蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

池之端 旧岩崎邸(和館)

2007-03-22 22:17:58 | 古民家、庭園
岩崎邸和館は、洋館と同時期(明治29年、1896年)に建てられた。竣工当時は建坪500坪を越える規模であったのだが、ほとんどは失われ広間とそれに付属する部分のみが残されている。
1896年の竣工というのも、なかなか意味の有りそうな年代である。岩崎家は明治期の動乱で巨万の富を得たのだそうだが、それが収まると海運と商事を中心に事業を展開した。海運に関しては、三井等との価格競争に陥るという事態にもなり、岩崎財閥の独占事業とはならなかったようだが、日本郵船を通じて、経営の実態を支配していたようだ。
しかし、二代目岩崎家弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそいだとある。弥之助の次の三代目久弥が建てたのが、この岩崎邸である。
こちらが竣工した1896年というのは、鉄道史上かなり画期的な時期に当たる。それは、信越線経由で、関東と北陸の日本海沿いが結ばれた時期に当たる。1885年の高崎ー横川間の開業に続き、続々と鉄道工事が進められたのである。それには、二つの難所工事も含まれていた。1888年関山ー長野間開通。このために、妙高田切りの橋梁工事が必要だったはずだ。また、柏原ー長野間は、江戸時代に一般的だった飯山越えのルートではなく、北国街道沿いのルートが使われている。
もう一つの難所は、有名な碓氷峠越え。1893年、この区間の開通をもって全線開通した。
それを背景にしての、1896年竣工である。基幹事業を、今後は廃れていくであろう水運から多方面に展開し、ますます発展するであろう陸上輸送に向けての体制が整っての、屋敷の普請ではなかったのだろうか。


岩崎邸和館は、なによりそこで使われている部材の質が高い。継ぎ目、節目、まるで見られない。天井と突き当たり窓に見られるのは初期の三菱の紋からとったモチーフ。天井の梁でさえもが、一木を切り出したもの。


天井は、おそろしく高い。確かに格を高く見せるが、明治初期にアメリカに留学した久弥が、外国人をもてなすのに、必要だと感じたのだろうか?


広間から縁側に出る。灯篭は大分古いものらしい。かなり尋常ならぬ気配を感じる。


広間のちがい棚。めずらしく、二面である。多少の手垢(それも価値ありか)もみられるが、床柱の端正なこと。


広間の欄間。岩崎家の紋をモチーフに。天井に使われているのは、90cmの杉板。節目など、どこにも見当たらない。
憶測にすぎないのだが、鉄道開通によりそれ以前には決して入手できなかったような部材が急に手に入るようになった、という事情はないのだろうか。そして、それはヌケめのない財閥により、急激に使い尽くされ、明治の一時期にしか入手できなかったという、可能性も考えられる。
そういえば、部材の質を物理的にとらえ、日本全国の指折りを集めるというのは、山口県防府の「毛利邸」でも見た覚えがある。


広間から、縁側の靴脱ぎ石の方角をみる。岩崎の総帥は、この位置に座り、何を想っていたのだろうか。



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