黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎図

2016-09-21 08:09:22 | Weblog

前回の黒田惣右衛門直之をもって、かねてからの懸案であった黒田官兵衛(如水)を支えた黒田二十四騎の紹介が全て終わりました。

黒田二十四騎は豊前中津時代に文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で大暴れした侍大将が選ばれている。

黒田二十五騎と呼ばれたときもあったが、それは軍団の中で最も勇猛果敢であった黒田長政を入れていたからである。

長政は、戦場では常に軍の先頭に立ち軍団を鼓舞し、刀槍を振る猛将でした。

黒田二十四騎は元文年間(1736~41)に、福岡藩主黒田継高が,家臣原種次に黒田藩に尽くした武将を選ばせ、お抱え絵師尾形美淵に肖像画を描かせたのが伝わっているが、既に江戸初期にはその勇猛さが評判となって二十四騎の掛け軸が巷に流布していた。

黒田二十四騎は肖像画と共に、その生涯も詳細に伝えられており、私達黒田武士フアンにとっても心躍る伝記となっている。

*参考文献ー黒田長政と二十四騎(福岡市立博物館)、黒田官兵衛と二十四騎(本山一城・宮帯出版社)

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 黒田惣右衛門直之

2016-09-13 08:50:13 | Weblog

 黒田惣右衛門直之は官兵衛の異母兄弟として姫路で生まれた。

幼少時秀吉に仕えたが、官兵衛の九州攻めのとき、黒田家にに戻るが豊前国中津で妻と共にキリシタンの洗礼を受け、それ以来熱心なキリシタンとなった。

文禄・慶長の役では侍大将として出兵、大いに活躍し高名を上げる。

関ヶ原合戦時、官兵衛は九州の西軍地を攻めていたが、惣右衛門は豊後国東の富来城攻め、肥後久留米城攻めで活躍し、久留米城番を務める。

切支丹であった官兵衛は切支丹信徒の家臣や領民がたくさん居た久留米城番には熱烈な切支丹であった惣右衛門直之が適任との判断であった。

黒田家が筑前福岡52万石に移封した時、惣右衛門は秋月で1万2千石を拝領。

1604年(慶長9年)如水が伏見の藩邸で死去、遺骸は博多の教会に運ばれ、棺の先導を惣右衛門(洗礼名ミゲル)が務めた。

黒田惣右衛門は慶長14年(1609)大坂で死去、長崎のキリシタン墓地に埋葬される。

享年46歳、稀代の戦国武将黒田官兵衛(如水)の異母弟として、よく官兵衛を助け、官兵衛に倣いキリシタンとして信仰に生きた一生であった。

 

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 井口(村田出羽)兵助吉次

2016-09-02 07:59:59 | Weblog

黒田二十四騎の一人、井口(村田出羽)兵助吉次は先祖を播磨の赤松家に発し、小寺家や広峯氏(広峰神社神官)と血縁関係にあった。

幼少時、兄三人が官兵衛にスカウトされて武士となったがみな討ち死にしたので親は芳次を武士にするのを拒んだ。

しかし、官兵衛のたっての要望で武士となった経緯があり、官兵衛は芳次を大事にした。

幼少の長政が信長の人質に出されたとき、付き人として秀吉の長浜城へ入り、竹中半兵衛の菩提山城で匿われたときにも同行したと伝えられている。

また、平助の叔母は後に官兵衛が有岡城に幽閉されたときに、密かに衣食の世話をして瀕死の官兵衛を助けた恩人でもある

常々、馬を欲しがっていた兵助はある戦で敵の武者を討ちその武具刀槍を奪い取り立派な甲冑騎士武者として凱旋するほどの猛者であった。

豊前国入国後は宇佐神宮神主宮成家へ婿養子へ官兵衛が算段したが、武士を捨てる気はさらさらなく、その話を断った。

文禄・慶長の役では一日で首七つ取ると朱柄の槍を用いる事と言う名誉を得るほどの勇猛な戦武将であった。

1600年天下分け目の関ヶ原の合戦の時、官兵衛軍は九州を席巻しつついたが、柳川攻撃中包囲軍の鍋島直茂を訪ねた折、その家臣の村田隠岐が武功多く無傷な武将と紹介されたので、官兵衛はその幸運に肖るべく村田の姓を戴き、それより兵助は村田兵助と名乗った。

 

 

 

 

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