坂口謹一郎博士は、もともとは頚城村の庄屋の家系に生れ、その氏素性からも日本酒造りとは切っても切り離せない方のようだ。
その立場を更に固めるようにして、東京大学で応用微生物(ようするに醸造学)を究め、戦災で東京の家を焼け出されてからは、この地に居をかまえたそうだ。ただし、現在、記念館の一部の楽縫庵は、博士が実際に居住した建物ではなく、近くの庄屋格の建物を移築したのだそうだ。
ただ、庭だけは当時の趣を伝えているそうだ。頚城独特の平らな土地に、それなりに力のある石が配置されている。
それから、留春亭と名付けられた、質素ながら少しだけ茶室がかった小屋も、博士がこの地に住まわれた頃から姿が変わらないという。
坂口博士は少し前の研究者の姿を留める方のようで、和歌の道にもよく通じておられ、雪椿の愛好家でもあった。やはり、そもそもの御家柄が物をいったようにも感じられる。理系の研究者、に止まらないスケールを感じる。
その立場を更に固めるようにして、東京大学で応用微生物(ようするに醸造学)を究め、戦災で東京の家を焼け出されてからは、この地に居をかまえたそうだ。ただし、現在、記念館の一部の楽縫庵は、博士が実際に居住した建物ではなく、近くの庄屋格の建物を移築したのだそうだ。
ただ、庭だけは当時の趣を伝えているそうだ。頚城独特の平らな土地に、それなりに力のある石が配置されている。
それから、留春亭と名付けられた、質素ながら少しだけ茶室がかった小屋も、博士がこの地に住まわれた頃から姿が変わらないという。
坂口博士は少し前の研究者の姿を留める方のようで、和歌の道にもよく通じておられ、雪椿の愛好家でもあった。やはり、そもそもの御家柄が物をいったようにも感じられる。理系の研究者、に止まらないスケールを感じる。