万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

弾圧国家は言論の自由に負ける

2008年10月22日 16時12分04秒 | 国際政治
言論弾圧国家、北朝鮮は2位 国境なき記者団発表(朝日新聞) - goo ニュース
 共産主義国家や独裁国家を非難すると、”それでも国民は満足している”とか、”体制に優劣はない”という反論が、必ず返ってくるものです。しかしながら、この擁護論、前提条件が等しくなければ説得力がないと思うのです。

 この前提条件とは、もちろん、言論の自由の保障のことです。もし、必死になって礼賛するほどに素晴らしい体制であるならば、言論を自由化しても何も問題はないはずです。わざわざ褒めそやかさなくとも、国民は、自らの判断と自由意思で全体主義体制を支持し、独裁体制を選択するはずなのです。言論の自由があれば、国民は、現体制に対する態度を正直に表明することができますし、国家体制の優劣についても、あらゆる角度から議論を尽くすことができるのですから。

 前提条件を平等化した上での自由主義や民主主義との競争に、全体主義や独裁主義の国家は、果たして、勝ち残ることができるのでしょうか。私は、弾圧国家が負けると予測するのですが、いかがでしょうか。
 
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4 コメント

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前提条件は条件とはなり得ません (chengguang)
2008-10-22 23:35:05
kuranishiさんの言われる『言論の自由』とは、人の本性の発露即ち放恣を指しているのではなく、人の思考に基く発言や発表を指しているのではありませんか。更に限定して言えば、個人の政府や政治に対する自由な発言や発表を指しているのではありませんか。一方で具体的名称を挙げて体制を批難しながら、その説明に概念を持ち出して論じては本質が見えなくなります。
思考力があっても表現する言語力や技術がなければ、無いのと同じです。そしてこれらは、教育や扶育による知識と経験・技能を修める過程で、努力することで身に付けていきます。
日本では、知識は必ずしも学問の有無を問いません。自分で学ぶ意志があれば学校に行かなくとも知識を身に付けることができるからです。しかし、例えば東南アジアでは、知識=知ること=学ぶこと=学問となります。即ち、知識という単語は同時に学問という単語でもあります。ですから、学歴による明確な差別が存在します。それは知識の格差でもあります。
教育の指標である識字率を調べてみて下さい。識字率が90パーセントを越える日本に比肩する国は、先進諸国でも限られています。しかも日本ほど多種多様な本が日本語で発行され、平和で自由な国は殆どありません。この日本や日本人を無意識の裡にでも基準にして言論云々を語ることは、失礼ながらばかげているとしか言いようがありません。
独裁国家云々を語る以前に、所謂民主主義国家でkuranishiさんの考えておられる『言論の自由』を明確に表現出来る国民の居る国がどのくらいあるのか、現地で実際に政治問題を議論されて調査されてみては如何でしょうか。
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chengguangさん (kuranishi masako)
2008-10-23 10:08:39
 コメントをいただきまして、ありがとうございました。
 言論の自由という表現が、議論の本質を見失わせるならば、もしかしますと、”言論・出版の自由”や”思想・信教の自由”を加えるべきであったかもしれません。chengguanさんのご指摘のとおり、私は、自国の政治体制や政府の政策を自由に批判することができ、かつ、国民が、政治体制や政権を選べる体制を前提条件とすべきことを主張したかったのです。本記事の意図は、”人間とは、自らの自由意思によって、自らの思考を縛り、口を封じる国家体制を選ぶのであろうか?”という問いを提起することのなのです。
 ですから、chengguagさんのように、現状分析に基づく評価を行おうとしているのではなく、反対に、前提条件の平等化という仮定を置くことで、弾圧国家擁護論を牽制しているのです。例えば、タオルで口を塞がれて発言できない人の自国に対する満足度は、周りの人がいくら”彼は満足している”と言っても信用できるものではなく、タオルを取らないことには、本当のところは分かりません。私が、前提条件を平等に、というのは、このタオルを取り去ることなのです。弾圧体制に生きる人々が、自由に発言できるようになってはじめて、その体制の適切かつ正確な評価ができるのではないでしょうか。
 
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思考には知性が必要では (chengguang)
2008-10-23 19:48:37
説明が不十分であったかもしれません。要は、政治的、思想的発言をしたり発表したりするにはそれなりの知性を必要とする、ということを言いたかったのです。そして日本人が考えるほど、政治や思想に意見を述べるほど勉強している人々のいる国は少ないと言うことです。勿論此処で対象としているのは一般の人々のことです。
多くの所謂民主主義国家にとって、政治見解や思想と言うのは、生活に余裕があり、ある程度教育のある人々の余暇の過し方であり、日常生活に入り込んでいるものではない、というのが個人的実感です。
以前触れたシンガポールは、小人口国家であり、今までは父権主義政策あるいは賢人政治を踏襲してきました。この辺りはご専門なのでご存知と推察します。しかし近年になり、国家の向かう先を金融国家と定め、その方向に舵を切りました。その方法として、専門家を養成したのではなく、外国から受け入れています。簡単に言えば、今までの国民は切り捨てられています。今はまだ政策が行き渡っており、弊害が見えていませんが、今後もこの状態が続くと、人口の増大と生活水準の向上により、早晩父権主義政策は行き詰ると思います。政治的発言はそのときに出てくるのではないかと思います。
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chengguangさん (kuranishi masako)
2008-10-23 21:17:14
 ご返事をいただきまして、ありがとうございました。
 chengguangさんのご指摘のとおり、知性なき発言の自由は、衆愚政治を帰結するかもしれませんし、また、政治を予算の奪い合いに堕してしまうかもしれません。しかしながら、国家が知性を伸ばす機会を奪ったり、特定の思想を押し付けることもまた望ましくなく、教育を通して、全ての国民の知性と思考力を育むことが、国家の正道なのではないかと思うのです。仮に、シンガポールに父権主義が揺らぐ時が来るとしますと、その危機にあって、国を救えるのは、柔軟な思考を身につけた人々なのではないでしょうか。
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