諸国の情報を収集し分析しながら天下の流れを読んでいった。その中で己の生まれもった智才を縦横に発揮し戦国時代を生き抜いたのであった。まさに智将と言われる所以がそこにあった。

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黒田長政と二十四騎展

2007-08-23 10:50:55 | Weblog
福岡市博物館で9月12日(金)~11月3日(月・祝)黒田武士の世界「黒田長政と二十四騎展」が催されます。来年は初代福岡藩主黒田長政生誕440年ということで博物館ではかなりの力の入れようで期待できそうです。母里太兵衛の名槍「日本号」の本物を真近に見て、しばし黒田武士の世界に迷い込みましょう。その間10月20日(土)は光雲神社で遷座100年記念祭も催され母里家のご子孫母里市兵衛忠一氏の呼びかけで全国の黒田武士の縁りの方々が一同にお集まりになるとの事です。今、黒田官兵衛、長政、母里太兵衛を始めとする戦国時代に輝かしい足跡を残した黒田武士はその歴史的な活躍に全国の歴史フアンの注目が集まっています。書籍も次々に発行されています。如水の遺訓を読み処世術や組織を運営する上で大切なことを学ぶことができるのは、如水が並みの武将ではなかったことの証でもあります。

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史伝黒田如水

2007-08-22 13:01:24 | Weblog
黒田如水の本といえば安藤英男著「史伝黒田如水」が第一等の本でしょう。残念ながら絶版になっています。名著ですので再度発行されんことを願っています。
コメント (2)
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