オリンピックには、オリンピック憲章にも謳われているように、かつては全世界の諸国が集う平和の祭典にして、スポーツマンシップやフェアプレーを学ぶことを通して青少年の健全な身心の成長を支えるとする意義がありました。それ故に、開催国のみならず各国とも公費を投じて同イベントを支援し、選手の育成にも努めてきたと言えましょう。しかしながら、今般のパリオリンピックの開会式を見る限り、オリンピックは、既に曲がり角を通り越して奈落の底にむかっているようにも見えます。
オリンピック見直し論は今に始まったわけではなく、既に前回の東京オリンピックなどでも議論されています。もっとも、過去の議論は、どちらかと申しますと、商業主義への過度な傾斜、オリンピック利権の肥大化、そしてこれらを背景とした腐敗体質が問題視されていました。ところが、今般のパリオリンピックは、オリンピックの存在意義を根底から崩壊させかねないレベルに達しているのです。
先ずもって今般の開会式を見て、平和の祭典に相応しいと感じた人は殆どいなかったのではないでしょうか。フランス革命にあってギロチン台の露と消えた王妃マリーアントワネットの演出は、平和どころか、血なまぐさい暴力と無慈悲な虐殺を想起させます。しかも、同妃は、オーストリアのハプスブルク家からフランスのブルボン家に嫁いだため、フランス革命の最中、国王を含む家族と共に共にオーストリアに逃亡しようとして失敗しています。このヴァレンヌ逃亡事件が、その後、フランス革命が革命戦争へと国境を越えて拡大する契機ともなりました(1791年における神聖ローマ皇帝レオポルド2世とプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世によるピルニッツ宣言・・・)。フランス史の一場面としてフランス革命をアピールしたいのであれば、市民によるバスチーユ行進と言った他のよく知られた出来事でも構わなかったはずです(オリンピックはスポーツの祭典なので、‘テニスコートでの誓い’も一案・・・)。
また、今日、アメリカ大統領選挙にあってカマラ・ハリス氏が女性候補として注目されていますが、同氏が大統領候補として選ばれた背景には、ジェンダーの平等が重要な政治問題と見なされてきたからです。オリンピックはグローバル色、つまり、リベラル色が強いイベントですので、この観点からすれば、女性が持ち上げられこそすれ、処刑された姿で現れてはならないはずです。ところが、今般の演出では、国王ルイ16世ではなく、女性である王妃の生首が強調されています。つまり、同演出は、表向きは女性の味方をよそおいながら、その実、自らの敵と見なせば女性であっても情け容赦のないリベラルの本質を表しているとも言えましょう。
そして、パリオリンピックの開会式おいて多くの人々が眉をひそめることとなったのは、キリスト教を揶揄するような演出です。レオナルド・ダ・ビンチの名作、最後の晩餐は、女装でパフォーマンスを行なう「ドラァグクイーン」によって多神教の饗宴と化してしまったのですから。このため、同演出は、とりわけキリスト教に対する冒涜として批判を浴びています。マクロン仏大統領は、慌てて‘式典は多様性を意識した進歩的な演出’として懸命に擁護していますが、仮に、同演出が、イスラム教の教祖であるマホメットを題材としたのであれば、ただ事では済まされないことは火を見るより明らかです。フランスでは、2015年に、マホメットを風刺したばかりに雑誌の編集長や風刺漫画家等がイスラム過激派によって殺害されたシャルリー・エブド襲撃事件が起きています。特定の宗教に対する冒涜とも解される行為は流血のリスクを伴うのですから、常識的に考えれば、オリンピックの開会式にあって最も避けるべき表現であったと言えましょう。多様性をアピールしたいのであれば、他者を侮辱するのではなく、相互尊重の精神、あるいは、普遍的な人類愛を、誰の心をも温かくするような演出をもって表現すべきであったはずなのです。
これらの他にも、同オリンピックの開会式の演出は、カルトじみた狂気に満ちていたそうなのですが、同開会式の映像を前にして奇声を挙げながら手を叩いて喜んでいる小悪魔達の姿が、どうしても頭に浮かんでしまいます(大悪魔はその後ろでほくそ笑みながら座っている・・・)。これを心から楽しめるとすれば、それは、神聖なるもの、健全なるもの、穏やかなるもの、心やさしきもの、こうした善きものの全てが疎ましく、これらを破壊することをもって喜びを感じる極少数の人々なのでしょう。そして、このことは、オリンピックもその開会式も、人類のためにではなく、グローバリストをはじめとした極少数の世界権力のために開催されていることを強く示唆しているのです(一般の人々には分からないメッセージが隠されている可能性も・・・)。
パリオリンピックの開会式から漂うのは、冒涜を楽しむ狂った精神です。そして、この冒涜の対象は、今や冒頭で述べた近代オリンピックの精神にも及んでいるのであり、今日のオリンピックは、自ら船底に穴を開ける‘愚者の船’となりつつあるのではないかと思うのです。