黒田武士と合元寺

2007-01-29 12:54:32 | Weblog
中津市寺町に赤壁寺と呼ばれる合元(ごうがん)寺があります。戦国時代、島津に耳川の戦いで大敗した大友宗麟は秀吉に助けを請うた。四国・中国を平定した秀吉は島津を討つべく黒田官兵衛を軍監として大軍を差し向けた。秀吉軍の力を甘く見た地方の豪族は非協力的で中でも鎌倉時代以来400年間豊前国を支配していた宇都宮氏の棟梁鎮房は病気を装い少数の兵力を派遣したのみで、日和見の態であった。関門海峡を渡った秀吉軍は官兵衛の働きで次々に親島津の豪族を攻略していき序々に島津もその勢いに押され後退しつづけとうとう降伏した。その軍功により官兵衛は豊前12万3千石の大名となった。しかし、秀吉の怒りをかった宇都宮鎮房は今治転封を言い渡されたが一族として400年間その地を治め愛着のある豊前の地は離れ難くその命令を変更されんことを願い出た。秀吉は今治転封の朱印状を返納した宇都宮鎮房を許さず(旧国、駿府から江戸へ転封させられた家康でさえ有無を言わず従ったほどの朱印状を宇都宮氏は拒否したのだ。世間知らずでもあった。)討伐せよと官兵衛に命じた。秀吉の命令は誰も従わざるを得ないほど絶対的であった。或る日、熊本の佐々氏を救援すべく(佐々氏は黒田と同じく九州平定の論功行賞で越中、新川郡10万石から肥後12郡52万石の大名となり赴任したが地元の豪族の反乱を治めきらず秀吉に切腹させられた。国をもらうとはその地を有無を言わさず治めねばならず生死を賭けた仕事でした。山内一豊も土佐24万石をもらって赴任したが長曾我部の残党の始末に苦労した)出陣した官兵衛の不在の間、宇都宮鎮房は200人の家来を連れて中津城に挨拶に来た。城に残っていた長政等は鎮房の傲慢な態度をみて討つことにした。酒宴の最中突然切りかかって鎮房を討ち取ったが、供の者達は逃げ、合元寺に立て籠もった。長政の兵は合元寺に攻め入り全員を討ち倒した。その時斬り合いの返り血が寺の白壁に飛び散り壁は真っ赤になったという。その後、幾度も壁を塗り替えても中から血が滲んできてとうとう寺は壁を赤壁にしてしまった。合元寺には当時の刀傷が柱に残っていて、壁は今でも赤く当時の様子を伝えています。中津においでになったら戦国時代の武将の栄枯盛衰に思いを馳せ、合元寺を訪ねて見ては如何でしょうか。住職の村上鉄瑞氏は私の友人ですが、中々の才人です。刀傷は玄関を入ったら正面に見ることが出来ます。ただし許可を得てお入りください。中津の人は皆優しく特に旅人には親切ですよ。
コメント (1)
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