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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

企業買収と経済植民地主義

2025年01月15日 12時04分30秒 | 国際経済
 第二次世界大戦後、植民地主義は終焉したと見なされがちです。確かに、アジア・アフリカ諸国の多くが独立し、植民地は、地球上から姿を消したようにも見えます。しかしながら、植民地は消えたとしても、植民地主義は、別の形で残っているようにも思えます。

 植民地主義とは、自国の国境線を越えた領土や勢力範囲の拡張を是とする考え方であり、‘帝国主義’とも言い換えることができるかもしれません。強者の論理であり、この世界では、強い者が弱い者から奪うことが是認されます。その一方で、敗者や弱者の側は、支配される側として虐げられることを意味します。実際に、植民地主義が蔓延していた時代には、宗主国が現地の統治権を奪うのみならず、植民地とされた諸国の領域内にある資源や権益は持ち去られ、一般の住民達もプランテーション等での労働を強制されたり、一方的に搾取される立場に置かれることも珍しくはありませんでした。支配の安定を目的として宗主国から地位や豪奢な生活を特別に保障された極少数の人々は別としても、植民地の人々には過酷な運命が待ち受けていたのです。もちろん、とりわけ人種や民族が違う場合には、宗主国の人々が、植民地の現地住民の人々を自らの国の国民と見なす意識も殆どなかったことでしょう。

 しかしながら、やがて人類は、他国の支配を‘悪’とみなすことで合意してゆきます。この流れは、利己的他害性を悪とする人類普遍の理性が、国際レベルにあってようやく形として現れる過程でもありました。侵略や植民地支配等を禁じる国際法も制定され、民族自決並びに主権平等の原則も国際社会において確立するのです。かくして、国家レベルでは、一部を除いて植民地主義は消えたかのように見えるのですが、経済分野では、必ずしも同方向に同調したわけではないようです。経済の基本システムにあって、それがより取引が簡便となる小口の株式の形態であれ、所有権や経営権の売買が合法的な行為とされる以上、経済分野にあっては、‘他国企業’、あるいは、‘グローバル企業’による合法的な支配はあり得るからです。そして、冷戦の終焉によって国境の壁が著しく低下し、もの、サービス、マネー、人、知的財産、情報と言った諸要素が自由に国境を越えるに至ったグローバルな時代とは、企業買収や出資等を介してマネー・パワーが全世界の諸国の隅々まで及ぶ時代を意味したのです。言い換えますと、政治的植民地主義は過去のものとはなったとしても、経済的植民地主義は細々と生き残るどころか、90年代以降は、加速されてしまったとも言えましょう。

 グローバル市場における最大の強みは‘規模’ですので、この時期にあって、中小国がひしめくヨーロッパにあって経済統合が推進されたのも容易に理解されます。そして、かつての植民地時代のように産業の発展した国が必ずしも優位となるわけではなく、BRICSや今日注目を集めているグローバル・サウスのように、人口規模の大きな国が競争力を有し、急速な経済成長を遂げるようにもなります。もっとも、BRICSもグローバル・サウスも、その人口規模が評価されて、世界金融・産業財閥とも言えるグローバリストから有力な投資先として選定されたのでしょう。言い換えますと、たとえ過去にあって植民地であったとしても、規模の経済を備えた国の企業が、グローバリストを後ろ盾としつつ、かつての宗主国であった先進諸国の企業を買収するケースも増大してゆくのです。

 アヘン戦争以来の歴史を屈辱と見なす中国では、この‘下剋上’あるいは逆転劇に、過去に傷つけられたプライドを埋め合わせ、あるいは、復讐劇として溜飲を下げているかも知れません。その一方で、チャイナ・マネーによって多くの企業が買収された諸国では、国民の対中感情は芳しくはないはずです。そして、USスチールの買収を諦めていない日本製鉄に対して、同社の買収を競ったクリーブランド・クリフス社のゴンカルベス最高経営責任者(CEO)が、太平洋戦争時の真珠湾攻撃を持ち出して「日本は邪悪だ」と罵るのも、敗戦国が戦勝国の企業を買収することに対する怒りにも似た嫌悪の感情があるからなのでしょう。

 しかも、これらの感情の根源に、他者による支配を‘悪’と見なす人類普遍の倫理観があるとしますと、日本側も、米国民の国民感情を決して無視は出来ないように思えます。否、グローバルな時代には国境はないとするのが幻想であればこそ、経済における‘企業売買’の許容は、当事者となる企業や政府のみならず、国民をも巻き込む政治的な対立要因ともなりかねないと言えましょう。

 このように考えますと、今後、議論すべきは、経済における相互的な主体尊重のルール造りのように思えます。窃盗の被害に遭った人が、その後、窃盗を行なったとしても状況は改善されるわけではなく、治安はさらに悪化することでしょう。USスチールにつきましても、‘何れかに買収されなければ生き残れない’とする主張は、救済目的であれば文句はないはず、とする自己正当化のための弁明であり、一企業としてのUSスチールの独立性や自力再生力を見くびっているとも言えましょう。マネー・パワーが猛威を振るい、政治や社会における人々の自由を侵害しつつある今日、急ぐべきは経済植民地主義を推進している同パワーに対する制御であり、相互の主体性尊重と対等性を原則とする企業間の関係、延いては、企業組織そのものの倫理に即した在り方なのではないかと思うのです(つづく)。

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企業買収の反倫理性-経済における自由のパラドックス

2025年01月14日 08時54分27秒 | 国際経済
 自由とは、しばしば‘他者の意思に従属しないこと’として説明されています。‘自由な市民社会’という言葉も、ヨーロッパにあって中世の身分社会が崩壊し、個々人が対等な立場にあって自らの意思に基づいて生きることができる社会の到来の表現したものです。もちろん、‘全て’の人々の自由を護るには、相互に他害行為を抑制する規範やルールが必要なものの、自由とは、本来、独立した主体性を意味しており、これを奪うことは、他者に対する不当な侵害行為と見なされるのです。

 この観点から見ますと、今日の自由主義経済には、その名とは裏腹に、自由、否、主体性の侵害を許す側面があります。この側面は、自由の最大化を目指す新自由主義に顕著なのですが、株式会社が経済活動の主体としての基本モデルとなったために、株式の取得等により、他社を自らの支配下に置いたり、吸収合併することが、容易かつ合法的にできるからです。つまり、企業間関係をみますと、企業グループの名の下で中世さながらのヒエラルヒーが形成されたり(親会社、子会社、兄弟会社、孫会社・・・)、帝国に飲み込まれるが如くに主体性を完全に失い、市場から消えてしまう企業も少なくないのです。

 そして、一度、他の企業に経営権が移りますと、買収される、あるいは、従属下に置かれた側の企業側の境遇は、過去の奴隷と大差はありません。支配権を握った企業経営者は、収益が期待外れであった、あるいは、価値や必要性が失われたと判断した場合には、当該企業を再度市場で売却することができます。取得側が投資ファンドであれば、利ざやを稼ぐための‘転売’こそが買収の目的となりましょう。また、経営や資産活用の効率性が思わしくなく、リストラを要すると見なした場合には、売られた側の企業に勤める社員は、CEO等の幹部から製造現場の労働者に至るまで、戦々恐々となります。即、解雇される恐怖に直面するからです。さらには、売却側企業が保有していた資産の処分も買収側の自由自在です。‘身売り’する側の企業の境遇は、自らに対する決定権を失い、なす術のない‘奴隷’のそれに近いと言えましょう。

 近現代とは、社会の分野にあっては個々人の人格が尊重され、全ての人々の自由を保障した時代として理解されています。誰もが、人々が自由に生きられる時代の到来を歓迎したことでしょう。実際に、個々の人格の平等性は憲法の保障するところでもあります。その一方で、経済分野を見ますと、経済の基本システムが、‘企業売買’を当然視しているため、永続的な主体性の喪失と自由の侵害が放置されています。そして、競争が経済成長の原動力とされる限り、あらゆるコストを下げる効果を有する規模が重視され、規模の拡大をめぐる競争とならざるを得ないのです。この結果、規模に優る企業が弱小企業を併呑する形で寡占化や独占化が進み、いわば、経済版の‘帝国’が出現するに至ったと言えましょう。このことは、‘自由な社会’とは逆に、‘不自由な経済’が出現したことを意味します。もちろん、この経済世界は、決して民主主義を基本原則としているわけでもないのです。

 経済における自由が、実質的に規模の大きい企業、あるいは、競争力に勝る企業のみの自由を意味するに至ったとき、自由主義経済の自由とは、一部の経済主体のみの自由に転じてしまいます(新自由主義はまさにこの思想・・・)。この逆転に逸早く気付いた経済大国のアメリカでは、世界に先駆けて反トラスト法が制定され、その後、日本国の独占禁止法を含めて各国にあって競争法を制定する動きが広まりました。しかしながら、同法も競争当局も力不足でもありますし、今日の経済システムが抱えている根本的な問題に踏み込んでいるわけでもありません。それどころが、経済における独裁容認の世界観が政治や社会にも浸透し、今やグローバリズムの名の下で‘全ての人々の自由’を脅かしているとも言えましょう(つづく)。

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‘企業売買’は許されるのか?

2025年01月13日 11時46分43秒 | 国際経済
 人身売買と言えば、誰もが眉を顰め、人類にはあってはならないものとして批判するものです。奴隷市場が公然と開設され、奴隷達が取引されていたお話を聴けば、それは過去の野蛮な時代の悲劇として、誰もが奴隷になりかねない時代に生きた人々に深い同情を寄せることでしょう。今日では、人を売買することは、売る側が自分自身であったとしても犯罪であり、法律によって固く禁じられています。人身売買の禁止は、人類の道徳・倫理の精神的成長を示す証とも言えましょう。

 ところが、経済の世界を見ますと、実のところ、企業の売買は許されています。人身売買の罪の本質が、他者の自己決定権とも表現される主体性を失わせ、自らの意思に従属させるところにあるとしますと、何故、人がだめで企業が許されるのか、その合理的な説明は難しくなります。どちらも、主体性の侵害、そして他者に対する“殺生与奪”の権限の掌握という側面を含んでいることには変わりはないのですから。主体性喪失あるいは簒奪の問題は、主権を有する国家についても言えるかも知れません。

 この素朴な疑問に対しては、経済学者やグローバリストの多くは、今日の自由主義経済の仕組みを解説することで、説得しようとすることでしょう。‘経済とは、市場における企業間競争が成長を牽引しており、賢明な経営によって安価で良質な製品やサービスを消費者に提供した者が生き残る世界である。企業間競争は、経済成長には不可欠であるのだから、勝者となったより優れた企業が市場の敗者となった企業を買い取ることは許されるべき当然の行為である’と・・・。あるいは、吸収・合併や企業間統合のメリットを強調し、‘規模が大きく、技術力を備えた大企業が、競争力に乏しく市場からの敗退が迫っている弱小企業を取り込むことは、一種の救済である。’ホワイト・ナイト‘のようなものであり、買う側と売る側の双方がWin-Winであれば、評価すべきである’と説明するかも知れません。

 今般の日本製鉄によるUSスチールの買収計画を見ましても、同案の正当性や合理性は、これらの主張によって支えられています。マスメディア等では、‘経営と技術力に優る日本製鉄が他の企業を合併し、さらなる強敵である中国製鉄企業との競争に備えるのは当然である’、‘USスチールは、日本製鉄が買収しなければ倒産するか、クリーブランド・クリフスに買いたたかれるはずであった’、‘日本製鉄もUSスチールも双方とも合意しているのに、部外者である政府が介入するのは不当である’とする合併推進論が声高に叫ばれているのです。

 バイデン大統領の買収禁止の判断の根拠が安全保障上の懸念であったことから、経済合理性を政治的打算が覆したとする論調も強いのですが、外国企業による自国企業の買収に憤慨するアメリカ国民の感情も、その根源を辿れば、自国企業の主体性の喪失にあるのかもしれません。単なる反日感情やアジア系に対する差別意識というよりも、より人類の根源的な自己喪失に対する危機意識に根ざしているかもしれないのです。

 このことは、上述したような合併推進派の弁明も、この主体性喪失の危機、否、自己防衛本能を伴う反発の前にはこの説も大きく揺らぐことを意味します。喩え奴隷が自らの生存に必要となる衣食住を奴隷主から提供され、奴隷主によって生かされているとしても、誰も、人身売買や奴隷制を道徳や倫理に叶った正しい行為とは見なさないことでしょう。買われた奴隷自身が、この状態を‘よし’としたとしても。

 相互的な自己保存の承認が人類社会に規範やルールをもたらし、悪や犯罪を規定し、統治機構をも出現させた側面に注目しますと、むしろ、何故、経済においてのみマネーで主体を買うことが出来るのか、この疑問が、人類の未来をも左右する問題として迫ってくるのです。果たして企業売買が許されていた時代を、人類が野蛮な時代として嘆く日は訪れるのでしょうか(つづく)。

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USスチール買収問題が示すグローバリズムの野蛮性

2025年01月10日 10時52分56秒 | 国際経済
 アメリカのジョー・バイデン大統領が日本製鉄によるUSスチールの買収を禁じる大統領令を発令した一件については、中国の反応が注目されるところです。中国共産党の機関紙である人民日報系の環球時報は、日本企業を「がっかりさせた」と論評しています。中国は、アメリカにシャットアウトされたかに見える日本製鉄、並びに、日本政府にすり依り、同事件を契機に日米離反を試みようとしたのでしょうか。あるいは、対中関税の大幅な引き上げを公約とするトランプ政権の発足を前にして、自国と日本国の立場を同一視し、アメリカの保護主義を批判したいのでしょうか。

 両者が入り交じった見解なのでしょうが、国営新華社通信は、「米国が国家安全保障をむやみに用いた新たな事例の一つにすぎない」と報じていますので、どちらかと言えば、後者、即ち、政治的な理由をもって企業買収を阻止したアメリカの政策に対する批判なのでしょう。米中対立が強まる中(少なくとも表面的には・・・)、中国としては、安全保障上のリスクを持ち出されることは、関税障壁による中国製品のみならず、即、中国企業の米穀企業に対する投資、あるいは、M&A戦略もブロックされることを意味するからです。

 米ソ冷戦終結後のグローバル化の流れを振り返ってみますと、グローバリズムによって最も恩恵を受けた国は中国でした。体制崩壊したソ連邦とは異なり、中国そのものは共産党一党独裁体制を維持し、共産主義を国家イデオロギーとして奉じながらも、‘旧西側諸国’は、もはや‘旧東側諸国’との間には政治的な壁は存在せず、同国のWTOへの加盟も許してしまったのですから。安価で豊富な労働力、安い元相場、そして、緩い環境規制などは、グローバル市場にあっては国際競争力として強力に作用し、巨額のチャイナ・マネーも、国境を越えて溢れだし、海外企業の積極的な買収に投じられるようになりました。中国企業に買収されたり、大株主の地位を占められたり、中国系企業グループの傘下に組み込まれた日本企業も少なくありません。

 中国の躍進の舞台は、国家の存在を障壁と見なすグローバリズムが提供したのですから、同国にとりましては、アメリカの保護主義はこれを台無しにしているように見えるのでしょう。しかしながら、自由貿易主義もグローバリズムも、‘ルールがないのがルール’という、一見、ルール志向に見えながら、その実、弱肉強食の野蛮な世界です(国家が規制を設けるとルール違反になる・・・)。グローバリズムの勝者が中国であったように、国家であれ、企業であれ、スケールメリット、並びに、技術力に優る者が、競争力に劣る規模の小さな者達を飲み込む、あるいは、市場から駆逐してしまうのが現実です。IT分野を見れば一目瞭然であり、途上国からグローバルなプラットフォームを構築し得る大手IT企業が出現することは絶望的に不可能に近いと言えましょう。グローバリズムとは、形を変えた‘植民地主義’の復活にも見えなくもないのです。そしてこの観点からすれば、各国政府のグローバリストに対する恭順の態度は、植民地時代の現地支配層、並びに、日本製鉄と一緒になって大統領の禁止令に抗議するUSスチール幹部の態度とも重なって見えます。支配する側(グローバリスト、宗主国、買収企業)が、形ばかりではあれ、被支配側のトップの地位を保障してもらう代わりに、自らの集団のメンバーに対する支配権を容認するのですから。

 日本国内では、グローバリズムを礼賛する傾向が続いていますが、グローバリズムを受け入れることは、開放された自らの市場が海外勢力に席巻されてしまうことも認めざるを得ないことを意味します。それが、たとえ鉄鋼やエネルギー、さらには、食料生産といった国家の安全保障や国民生活に直結する分野であったとしても。実際に、今やマネー・パワーに籠絡されてグローバリストの‘代理人’の如くとなった日本国政府や政治家達は、まさしくこの路線を一直線に歩んでいるように見えます。その一方で、日本国民にあって保守派の人々も、日本企業の米市場への参入が阻止されたわけですから、自国勢力の‘拡大’を願う立場からアメリカの今般の措置に対して批判的です。つまり、日本国内では、グローバリストと保守派という、本来、その対中姿勢や価値観において相対立する人々が、奇妙なことにアメリカ批判では一致しているのです。

 しかしながら、上述したように、国境のないグローバル市場とは弱肉強食の世界です。この視点からしますと、日本国政府は、グローバリズムの文脈にあって中国に自国の市場を開放し、中国企業による自国企業の買収を容認するのでしょう。今後、中国企業が製鉄をはじめとした基幹産業における日本の大手企業の買収に乗り出した場合、一体、どのように対応するのでしょうか(対日投資熱烈歓迎?)。そして、かねてより中国脅威論を唱えてきた保守派の人々も、この思わぬ成り行きに言葉を失うかも知れません。これらの人々の立場は、かの『羅生門』で言えば、下人に衣を奪われる老婆ともなりましょう。

 このような未来を予測しますと、真に考えるべきは、グローバリズムが許している‘ルールがないのがルール’という、一種の無法状態のように思えます。‘己の欲せざるところを人に為すなかれ’は、人類に共通する道徳規範です。人類の野蛮からの脱出は、まさしくこの相互的な抑制作用の認識とそれを具現化する制度化にありました。国際社会では、政治分野にあってもルール作りや制度整備は十分ではありませんが、他者(国家、企業、個人・・・)の主体性を奪う行為を無批判に合法とする今日の経済の在り方こそ、早急に見直すべきではないかと思うのです。

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USスチール買収措置が提起するグローバリズムの問題

2025年01月06日 10時14分30秒 | 国際経済
 新年を迎え、お正月の行事に賑わう1月3日、アメリカのジョー・バイデン大統領は、日本製鉄によるUSスチールの買収を禁じる大統領命令を発しました。2兆円規模とされる同買収案は、2023年12月に日本製鉄側が提案しており、同年4月には、USスチール側も臨時株主総会で同案を承認しています。両者合意の上の友好的買収ですので、同案の実現には然程の障害はないようにも見えたのですが、USスチールが粗鋼の世界市場では24位でありながらも、全米では第2位のシェアを誇るアメリカを代表する大手製鉄企業であったため、様々な方面から反対の声が上がることとなにもなったのです。

 先ずもって同案に反対したのが、USスチールの労働者も加盟する全米鉄鋼労働組合 (USW)です。通常、企業買収に伴って大規模なリストラが実施されますので、USスチール社を筆頭に鉄鋼事業に従事している人々が反対するのは理解に難くありません。USスチール側に対しては、日本製鉄側は雇用の維持や雇用創出効果を伴う27億ドルの投資を約束し、USスチールの取締役の過半数も米国籍とするなどの対応を示してきたものの、USWの反対姿勢は今日まで維持されています。そして、買収案が公表された時期がまさしく大統領選挙の最中であったため、USスチールの買収問題は、保守色を強める世論を巻き込む形で大統領選挙の争点として政治問題化していったのです。

 最初に同買収案に対して反対を表明したのは、かねてより保護主義を基本方針としてきたドナルド・トランプ次期大統領でした。今般の大統領命令の丁度1年前に当たる2024年1月3日には、有権者を前にして「「私は即座に阻止する。絶対にだ」と息巻いています。ところが、伝統的に労働者を支持基盤としつつも、民主党離れが顕著となってきた労働票の取り込みを狙ってか、2024年4月には、大統領の座を争うバイデン大統領も反対姿勢に転じます。この時点で、両政党の候補とも、世論の後押しを受けて日本製鉄による自国企業の買収阻止で足並みを揃えることとなるのです(民主党の候補者がカマラ・ハリスに交代した後も同方針は維持・・・)。

 アメリカでは、たとえ企業間の合意が成立したとしても、海外の企業がアメリカ企業を買収する場合には、法律上の手続きとして対米外国投資委員会による厳正なる審査(CFIUS)を経るものとされています。しかしながら、今回のケースでは、突然の大統領命令の発令という形で買収が禁じられています。上述した日本製鉄側のUSスチールに対する対応も、CFIUSから示された懸念を解消するための措置でもありました。大統領命令の発令に際してCFIUSの審査がどれほど関与したかも不明であり、手続き上の瑕疵がある可能性があります。このため、買収禁止命令を受けた日本製鉄側は、「米国憲法上の適正手続き及び対米外国投資委員会を規律する法令に明らかに違反」として、アメリカ政府を相手取った提訴をも視野に入れています。また、同大統領令によって買収がお流れになりますと、巨額の違約金が発生する可能性があり、日本製鉄側としては、法廷を舞台に‘徹底抗戦’の構えを見せているのです。

 以上に、簡単に日本製鉄によるUSスチール買収案に関する経緯を述べてきましたが、日本国内の反応を見ますと、今般の大統領命令による買収禁止については落胆と憤慨が入り交じったような見解が多数を占めているように思えます。批判の理由としては、政治的なものと、経済的なものとに凡そ二分されます。政治的な批判とは、主としてバイデン大統領が、安全保障上の懸念を理由として日本企業による買収を禁じたことによるものです。その一方で、経済的な側面からは、マネーが自由に国境を越える時代にあって、政府が海外企業の買収を禁じるのはグローバル・ルールに反するとする声が上がっているのです。グローバル時代にはあるまじき海外企業に対する‘差別’として。

 日本企業によるアメリカ企業の買収案がアメリカ政府によって阻止されたのですから、日本国政府や日本国民が不快に感じるのも理解の範囲に入ります。しかしながら、より客観的、かつ、冷静な視点からしますと、この問題、グローバリズムの欺瞞と限界、あるいは、虚像を暴いているようにも思えます。本ブログの新年は、国家とグローバリズムの問題について掘り下げることから始めてみたいと思います(つづく)。

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自由主義経済と企業の独立性―奴隷制度との比較

2024年08月08日 10時41分55秒 | 国際経済
 今日、多くの人々が、自分たちは自由主義経済の中に生きていると信じ込んでいます。しかしながら、株式システムを見る限り、そうとも言えないように思えます。自由という価値が実現するためには、各々の主体の独立性を要するからです。この自明の理からしますと、株式システムに最も近いのは、奴隷システムではないかと思うぐらいです。何故ならば、以下に述べるように、両者には幾つかの共通点があるからです

 第1の共通点は、両者とも、‘もの’ではないにも拘わらず、所謂‘物権’が設定されていると見なされている点です。奴隷の所有権が奴隷主にあるように、企業も株主に‘所有権’があるとする見方が一般的でした。何れも、お金を出して‘買った人’が、所有者であると見なされてきたのです。英米系の企業文化に顕著な株主所有の考え方は、今日、若干の修正が試みられていますが、企業という存在が、株式の発行によって売買の対象となる点においては変わりはありません。

 第1と関連して第2に、奴隷主も株主も、一端、買い取って権利を得た以上、奴隷や企業に報酬を払う必要性も義務もありません。如何に前者のために後者が懸命に働いたとしても、無報酬なのです。企業に至っては、株主に対して配当金を支払い続ける法的義務さえ課されています。

 第3に、奴隷主は自らの思いのままに奴隷を他者に売却することができますし、株主も、何時でも、自らの判断で所有している株券を売却することができます。売却に際しては、奴隷や企業の意思は、殆ど考慮されないのです。このため、奴隷は他者に売り飛ばされたくなければ、奴隷主に尽くして気に入ってもらわなければなりませんし、今日の企業も、自社株の売却を恐れて株主への配当率を高めたり、その要求に応じたり、株主サービスを拡充せざるを得なくなります。

 第4に、企業も奴隷も、その価値は、市場における売買によって決定されます。相対取引による売買もありましたが、奴隷制度が一般化していた古代にあっても、奴隷市場という奴隷の売買が行なわれる市場が存在していました(古代ギリシャではロードス島など・・・)。奴隷達は、生まれたとき、あるいは、捕縛された時から価格が決まっていたわけではなく、その属性や能力等によって値踏みされ、競売などにかけられて取引されたのです。一方、今日の企業も、証券市場による投資家等の評価が企業価値を決定しています。今日、証券市場への上場は事業成功の証の如くにお祝い事ですが、企業の売買市場への‘売り出し’という見方もできないわけではありません。上場時に高値が付けば、同企業は多額の資金を調達できますし、市場にあって自社の株価が上がれば企業価値も上がり、当該企業にとりましては喜ばしいことではあります。しかしながら、公開後にあっては、実質的な株価上昇の利益は、それを売却することができる株主が享受するのです。

 そして、第5の共通点を挙げるとすれば、全てではないにせよ、奴隷にも企業にも、自らを解放する手段がないわけではない点です。古代ギリシャでは、借金が返せなくなったために奴隷となって自らを売った債務奴隷の場合には、債務の返済によって奴隷身分から解放されました。また、奴隷契約の場合には、契約期間が満了すれば、晴れて自由の身となることができたのです。それでは、現代の企業はどうでしょうか。自らの自由の身とする方法が全くないわけではありません。例えば、日本国では2009年に解禁となった自己株式の消却です。株式の消却は、自らを買い戻すことを意味するからです。そして、もう一つの方法が、昨日の記事で述べた株式の社債への転換なのです(他にも多くのアイディアがあるかも知れない・・・)。

 株式会社の制度は、オランダ東インド会社を起源とするとされますが、400年以上にわる歴史があり、今日の最も基本的な企業モデルの地位を確立したとはいえ、最も望ましい企業形態であるとは言えないはずです。それが上述してきたように奴隷制と似通っており、かつ、グローバリストの世界支配の手段と化している現状を見れば、なおさらのことです。固定概念から離れ、否、洗脳を解き、株式制度の問題点を十分に知り尽くした上で、より人類にとりまして望ましい形態を見出することこそ、現代に生きる人々の使命なのではないかと思うのです(つづく)

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株式の社債への転換というアイディア

2024年08月07日 09時57分18秒 | 国際経済
 今日では、就任して日の浅いイギリスの首相の名を知らなくでも、ビル・ゲイツ氏やイーロン・マスク氏の名は誰もが知っています。政治家は、任期を終えると表舞台から去って行きますが、巨万の富を手にするグローバリスト達は、あたかも終身の指導者のごとくであり、その意向一つで世界を自らのヴィジョンに合わせて変えてしまうのです。そして、これらの人々が、民間人の一人に過ぎないことに思い至りますと、現代とは、マネー・パワーを握る極一部の私人に支配されている時代と言っても過言ではないかも知れません。そしてそれは、権力を私物化する政治的独裁者と然して変わりはないのです。

 マネー・パワーによる私的独裁が成立するに至った主たる原因は、今日の経済システムの欠陥にあります。この問題は、オランダ東インド会社由来の株式会社という組織形態に組み込まれており、同企業形態では、株主に一定の権利を与えるため、株式の取得が企業の独立性を失わせ、私的独占・寡占を促すメカニズムとして働くのです(今日、競争法が機能しているとも思えない・・・)。そして、グローバル化と共に国境を越えてマネーが自由に移動できる時代を迎えますと(資本移動の自由化)、マネー・パワーは瞬く間に全世界に及び、富裕な私人達、即ち、非合法な世界権力による新たな植民地支配の如き様相を呈していると言えましょう。

 それでは、世界権力に富も権力も集中する現状を変えることはできるのでしょうか。共産主義の信奉者の人々は、現政府を革命によって転覆し、政府が全面に経済を管理・統制する共産主義体制を樹立すればよい、と主張するかも知れません。しかしながら、国家による独占も私人による独占もその本質において変わりはなく、共産主義国家の実態は、共産党幹部による富と権力の私物化でしかありません。これでは改悪ですので、‘変えれば良い’というものでもないのです。なお、資本主義か共産主義下の二者択一の構図は、選択者がどちらを選んでも不幸になるという、世界権力お得意の二頭作戦なのでしょう。

 かくして、真っ先に共産革命が選択肢から外れるのですが、変化を求めた結果、経済システムが根底から破壊され、人類の生活水準が著しく低下するのでは元も子もありません。そこで、考えられる一つの案が、株式の社債への転換です。今日のシステムでは、株主の権利は企業に対する貢献度からしますと強過ぎます。株式の発行とは、本来、企業の資金調達の手段に過ぎませんので、株主が、一般の債権者以上の権利を有するのは、貸借関係からすればバランスを欠いているのです。

 株式を社債に転換すれば、株主の権利は、一般の債権者と同程度にまで縮小されます。これまで株主に支払われていた配当も、利払いの形態に転換されます。その一方で、企業にとりましての株式発行の利点は、償還の満期日が定められておらず、返済圧力を免れる点にあります。このため、社債に変換しますと、償還金額が準備できずに債務不履行の状態に直面するリスクが高まりまるのですが、同リスクについては、20年や30年といった超長期社債の形態として発行するのも一案となりましょう。この点、償還までの利払い並びに償還金総額と同期間における配当金の支払い総額とを比較して、前者が低コストとなれば、社債への転換は企業にとりましてメリットとなり、社員の給与額のアップや設備投資等への投資に繋がります。その一方で、前者が高コストとなるのであれば、企業は、社債の発行を控える方向に判断することとなりましょう(少なくとも、今日のように、グローバリストに強いられてDXやGXなどへの無理な投資を行なうような経営判断はしなくなる・・・・)。

 また、株式の社債への転換は、投機的行為を抑制する作用も期待されます。これは、「資本主義」の致命的な欠点ともされてきたバブルの発生を抑える効果でもあります。何故ならば、債権の場合には、金額が券面に明記されているために、額面の額を超えての取引にはセーブがかかります。ところが、株式の場合には、株価は証券取引所での売買によって成立しますので、株価(価格)には天井がないに等しいのです。言い換えますと、株式制度とは、投資家、否‘投機家’の思惑も加わって価格が乱高下しますので、経済にとりましては不安定要因と言わざるを得ないのです。このため、一人の投機家が自らの個人的な利益のために世界恐慌や金融危機を仕掛ける、という事態もあり得るのです(このリスクは、為替市場にも見られる・・・)。

 そして何よりも、株主が有する運営介入の権利、即ち株主総会における議決権も消滅すれば、各々の企業は、融資を受け、返済義務のある債務者ではあっても株主による介入を受けずに済みます。この企業の独立性こそ、規律ある自由主義の前提条件なのです(つづく)。

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自由主義が善で「資本主義」は悪なのでは

2024年08月05日 09時49分47秒 | 国際経済
 本日、ウェブ上に「「資本主義」は社会の発展に不可欠な必要悪?」とするタイトルのネット記事を発見いたしました(Wedge、8月5日配信)。同記事は、「資本主義」の利点を分かりやすく説明するために、女子プロレスリングや「仮面ライダー」などを引き合いに出しており、誰もが分かりやすいように書かれています。同タイトルを見た人々の中には、‘「資本主義」をなくしてはならない’と早合点する人もいることでしょう。何と申しましても、「資本主義」あっての経済発展なのですから。しかしながら、「資本主義」は、同記事が述べるように‘社会発展に必要不可欠な必要悪’なのでしょうか。

 資本主義という表現は、しばしば共産主義や社会主義の反対語として使用されてきました。その理由は、共産主義の祖ともされるカール・マルクスがその大著『資本論』において、労働者を搾取しつつ資本家のみが肥え太る、当時の経済システムを痛烈に批判したからなのでしょう。その一方で、一般的な用語としては、自由主義国の経済システムは、資本主義の他にも自由主義や市場主義などの名称でも呼ばれており、必ずしも一本化されているわけではありません。現行の経済システムは、様々な視点や角度から見ることでその呼び方も変わってくるのです。

 呼称が様々であったとしても、一つ、共通点があるとしますと、それは個人の経済的な自由が保障されている点です。「資本主義」が、統制経済あるいは計画経済をもって最大の特徴とする共産主義に対置されるのも、あらゆる権力が政府に集中する前者には個人の経済的な自由が皆無に等しいからと言えましょう。言い換えますと、資本主義という用語には、共産主義との対比において‘自由’という概念が含まれるのです。おそらく、同記事の筆者も、この意味において「資本主義」を捉えているのでしょう。

 そして、ここに、同記事には詭弁的な論法が登場することとなります。「資本主義」を必要悪とみなす根拠として、個々人の経済活動の自由を力説しているからです。「資本主義」であれば、「個人個人で独立して勝手に頑張れる」として。そして、社会主義が失敗したのは、資本主義あるいは資本家を排除したからと述べているのです。つまり、皆が豊かに暮らすには、資本主義も資本家も必要という論法なのです。

 しかしながら、資本主義と自由主義が互換性のある用語であるのか、と申しますと、そうではないように思えます。マルクスが批判したように、資本家達による資本の独占や寡占が許される状態であれば、株式の取得や企業の‘所有’により、私人による全面的な経済支配もあり得るからです。この状態に至りますと、私的独占による自由の消滅、並びに、それに付随する自由な競争も失われ、自律的な経済発展のメカニズムは停止してしまいます。表向きは自由主義国に見える非社会・共産主義国家であっても、私的独占による一般国民の貧困もあり得るのです(このため、現在では、競争法が制定され、独占や寡占は禁じられている・・・)。

 今日、一部の資本家、即ち、グローバリストへの富の集中は既に深刻な構造的な問題として表面化しており、DXやGXといったテクノロジーの普及がこれを支えています。私的独占が自由主義を蝕んでいるのであり、この現象に注目すれば、今や資本主義や資本家は、マルクスが生きた19世紀のように、搾取的なシステムをより広範囲に、つまり、グローバルに構築しようとしているように見えるのです。言い換えますと、広義の「資本主義」には私的独占も含まれているのであり、自由は自由でも、何らの制約なく資本家がマネー・パワーを発揮し得る極少数の人々の‘自由’なのでしょう(むしろ、新自由主義と表現した方が適切かも知れない・・・)。

 マネー・パワーが猛威を振るう由々しき現状からしますと、同記事の筆者のように、「資本主義」や資本家を‘必要悪’として擁護できるのか、と申しますと、この見解には疑問があります。誰もが否定し得ない‘自由’という価値を持ちだして、悪徳資本家、つまり、今日の強欲で無慈悲なグローバリスト達まで十把一絡げで擁護しようとしているにように見えるからです。因みに、今年の6月18日、ロイター社は、かの米投資大手ブラックストーン社が総額2756億円をもって日本国内で電子漫画配信サイト「めちゃコミック」を運営しているインフォコムを買収する旨を報じています(TBOの期間は7月31日まで)。同記事の筆者は、漫画家であるさくら剛氏なのですが、背後に‘資本家’の陰を疑うのは、的外れな推測なのでしょうか。

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富裕層の道楽となったグローバル企業

2024年04月23日 14時12分25秒 | 国際経済
 今日の世界情勢を観察しておりますと、人類は、あらゆる面においてグローバリストに翻弄されているように見えます。全世界を裏からコントロールし得るパワーを握るグローバリストの出現については、株式取得を勢力拡大の手段とする‘資本主義’の問題を抜きにしては語れないのですが、グローバリストによる経済支配は、企業の役割を大きく変えつつあります。

 企業の規模が拡大するのには、凡そ二つのタイプの手段があるように思えます。第一の手段は、当該企業が提供する製品やサービスが優れているために、多くの消費者が購入・利用するようになった結果、市場のシェアが拡大し、生産量の増加に伴い企業規模も大きくなるタイプです。自由主義経済において教科書的に説明されているのは、主として同タイプです。この拡大経路にあっては、企業は、できうる限り消費者に選んでもらえるような製品やサービス、すなわち、低価格・高品質を目指して企業努力を惜しまないこととなります。もっとも、発展性を伴う経済成長や多様性を維持するためには、常に競争状態が保たれる必要があるために、一社や数社による独占や寡占は競争法によって禁じられています(無制限な拡大は×)。

 第二の規模の拡大手段は、競争関係にある同業企業が発効している株式の取得です。企業合併やM&Aと称される手段であり、友好的買収であれ、敵対的買収であれ、他者を取り込むことで規模を拡大させることができます。同タイプでは、消費者の志好やニーズ、あるいは、価格や品質等にも関係なく、事業規模が拡大します。つまり、企業の経営戦略が拡大の決定要因なのです。

 もちろん、上記の二つのタイプが結びつくハイブリット型もあります。むしろ、規模の拡大はコスト逓減効果がありますし、製品の品質向上にも有利となりますので、市場における価格競争に勝つために他社を合併しようとするケースも少なくありません。否、産業革命以降、ハイブリット型で事業を拡大した企業が大量消費社会を牽引し、消費者に対して安価で高性能な製品を大量に提供した結果、大企業が出現したとも言えます。しかも、グローバル化のかけ声と共に各国政府ともに自由化の旗印の下で資本市場を含めて自国市場を開放したため、企業規模の拡大は国境を越えて全世界に広がるようにもなったのです。今日、グローバル企業と称される世界市場において事業を展開している企業の大半は、こうしたプロセスを経て今日の地位を築いたとも言えましょう。

 M&Aといった目に見える形での企業統合の他にも、資本提携などの他社をコントロールする手段はあるのですが、何れにしましても、マネー・パワーが、巨大なグローバル企業を生み出す原動力であったことは確かなようです。加えて、巨額の開発資金を要する先端テクノロジーとプラットフォーム構築における‘早い者勝ち’や‘勝者総取り’的な性質が競争法をもかいくぐりかねないデジタル分野では、一部のIT大手による独占や寡占が経済のみならず、ユーザーとなる、あるいは、利用せざるを得なくされた個々人にまでコントロ-ルを及ぼしているのが現状と言えましょう。

 かくして、グローバル化の時代における経済とは、1%の富裕層ともされる極一部の‘株式を握る者’、すなわち、グローバリストとその恩恵に浴する配下の人々にコントロールされる世界となったのですが(現実には、1%ではなく一億分の1以下かもしれない・・・)、ここに、企業経営において一つの大きな変化が生じることとなります。それは、グローバリストのコントロール下に置かれた企業は、もはや消費者のニーズや志好に対して関心を持たない、もしくは、意に介さなくなる、という現象です。

 戦争ビジネスや環境ビジネス等には余念がない一方で(これらの分野では計画化・・・)、実際に、今日のグローバル企業が自らの持てる資源をつぎ込んで熱心に開発を急がされているのは、SFの世界を追い求めるような宇宙旅行や有人宇宙ステーション、あるいは、空飛ぶ車などです。多くの一般消費者が購入・利用できるとは考え難い分野ばかりであり、一部の富裕層向けの製品やサービスに関連する近未来技術開発に集中しているのです。また、より身近な事例に目を向けましても、衰退が懸念される日本国内にあって豪華なホテルが新設あるいは改装されるという報道があったとしても、それは、富裕層向けなのです。あたかも、消費者は、富裕層しか存在しないかのように。その一方で、グローバリストは、自らの‘夢’の実現や道楽に対する投資に加えて、人類支配の手段となる技術開発には投資を惜しみません。監視装置ともなりかねないIoT家電を開発するぐらいならば、むしろ、より利便性が高く、かつ、プライバシーが保護される遮断型の製品を売り出したほうが、よほど一般消費者は安心して購入・利用するのではないでしょうか。

 一般消費者向けに手頃な価格で高品質な製品を提供することで企業規模を拡大させてきた大企業は、今や、上位者となった富裕層に奉仕するための存在と化しているかのようです。この状態では、消費と生産の好循環となる回路は断たれ、成長の原動力が失われることとなりましょう。人々の経済活動はいつの間にか富裕層への奉仕となり、自らを含めた人々の生活を豊かにする方向には向かわないのです。人類史において経済の果たしてきた役割に照らしますと、現状は決して望ましいとは言えず、消費者牽引・主導型への経済への回帰、転換こそ、同問題解決の鍵となるのではないかと思うのです。

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計画経済化するグローバリズム-EV普及政策の問題

2024年04月22日 13時46分44秒 | 国際経済
 近年、ガソリン車から電気自動車、即ち、EVへの流れは加速化されています。EVへの転換の背景には、脱炭素を目指す世界的潮流が指摘される一方で、ハイブリット車や軽自動車を含めてガソリン車に強みを持つ日本車潰しの隠れた狙いがあったとする説もあります。もっとも、世界経済フォーラムや国連が脱炭素の旗振り役を務めているところからしますと前者である可能性が高く、全世界は、EVに向かって一斉に走り出した観がありました。

 イギリスでは、早くも2030年をガソリン車廃止の目標年に定める一方で、EUも、2035年を目処にガソリン車を全廃する方針を示しています。EV転換を自国自動車産業のチャンスとみた中国政府も、2035年には、新車販売の全数をEV並びにハイブリット車とする目標を掲げています。日本国にありましても、2021年の施政方針演説においてカーボンニュートラルを宣言した当時の管首相が、2035年を目標年としたガソリン車の事実上の禁止を公表したのです。

 各国ともにEVの普及促進政策を重要な‘国策’として位置づけたのであり、2035年が凡その‘キー・イヤー’となっている点を見ましても、そのグローバルな同調ぶりには目を見張らされます。そして、これらの目標を達成するために、各国政府ともに、相次いでEV普及促進政策を導入したです。その主たる手段となったのが補助金制度であり、EVの購入時やEV充電器の設置等に際して補助金が支給されることとなりました。ドイツでは、EV購入時にあって9000ユーロの補助金が支給され、ヨーロッパでは群を抜いていました(フランスは7000ユーロ、オランダは4000ユーロ・・・)。アメリカ政府も、EV購入者に対して最大7500ドルの税額控除を設け、税制上の優遇策を以てその普及に努めています。日本国政府も、EVの購入に際して補助金を支給すると共に、充電設備にも予算を付けたのです。

 グローバルレベルで未来の自動車がEVに決定されたことで、民間レベルでも日本やドイツなどの既存の自動車大手が対応を迫られると共に、イーロン・マスク氏が率いるステラ社や自動車産業にあっては後発組となる中国勢といった新興企業も、新市場でのトップを目指して開発競争に鎬を削ることとなりました。同開発競争は、政府主導で開発を急いだ中国が頭一つ抜きん出た観があるのですが、ここに来て、EV市場は、変調を来しています。テスラ株も2023年夏のピーク時から半値ほどに下落しており、EVの販売数も伸び悩むに至るのです。

 EV失速の原因としては、各国政府の補助金制度の打ち切りなどが指摘されており、上述したドイツでも、昨年末をもって補助金制度は終了しています。また、ガソリン車と比較した場合のEVの燃費の良さも、近年の電力料金の高騰の影響を受けてメリット面が低下しています。加えて、バッテリーの生産に際しての電力の大量消費や廃棄に伴う環境汚染問題(マンガンの毒性・・・)など、解決すべき問題も山積しています。EV志向の‘意識高い系’の購入が一巡したとの見方もあり、EVの失速から、メディアが喧伝するほどには消費者が積極的に購入を急いではないという実情が浮かび上がってきたのです。

 ところが、日本国政府は、他の諸国とは違い、補助金制度の見直しを行なうつもりはなく、充電設備に対する補助金も、今年度予算では昨年度の2倍に当たる380億円に増額すると報じられています。国土交通省が率先して新築住宅への設置などを促すとのことですが、果たして、EVの販売数が停滞している中、政府の思惑通り、充電施設の拡充はEVの普及を促進するのか疑問なところです。

 全世界で一斉に始まったEVの普及促進は、世界権力主導で進められてきましたので、いわば上からの‘計画’に基づいています。一般消費者のニーズに応えて出現したものではありません。この上意下達の側面は、グローバルレベルにおける自由主義経済から計画経済への移行をもたらしているとも言え、中国が、EV市場において成功した理由も、一党独裁体制が集中投資的な技術開発に適していたからなのでしょう。そして、全世界を包摂するグローバルな計画経済化によって、各国とも共産主義国家の失敗を繰り返すリスクを抱えることになったように思えます。

 EV市場で先端をゆく中国も、都市部の高層住宅街がゴーストタウンと化したように、供給過剰がEVの在庫の山を築き、マンガン汚染問題をより深刻化するかも知れません。あるいは、中国の生産過剰による中国EVの廉価輸出がライバル企業を市場から追い出してしまう可能性もありましょう(太陽光パネルで既に同様の問題が発生・・・)。日本国も、消費者の志好やニーズを無視した政府主導型のEV普及促進は、税金の無駄遣いとなりかねないのです(しかも、日本国は電力不足に悩まされている・・・)。不思議なことに、常々政府の補助金を市場の成長メカニズムを阻害するとして批判している新自由主義者の人々も、EVについては、黙り込んでいるのです。そして、グローバルレベルでの計画経済化の問題は、EVに限ったことではないように思えるのです(つづく)。

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経済学の大いなる矛盾-自由貿易論あるいはグローバリズムの重大問題

2024年03月22日 11時52分44秒 | 国際経済
 今日の自由貿易体制を今なお支えている基本理論は、デヴィッド・リカードが唱えた比較生産費説(比較優位説)とされています。リカードは、18世紀末にロンドンにて生を受けたユダヤ系イギリス人であり、経済学者ではありながら、ケンブリッジ大学中退後にロンドン証券取引所の仲買人となり、その後、庶民院の代議士として活躍した異色の経歴をもつ人物です。比較生産費説とは、下院議員時代に自らが主張していた自由貿易論に理論的な根拠を与えるために編み出された理論とも言えましょう。

 しかしながら、考えてもみますと、19世紀初頭、すなわち、大英帝国を中心とする自由貿易体制がその頂点を迎えた時期に主張された理論が、現代にあっても国際経済体制の基本理論とされているのは奇異なことでもあります。時代で言えば江戸時代の理論を、そのまま維持しているようなものなのですから。アメリカではトランプ前政権の時代に自由貿易体制からの離脱が試みられましたが、日本国を見ましても、2018年末にTPP11が発足すると共に、2023年7月にはイギリスの加盟が正式に決定されています。また、中国を含むRCEP協定も、2022年1月をもって発効しているのです。

全世界の市場の単一化を目指すグローバリズムが広がった今日では、自由化の対象は‘物(財)’だけではなく、サービス、資本、技術(知的財産)、そして、労働力にまで及んでいますが、その幹となる部分が、あらゆる国境における障壁の撤廃、即ち、市場開放を伴う自由化であることには変わりはありません。国際経済の世界では、200年以上の長きに亘って、同一の理論が不動の地位を占めてきたと言えましょう。あたかも‘自由貿易教’のような様相を呈しているのですが、本当に、‘信じる者は救われる’のでしょうか?

リカードの比較生産費説とは、簡単に述べれば、ある国が相手国と比較して低コストで生産できる産品に特化して相互に交易すれば、当事国の双方が利益を得られるという説です。同説が唱える互恵性の成立は、諸国家間の国際分業にも理論的な根拠を与えており、自由貿易体制の構築は、資源の最も効率的な配分を実現させる理想的な国際貿易体制として位置づけられたのです。貿易を介して全ての国が同体制に加わるだけで、どの国にも利益をもたらすと唱えたのですから、いわば、国際経済における予定調和説とも言えましょう。

 しかしながら、現実には貿易戦争は頻発してきましたし、また、富める国と貧しい国との格差も見られ(比較優位となる貿易品を産出できない国も存在する・・・)、リカードの掲げた理想とはほど遠く、現実が理論を実証的に否定してしまったとも言えるかも知れません。そして、この現実と理想との乖離は、経済学における大いなる矛盾をも提起しているように思えるのです。

 この矛盾とは、主として関連する二つの側面から指摘することができましょう。その一つは、自由貿易理論は、国内経済を主たる対象とした経済学’からは否定されてきた自由放任論やレッセフェール論を是認してしまう点です。今日、国内市場にあって自由放任状態となれば独占や寡占に至るとする認識は広く共有されており、凡そ全ての諸国にあって、市場の競争メカニズムを阻害する行為として法律をもって禁じられています。自由が自由を消滅させてしまうからです。実際に、競争政策は、何れの国でも重要な政策分野であり、自由を護るためにこそ、独占や寡占をもたらす規制が必要とされるのです。仮に、この国内市場の当然の道理が世界経済にも当てはまるとすれば、当然に、自由貿易も規制を受けるべきはずなのです。

 第二の矛盾点は、自由貿易論と称しながら、その実、実際に水平であれ垂直であれ国際分業が成立すれば、そこにはもはや自由はない、というポジションの固定化並びに体制の拘束性の問題です。比較優位を原則とする国際貿易体制が成立した時点で、各国は、‘資源の効率的配分’を基準として自らに割り振られた生産品に特化して製造を行なう国へと移行し、この固定化された体制から抜け出せなくなるのです。この側面は、第一点として述べた競争の消滅とも関連するのですが、自由貿易主義あるいはグローバリズムの未来は、国境を越えて物品が自由に取引される軽やかな空間ではなく、むしろ諦観が漂う陰鬱とした管理貿易体制に近い姿なのかもしれません。自由貿易主義にも、いつの間にか目指す方向とは逆となってしまう‘メビウスの輪’が伺えるのです。

 今日、新自由主義が多くの人々から忌み嫌われるのも、自由貿易主義の矛盾点を顧みることなく、この自由放任主義的な論理を国内市場の原理原則として持ち込み、押し通そうとしたからとも言えましょう。世界経済フォーラムに代表されるグローバリストが言う自由とは、自らの無制限な自由なのです。グローバルレベルであれ、国内レベルであれ、自由放任を是認する自由主義についてはその欺瞞性を認識し、日本国政府をはじめ各国政府とも、企業を含む国民経済の自立性(自由)の相互尊重という意味において、真に‘自由’が尊重される国際体制の構築を急ぐべきではないかと思うのです。

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「資産運用特区」は現代の租界地?-止まらない岸田首相の日本植民地化

2023年09月22日 09時34分12秒 | 国際経済
 報道に依りますと、日本国の岸田文雄首相は、アメリカを訪問中の9月21日に「ニューヨーク経済クラブ」にて講演し、「資産運用特区」の創設案を公表したそうです。同特区を設置する目的は、国民の資産形成の促進と説明されているのですが、この説明、本当なのでしょうか。

 「資産運用特区」が特区と表現される理由は、他の特区と同様に日本国の国内法の適用が緩和されたり、優遇措置等が設けられることに依ります。いわば、特権を与えられた特別地区となるのですが、今般の「資産運用特区」についても、海外の優秀なファンドマネージャーを招くために「英語のみで行政対応が完結できるよう規制改革し、ビジネス環境や生活環境の整備を重点的に進める」としています。英語対応の対象がビジネスや生活環境にまで広く及びますので、日本国内に英語が事実上の公用語扱いとなる外国人の居住空間が出現することとなりましょう。「資産運用特区」は、いわば現代の租界地と言っても過言ではないのです。日本国内にあっては、金融機関の本店は首都に集中していますので、「資産運用特区」候補の最有力地は東京となりましょう。

 岸田首相は、2022年に策定した「資産所得倍増プラン」で掲げた貯蓄から投資への流れにあって、「資産運用特区」は、日本国民の資産形成に資するとしています。しかしながら、同特区を公表した場所が、日本国内ではなく、グローバル金融の中心地とも言えるニューヨークであり、しかも、「ニューヨーク経済クラブ」の会長はNY連銀のジョン・ウィリアムズ総裁というのですから、首相の説明は怪しいものです。消費税率上げの前例もあるように、日本国の重要な政策が海外にあって、あたかも‘国際公約’の如くに公表されることが少なくありません。‘国民の資産形成促進’も日本向けの説明であって、真の目的は、同クラブに参集した世界屈指の金融ファンドや投資家達を前にして、ビジネスチャンスを提供しようとしたのかもしれません。国民のための政策であれば、国会や首相会見の形で公表するでしょうから、その実像は、日本国民の資産を投資資金としてグローバル金融に捧げるための、抜本的な環境整備であったかもしれないのです。

 同特区新設の目的がグローバル金融への奉仕であるとしますと、事実上の‘租界地化’の意図も見えてきます。岸田首相の説明では、海外の優秀なファンドマネージャーの活動を支えるためとしていますが、極めて少数、おそらく一桁か二桁ぐらいの数となる外国人ファンドマネージャーのために英語を事実上の公用語とする特区を設けることは、費用対効果からしますとあり得ないことです。家族の帯同をも考慮しますと、警察署や交番並びに消防署等を含む行政機関のみならず、交通機関、病院、学校、図書館、美術館等の公共施設でも英語対応が迫られ、その費用は膨大となりましょう。しかも、その全費用は、日本国民が納税という形で負担するのです。

 となりますと、特区における英語の準公用語化は、外国人ファンドマネージャー向けなのではなく、より広い範囲の海外ファンドの呼び込み政策であるとも解されます。‘外国人ファンドマネージャー’と説明すれば、雇用者として日本国の金融機関が想定され、国内金融市場の開放策という色合いが薄まります。競合関係となる国内金融機関やファンドをはじめとする警戒論も抑えることができますので、敢えて‘外国人ファンドマネージャー対策’を表向きの口実としたのでしょう。「資産運用特区」では、有利な条件の下で海外ファンドや投資家がビジネスを展開できますので、‘海外から投資を呼び込む’という名目で日本の資産を売却されると同時に、国内からの資金流出は加速されることでしょう。実際に、首相は、報道での華々しい特区案の陰で、金融市場における新規参入を促すとも述べています。

 日本国内では早期の首相退陣を望む国民の声が高まっていますが、岸田首相の支持率低下の最大の原因は、露骨なまでの海外重視・国内軽視の姿勢にあるように思えます。特区の新設に留まらず、「ニューヨーク経済クラブ」では様々な施策を公表しており、その中には、「投資家の意見を政策に反映させるため、日米を主体とした「資産運用フォーラム」を立ち上げる」というものもあります。そして、首相による海外優遇政策が世界権力への奉仕に対する見返りとしての首相の座の維持であるならば、国を売り渡した政治家として、日本国の歴史に悪名を残すのではないかと思うのです。

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グローバリストの‘つまらない世界観’

2023年06月22日 12時57分23秒 | 国際経済
 最近、web記事において田中真紀子氏の発言に「人間には、敵か、家族か、使用人の三種類しかいない」とする言葉があることを知りました。政治家一族の立場からの人間観であるため、多くの人々が共感を寄せるとは思えないのですが、この言葉、今日の世界経済フォーラムに集うグローバリストの世界観を理解する上では大いに役立つように思えます。

 田中角栄氏が政界で活躍していた70年代頃にあっては、今日よりも政治家=支配者とする概念が強く残っていたことでしょう。民主主義という価値観が国民に広く浸透しながらも、真紀子氏にも、政治家は一般国民とは違う特別の存在であるとする意識が染みついていたとしても不思議ではありません。なお、同氏に代表される政治家の特権意識、あるいは、支配者意識は、日本国にあってなおも世襲議員の比率が高い要因の一つとも言えましょう。

 他者とは一線を画する立場として生まれた人々は、自ずとその育った特別の環境によって他者を見る目も違ってくる傾向にあります。同等の者は、地位や権力、あるいは、富を脅かすライバルであり、‘敵’として認識されます。その一方で、身内である家族は、自らの富や権力を私的に独占するための特別な存在です。そして、他の大多数の人々に対しては、常に一般社会から離れた一段上がったところから、自らのへの奉仕者として位置づけているのです。それ故に、田中氏の分類には、隣人や友達、仲間と言った対等で相互尊重的な関係を表す人間のカテゴリーが抜け落ちているのでしょう。他者とは、邪魔な存在として排除すべき敵か、特権の共有者として護るべき家族か、あるいは、自らの命に忠実に従うべき使用人の三種類しかいないのです(為政者にとりましては、国民は‘使用人’のカテゴリーに・・・)。

 これらの三つのカテゴリーには、徹底した自己中心主義という共通点を見出すことができます。否、政治家一族という極めて狭い世界に生きているために、他の類型の人間、即ち、対等な立場にある人々がいることすら、気が付いていないのかもしれません。実際に、自らの周囲にはこれらの三種類の人間しかいないのですから。

 こうした人間観は、古今東西を問わず、政治家や王侯貴族と言った主として為政者に見られる傾向でもあったのですが、今日ではマネー・パワーを牛耳る人々の精神性にも観察されるように思えます。グローバリズムに伴う格差問題としても指摘されているように、全世界の富と権力がごく一部の血族集団に集中し、各国の政治権力を裏から操っているからです。そして、家族以外の他者を‘敵’か‘使用人’とみなす人間観は、そのまま世界観にも投影されているのであり、世界経済フォーラムの方向性やそれに従う各国政府の動きも、これらの人々を除く大多数の人類が、‘敵’か‘使用人’と見なされている現実を見せつけているのです。

 例えば、日本国政府は、岸田首相の言動が示すように、グローバリストの‘使用人’に成り下がっています。また、健康被害を無視した情報統制を伴うワクチン接種の推進やジョブ型雇用の導入促進、あるいは、国民に対するデジタル管理の強化などをはじめ、日本国政府の政策を見ても、世界権力にとりまして、日本国民は、滅ぼすべき‘敵’、あるいは、敵認定をした上での支配や搾取の対象に過ぎないことが分かります(‘移民政策’でも、‘使用人’の帯同を想定した外国人の滞在に関する規制緩和が行なわれている・・・)。

 世界権力の支配力が各国に及びながらも、グローバリストの人間観も世界観も、彼らが身を置いている極めて少数のグループの間でしか通用しない特殊なものです。今日、地球上に生きる人類の大多数の人々は、民主主義、自由、法の支配、平等・公正並びに平和といった諸価値を認め、かつ、尊重しています。これらの諸価値は、個々の人格の間の対等性や自己決定権の尊重なくして実現しませんし、現代国家にあっては、統治の正当性をも支えてきました。一方、自らをヒエラルヒーの頂点に座す支配者であると一方的に主張する今日のグローバリストの世界観は、これらの諸価値とは真逆です。このため、他の大多数の人々は、世界権力の世界観によって、‘敵’として攻撃を受けるか、あるいは、‘使用人’として酷使にされてしまうリスクを内包する危険思想として認定せざるを得なくなるのです。世界支配を主張する人々は、常識を備えた一般の人々の目には根拠のない自己全能感に囚われた‘狂人’にしか映らないことでしょう。

 こうしたグローバリストの選民的な世界観が多くの人々から支持されるはずもなく、このため、自らの世界観を受け入れさるための誘導作戦として巨額のマネーをマスコミに投入されているのでしょう。例えば、テレビやアニメなどでは、一時期、執事やメイドを主人公とするストーリーが流行ったのですが、こうした奇妙な‘トレンド’も、‘使用人’という存在を受け入れさせるための策略であったのかもしれません。しかしながら、執事やメイド等は富裕層のみが家内で私的に雇用する限定的な職業ですので、否が応でも現実離れした違和感が漂ってしまうのです(双方が頭を下げる対等な日本式のお辞儀からコンスへの変化にも日本人使用人化の疑いが・・・)。

 世界権力が目指す世界とは、隣人も友達も仲間もいない‘つまらない世界’でもあります。因みに、アガサ・クリスティー原作のテレビ・ドラマ『名探偵ポアロ』は、脇役にもヘイスティング大尉やミス・レモンといった味のある人物が登場し、大時代的な雰囲気のある面白い作品であったのですが、新シリーズでは、執事のジョージにポアロの相棒役が移ってしまい、途端にどこか陰鬱でつまらない作品になってしまったのでした。

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‘資本主義対共産主義’という二頭作戦の罠―必要なのは新しい経済システム

2023年06月14日 12時21分04秒 | 国際経済
 第二次世界大戦後の国際社会では、アメリカを盟主とする自由主義陣営とソ連邦を中心とした社会・共産主義陣営が政治的に鋭く対峙する冷戦構造が成立しています。同対立の背景には、資本主義対共産主義のイデオロギー対立があったことは、否定のしようもありません。そして今日なおも、新冷戦という言葉が登場したように、共産党一党独裁体制を敷く中国がロシアをも凌ぐ軍事大国として台頭したため、資本主義対共産主義の対立構図が再生産されているのです。

 これまでの記事で述べてきたように、資本主義には企業の自由が保障されず、株主の権利が企業の主体性を侵害しています。主体性なき自由はないからです。また、経営と組織内に働く人々との間に分断があり、このため、利益配分においても後者は不利な立場に置かれます。19世紀や20世紀初頭にあっては、カール・マルクスが唱えた資本家による労働者の‘搾取’あるいは‘過酷な労働’も、誰もが目にする日常的な光景であったのでしょう。資本家が肥え太る一方で貧困に喘ぐ労働者という構図が、マジョリティーとなる労働者の間に共産主義者が広げたと言っても過言ではありません(プロレタリア文学等が資本家の無慈悲さを強調し、マイナス・イメージがさらに増幅・・・)。その一方で、共産主義の活動家の人々は、労働者を資本家から解放し、資本主義に替わるのは、唯一共産主義しかないとするイメージを吹き込んだのでしょう。かくして資本主義の貪欲な悪辣さを嫌悪し、義憤にかられた知識人や若者達の多くも、共産主義に惹きつけられていったのです。

 しかしながら、今になりまして冷静に両者の対立を見直してみますと、資本主義と共産主義は、世界権力による二頭作戦であった可能性は否定し得ないように思えます。何故ならば、両者とも、行き着く先は個人であれ、組織であれ、他者への‘隷従’であるからです。資本主義では、政治権力をもマネー・パワーで掌握し得る極一部の富裕者が個人や企業を支配する一方で、共産主義では、これもまた極一部の共産党幹部が権力も富も独占します。

後者の方が、プロレタリア独裁というイデオロギー上の根拠がありますので、強固な独占体制が成立しますが、資本主義にあっても、競争法が存在しながらも十分に機能しているわけではありません。株式取得による企業買収は、かろうじて自立性を保ってきた企業の数を徐々に減らしてゆきます。中小の商店の多くも大手の傘下となりチェーン店化し、全国どこでも町並に変わり映えがしなくなりました。また、近年では、IT大手による独占や寡占が情報並びにそれに基づく経済支配の問題として問題視されています。政財界共にイノヴェーションの担い手としてスタートアップを奨励していますが、その多くは時を経ずして大手に吸収されてしまうか、特定の‘株主’の収益源とされるのです(例えば、チャットGPTを開発したオープンAIの大株主はマイクロ・ソフト社・・・)。

 資本主義と共産主義双方の共通性に鑑みますと、一般の人々は、どちらを選択したとしても結局は地獄を見ることとなります。加えて、民主主義国家では、‘入れ子’の如く、国家の内部にあって保守対革新の対立構図が意図的に造られ、二項対立による国民の追い込みが図られていたとも推測されるのです。

 上述したように、近現代の経済構造が、世界権力による資本主義と共産主義の両者を操る挟み撃ち作戦であったとしますと、人類は、何れをも選択してはならず、新たな道を探るべきと言うことになりましょう。そして、新たなる経済システムでは、企業形態にも多様性が認められると共に、企業間の関係については、資本を介した支配・被支配の関係ではなく、自発的かつ並列的な協力関係を原則とし(契約の自由の徹底・・・)、世界権力による人類支配やデジタル全体主義に奉仕するような特定の分野を偏重するのではなく、様々な分野が調和的に発展しつつ、個々人や各企業の自立性が尊重される体制が望ましいこととなります。このために、例えば株主の権利を融資者としての利益に預かる程度に縮小したり、株式を社債化すといった方法などもありましょう。そして、各国の政府には、世界権力の‘使用人’となるのではなく、私的マネー・パワーの横暴を制御する役割を担わせるべきではないかと思うのです。今日、日本国民のみならず人類が必要としているのは‘新しい資本主義’でも’グレート・リセット’でもなく、‘新しい経済システム’なのではないでしょうか。

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日本政府の円買いドル売り介入の意図とは?

2022年09月23日 10時29分17秒 | 国際経済
 昨日、9月22日、日本政府は、一向に歯止めがかからない円安傾向を止めるために、外国為替市場において24年ぶりに円買いドル売り介入を実施しました。円安が物価高の一因となっているだけに支持する声も聞かれます。しかしながら、この介入、手放しに歓迎できるのかと申しますと、いささか慎重に見る必要があるように思えます。

 政府は、今般の市場介入の理由について投機による急激な円安に対抗するため、と述べています。この説明に従えば、現在の円安は、投機筋による積極的な円売りドル買いに主要な原因があることとなります。その一方で、円安傾向が止まらない理由は、日米間の金利差にあるとする有力な指摘があります。アメリカのFRBは、物価上昇を抑えるという名目でゼロ金利政策から脱却し、相次いで利上げを実施しています。日本政府の介入も、FRBが075%のさらなる利上げを発表した直後であり、このタイミングもこの説を裏付けているようにも思えます。3ヶ月の間で3%以上となるFRBの利上げは、そのまま日米金利差の拡大となりますので、円安の加速化と軌を一にしているのです。

日米金利差によるマネーの流れ、即ち、円を売ってドルで運用して3%以上の利ざやを得る戦略は、必ずしも投機家に限ったことではなく、一般の金融機関でも行なわれています。金利差主因説が正しければ、円安の是正には、むしろ日銀による利上げの方が効果的であるかもしれません。日米金利差が開くほどに、円売りが加速されて円の相場が下落してしまうからです。

このことは、日米金利差が長期化する場合、日本政府による介入効果は一時的なものに過ぎず、長期的な流れを変えることはできないことを意味します。言い換えますと、日本政府は、円安介入を繰り返すたびに積み上げてきた外貨準備を吐き出さなければならず、仮に、米ドル外貨が枯渇するまで継続するならば、より緩慢ではあれ、1992年のポンド危機と同様の事態に直面するリスクもありましょう。かの悪名高きジョージ・ソロス氏であれば、このチャンスの到来を虎視眈々と狙っているようにも思えます。ポンド危機から30年を経た今日にあって円危機が起きれば、今度は、イングランド銀行ならぬ「日本銀行を潰した男」と呼ばれるかもしれません。

以上に金利差主因説に沿って述べてきましたが、それでは、日本政府が説明するように、投機が主たる要因と言うこともあり得るのでしょうか。日米金利差による長期的な流れが円安に振れている限り、それを見越した資産家やヘッジファンド等が投機的な行動に出てもおかしくはありません。否、既に上述した‘円の売り浴びせ’を仕掛けている可能性もありましょう。となりますと、日本国は、既に通貨危機の淵に立たされていることとなります。

 その一方で、もう一つ考えられるのは、日本国政府が、政府介入はないとみて投機に走る投機筋の利潤獲得のチャンスを意表を突く形で阻止したというものです。先物の金融取引では、契約日から1ヶ月や半年後といった、ある一時点における相場に基づいて決済されます。この一時点の相場こそ重要なのですが、決済時の相場を政府が市場介入によって操作することができれば、投機筋の目論見を意図的に外すことができます。今回の介入は、将来的な円安の更なる亢進を見越して先物取引やヘッジ取引を行なった投資家やファンドに対して、日本国政府が、‘日本円を投機の対象にはさせない’という意思表示の意味を込めて敢えて損失を被らせる、あるいは、利益幅を縮小させたことになります(過去にも、財務省には投機筋を唖然とさせた伝説的な人物がいたとも・・・)。投機主因説が正しければ、今般の介入は円安を利用した投機が利益にならない前例となり、投機筋の動きを牽制したことにもなりましょう。仮にこの説が正しければ、今後は、円相場の下落は鈍化するかもしれません。

以上に金利差主因説と投機主因説の両者について述べてきましたが、魑魅魍魎も徘徊する金融界のことですから、別の思惑も絡んでいるのかもしれません。あるいは、これらの要因が複合的に作用した結果、あるいは、相乗効果とも考えられましょう。何れにしましても、今般の政府介入については、通貨危機を招くリスクも認識されるだけに、複雑かつ連鎖的な波及効果をも考慮しつつ、より掘り下げた多面的な考察や分析が必要なように思えます。そして、常々、海外の金融財閥勢力の顔色を伺っている岸田政権が、ゆめゆめ同勢力に利益を提供するために市場介入したのではないことを願うばかりなのです。

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