先日発生した富岡八幡宮宮司の一族をめぐる殺人事件は、そのおどろおどろしさに戦慄を覚えた方も少なくなかったのではないでしょうか。神道という神聖な場に住まう一族による、あまりに世俗的で利己的な骨肉の争いの結末は、目を背けたくなるほど陰惨です。
この事件は、同社の宮司職をめぐる継承争いが主因なのですが、その背景には、様々な要因が絡んでいるようです。インターネット上にもその動機について諸説が流れており、殺害された富岡長子宮司とその弟で前宮司の富岡永茂容疑者の人物像についても、同一人物に対する評価とは思えない程、正反対の評さえあります。被害者が開設していたブログ記事、並びに、加害者が残した手紙を読みましても、どちらの言い分が事実に即しているのか、判然とはしていません。
しかも、永茂容疑者が氏子の方々に宛てた手紙には、自らの子息を同社の宮司職に就任させるよう要求し、「私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世に残り、怨霊となり、要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」とする脅迫まがいの一文もあったというのです。この手紙を読んだ氏子の方々は、さぞや当惑したことでしょう。果たして、この要求を認めるべきか、今も頭を悩ましているはずです。
しかしながら、ここで考えるべきは、この事件は、富岡八幡宮の御祭神(応神天皇)とは全く以って関係のないところで起きていることです。本来、神職とは、神様にお仕えする身であり、それ故に、自らの身を厳しく律し、日々、精進潔斎に努めるものです。ところが、週刊誌等の情報によりますと、被害者側の宮司も加害者側の前宮司も、神職としてはあるまじき放蕩生活を送っていたとされ、神職としての適性や心構えがあったとも思えないのです。これでは、神様が安らふはずもなく、深川の氏子の方々への御加護も薄くなることでしょう。否、神様は、宮司の地位とそれに付随する利権に執着するばかりに心が汚れ、醜い内紛に明け暮れる宮司一族を懲らしめるべく、こうした事件を起こしたのかもしれないのです。
このように考えますと、氏子の方々は、永茂容疑者の怨霊を怖れる必要はないように思えます。むしろ、氏子達を案じた神様の御計らいであったかもしれないのですから。本事件は、神社のみならず、今日の宗教界が抱える様々な問題をもあぶり出しておりますが、神様は、人々の幸せを願い、ご加護を与える存在であることを、忘れてはならないと思うのです。
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この事件は、同社の宮司職をめぐる継承争いが主因なのですが、その背景には、様々な要因が絡んでいるようです。インターネット上にもその動機について諸説が流れており、殺害された富岡長子宮司とその弟で前宮司の富岡永茂容疑者の人物像についても、同一人物に対する評価とは思えない程、正反対の評さえあります。被害者が開設していたブログ記事、並びに、加害者が残した手紙を読みましても、どちらの言い分が事実に即しているのか、判然とはしていません。
しかも、永茂容疑者が氏子の方々に宛てた手紙には、自らの子息を同社の宮司職に就任させるよう要求し、「私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世に残り、怨霊となり、要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」とする脅迫まがいの一文もあったというのです。この手紙を読んだ氏子の方々は、さぞや当惑したことでしょう。果たして、この要求を認めるべきか、今も頭を悩ましているはずです。
しかしながら、ここで考えるべきは、この事件は、富岡八幡宮の御祭神(応神天皇)とは全く以って関係のないところで起きていることです。本来、神職とは、神様にお仕えする身であり、それ故に、自らの身を厳しく律し、日々、精進潔斎に努めるものです。ところが、週刊誌等の情報によりますと、被害者側の宮司も加害者側の前宮司も、神職としてはあるまじき放蕩生活を送っていたとされ、神職としての適性や心構えがあったとも思えないのです。これでは、神様が安らふはずもなく、深川の氏子の方々への御加護も薄くなることでしょう。否、神様は、宮司の地位とそれに付随する利権に執着するばかりに心が汚れ、醜い内紛に明け暮れる宮司一族を懲らしめるべく、こうした事件を起こしたのかもしれないのです。
このように考えますと、氏子の方々は、永茂容疑者の怨霊を怖れる必要はないように思えます。むしろ、氏子達を案じた神様の御計らいであったかもしれないのですから。本事件は、神社のみならず、今日の宗教界が抱える様々な問題をもあぶり出しておりますが、神様は、人々の幸せを願い、ご加護を与える存在であることを、忘れてはならないと思うのです。
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いつもご指導ありがとうございます。
宗教専従者の腐敗は、新約聖書の律法学者、パリサイ人あるいは宗教改革や、昨今の様々な宗教の聖職者の新聞種の例を出すまでもなく、古今東西を問わず大きな問題であり続けたテーマです。
アメリカ政治学の基本モデルの一つが教会政治であることを考慮すれば、政治的観点からも、これを無視することはできないでしょう。
日本で、あと十年後には、寺社の数が半数近くに減るという予測を読んだことがあります。
また、日本で、かつて隆盛を極めた仏教系新興宗教も、信徒の減少で青息吐息の状態とも聞きます。
一部では、日本の新興宗教は、創価学会と真如苑しか将来はの存続しないだろうとも、言われています。
その一方で、このような専従者の腐敗が極まっている現状です。
一度、社会全体で考えてみるべきテーマだと存じますが如何でしょう?
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
宗教の問題は、創価学会が、公明党を介して政治に介入している現状もあり、政治との関係を含め、徹底的な議論を要する課題です。今般の凄惨な事件も、単なる刑事事件として片づけてしまうのではなく、宗教議論に結び付けてゆくべきです。最も神聖であるべき宗教に魔が入り込み、社会腐敗の原因となると共に、安心とは逆の不安を与える存在となっている現状は、国民の多くが懸念を共有していると思うのです。