原理主義と言えば、イスラム原理主義やキリスト教原理主義が思い浮かび、宗教的理想を実現するために狂気に走る集団とするイメージがあります。イスラム原理主義は、マホメットが生きた時代に理想を求め、ISに至っては、イスラム帝国の再建設を掲げてその支配地域を広げました。イスラム原理主義程には過激ではないにせよ、キリスト教にあっても、アーミッシュのように現代のテクノロジーを拒絶し、移民時代さながらの素朴な自給自足の生活を営んでいる人々もおります。
こうした過去に理想を求める宗教的な原理主義に対して、一般の人々は、冷笑しがちです。過去の時代を再現することなど、できるはずがないと考えるからです。ところが、その一方で、人々は、今日、未来型の原理主義が蔓延していることには、気が付いていないように思えます。未来型原理主義とは、人類の未来は、SFが描くような世界であると決めつける考え方です。過去型の原理主義を嘲笑しながら、未来型原理主義については無批判どころか、歓迎論が強いのです。
未来型原理主義が目指す理想卿とは、全て人々の行動、発言、思想、そして生体情報はデータ化され、AIによってコントロールされた社会です。地上の交通ネットワークは、ITSシステムによって制御され、上空には空飛ぶ自動車が行き交っています(もしかしますと、空飛ぶ自動車だけは、特権階層のみが自由に操縦できるのかもしれません…)。もちろん、この時には、カーボンニュートラルも実現しているのでしょう。人々は、現実と仮想現実とを見分けることもできず、支配者によって人為的に造られた世界の中で生かされているに過ぎません。完璧なまでに合理化され、効率化されているからこそ、人々には自由がないのです。個々人に自由を認めると、一個の精緻なメカニズムと化した社会に狂いが生じるのですから。いわば、電脳社会という名の全体主義社会なのですが、共産主義とも、その目標となる到着地点は同じなのでしょう。
今般の国際社会を観察しておりますと、未来型原理主義が、イスラム原理主義以上に猛威を振るっているように思えます。政界も経済界も、グローバリストを中心として、同社会の実現のために、何としても巨大な投資の流れを造ろうとしているように見えるからです。例えば、アメリカを除く先進各国の政府は、日本国の菅政権を含め、上からの‘指令’に従うかのように2050年を目度に温暖化ガスの排出量ゼロの目標を掲げるようになりましたが、この措置も、かつての禁酒法並みの愚策となるリスクがあります。行き着く先の未来が人類のディストピアであるのみならず、悪徳をも栄えさせる可能性があるのですから。禁酒法で最も利益を得たのは密造事業者や密輸業者でした。この歴史の教訓に照らせば、先進諸国のゼロ目標は、先進諸国の産業の衰退と生活レベルの低下を促進する一方で、需要が激減した化石燃料資源を安価で独占しようとする勢力を利したり、規制の緩い諸国における排出量が増加するだけの結果をもたらすかもしれません。
東京都も、国に先駆けて2030年までにガソリン自動車の新車販売を禁止するそうですが、菅首相も小池知事も、地に足のつかない未来型原理主義者なのかもしれません。未来型原理主義を抑えるには、国民の声に耳を傾けると共に、議会等における現実を踏まえた議論が必要なのですが、今日の日本国にあっては、内外の利害調整機能、並びに、政府に対する制御機能が著しく弱体化しています。アメリカ大統領選挙においても指摘されているように、マスコミ報道による既成事実化によって、一方的に既定路線が敷かれてしまうのですから。国民は、イスラム原理主義と同様に、政府や財界が染まっている未来型原理主義にも警戒すべきではないかと思うのです。