豊前中津の黒田武士の歌 追記

2007-01-06 13:30:55 | Weblog
先の豊前中津の黒田武士の歌詞の4番に『思わず家康長政の右手をとりて拝みたり~』の意味の分る方は黒田武士と如水の事に造詣の深い方なのであります。さて貴方は如何ですか? 関が原で西軍有利の中、黒田長政が小早川秀秋を東軍へ寝返りさせ(戦の前から長政はその他にも家康の為に数々の調略をしてきた)一気に西軍が崩れ東軍の大勝利となり、石田三成は家康に破れ去った。家康は長政のその偉功を激賞し子々孫々に至るまで特別の恩典を与えると約束した。かくて家康は長政に筑前52万石の大封を与えた。長政は得意になって中津へ帰り父の如水に報告した。『~合戦が終わって本陣に諸将が参集した時、内府(家康)様はこの長政の手をお取りになって「このたびの勝利はひとえにそなたの賜ものである」と三度も押し戴かれました~』と言った。如水は問うた『家康が戴いた手は左の手であったか、右の手であったか』長政はとまどいながらも『右の手でございました』と答えると『その時、左の手は何をしていたか』と聞いた。如水は天下分け目の戦が起こることを読んでいた。大阪からの早船でその情報をつかんだ如水は中津城に蓄えていた金銀をすべて開き中津近郊の男子を集め家来として雇い(その数四、五千人)九州を平定し、その後中国を攻め上り故郷の播磨で増軍し、関が原で戦っている東軍・西軍(戦は少なくとも1ヶ月は続くと予想していた)の勝ち軍と雌雄を決すべく(天下を取る)用意をしていた。しかし、予想だにしなかった一日で東軍の勝利となり(それもわが子長政の手柄により)戦いは終わった。茫然自失の如水は長政に『何故その時家康を残った左手で刺し殺さなかったか、そうすれば今の世、天下を治められるのはこの如水をおいて他にいない。天下は黒田のものになっていたのだ』と言いたかったのだ。戦国時代に秀吉、家康に怖れられた智将黒田官兵衛(如水)はかくして天下への望みは潰えたのである。豊前中津の黒田武士の歌の中で一番から四番までの中に『~嗚呼(ああー)』と入れたのは遂に天下を取れなかった如水の無念さを表したものです。その詩を読まれるときは如水になったつもりで『嗚呼~』と哀切極まりない声にてお読みください。
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