ウルムチの厳戒続き不安の日々 暴動から1週間(共同通信) - goo ニュース
東西を結ぶシルクロードが通り、ラクダに荷を積んだ隊商が行き交ったタリム盆地では、数々の遊牧民族の王国が栄えました。このため、この地は多彩な歴史と文化で彩られています。ところで、中国政府には、この西域の地を領有する合法的な権利はあるのでしょうか。
東トルキスタンが新疆ウイグル自治区として占領された経緯はあまり知られていません。清朝が、ヤクブ・ベグの反乱を契機に新疆省を設置したのは、1884年のことであったと言います。その後、1911年に辛亥革命が起きて清朝が滅亡すると、国民党政府の下で、楊増新、金樹仁と、漢人が続いて省庁の実権を握り、さらに1933年のクーデターで、ソ連と親しい関係にあった盛世才が権力を掌握します。その一方で、タリム盆地の西南部では、イスラム教徒による独立運動が起こり、同年の11月12日に、東トルキスタン・イスラーム共和国の建国が宣言されました。この共和国は、ソ連の介入と中華民国から任命された軍人であった馬仲英の軍によって潰されてしまいます。
東トルキスタン独立の第二の波は1944年に起こります。ソ連をバックにチュルク系の人々による反乱がグルジャで発生し、11月12日に東トルキスタン共和国の建国が宣言されたのです。この共和国も、新疆省政府とソ連との直接交渉により単独の国家とはならず、1946年に、新疆省政府と東トルキスタン政府との合同による新疆省連合政府が樹立されました。
さて、ここから中共政府が絡んできます。この連合政府が一年で瓦解した後、東トルキスタンは、イリに退いたため、毛沢東は、1949年にイリ政府に書簡を送り、政府首脳陣を北京に招きます。ところが、その途中に、首脳一行は、ソ連領内で消息を断ってしまうのです。イリ政府が大混乱に陥る中で、イリに残っていた幹部の一人であるセイプディン・エズィズィという人物が北京に赴き、共産党政府への服属を表明してしまいます。こうして、人民解放軍が侵攻し、東トルキスタンは武力で占領されてしまいました。(ウィキペディアを参考に纏めてみました。)
東トルキスタンの地は、ウイグル人を含めた西域の人々が居住してきた土地ですので、中国の固有の領土ではありません。1884年の清朝への編入もまた、今で言うならば侵略行為でもあり、民族自決の原則が認められるようになった現代では、ウイグルの人々は、独立を主張することができます。また、1949年の中国共産党による東トルキスタンの占領は、国際法に基づくものではありません。
以上に述べたように、東トルキスタンの人々には国際法上において独立する権利があるにも拘らず、中国政府は、一方的に内政問題であると言い張っています。しかも、国際法で禁じられている民族浄化を行っているのですから、批判されないはずはありません。中国は、東トルキスタンの権利を認め、この問題に正面から向かい合うべきと思うのです。
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東トルキスタンが新疆ウイグル自治区として占領された経緯はあまり知られていません。清朝が、ヤクブ・ベグの反乱を契機に新疆省を設置したのは、1884年のことであったと言います。その後、1911年に辛亥革命が起きて清朝が滅亡すると、国民党政府の下で、楊増新、金樹仁と、漢人が続いて省庁の実権を握り、さらに1933年のクーデターで、ソ連と親しい関係にあった盛世才が権力を掌握します。その一方で、タリム盆地の西南部では、イスラム教徒による独立運動が起こり、同年の11月12日に、東トルキスタン・イスラーム共和国の建国が宣言されました。この共和国は、ソ連の介入と中華民国から任命された軍人であった馬仲英の軍によって潰されてしまいます。
東トルキスタン独立の第二の波は1944年に起こります。ソ連をバックにチュルク系の人々による反乱がグルジャで発生し、11月12日に東トルキスタン共和国の建国が宣言されたのです。この共和国も、新疆省政府とソ連との直接交渉により単独の国家とはならず、1946年に、新疆省政府と東トルキスタン政府との合同による新疆省連合政府が樹立されました。
さて、ここから中共政府が絡んできます。この連合政府が一年で瓦解した後、東トルキスタンは、イリに退いたため、毛沢東は、1949年にイリ政府に書簡を送り、政府首脳陣を北京に招きます。ところが、その途中に、首脳一行は、ソ連領内で消息を断ってしまうのです。イリ政府が大混乱に陥る中で、イリに残っていた幹部の一人であるセイプディン・エズィズィという人物が北京に赴き、共産党政府への服属を表明してしまいます。こうして、人民解放軍が侵攻し、東トルキスタンは武力で占領されてしまいました。(ウィキペディアを参考に纏めてみました。)
東トルキスタンの地は、ウイグル人を含めた西域の人々が居住してきた土地ですので、中国の固有の領土ではありません。1884年の清朝への編入もまた、今で言うならば侵略行為でもあり、民族自決の原則が認められるようになった現代では、ウイグルの人々は、独立を主張することができます。また、1949年の中国共産党による東トルキスタンの占領は、国際法に基づくものではありません。
以上に述べたように、東トルキスタンの人々には国際法上において独立する権利があるにも拘らず、中国政府は、一方的に内政問題であると言い張っています。しかも、国際法で禁じられている民族浄化を行っているのですから、批判されないはずはありません。中国は、東トルキスタンの権利を認め、この問題に正面から向かい合うべきと思うのです。
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