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人のなきあと

 従兄弟が7月7日に亡くなった。2ヶ月ほど前に結婚式の記事を載せた、花嫁の父だ。その死について何も書くことは今はできない。葬儀を終えた今、己の心象を書き留めようと思ったのだが、気持ちがまとまらない。ただ、吉田兼好の「徒然草」の一節が頭について離れないので、書き留めておく。

 人 の亡き跡ばかり、悲しきはなし。
中陰のほど、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心あわたゝし。日数の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢げに物ひきしたゝめ、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。
 年月経ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
 思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ、古き墳は犂かれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。

(現代語訳)
 人 が死んだら、すごく悲しい。
 四十九日間、山小屋にこもって、不便で狭い所にたくさんの人がすし詰めにさせられて法事をすませていると、せかされている感じもしてしまう。その時間の過ぎていく早さといったら、言葉では表現できない。最後の四十九日目には、お互い気まずくなって口もきかなくなり、涼しい顔をして荷造りをすませ、蜘蛛の子を散らすように帰っていく。もとの家に帰ってからが、本当に悲しい気持ちになるってことが多いと思う。それでも、「今回はとんでもないことになった。ああ、不吉だ、いやだ。もう忘れてしまおう」なんて言っているのを聞いてしまうと、こんなばかばかしい世の中で、どうして「不吉」なんて言うのかなと思ってしまう。亡くなった人にたいして言葉をつつしんで、忘れようとするのは悲しいじゃないか。心の底から、下品だと思ってしまう。
 だんだん時間が過ぎていって、全く忘却をきめこむわけではないにしても「去っていった者は、だんだん煩わしくなるものだ」という古詩みたい忘れていく。口では「悲しい」とか「淋しい」とか何とでも言える。でも、死んだときほどは悲しくないはずだ。それでいて、どうでもいいことを呟きながらながら、にやにやしている。骨壷は、辺鄙なところに埋まっており、遺族は命日になると事務的にお参りをする。たいてい墓石は苔と枯れ葉に抱かれてる。夕方の嵐や、夜のお月さまだけは、時間を作ってたまにお参りをするというのに。
 死んだ人を懐かしく思う人がいる、しかし、その人もそのうち死ぬ。その後の子孫とかは、昔死んだ人の話なんか聞いても面白くもなんともない。そのうち、だれの法事かよくわからない法事が流れ作業で処理されていく。年月の輪廻を知らないで毎年生えてくる春草を見て、感受性が豊かな人が何となくときめく程度であろう。嵐と恋して泣いていた松も、千年の寿命を全うせずに、薪としてばらばらに解体され、古墳は耕されて田んぼになる。死んだ人が、死んだことすら葬られていくなんて。


合掌。
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