中津 長岩城祉 Ⅱ

2011-06-26 07:50:45 | Weblog

中津市耶馬溪町津民にある長岩城址は城井宇都宮氏の支流(縁戚)野仲鎮兼の居城でしたが黒田軍の栗山備後守利安に攻められ落城しました。その姿を今に伝える平たい岩盤を幾重にも重ねて城壁を山頂の本丸まで築き上げた様は何か工芸品を見るような美しさを感じます。城壁に沿って上っていくほどにこの城址に魅せられていくのが良く分かります。少し険しいところもありますがお弁当を持って城跡を上り山頂の本丸跡でおにぎりをほうばるのも又一興かと思います。ただ、その折には戦国時代の運命に翻弄された悲運の武将野仲鎮兼とその一族に思いを馳せることもお忘れなき様にお願いいたします。

 

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中津 長岩城祉

2011-06-22 08:39:33 | Weblog

このほど中津市の発行している市報の表紙に中津市耶馬溪町にある長岩城祉が紹介されました。平たい岩盤を幾重にも積み上げられた城壁が山頂の本丸まで続いている山城の城郭跡は全国でも類を見ない構造と美しさです。黒田官兵衛が豊前国に入封したとき反旗を翻した城井谷の宇都宮氏ですがその支流(この地を400年もの間統治していた宇都宮氏は一族を豊前国内各地に送り込み支配してきた)である下毛郡に君臨していた野仲鎮兼も同調しましたが黒田家の家臣栗山四郎右衛門利安率いる強力な黒田軍に攻められついには敗れました。以前築城町城井の宇都宮氏の史跡を案内していただいた則松さんはこの野仲氏のほうが当時は宇都宮鎮房より軍事力は優っていたようだと言っておられました。

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豊前中津の黒田武士 参上

2011-06-19 07:57:44 | Weblog

私事になりますが先日小生の所属する中津沖代ライオンズクラブの年次例会でのご祝儀舞をぜひ「豊前中津の黒田武士の舞」で!ということで中尾(英)、熊谷、和才の三名が勤めました。豊前国中津黒田武士顕彰会は中津沖代ライオンズクラブの会員有志によって発足され、これまで姫路、黒崎、福岡の顕彰会の皆さんと共に戦国時代の名軍師黒田官兵衛(如水)を大河ドラマへを合言葉に中津での盛り上がりに頑張ってきました。当日は会員82名と奥様方数十名の参集する中、ここぞとばかりに舞が始まる前に黒田官兵衛(如水)がいかに凄い戦国武将であるかを説明し大河ドラマへただいま運動中です、地元の盛り上がりが大いに大事です、よろしく。とアピールし皆さんに協力を改めてお願いした。

「播州姫路に生を受け 戦国の世を駈け巡り 豊臣徳川望みたる 天下統一果たせしは 黒田官兵衛・長政の 優れる智勇並ぶ無し これぞ我等が 嗚呼豊前中津の黒田武士~」 中々のできばえに皆さんうっとりして見とれていました。拍手喝采でした。今日のために猛特訓をした初舞台の和才さんも緊張しまくりでしたが無事大役を果たせほっとしていました。

黒田官兵衛(如水)公を大河ドラマへと多くの市民の方々と共に盛り上がるためには文字(資料)だけでなく聴覚(音声、歌曲、講演会)や視覚(ゆるキャらあ!官兵衛、甲冑行列、舞、グッズ)、味覚(官兵衛銅鑼焼、藤もなか、官兵衛飴、焼酎あ!かんべー)、知覚(歴史を学ぶ、ゆかりの地訪問)などあらゆる方法にてお伝えすることが良いのではないかと思います。これからも顕彰会としても様々な企画を発信して大いに頑張ります。応援よろしくお願いいたします。

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中津 合元寺 Ⅱ

2011-06-16 07:58:20 | Weblog

中津合元寺の冊子を読むと明治の先覚者福沢諭吉が幼い頃ここ合元寺の地蔵尊に長崎遊学の折の学業成就の祈願に来たとあります。日本の近代化に大きな役割を果たした福沢諭吉は古くからの迷信を一切信じなかったことで知られていますがこの寺の壁が黒田軍に切られ飛び散った宇都宮の家臣たちの血で真っ赤に染まり幾ら白く塗りなおしてもあとから滲み出てくるという言い伝えをまさか信じて居たとは思われません。それにしても血なまぐさい伝説で有名な合元寺と福沢諭吉の接点が面白いですね。因みにお願い地蔵尊は霊験あらたかなようですのでどうか全国の黒田武士のフアンの皆さん、中津に来られたら真っ赤に塗られた合元寺の赤壁を見て帰るだけではなく境内まで入っていただいてお願い地蔵尊にお参りし願掛けをしてみてください。(過日、姫路から来られた播磨の顕彰会の美人R女史は合元寺の時の鐘を撞いて大満足の笑顔を残していかれました。願掛けをしていたようでしたがもう叶ったのでしょうか?)

「どうか一日でも早く黒田官兵衛(如水)公がNHK大河ドラマ主役へ登場しますように!」と。

それに、福沢諭吉のお願いを聞き届けてくださったお地蔵尊ですからきっと貴方のお願いも聞き届けてくださると思います。学業成就、商売繁盛、ボケ封じ、生涯の良き伴侶(それも三国一の、、、)などは勿論その他のお願いも叶えてくれそうです。

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中津 合元寺

2011-06-12 07:56:05 | Weblog

中津市寺町にある赤壁で有名な合元寺村上鉄瑞住職より戴いてきた冊子です。ページをめくると空誉上人は黒田官兵衛と共に播州から中津に来られて合元寺を開基したとなっており、扇城神社の説明文(宇都宮鎮房の庶子説)とは異なります。勿論合元寺の冊子に書かれているほうが正しいと思われます。このように二つ並べると分かりやすいですね。(ただ、合元寺縁起には宇都宮鎮房の庶子とあるそうですので真相は謎ですが、今現在配っているのですから合元寺としてはこの冊子の説を本説としているようです)。江戸時代初期より様々な物語が世に出てきましたがある方の都合のよいように記述されているものや面白く脚色されたものがよくあります。正しい歴史史実を調べないまま勝手に書かれたものもあり、後にそれを読んでそのまま(間違ったまま)引用している作家や歴史家がいらっしゃいます。そして連綿とその連鎖が今日まで続いているものもあります。古い書物を当てにするのは事実かどうか注意しなければなりません。特に真実を要するものは尚更ですね。

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中津 城井(きい)神社例祭 Ⅶ

2011-06-09 08:24:30 | Weblog

中津城井神社境内に城内外で討たれた宇都宮家臣たちを祀る扇城神社があります。合元寺住職空誉上人は宇都宮鎮房の庶子となっていますが合元寺で配布している案内書には黒田官兵衛が播州から中津に入封したときに同行し合元寺を建立したとなっています。つまり鎮房の庶子ということには無理があり後世の創作のようです。

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中津 城井(きい)神社例祭 Ⅵ

2011-06-06 23:06:42 | Weblog

中津城井神社の謂れ板です。江戸時代も中頃となると太平の世となり様々な歴史書や物語が出現しました。今に伝わる黒田家譜や夢幻物語などです。黒田家に討たれた宇都宮家を美化する物語もその中の一つです。宇都宮家の悲運の物語は江戸庶民の同情を大いに買ったことと思われますが他の物語と同じく創作が多く注意せねばなりません。後世にはそのまま信じる人も多々あり真実を調べて伝えるべきではあります。この文中の鶴姫と長政の婚約も黒田家では否定していますが真実は未だ謎といえます。

 

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中津 城井(きい)神社例祭 Ⅴ

2011-06-04 07:54:39 | Weblog

中津 城井(きい)神社境内にある扇城神社(宇都宮家家臣達を祀る)にも例祭ということで注連縄が張られ灯明がともされました。中津城内外で討死した宇都宮家の家臣達の無念さはいかばかりであったでしょうか。しかし今もってそのご子孫達は宇都宮家の家臣であったという矜持をもって先祖を敬っています。豊臣秀吉の天下という時代の流れの中でいかに400年続いた名家といえども時代の流れに逆らえなかったのです。今治転封の朱印状に逆らった宇都宮鎮房を秀吉の命令で討たねばならなかった黒田官兵衛(如水)、長政としては仕方が無かったことでした。肥後49万石を拝領した佐々成政は一揆を抑えきれずに秀吉に切腹させられました(かって成政は織田信長の重臣で秀吉より格が上でした)。大大名でさえ権力者となった秀吉の一声で生死はいかようにもなされた時代でした。

 

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中津 城井(きい)神社例祭 Ⅳ

2011-06-03 07:59:26 | Weblog

中津 城井(きい)神社例祭には多くの宇都宮家ゆかりの方々がお参りに来ていました。あいにくの雨でしたので城井神社境内にある扇城神社(中津城内外で黒田軍に討たれた宇都宮家従臣の霊を祀る)へのお参りは城井神社の中から宮司さんの御祓いに参加しました。私達も同じく皆さんの背中越しに御参りさせていただきました。。

 

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中津 城井(きい)神社例祭 Ⅲ

2011-06-01 07:49:54 | Weblog

宇都宮家ゆかりの方々に続いてわれわれ顕彰会も玉串を奉奠しました。長谷川宮司の見守る中、榊を奉げて恭しくニ礼ニ拍一礼し宇都宮氏の御霊に安らかなれと祈念しこの地で戦わざるをえなかった黒田、宇都宮両家に押し寄せた運命の非情さに思いを馳せること暫しでした。

この城井神社について不思議に思うことがあります。ここは何故城井神社と名付けられたのでしょうか?宇都宮鎮房公の霊を鎮めるためなら「宇都宮神社」のはずです。城井神社となったのであれば城井鎮房と名乗っていたからなのか?それとも領地の城井谷の一族の武士達の霊を鎮めるために城井神社としたのか。豊前中津地方には宇都宮姓はとても多いのですが城井姓は偶に見るほどです。本日お参りに来ていた方々は総て宇都宮姓でした。

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