開創は16世紀のごく初期、室町中期である。江戸中期には雲水が50名程もいる、大きな曹洞宗の禅寺として栄えた。しかし、1868の秩父戦争そのほとんどを消失した。
現在の建物はほとんどが昭和9年以降に再建されたものである。
伽藍は燃え落ちたとはいえ、能仁寺庭園の石組みまでは失われていなかった。
しかし、庭園が再建されたのは昭和9年以降の事だと思われる。
本堂北側の廊下から眺める庭園は、現在では天覧山のかなり上の方までよく手入れされ、京都の寺に来てしまったかと思わさせる静寂が感じられた。
この庭の一つの中心となるのは、天覧山の斜面の途中にある仏像のような先の尖った石組みから発して、池の際の洞窟へと流れる枯れ滝だろう。
石組みは、新緑の中に隠れるように立つが、周囲の樹を刈り込んでもう少し目立つようにしてやると良いように思う。石組みを見守るように、更に高い位置に五重塔が建つ。
洞窟の隣の、枯れ滝が池に流れ込む滝口のあたりにも、なかなかの石組みが見られる。
この庭のもう一つの中心は、亀島に鶴だろう。
亀島は簡単に見つかるが。鶴の役はもしかして亀島の脇の松の木が担っているのだろうか。
亀島の脇を、大きな鯉がゆったりと泳ぐ。
本堂裏の庭園だけではなく、書院周りの庭もなかなか楽しめる。
現在の建物はほとんどが昭和9年以降に再建されたものである。
伽藍は燃え落ちたとはいえ、能仁寺庭園の石組みまでは失われていなかった。
しかし、庭園が再建されたのは昭和9年以降の事だと思われる。
本堂北側の廊下から眺める庭園は、現在では天覧山のかなり上の方までよく手入れされ、京都の寺に来てしまったかと思わさせる静寂が感じられた。
この庭の一つの中心となるのは、天覧山の斜面の途中にある仏像のような先の尖った石組みから発して、池の際の洞窟へと流れる枯れ滝だろう。
石組みは、新緑の中に隠れるように立つが、周囲の樹を刈り込んでもう少し目立つようにしてやると良いように思う。石組みを見守るように、更に高い位置に五重塔が建つ。
洞窟の隣の、枯れ滝が池に流れ込む滝口のあたりにも、なかなかの石組みが見られる。
この庭のもう一つの中心は、亀島に鶴だろう。
亀島は簡単に見つかるが。鶴の役はもしかして亀島の脇の松の木が担っているのだろうか。
亀島の脇を、大きな鯉がゆったりと泳ぐ。
本堂裏の庭園だけではなく、書院周りの庭もなかなか楽しめる。
駆け上がる様などは
山麓であることを伺わせますね
こういう山寺的な庭園は
実は京都には少ない
有名な庭園は山麓が多いのですが
借景として利用するほうが一般的のようで
ここまで山麓山肌に接した庭園は少なく
滋賀県や奈良県にはこういう庭園が多いんです
確かに京都の街中の有名な寺庭は、大きな寺院の塔頭のさらに書院の北側の庭だったり、広がりのある空間を入れ込むには、規模が小さすぎますね。京都北部の寺では、山は借景として使われる方が多いですね。
滋賀県の湖の東方、それも福井との県境に近いあたりにこういう裏山までを寺庭として囲い込むお寺が多かったような記憶があります。