万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

“平和の基礎”を守る武力行使vs“.平和的手段”による平和の破壊

2017年09月13日 15時36分07秒 | 国際政治
北朝鮮外務省 安保理制裁「全面的に排撃」強く反発
北朝鮮問題は、国連安保理において制裁強化のための決議が成立したものの、未だ視界不明瞭の状態にあります。この問題、突き詰めてゆきますと、「“平和の基礎”を守るための武力行使“」と「”平和的手段“による平和(正確には”平和の基礎“)の破壊」の間の二者択一となるのではないかと思うのです。

 ここでは、“平和の基礎”という言葉は、一先ずは、国際社会の安定を支える法秩序、即ち、一般的ルールに基づく体制やその目的を実現するための制度という意味で使用しています。国家にあって法秩序なくして全ての国民の安全(治安)が守られないように、国際社会にあっても、全ての国家の安寧、即ち、侵略や武力による威嚇なき平和は、法秩序なくしてあり得ません。国家の行動規範となるべき法やルールが存在し、それらが一定のフォームを成して諸国を規律するからこそ、侵略行為やジェノサイド等の違法が国際犯罪と見なさるのです。そして、平和に対する脅威に対しては、各国の自衛の権利のみならず、国連レベルでも軍事的措置による排除が認めています。

 一方、“平和的手段”とは、一般的には紛争に際して武力を用いない解決方法を意味します。国連憲章においても明記されているように、国連加盟国には、先ずは、外交交渉、調停、仲裁裁判、国際司法制度の利用など、紛争の平和的解決が義務付けられています(国連憲章第6章)。加えて経済制裁も、軍事的措置と並ぶ実力行使による危機の排除方法でありながら(国連憲章第7章)、武力を用いないという意味においては平和的手段の一つと見なされています。何れにしても、戦後の国際社会では、紛争が発生する度に、“平和的手段”を以って解決せよ、との大合唱が起きるのです。

 “平和の基礎”と“平和的手段”との違いを念頭に置きながら北朝鮮問題を見据えますと、今日、人類が直面している深刻なジレンマが見えてきます。何故ならば、“平和の基礎”を守ろうとすれば武力を行使せざるを得ない場合があり、一方、あくまでも“平和的手段”に固執するならば、“平和の基礎”が破壊される場合があるからです。北朝鮮問題の場合には、“平和の基礎”とはNPT体制を意味しており(因みに南シナ海をめぐる中国の国際仲裁判決の破棄は、国際司法制度の崩壊をもたらす…)、上記の立場の何れかを選択するのかによって、NPT体制の運命が決まってきます。

NPT体制とは、基本的な構図としては、核保有国を“世界の警察官”と目されている国連安保理の常任理事国に凡そ限定し、核不拡散の義務を負わせる一方で、非保有国に対しては核の開発や保有を禁じる体制です。不平等条約との批判がありながらも、核保有国の特権は、国連常任理事国の地位と同様に、国際社会における“警察官”としての役割と平和に対する責任を引き受け、権利と義務をバランスさせることで、一先ずは是認されてきたと言えます。

 今般、北朝鮮は、NPTが定めた行動規範に反し、核開発と保有に手を染めたわけですが、仮に、北朝鮮を核保有国として認めますと、この体制は、核保有国と非核保有国の両者の違反行為により、崩壊する道を辿ります。NPTの非批准国であるイスラエル、インド、パキスタンも核保有国とされ、NPT体制の不備は既に指摘されてはいるものの、これらの諸国の核保有は、公式の場で核拡散問題として議論されることなく既成事実化しました。こうした手法が許容されるとは言えないにせよ、首の皮一枚で繋がっていたNPT体制は、北朝鮮の核保有が核拡散の危機として表面化した以上、その存在意義は根底から揺ぎかねないのです。

北朝鮮問題の解決に当たって、中ロは、核保有国でありながらNPT体制の‘警察官’としての義務を捨てて北朝鮮の核を認め、アメリカもまた、“平和的手段”を優先して両国に追従すれば、義務と権利の均衡は崩れ、核保有国としての特権を認める必要性も消滅します。そして、北朝鮮の核保有が認められたからには、他の全ての諸国も、NPT体制の下で抑制されてきた核開発・保有の権利を主張することでしょう。“警察”がその職務を放棄する、否、犯罪者を幇助した以上、各自が正当防衛の権利を回復するのは、当然と言えば当然のことです。ロシアの識者は、北朝鮮の核がロシアに向かず、また、アメリカをも攻撃対象としないならば、北朝鮮の核保有は容認されるのではないか、とする見通しを述べていましたが、仮に、全ての諸国の核武装が実現すれば、如何なる弱小国であれ、相当数の諸国、特に周辺諸国が、ロシア、及び、中国に核ミサイルの照準を定めることでしょう。「平和的手段」を選択した場合、その先には、全諸国による核武装と軍拡競争が待ち受けているかもしれません(しかも、北朝鮮は核兵器、並びに、各種ミサイルの輸出国となる可能性が高い…)。もっとも、NPT体制という法秩序は崩壊しても、核の均衡が、幸いにも全世界レベルで実現し、多角的抑止による平和が訪れるならば、この選択が“絶対悪”であるとも言い切れないのが複雑なところです(ただし、核の使用をも厭わないテロ集団の手に渡った場合には平和は実現しない…)。

 その一方、あくまでもNPT体制を維持しようとすれば、武力を行使してでも北朝鮮の核・ミサイルを排除する必要があります。上述したように、核保有国が特定の違反国にのみ核保有を認めるとすれば、それは、NPT体制の終焉を意味するからです。“平和的手段”ではないにせよ、武力行使の結果として、核保有国が責任を負う核管理体制としてのNPT体制は維持されれば、人類は、一先ずは“ならず者国家”による核の脅威から解放されると共に、核の拡散を防ぐことができるのです。ただし、この場合でも、もとより同体制が内包する不平等性が問題視されていることに加えて、今般の中ロの行動で露呈したように、核保有国による義務違反は深刻な脅威ですし、NPT非批准核保有国等の問題も残ります。言い換えますと、たとえNPT体制が武力行使により維持されても、同体制は全ての諸国の安全を保障しないのです。そこで、同体制を永続的に維持しようとすれば、核保有国の義務の強化、核保有国を含む違反国に対する厳罰化、非批准国のNPT加盟と核放棄など、核保有国に丸投げせずに国際レベルで核管理を厳格化し得る方向へのNPT体制の抜根的な改革を要することでしょう(核兵器禁止条約よりは現実的…)。この改革に失敗しますと、やはりNPT体制は崩壊の危機に瀕します。

 長期的に見ますと、武力行使に訴えてでも“平和の基礎”の維持を優先した方が国際社会の安全性は高まるようにも思えますが、果たしてアメリカは、このジレンマを前にして、どちらを選択するのでしょうか。そしてそれは、NPT体制のみならず、人類の運命もがかかる重大な選択であると思うのです。

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コメント (4)
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