黒田如水の豊前国

2007-02-28 17:34:53 | Weblog
天正十五年、黒田如水が秀吉から朱印状を与えられた。『今度、御恩地として、豊前国に於いて、京都(みやこ)、築城(ついき)、仲津、上毛(かみげ)、下毛(しもげ)、宇佐郡のこと、宛行(あてが)われおわんぬ。但し宇佐郡の内、妙見岳・竜王の両城、当知行よりあい除くのほか、全て領地せられ、いよいよ奉公忠勤を抽(ぬき)んず可きの由候なり。 秀吉 朱印 天正十五年七月三日 黒田勘解由どのへ 』 如水はここに大名となった。通説では12万3千石と言われているが実質は18万石以上あったとされている。太閤検地は厳重ななか豊前だけは如水の自主申告にまかせられた。九州平定の筆頭武功の如水にたいする秀吉の論功行賞にしては少ないとの評価もありますが四万石から十八万石というのは相当に報いたとみるべきか。ちなみに蒲生氏郷十二万石、池田輝政十五万石、細川忠興十七万石であった。この図は「史伝黒田如水・安藤英男著」より転写であるが中津を仲津郡にあると誤認している。正しくは中津は下毛郡であり、仲津郡は京都郡の隣りである。よく間違うので今後著作される方は正確に記述のほどを。


黒田如水の兜

2007-02-27 12:15:42 | Weblog
黒田如水の兜は鉢を逆さまにしたような形です。これは銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)とよばれるもので、如水の妻幸圓の実家櫛橋家に伝わっていたものを如水が使用するところとなった。外鉢の高さ28.2CM,前後の径が27.8CM,ふた付きの漆椀である「合子」をかたどり、朱、銀、錫を箱押しした上に生漆をかけている。「如水の赤合子」と呼ばれ戦場では敵にとても怖れられました。如水は自身の臨終に際し形見として一番家老栗山善助にこれを与えた。本来ならば息子の長政に与えられるべきところを、長政が国政を立派に行うようその補助として後見を頼むという意味でした。今、ゆえあって盛岡市中央公民館に保存されている。


中津城と天守閣

2007-02-26 11:33:36 | Weblog
天正16年(1588年)黒田如水が初めて築城した中津城です。当時の本丸は山国川沿いにありましたが、昭和39年、奥平家により観光用に薬研堀側に建てられました。今では歴史上の建造物は史実に添ってしか建築は許可されないようですから当時は未だ文化財保護法が整備されていなかったのでしょう。ちなみに中津市大貞の薦神社の神門は国の重要文化財に指定されていますが、宇佐神宮のはされていません。それはコンクリートで補修されたからとか。許可なく手を加えたり、昔の形を変えるとだめなのです。さて中津城ですが天守閣が在ったか無かったか議論の分かれるところです。貝原益軒の豊前紀行には天守は無かったと記述されていますが、関が原の合戦の前、黒田藩の精鋭は長政と共に家康の上杉征伐に同行していましたので中津には殆んど家臣は残ってなく如水は領内の農民や町人、浪人達を募集し4~5000人集め、中津郊外の如水原で軍事訓練をし兵として育成したのですがその時の資料では「天守より今まで蓄えていた金銀を大広間に広げ応募してきた者達に徒士の者には永楽銭で一貫文、一騎あたり銀三百匁というように前金として渡した。」とある。この中に有名な剣豪宮本武蔵が居たようです。如水は日頃は倹約に努め大節に備えていたのです。と言うことで天守閣はあったのではないかとされています。

城井神社

2007-02-25 11:03:53 | Weblog
中津城内に城井(きい)神社があります。黒田如水は秀吉の九州征伐の軍功で豊前中津12万3千石の太守となった。その前秀吉の出兵要請に日和見をし今治転封の朱印状を拒否した宇都宮鎮房を秀吉は許さず如水に征伐せよと命令した。秀吉の命令は絶対で何人も従わざるを得ない。或る時如水が肥後佐々氏の救援に行った間、突然中津城に200人の家臣と共に挨拶に来たのを長政は誘殺した。黒田家は後に城内に城井神社を建て鎮房の霊をを祀った。鎌倉幕府の守護大名として400年豊前の地を統治してきた名門宇都宮氏は天下の情勢に流されていったわけです。しかし、宇都宮氏にとっては晴天の霹靂だったことでしょう。まさか400年も我が世の春を謳歌していたところに世の中の流れの大きな変化が起きたのです。誰が悪いわけでもありません。秀吉も如水も宇都宮氏もすべてが世の中の流れに逆らうことあたわず各々の天命に従って生きていかざるを得なかったのです。これは今の世にも言えることです。流通業においても商業地は年毎に変化して行きかって隆盛していた商店街の没落は目を覆うが如きです。商店街のみならず名門といわれた企業や一流の経営者とマスコミの寵児たりし人の幾人かは晩節を汚し寂しく去り行きました。会社やグループのの長たるべき方々、企業哲学を学び人間として如何に人生を歩むべきか、志を高く持ちその上で有益な情報にアンテナを張り世の中の流れをしかと目に焼きつけ自分の生き方、行方をその流れから外さないことが生きながらえる秘訣だといにしえの諸事は物語っています。


後藤又兵衛

2007-02-24 12:25:27 | Weblog
黒田武士の中でも母里太兵衛と共に勇者として有名なのが後藤又兵衛です。幼時より黒田官兵衛に私淑し黒田の将来に自分の未来を賭けたのが豪傑後藤又兵衛でした。歴戦のつわもので特に文禄、慶長の役で朝鮮出兵中の武功は後世の語り草となっています。関が原でもその働きは目を見張るものがあり、筑前52万石へ黒田藩が移封後、大隈城代一万六千石を拝領しました。如水の死後藩主長政と不仲になり脱藩。その後不遇な人生を歩むが豊臣秀頼に招かれ真田幸村とともに豊臣方の参謀となりましたが大坂夏の陣で戦死。黒田24騎は黒田藩第6代藩主黒田継高が歴代の黒田の勇者の武功を後世に伝えるべく家臣原種次に功臣24人を選出させ略伝の撰を命じたのだが、通常脱藩した者は除外するところをこうして24騎そして八虎にまで祭り上げていることに黒田の懐の深さを感じる。それほど後藤又兵衛がすごかったということなのです。ちなみにこの黒田24騎の面々はすべて豊前中津藩時代にすごい活躍をした勇者が選ばれています。豊前中津時代は小田原城開城、朝鮮征伐の文禄、慶長役、そして天下分け目の関が原の合戦、母里太兵衛の名槍日本号呑み取りと戦国時代のハイライトがぎっしりてんこ盛りで詰まっているのです。中津の皆さん、天下を狙った黒田如水をはじめ黒田武士のすごさを今一度検証し顕彰しようではありませんか。


黒田節と今様について

2007-02-23 12:44:11 | Weblog
黒田節は今様の節にのせて歌い継がれてきました。今様とは平安時代後期に流行した歌謡で「越天楽」をもとにしたリズム(ラーララ ララララ ラララララー)に乗せて当世風の歌として人々の口から口へ伝えられていきました。有名な『梁塵秘抄』の「♪遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ。♪」といった七、五調のリズムは歌いやすく多くの人々に愛唱され広まっていき、時代を経るにしたがい宮廷今様と庶民の今様が合わさって日本全国を遊女や傀儡子そして庶民や武士の間に面白おかしくはやし立てるように流行っていきましたが、とくに酒の席では欠かせないものとなりました。母里太兵衛が京都伏見で福島正則公から天下の名槍日本号を飲み取った快挙は当時の武士や庶民の間で今で言うオリンピックで金メダルを取ったくらいのビッグニュースだったのです。多分その出来事は今様に乗せられ京の都で流行し、豊前中津に名槍日本号を持ち帰ったあと黒田の武士達も得意になって酒席でも手拍子にのせて歌ったものと思われます。それが元歌となって筑前福岡へ移封後も歌い続けられていったのでしょう。ちなみに豊前には豊前今様というのがちゃんと残っていますが今では歌える人が少なく、是非後世に残しておきたいものです。その中に「酒は呑め呑め呑むならば~」の今様があれば面白いのですが、、、、、、。さてどうでしょうか?過日、小生の作った「豊前中津の黒田武士」(1月4日のブログに載せていますので時間があったら見てください)の歌も当世の今様となって多くの皆さんに口ずさんで戴けるとうれしい!のですが、、、、。ちょっと虫が良すぎます~ね。ごめんなさい。

黒田武士 母里太兵衛

2007-02-21 10:42:15 | Weblog
黒田武士 母里太兵衛の「名槍日本号呑み取り」は「黒田節」に有名ですが、諸文献には様々な記述があります。史実では文禄の役が一時休戦中に黒田軍が帰国していた折の1596年(文禄5年)京都伏見の福島正則邸での出来事とされています。中には1590年(天正18年)小田原征伐の祝宴の折とか、広島城での出来事(有名な松口月城作・名槍日本号には「-古謡一曲芸城中 呑取名槍日本号」とある。芸城とは安芸の国広島城の意で、福島公は当時は清洲城主、関が原の後に安芸に転封となったので芸城の中で呑み取りがあったのではない。吟詠を好まれる多くの方はこの松口月城の作を重用しているのでお気をつけください)とかですがすべて間違いです。さらに呑み取った槍を福岡に持ち帰ったとかいういい加減なのもあります。真実は槍を担いで太兵衛は海路豊前中津に持ち帰りました。当時黒田藩は1600年の関が原の合戦直後まで豊前中津を統治していました。全国の皆さんもし誤認していたら今後は訂正をお願いします。 その主人公母里太兵衛はなかなかの気骨者で、長政の嫡子満徳丸(忠之)が四歳の年、袴着の祝の席で太兵衛は満徳丸の頭をなでながら「父上は武勇の高いお方、味方が総崩れになった時、一人で踏みとどまって戦われた。だがこのような勇気は木っ端武者のすること。若君は死なぬように戦い、真の大将になり給え」と進言した。長政はカンカンになって怒ったが老臣のとりなしで納まり、栗山利安は「心がけの深きも殿、思慮なきも殿。大たわけは但馬(太兵衛)、また頼もしきは但馬」と主従双方を持ち上げた。朝鮮の役や築上郡の宇都宮氏の城井の城を攻めたとき九死に一生を得たほろ苦い出来事を衷心より諌めた太兵衛の黒田藩を思う気持ちが直言となって思わず発せられたのでしょう。なかなかもって愛い(うい)やつじゃのー。


三老 母里太兵衛

2007-02-20 10:29:16 | Weblog
三番家老は我らが母里太兵衛です。福島正則との酒宴で「名槍日本号」を呑み取ったことから民謡黒田節が生まれました。筑前入国後鷹取城代一万八千石を領す。後、後藤又兵衛の脱藩のあとをうけ嘉麻郡の大隈城代となる。関が原の合戦のあと、江戸城天守郭造成の見事なできばえにより将軍家からの感状に毛利と書かれていたので晩年は毛利但馬守友信と号す。生涯76の首級をあげ藩内随一と謳われ勇猛果敢さは比類なし。もちろん黒田八虎の一人で、幾度も戦場にて大暴れしたけれど体には相手から受けた傷は一つも無かったというつわものである。六月六日が命日。菩提寺は嘉麻市の麟翁寺、甲冑・兜もそこに保存されている。全国の黒田武士母里太兵衛フアンは一度はお参りに行って在りし日の太兵衛の勇姿を偲んでいただきたいものです。


二老 井上九郎右衛門

2007-02-19 11:39:15 | Weblog
黒田藩の重臣で栗山備後守利安が一番家老と呼ばれたが、二番家老と呼ばれたのが井上九郎右衛門である。幾度の戦で数々の武功をたて、大友義統軍と豊後の国「石垣原の合戦」では大友軍の勇者吉弘嘉兵衛と一騎打ちをし見事に打ち倒した(吉弘嘉兵衛の武者振りを偲んで石垣原合戦場跡に吉弘神社として地元の方々によりその霊は祀られている)。黒田が筑前移封後は黒崎城代として二万石を拝領し周防守と号した。もちろん黒田二十四騎の中でもさらに勇猛果敢な黒田八虎に数えられる勇者の一人である。