高風居には、松浦田武四郎が作った「一畳敷」(もともとは神田に建てられた)も組み込まれているが、全体の形は徳川頼倫が定めたようである。
若くして英国に留学した徳川頼倫は、英国留学以降、史跡保存に熱心で南葵文庫の建設なども行ったという。
茶庭は、やや異例に茶室前から枯山水の後ろは、どんどん急傾斜に下がってしまう。おそらく、茶室が造られた時代には、この林はよく整備されて、その先の見通しが借景として使われたのだろう。
こちらが、北海道の草分けとして有名な松浦田武四郎が作った一畳敷。作られたのは明治19年、徳川頼倫が注目する20年も前のことだ。日本中の有名な木材を集めている。写真に見える板敷の先に畳一畳があり、それだけで構成されるが本物だけを集めた贅沢な一畳なのだ。
高風居を含む泰山荘は、その後日産財閥の手に渡り、さらに中島飛行機の中島知久平の手に渡る。取ってつけたような細長い廊下が付け足されたのも、その頃のことであったのではないだろうか。
もともとの玄関から庭を見渡すと、とても落ち着きが良いように感じられる。おそらく、茶室自体はこの範囲までで想定されていたのだろう。
急傾斜の小道を登ると、せいせいとした高台に書院がある。
若くして英国に留学した徳川頼倫は、英国留学以降、史跡保存に熱心で南葵文庫の建設なども行ったという。
茶庭は、やや異例に茶室前から枯山水の後ろは、どんどん急傾斜に下がってしまう。おそらく、茶室が造られた時代には、この林はよく整備されて、その先の見通しが借景として使われたのだろう。
こちらが、北海道の草分けとして有名な松浦田武四郎が作った一畳敷。作られたのは明治19年、徳川頼倫が注目する20年も前のことだ。日本中の有名な木材を集めている。写真に見える板敷の先に畳一畳があり、それだけで構成されるが本物だけを集めた贅沢な一畳なのだ。
高風居を含む泰山荘は、その後日産財閥の手に渡り、さらに中島飛行機の中島知久平の手に渡る。取ってつけたような細長い廊下が付け足されたのも、その頃のことであったのではないだろうか。
もともとの玄関から庭を見渡すと、とても落ち着きが良いように感じられる。おそらく、茶室自体はこの範囲までで想定されていたのだろう。
急傾斜の小道を登ると、せいせいとした高台に書院がある。
こんな素敵な茶室が残されているんですか。
一般公開されているんですね。
お庭もそれなりの造作があるようで、
行ってみたいですね。
(場所は、これから調べてみます)
10月末から11月初めは東京文化財ウィークにとなり、特別公開なども行われます。
実はこの茶室や庭は、1年の内で2日間だけ公開されるのです。
それ以外は、国際基督教大学の事務方にお願いするか、大学の茶道部のつてをたどるくらいしか、この茶室を見るチャンスは無さそうです。