近年、日本国内では、‘おひとりさま’、すなわち、一人で暮らしている単独世帯が増加傾向にあります。2040年には全世帯の40%に達するとする予測もあり、戦後の急速な核家族化の流れを背景として、とりわけ高齢者の単独世帯が増えているそうです。このため、子や配偶者等の相続人がいない状態で亡くなるケースも少なくなく、昨年の2023年には、国庫に納められた国庫帰属相続遺産は凡そ768億円にも達しました。統計を取り始めた2013年には約336億円でしたので、わずか9年間で倍にまで増加したことになります。
単独世帯の数と国庫帰属相続遺産の額が比例的に増加するとしますと、今後とも、後者の額は上昇してゆくものと予測されます。おそらく、1000億円を超える日もそう遠くはないことでしょう。現状では、これらの国庫帰属相続財産は歳入として政府の一般会計に含まれているのでしょうが、この国民が残した財産、より国民のための資金として活用することはできないのでしょうか。
その一つのアイディアは、日本国の独立行政法人として、次世代のための教育・研究基金を設立するというものです。同基金は、奨学金制度、修学助成制度、並びに、研究支援制度等を兼ねており、政府から独立した機関として運営されるものとします。独立行政法人の形態が望ましい理由は、政治家が運営に拘わりますと、恣意的な予算配分や利権化、あるいは、利益誘導などが起きかねないからです。
同基金から支援対象者に提供される奨学金や修学助成金については、原則として返済義務のない無償供与とします。今日、融資型の奨学金等には返済義務があるため、少なくない学生が卒業の時点で既に多額の借金を負うことになり、社会問題化していますし、目下、一部国立大学の授業料値上げの方針も波紋を広げています。給付型の奨学金であれば、全てではないにせよ、この問題を緩和することができましょう。
また、日本国政府は、近年、世界経済フォーラムが目指す未来ヴィジョンに迎合するかのように、カルト風味のムーン・ショット計画を策定しており、研究・開発予算の配分にも著しい偏りが見られます。デジタルや環境関連等の分野への集中投資が他の分野における予算不足を招いており、ビジネスとの直接的な繋がりのない基礎研究に至っては、全く視野に入っていません。一見、無駄なように見えながら、後々、人類にとりまして有用な知識の発見となったり、別系統からの技術的発展の基盤となる事例は多々見られます。グローバリストの好むイノベーションも、既存の研究の延長線上にあっては起きないものですので、あらゆる可能性を残すためにも、研究環境は、集中型よりも裾野の広い分散型の方が適していると言えましょう。こうした研究費不足の問題も、年間の歳入が、数百から一千億円の額となる基金があれば、幾分かは軽減できます。むしろ、政府による支援対象から外されている分野が支援の対象となるのです。
基金の運営方法については、資金をプールしてその運用益から給付金を支給する方法もありますし、毎年、一定額の運用資金が見込まれるのであれば、プールをせずに同資金をそのまま配分する方法もありましょう。何れにしましても、相当規模の基金が、日本国の教育と研究のために用意されることとなるのです。
以上に述べましたように、国庫帰属相続財産を教育・研究支援基金とする案は、今日、教育や研究の場にあって直面している問題の解決に役立つのですが、もう一つ、利点があるとしますと、それは、誰一人として相続人、すなわち、身よりがおらず、一人きりでこの世を去る国民の心を慰めるという、精神的な安寧効果です。相続人が存在しないと言うことは、子供や孫といった子孫がいないことを意味します。‘おひとりさま’は、誰にも頼れないために不安に苛まされると共に、次世代に何も残せなかったのではないか、とする後悔や自責の念にかられやすいのです。しかしながら、仮に人知れずにひっそりと亡くなったとしても、自らの残した遺産が僅かばかりでも次世代に役立つと考えれば、何かしらの満足感や安心感をもってあの世に旅立てるかも知れません。基金運営の透明性を確保するためにも、支援対象のみならず、同基金に遺産を残した人々の氏名を貢献者として公表するのも、一案と言えましょう。
もちろん、同基金は、国庫に帰属する相続人のいない人の遺産のみならず、生きている人々から寄付を受けることも出来ますし、相続人が存在する場合でも、遺言によって寄付先に指定することもできることとします。教育や研究に対する政府の冷遇を嘆く人々も、グローバリストの手先と化した政治家や文部科学省に批判的な人々も、同基金が設立されれば、これを支えてゆくことでしょう。自治としての民主主義の観点からしましても、同基金の設立は、民意に添っているのではないかと思うのです。