万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇室無誤謬説こそ異端なのでは

2013年04月20日 15時29分11秒 | 日本政治
主権回復の日 菅長官、皇室の政治利用批判に反論(産経新聞) - goo ニュース
 最近、マスコミやネット上でも、東宮家の公務怠慢や特権の私物化などが取り沙汰されるようになりました。こうした批判的な声に対して、皇室を批判することは怖れ多く、不敬であるとする意見もあります。

 しかしながら、皇室には一切誤りはない、とする皇室無誤謬説は、明治以降に登場した非伝統的な考え方なのではないでしょうか。古代にあっては、武烈天皇は、悪しき振舞いを咎められて退位させられており、江戸期にあっても、天災の続発は天皇の徳が足りないことにあるとされ、後西天皇は譲位を迫られました。こうした事例は、皇室は、決して無誤謬とは見なされておらず、否、逆に、国民は、有徳者であることを強く皇室に求めたことを示しています。日本国の伝統では、天皇は、徳、すなわち、国家に対する責任感や高い倫理観を備えるよう身を正し、一方、これらが欠如する場合には、国民は、天皇を別の継承者を以って変えることをも辞さなかったと考えられるのです。明治期にあっては、近代国家を建設する目的から、国家の要となる天皇を絶対視し、不敬罪も設けられました。しかしながら、我が国の長い歴史を振り返りますと、皇室無誤謬説こそ異端であり、今日、この考え方に基づいて、皇室批判を一切許さず、国民にひたすら受忍を強いる姿勢は、皇室の腐敗と退廃、そして、反日勢力の”乗っ取り”に手を貸すだけなのではないでしょうか。

 古来、天皇は、精進潔斎して祭祀に臨み、徳を高めることで、国家と国民を守ってまいりました。国民の皇室に対する崇敬は、自らを厳しく律しながらも国民を慈しむ真心に捧げられているのであり、皇室から古来の精神が消える時、それは、皇室の存在意義も失われる時であると思うのです。

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コメント (6)
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