花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「今村 均 大将に見る指導者の条件」

2011年02月11日 10時11分21秒 | インドネシア

旧日本軍については、占領地域での圧政が話題になりますが、私が駐在していた

インドネシアでは、東南アジアの他の地域などとは違い、現地住民重視の軍政が敷か

れました。 


「陸軍大将 今村均 ― 人間愛を持って統率した将軍の生涯 ― 」

(秋永芳郎著:光人社NF文庫)


私はこの本をインドネシア駐在員時代に読み、深い遺憾名を受けましたが、NHKの

「ゲゲゲの女房」で水木しげる氏のラバウル時代も触れていたことなどもきっかけに

なり、今村将軍がラバウルの軍司令官だったことを思い出して、読み返してみました。


上記本によると、ジャカルタ(第16軍、昭和17年3月1日上陸)やラバウル(第8方面軍、

昭和17年11月8日付)司令官時代には部下に慕われ、囚われたオーストラリア軍からも

畏敬の念を持って遇せられた今村将軍の軍政の方針が住民の重視によるものだったこと

が分かります。ジャカルタでの司令官時代には、スカルノやハッタなど、独立運動の

中心人物となるインドネシア人からも厚い信頼を得ていますし、ラバウル時代には、

制空権のない中で、7万人とも言われている将兵を飢えさせないために食料自給をおこ

なうなど、先見性のある傑出した人物でした。 


今村将軍は、陸軍大学 第27 期を首席で卒業(同期の東条英機は11番)しています。

ぬきんでた秀才でありながら、それをおくびにも出さず温厚なタイプだったようです。

今村司令官はジャカルタ在任わずか10カ月で、新設の第8方面軍司令官としてラバウル

に転出しますので、今村均という名前は、スカルノなど直接接触した一部の人を除き、

インドネシアの人々の中には深く刻まれなかったものと思われます。


なお、ジャカルタ海軍武官府の前田精少将は、第16軍のジャカルタ進出時から終戦ま

でジャカルタで活躍した上に、1945年8月15~17日にインドネシア独立宣言の起草が

前田邸で行われたこともあり、独立に寄与した日本人としてインドネシア人に広く知

られています。(旧前田邸は今も独立宣言文起草博物館として公開されています。

私も数回見学しました。)



今村将軍のジャカルタ時代の軍政とラバウルでの食糧自給について上記書物から引用

してみます。 


≪ジャカルタでの軍政関連≫

(P62~P63)

「今村は決意を述べた。 

『・・・ 八紘一宇というのが同一家族同胞主義であるのに、なにか侵略主義のように

観念されているのは遺憾である。一方的に武力を持っている軍は、必要が発生すれば

いつでも弾圧を加えることが出来る。だから、出来る限り緩和政策を持って、軍政を

実施することにする。』

 同じ占領地域であるマレーシアやシンガポールでは、軍政が厳しく、共産党員狩りと

称して行われた1万人にのぼる華僑の無差別虐待事件なども発生しており、それから見

れば、まさにジャワは天国であった。

今村は、『シンガポールでは、排日運動に徹底した幾千人の華僑が対象だったから、

弾圧政策も必要であったのでしょう。しかし、ジャワではその必要はありません。上陸

して以来、インドネシア民族は、我々を同種族の同胞と信じ、大きな好意を持って協力

してくれたのです。軍の勝利は半ば彼らの協力のたまものです。』


(P68~P69)

「今村はスカルノに言った。 

『私は、どこまでも民生の実は原住民官公吏を通じてやっていくつもりでいますので、

なるべく早く県長以下それらの人をもって当て、やがて州の政治にも当たり得る人材が

輩出したら、逐次日本人と入れ替えることを考えています。だから、あなたの手で人材

を探してください。』

スカルノの表情が変わった。目はギラギラと輝き、口もとには頬笑みがあった。

『閣下、それは本当でございますか。原住民を官吏に登用してくだされば、インドネシ

ア人民の日本に対する信用はますます深まりましょう。原住民にも有能な人物はたくさ

んおります。人選はどうかおまかせください。 』  」



≪ラバウルでの食糧自給関連≫

(P158~P159)

今村は昭和18年2月13日、第8方面軍司令部の参謀及び各部長を集め、つぎのように司令

した。

『 (中略) 諸君も承知のように、中央は方面軍に対し、ガ島奪回攻撃の中止を命ずる

と同時に、ラバウルを中心としニューギニアにわたる地域の要点を確保し、連合軍の

北進を阻止する新任務を課してきた。彼我の空中戦や毎日の敵機の猛爆撃を見ている

諸君は、もはや制空権は敵の方に傾きかけていることを自覚されているだろう。だから、

早晩、祖国からの輸送船が軍需品を運んでくることは、出来なくなると覚悟すべきだ。

そうなってもわれわれは、任務を完遂しなければならない。それで、経理部は食糧、

獣医部は馬糧と蹄鉄、軍医部は薬と治療資材、兵器部は武器弾薬の現地補給を分担し、

各部の全員総出で入念に現地を偵察し、実行可能の具体案を作成の上、参謀長を経由し、

私に提出してもらいたい。 参謀部はなるべくすみやかに、防御陣地と農耕地域の調整、

各兵団にたいする現地自活命令起案、軍内部業務の横の連携などを計画の上、私に提出

してもらいたい。 各部の計画は、本日から1カ月以内に完成し、すぐ着手することが

できるような処理を研究しておくことを指令する。 』



ラバウルでの食糧自給活動については、当時経理部員だった 竹内藤男(後に参議院

議員、茨城県知事)が手記の中で次のように記しています。


≪竹内藤男:回想の50年「ラバウルの現地自活(追加版)」を編集≫

『 私は昭和18年1月陸軍経理学校を卒業し、直ちにラバウルの第8方面軍経理部に転属

を命ぜられました。私の任務は今村方面軍司令官の「現地自活に関する作戦命令」の

趣旨徹底とその完全な遂行でありました。 

自活作戦命令では、兵の生活は訓練3、築城(ラバウルの要塞化―横穴の壕を掘る)3、

現地自活3、と命令され、それぞれの部隊の現地自活計画が立案されました。

現地自活計画は、

1、給養人員は、陸海合わせて合計10万人とする。

2、主食は甘藷の栽培により、副食は養鶏と野菜栽培により、調味品は海水よりから採
 
  る塩と椰子の実から採る油を以って充足する。

3、開墾面積は一人当たり主食のために60坪、野菜のため15坪、総面積1500町歩を目

  標とする。

4、軍の直営農場として6ケ所 合計900町歩。

5、指導機関として、軍経理部内に「現地自活班」を特設する。

というものでした。


陸軍10万と言われた(実際は7~8万くらい)兵隊が餓死しないで、質はともかく量におい

て欠乏状態におちいらなかったのは、ガダルカナル島(餓島)の戦訓を骨身にしみて感

じて行ったからであります。

陸海の兵隊が戦争終結後貨物船でラバウルから私の上陸した名古屋港までほぼ100%全員

無事に帰ってくることが出来たのです。戦後の話で今村大将の傍らには、聖書が置かれ

ていたという話でしたが、若い頃、おそらく第一次世界大戦の時、英国で駐在武官を

やっておられたということでしたが、文武両道の名将だったと思います。 』



今村司令官については、自分は日本に帰国していながら部下が戦犯としてパプア・

ニューギニアのマヌス島に収容され、虐待されていると聞き、自分も戦犯としてマヌス

島に収容されるよう懇願し、実際に収容所に行ったことなどをはじめ、部下思いの

人間味あふれる人物として評価が確立しています。 私は今村司令官の命令した

ラバウル自活計画の周到さにびっくりしています。 自分の置かれている環境を的確に

分析して、これから、部下(各部)のなすべき業務内容の明確化、報告のルート、報告

の期限と実行時期の明示、さらに、各部の横の連携と各部業務の調整部門の明示、など。


このような的確な命令を組織トップが打ち出せば、部下は信頼してついていくと思いま

す。 


今の日本の国家組織、各種の団体などのリーダー最も必要とされていることではな

いでしょうか。 今村司令官は、人徳の面のみならず、組織を率いる先見性と緻密性

をも合わせ持った稀にみる人物(名将)だったと思われます。



ラバウルから日本への帰還者は陸海合わせて82,000人と記録されています。 帰還者が

ラバウル港を出港するとき、甲板の上で一斉にラバウル小唄を歌ったとの報告もありま

す。

ラバウル小唄は、昭和17~18年ごろから将兵の間で歌われたらしいのですが、元歌は

「南洋航路」(昭和15年)で、ラバウルの第38師団 第229連隊の中隊長の 佐竹中尉 

が作ったとも言われていますが、定かではありません。 第229連隊と言えば、かの

水木しげる氏が所属していた部隊です。(水木しげる氏は、第38軍第229連隊の補充兵

として、信濃丸で昭和18年10月にラバウル海岸のココポ地域に到着)



「南洋航路」(昭和15年)           
    
作詞:若杉勇三郎

作曲:島口駒夫

歌 :新田八郎

1、赤い夕陽が 波間に沈む

  涯は何処か 水平線よ

  今日も遥々 南洋航路

  男船乗り  鴎鳥


2、波の響きで 眠れぬ夜は

  語り明かそよ 甲板(デッキ)の上で

  星が輝く  あの星みれば

  くわえ煙草が 目にしみる


3、流石男と あの娘が言うた

  燃ゆる命を マストにまかせ

  揺れる心に 憧れ遥か

  明日は赤道 椰子の島



「ラバウル小唄」 (昭和19年)

作詞:若杉勇三郎

作曲:島口駒夫

唄 :浪岡惣一郎

1、さらばラバウル また来るまでは

  しばし別れの 涙がにじむ
  
  恋しなつかし あの島見れば
  
  椰子の葉かげに 十字星


2、船は出ていく 港の沖へ

  愛しあの娘の うちふるハンカチ

  声をしのんで 心で泣いて

  両手合わせて ありがとう


3、波のしぶきで 眠れぬ夜は

   語りあかそよ デッキの上で

   星がまたたく あの空見れば

   くわえ煙草も ほろにがい


4、赤い夕陽が 波間に沈む

   果は何処ぞ 水平線よ

   今日も遥々 南洋航路

   男船乗り  かもめ鳥


5、流石男と あの娘がいうた

   燃ゆる想いを マストにまかせ

   ゆれる心は 憧れはるか

   今日は赤道 椰子の島
    


「陸軍大将 今村 均」((秋永芳郎著:光人社NF文庫)






「(回想)竹内藤男:回想の50年「ラバウルの現地自活(追加版)」






(2011年2月11日  ☆きらきら星☆)


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