等々力と書いて「とどりき」と読む。元々は武田氏に仕えた地方武士であり、江戸期には帰農した。
この近くには松本藩の狩猟場があり、等々力家は野行きの際の休息所として使われた。
藩主は籠で庭の中にある式台まで入り、そこから家へ上がったという。
屋敷の脇にある庭園の門は、庭園の内部に植えられている松が横方向に大きく伸びて、すっかり覆われるような状態である。
松の先には、百日紅の古木。枝と枝が繋がってしまっている。
奥座敷の前には見事な枝振りの松。これは、小振りにまとめられている。
それらの格の高い庭木の足下に池が細長く配置されている。
屋敷も庭も、町家のように間口が比較的狭く、奥行きが深い。そのため、一目で庭全体を把握できるようなポイントは用意されていない。しかし、奥へと移動しながら次々と変化する庭の様相を楽しむ事ができる。
この庭園は18世紀後半の作庭とされる。奥手に長く、間口方向が比較的狭いのは、この地域の庭園に共通する造りのようである。
表の長屋門の柱には、明治初期の米騒動の時の刀傷が今も残されている。しかし、この館はこの傷だけで済んで幸運だったと言える。北信地区の館は、その騒動により全て消失してしまったのだから。
この近くには松本藩の狩猟場があり、等々力家は野行きの際の休息所として使われた。
藩主は籠で庭の中にある式台まで入り、そこから家へ上がったという。
屋敷の脇にある庭園の門は、庭園の内部に植えられている松が横方向に大きく伸びて、すっかり覆われるような状態である。
松の先には、百日紅の古木。枝と枝が繋がってしまっている。
奥座敷の前には見事な枝振りの松。これは、小振りにまとめられている。
それらの格の高い庭木の足下に池が細長く配置されている。
屋敷も庭も、町家のように間口が比較的狭く、奥行きが深い。そのため、一目で庭全体を把握できるようなポイントは用意されていない。しかし、奥へと移動しながら次々と変化する庭の様相を楽しむ事ができる。
この庭園は18世紀後半の作庭とされる。奥手に長く、間口方向が比較的狭いのは、この地域の庭園に共通する造りのようである。
表の長屋門の柱には、明治初期の米騒動の時の刀傷が今も残されている。しかし、この館はこの傷だけで済んで幸運だったと言える。北信地区の館は、その騒動により全て消失してしまったのだから。
それほど問題があるようには思われないかもしれませんが、
実際に訪れてみると、
建物も庭園も、
この辺で本格的な修復を施した方がいいかなあ、
と、昨年訪れたとき思いました。
行政の支援なくしてなりえませんが、
何らかの手は打つべきでしょう。
江戸の中期の作庭に特別な事なのか
どうか、は分かりませんが、松の枝を一方向にだけ伸ばしてしまうとか、枝と枝をきつく結びつけ、その結果として同化させてしまうとか、非常に高度の技術を使った庭のように感じました。しかし、そういう無理をさせた分だけ、普段から厚い手入れが必要だろうとは思うのですが。
行政も含めて、それだけの手をかける価値のある庭だと思います。