マダムようの映画日記

毎日せっせと映画を見ているので、日記形式で記録していきたいと思います。ネタバレありです。コメントは事前承認が必要です。

ありがとう。あべちゃんー阿部登逝くー

2010-12-01 14:08:14 | Weblog

【訃報:阿部登さん 59歳=音楽プロデューサー /大阪

阿部登さん 59歳(あべ・のぼる=音楽プロデューサー)28日、肺炎のため死去。葬儀は30日午後1時、奈良県生駒市桜ケ丘2の46のセレミューズ瑞光。喪主は妻法子(のりこ)さん。

大阪府内で毎年5月に開催される野外コンサート「春一番」のプロデューサーを長年務めた。

毎日新聞 20101130日 地方版】

 

29日お通夜、30日お葬式、行ってきました。

両日とも、数えきれないほどのたくさんの弔問客が押し寄せ、あべちゃんの急逝を悼んでいました。

 

【東京で山下洋輔のマネージャーとして働いた後、大阪に戻り、大阪・なんば元町にあったコーヒーハウス「ディラン」(店主・大塚まさじ)を拠点に、福岡風太らとともに、1971年より開催の野外コンサート「春一番」、第2回より舞台監督、プロデューサーを務める。まもなく、大塚まさじらのザ・ディランIIのマネージメントを担当。

1974年にザ・ディランIIが解散後、1975年に北京一、チャールズ清水、永本忠、ベーカー・土居、石田長生、山岸潤史、砂川正和、国分照幸が結成したブルースバンド、ソー・バッド・レビューのマネージメントを担当。その後、西岡恭蔵、大塚まさじ、石田長生らとオレンジレコード(オレンジレーベル)設立。今日のインディーズレーベルの先駆けとなる。

大西ユカリらのマネージメントを担当し、20032月、大西のマネージメント全般を行う会社「株式会社ハッスル」を設立し、代表取締役社長に就任。コンサート・ライブの企画、制作などを続けた。毎年122日間の日程で開催される恒例の誕生会のライブには、金子マリ、宮里ひろしら多くのミュージシャンが駆けつけた。

2008年春、あべのぼるとマジックアニマルズとして、CDMagic ANIMALS」(アジアレコード)を発表。同年3月15日、ゴンチチがDJを務めるNHK−FMの音楽番組で収録曲が放送された。

2009年には名古屋での春一番応援ライブに出演するなど、春一番のプロモーションにも力を入れる傍ら、各地で豊田勇造、いとうたかお、光玄、AZUMIらと共演。

20101128日、肺炎のため死去。(ウィキペディアより)

 

私は、1970年代の喫茶「ディラン」の常連だった頃からの付き合いなので、長いなあ。

ディランのカウンターに一人で腰をかけていたら、あの早口で話しかけてくれるの。

早口すぎて、何言ってるかよくわからなかったけど。

 

さらに、奥さんのニマさんが、私の大学の後輩、同じゼミ出身ということもあって、親しくさせていただいていました。

 

ニマさんは特別ゆっくりしゃべる人で、特別早口のあべちゃんと、どうやって会話しているのか、私には謎でしたが、とうとう謎のままになってしまいました。

 

1984年に大きな交通事故で入院した時、頭のケガだったし、びっくりしたけど、より一層男前になって復活したから、あべちゃんは不死身だと思い込んでいました。

その時の傷、きれいになっていましたね。

 

もう一度、静脈瘤が破裂して大量に下血したときも、びっくりしてお見舞いに行きました。

これで、少しは健康に気をつけると思ったのに、病気は進行していたのですね。

 

毎年の「春一番コンサート」楽しみでした。

私は1973年から76年までの「春一番」を見に行きました。

1995年に大阪城野外音楽堂で復活して、次の年から服部緑地野外音楽堂に移ってからは、毎年出かけていきました。

 

あべちゃんと風太が作る「春一番」、大好きだった。

今年はあべちゃん率いる「Magic ANIMALS」が大トリでした。

 

 

リードボーカル阿部登。

 

 

来年もやるらしいけど、寂しいね。

 

今年の「祝春一番コンサート」で。舞台のソデで福岡風太とツーショット。

 

楽しそうやねえ。

 

1212日に予定されていた還暦ライブ、私も行こうと思って、ずっと前から楽しみにしていたのに。

でも、本人が一番残念でしょうね。

 

「春一番」であべちゃんに出会ったら、私はたいてい「今日ニマ来てる?」と聞きます。

あべちゃんはたいてい「どっか光ってるとこあるやろ、そこにいてるよ」って答えました。

私は、あべ夫妻って究極の純愛物語だと思っています。

二人は出会いから昨日のお別れまで、自分にない素敵なものを、お互いの中に見ていたんじゃないかなあって。

 

「大西ユカリと新世界」のヒットで忙しかった時は、「ニマさん寂しがっているから電話でもしたって」と言われたのに、私はしなかったなあ。

ごめんね。

 

一番最近に会った時は、「今、めちゃええねん。家はニマさんの家やろ、家族はニマさんの家族やろ」って言っていました。

財産だって、名声だって、なんにも持ちたがらなかったあべちゃんにぴったりの、理想のライフスタイルだったんだと、私は解釈しています。

 

お葬式の最後に、ニマさんが挨拶していました。

「私はいつも『みんなのあべやから』と言われていたけど、ほんまに『みんなのあべ』だった。こんなにたくさんの人に愛されて

みんな泣きました。

 

最後は拍手とアンコールの中、出棺しました。

 

あべちゃん、いい音楽って何か、たくさん教えてくれて、ありがとう。

私が天国へ行った時は、またあの早口で声かけてくれる?

近鉄電車の中で、突然会ったあの日のように、にっこり笑ってくれるかなあ。

 

 


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