名刹 西蓮寺

2008-01-31 12:05:13 | Weblog
中津市寺町に名刹西蓮寺さんがあります。寺の本堂の前に謂れの説明板があり、開基は天正16年(1588年)播磨より黒田如水に随行してきた光心教師(俗名黒田市右衛門)で黒田如水の弟となっています。黒田如水の弟は黒田24騎に名を残している三人の武将黒田兵庫助利高、修理亮利則、図書助直之がいるが、この光心教師は不思議なことに歴史書に名を見たことはない。以前黒田武士の研究家福田さんが如水は黒田家の長男ではない、次男であるという説があると仰っていましたが、光心教師のこととともに今後の研究の余地がありそうです。調べれば調べるほど歴史は本当に面白いのです。
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司馬遼太郎 街道を行く

2008-01-29 10:32:11 | Weblog
今月24日(木)午後8時10分よりNHKBS2で司馬遼太郎の街道を行く中津宇佐編が報道されました。皆さんご覧になった方も多かろうと思いますが、私は友人から聞いていたのですが、丁度東京出張の帰りにあたり飛行機が遅着しタッチの差で見れませんでした。その友人は誠に見ごたえのある素晴らしい番組であったと興奮気味に話されておりました。中津城を上空から撮影し、如水公が九州征討の勲功で中津12万3千石を秀吉から賜り入封後、地侍との軋轢等をへて関が原の前、石田三成が兵を挙げたことなどを早船で中央の情報が3日で届くようにしていたこと、その船が発着したお船寄りや城内の金銀を大広間に広げ領内の男子を兵士として雇い九州を征討していった様が史実に沿って忠実に展開されていたそうです。残念ながら見れませんでしたが中津城及び中津市の良いアピールになったことと嬉しく思い、NHKさんに感謝しているところです。これでNHKさんも黒田如水公をNHK大河ドラマへ本腰で取り上げてくれる可能性は大いに有りそうだとの感じがしてきました。考えてみれば黒田如水は先の山本勘助や来年の直江謙続より遥かにスケールの大きな戦国武将であります。また信長、秀吉、家康に次ぐ超一流の人物であり、時が味方していたならば天下を取れていたかもしれませんし、実際その行動に如実に表れています。秀吉や家康に警戒されたのもむべなるかなと言わざるを得ません。如水・長政公はじめ黒田武士軍団が戦国時代の歴史に残した数々のエピソードは歴史に興味のある方々やそうでもない方々をも引き付ける番組となること間違いなしといえる。血湧き肉躍るほど全く以って面白い物語が展開されそうなのだ。中津黒田武士の会としては(播磨も福岡も同じく)一日も早く大河ドラマに如水公が登場されんことを期待しています。皆さんの応援よろしくお願いいたします。文末になり申し訳ありませんがその24日(木)の放送のDVDかビデオ録画したのをどなたかお持ちであればご連絡していただければ有難いのですが、、、。携帯09096043011松本までよろしくお願いいたします。
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黒田如水公命日

2008-01-27 10:38:59 | Weblog
3月20日は如水公の命日です。播磨の黒田武士顕彰会より研修旅行のご案内が来ました。姫路からバスを仕立てて如水公の菩提寺である崇福寺の法要に参列し、福岡市近辺の史跡を巡られるようです。福岡・藤香会の主催ですが、流石に福岡の会は言うに及ばず、播磨の黒田武士顕彰会の皆さんの活気と熱気を感ぜずにはおれません。中津黒田武士の会としてはいまだ予定が立たずにおりますが出来るならば有志を募って如水公の墓前にお参りしたいものです。全国の黒田武士フアンの皆様時間があったらぜひ法要にお参りされるようにお願いいたします。
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黒田長政公と二十四騎展

2008-01-26 10:56:45 | Weblog
先日の読売新聞に「黒田武士全容に迫る、黒田長政と二十四騎展」の案内の記事が出ていました。今の福岡があるのは如水、長政公のお陰であり、本年は長政公の生誕440年にあたる。9月12日から11月3日まで福岡市博物館にて開催されますが、黒田武士フアンに取っては見逃せないものであり、多くの方々に足を運んでいただきたいと思うものです。
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閑話休題 2 三ツ星レストラン認定書

2008-01-25 10:55:35 | Weblog
これが世界的に有名なミシュランの星評価の認定証です。写っている人物はさておきここ「かんだ」はこの度の評価で日本の和食レストランでは3軒のみに3星が認定されましたがそのうちの1軒です。《3》の数字が輝いて見えます。お店の方も評価に相応しい料理と雰囲気造りに今まで以上に気を配られることと思います。黒田武士もたまに息抜きをさせてもらいましたが申し訳ありません。
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閑話休題 1 行ってきました。東京三ツ星レストラン「かんだ」

2008-01-24 00:21:00 | Weblog
友人と六本木の三ツ星レストラン「かんだ」に行ってきました。三ツ星はなかなか予約が取れないのですがラッキー!です。ご主人は徳島出身の神田さん。今まで和食はそれなりに食べましたがこの店は何かが違うのです。特別豪華な店装ではありません。どちらかというとシンプルでどこにもあるような和食の店です。カウンターが8席と4席の小部屋のみ。でも、美味しかったです。味付けは濃くなく薄くなく本当に上品な味わいでどこにでもあるような食材を使いちょつと工夫した料理でした。ご馳走さまでした。

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東京で黒田武士

2008-01-22 22:21:07 | Weblog
昨日から東京出帳です。業界(宝石のVC)の理事をしているので総体会議の後の新年懇親会でご祝儀舞を舞えとの事。今まで一人で舞ったことがないので心配でしたが昨夜ホテルの部屋で練習したせいかバッチリでした。九州男児の面目躍如。やっと今夜はぐっすり寝れそうです。

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黒田二十五騎・黒田長政

2008-01-21 11:31:53 | Weblog
黒田二十四騎を最初は黒田二十五騎と呼んで黒田藩の武将として称えたが、長政はその中でも勇猛果敢さは群を抜いていた。藩主と言うことで長政を除いた侍大将を黒田二十四騎と呼ぶようになった。長政は9歳で織田信長のもとに人質に出され、有岡城の荒木村重を説得に行った父如水がそのまま捕らえられ牢に入れられ帰ってこなかったのを信長に寝返ったと勘違いをされたとき人質の長政を殺せと信長に言われ危うく殺されるところを親友の竹中半兵衛の機転で助かった。九州征伐では宇都宮鎮房の城井谷攻めで九死に一生を得るほど壊滅的な敗戦を経験した。親として如水はいつまでたっても息子長政は頼りない存在であり筑前国52万石の大大名となっても行く末を常に心配した。如水は後方にいて采配を振るう天性の将器であり長政は実戦を積み先陣を切って働く努力型の武将であった。如水は息子長政や並み居る重臣の気性を知り抜いていたからこそそれぞれに適した役割を与え、戦国時代最強の黒田武士軍団を組織し歴史に名を残した。
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黒田二十四騎・小河伝右衛門信章

2008-01-20 19:12:36 | Weblog
小河伝右衛門は播州姫路小川生。兄は如水の旧城主小寺家の家老であったが失領し黒田家に仕える。数々の戦で高名を挙げ、豊前入国後は五千石を賜る。朝鮮陣では小西行長軍の窮地を救い秀吉から一万石を拝領するも帰国途中で無念のうちに没した。本日をもってめでたく黒田二十四騎の武将たちの紹介が終わった。並み居る戦国武将の中でも黒田二十四騎は特に抜きん出ていた様が良く分る。それぞれが素晴らしい才能を持って黒田如水という稀代の智将の下に参集し、数々の戦場をその命と領分を守るために精一杯駆け巡ったのだ。今の世と違って戦国の代は負けたら即、死を意味する。いわば首取り合戦とでも言おうか。凄まじい人生観の中で武士としての矜持をもって生きていった武士(もののふ)たちの生涯は眞にドラマチックで神々しくさえある。彼等は黒田二十四騎として燦然と歴史上にその名を残してもらったのはこの上ない僥倖といえるであろう。また、黒田藩にはそれ以外にも勇者は綺羅星のごとく居た。志半ばで空しく戦場の露と散って行った武士たち、そしてその家臣や家族たちの様々な運命にも思いを馳せるとき、落涙頬伝うを拭うことあたわず。密かに瞑目しその霊魂の安らかならんことを祈念するばかりである。
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黒田二十四騎・益田与助正親

2008-01-19 10:34:38 | Weblog
益田与助は黒田二十四騎の中でも異色の武将である。貧農の出身ゆえか幼時より学問の機会に恵まれず文字の読み書きが出来なかったが台所の水汲みより取り立てられた。そのせいか足軽等の気持ちを良く理解しその隊を率いての戦場における働きは一万石の武将にも匹敵するほどであった。自身も性格は律儀で正直者、根気もあって終生下僕の心を失わず、勇猛にして謙虚であり鉄砲組頭三千石を賜る。今一度逢って色々話を聞いてみたい魅力のある武将のひとりである。
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