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虫めづる姫

 私は子供のときから、写真の虫を「ガンガンボウ」と呼んできた。周りもみんなそう呼んでいたので、それが正しい名前だろうと、漠然と思っていたのだが、ある時思い立って、本当にそうなのかと、辞典で調べたところ、「ガンガンボウ」というのは載っていなかった。なんだ、やっぱり方言なのかと思ったが、それじゃあ、正式には何て呼ぶんだろうと興味が湧いて調べてみた。すると、「ガガンボ」という名前に行き当たって、あながち大きな間違いではなかったことを知った。
 
[ががんぼ]ガガンボ科に属する昆虫の総称。蚊に似ているが大型で、体長5センチに達するものもある。夏、灯火によく飛来するが吸血しない。幼虫は水中または湿土中にすみ、きのこ、麦、稲などを食害するものもある。キリウジガガンボ、ミカドガガンボなど種類は多く、世界各地に分布する。

 ガガンボ科なんかがあるとは知らなかったし、世界各地に分布しているというのにも驚いた。昔からずっと見ている虫だから、日本固有の虫だと誤解していたようだ。こんな虫にもいろんな種類があるのも不思議な気がするし、ミカド=帝ならば見分不相応な名前だと笑えてくる。体長5センチとあるが、写真のものなどもう一回りくらい大きかった。
 しかし、この虫ほど、女子生徒に嫌がられる虫はいない。何かの拍子で教室に迷い込んできたりすると、大変だ。キャアーッと悲鳴が上がり、椅子から立ち上がった女子生徒が逃げ惑う。男子生徒は下敷きや、ノートで叩き落そうと暴れだす。ゆらゆら飛んでいる様子から見ると、簡単にヒットできそうに見えるが、なかなかどうして、ひらりと身をかわす。壁か天井に身を落ち着けるまでは、ほかっておいたほうがいい。じっとすれば、簡単に退治できる。一旦壁などに着陸すると、暫くはじっと動かないから、気にしなければいいのだが、それでは女子生徒が納得しない。迷い込んだお前が悪いんだぞ、と心で合掌しながら、やむなく処理する。
 『堤中納言物語』に出てくる、「虫めづる姫君」のような女性もいるのだから、一概に女性は虫が嫌いだとは言えないかもしれないが、世間一般では、この姫君の方が異常なのだろう。
 
  「人は、すべてつくろふところあるはわろし」とて、眉さらに抜き給はず、歯ぐろめさらにうるさし、きたなし、とてつけ給はず、いと白らかに笑みつつ、この虫どもを朝夕(あしたゆふべ)に愛し給ふ。
 
 世間の女性のような化粧もせず、虫を愛好するこの姫君を、世間は勿論のこと、両親までも理解してくれない。彼女の行く末がどうなったのか、この物語には書いてないので、私たちには分からない。しかし、平安時代でも現代でも、異端を排除する風潮は大きく変わってはいないだろう。いや、むしろ現代の方が、「人並み」であることを重視しているかもしれない。キャーッと叫ぶ女の子の中には、虫を大して嫌いではないのに、とりあえずみんなに合わせておこう、という子がいるかもしれない。
 たまには、ががんぼを手でぱっと捕まえて、「可愛い」などと言う子がいてもいいと思うのだが、無理かな。
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ネットの海

 ネットの世界に足を踏み入れるようになり、様々な専門用語に出会ってきたが、なかなか覚えられないもの、理解しがたいものが多く、悪戦苦闘している。掲示板上でのカテ、トピの区別が分からず、それがカテゴリー、トピックスの略だと分かるのにかなり時間がかかったが、分かってしまえば、知ったかぶりして使い出すのが私の悪い癖で、今では、トピだの何だのと妻に話しかけては、「またその話なの」とうんざりされている。
 妻はずいぶん前から、ネットの世界を泳いでいて、知識も当然豊富であるから、私も折に触れて教えを請うのだが、なかなか素直に応じてくれない。というのも、6、7年前に、彼女があまりにPCに向かってばかりいて、子供達の話を背中越しに聞くことが多くなったものだから、いい加減にしろと、怒り心頭に発した私が、PCの電源を引っこ抜いて、本体全てを押入れにしまいこんだことがある。私がもう少しリッチだったなら、バットでいきなりPCをぶち壊してやっただろうと思うほど腹を立てた挙句の行動だったが、ネット中毒になりかけていた妻も、それでさすがに目が覚めたのか、これからは子供のいるときには絶対にPCを使わないと誓った。その言葉を信じて、元に戻してやったが、それ以来約束を破ったことはなかったから、相当胸に響いたのだろう。そうした経緯を経てきた彼女にしてみれば、今度は私がネットにはまりかけているのを見れば、何を今さらという気がするのも無理はない。
 私は、彼女の姿を見ていて、ネットの何がそんなに面白いのやら、全く理解ができず、PCを使うのさえもずっと拒否してきた。塾で使う書類やテキストは、ワープロを使って作成すれば事足りるし、文章を作るだけならワープロの方がかえって便利だろうぐらいに考えていた。ところが、3年ほど前、私の手足となっていたワープロが老朽化し、かなり動作が悪くなってきたため、新しい機械が必要になった。しかし、ワープロなどというものは売られなくなっていたため、ならばワープロとしてのみ使おうと、ノートパソコンを購入することにした。デスクトップにしなかったのは、どこにでも持ち運んで、文章が作成できるようにという意図からだった。それでも、何かの役に立つかもしれないと思って、ネット接続をしたのは、購入後3ヶ月ほどしてからだった。ちょうど、営業に回ってきた電話販売会社が、ヤフーBBを使って、無線LANを組んで・・・などと小難しいことをあれこれ並べ立て、こうすれば電話代も今までよりも安く済みますよと盛んに勧めるものだから、ついつい乗せられて、リース契約をしてしまった。私としては、細かなことはともかく、とりあえずはネットの真似事さえできればいいやぐらいの感覚しかなかったのと、説明を聞くのが途中で面倒になったのとで、契約に同意したのだが、その会社が、半年ほど前に夜逃げ同然の形で倒産したのには驚いた。騙されて、高い契約をしたのかもしれないとは思うが、こうしてネットができているから、まあいいかなと思っている。
 しかし、いざネットができるようになると、私の世界がどんどん広がっていった。初めは、HPを見て楽しむだけだったが、ネット上でのゲームの世界に進み、ハンゲーム麻雀にどっぷりはまった。それがいつの間にか、ブログを自分で持つようになり、毎日せっせと愚にもつかない文章を書き溜めている。また、掲示板にも進出して、多くの方と交流させていただいている。
 実生活では、新しいことは、面倒くさくてなかなかやる気が起こってこないが、ネットの世界だと、何故こんなにも軽やかに歩を進められるのだろう。知らぬうちにネット中毒になってしまったのかもしれない。ってことは、毎日書いているこの文章は、ラりって書いていることになるのかな・・・
 
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見る前に跳べ!

 今日、私には珍しく、お昼のワイドショーを見ていたら、イノシシの子供(ウリ坊と呼ばれていた)が、市街を流れる川の中に取り残され、仕方なく何日もそこで寝起きしているという話題をレポートしていた。神戸市東灘区のできごとで、一家で川を下流から上ってきたらしいが、80cmほどある段差のところで、ウリ坊だけが上れず、親たちに見捨てられてしまったらしい。それだけなら、「ウリ坊救出作戦」ぐらいのよくある番組で終わったかもしれないが、東灘区というのが、イノシシの害に悩まされている地域で、イノシシにエサを与えるのを禁じる条例が敷かれているところであり、しかも、鳥獣保護条例により、イノシシの捕獲が禁止されているのだそうだ。したがって、ウリ坊にエサを与えて生きながらえさせることもできず、かといって、捕獲して山に戻すこともできないというジレンマに、動向を見守る住民達は悩まされているという。
 近年、イノシシに限らず、色々な野生動物たちが食べ物を求めて、人家近くまでやって来るようになった。東灘区では、餌付けをする住民がいたため、イノシシたちがどんどん街中まで下りて来て、群れをなして暗闇を動き回る様子が映像で流されていたが、道であんな集団に出くわしたら、誰だって驚くだろう。猪突猛進と形容されるくらいだから、イノシシにぶつかって来られたら、さぞかし危険だろう。これを見ただけで、地域住民の悩みは相当なものだと理解できるが、さらには、所構わず撒き散らすフンの悪臭、農作物を荒らすなど、イノシシの脅威は相当なものらしい。最近になって、私の父が耕している畑にもイノシシが出没するようになって、大きくなり始めたサツマイモを食べ散らかして行ったと父が嘆くのを聞いたばかりだ。毎年秋になると、塾生を連れてサツマイモ掘りに行くのを恒例の行事としているため、畑の管理者たる父は、被害に神経を尖らせ、畑の周りをイノシシが入って来れないように柵で囲ったと言っていた。父によれば、日本の至る所でこうしたイノシシとの戦いが繰り広げられているそうで、野生動物と人間との知恵比べはなかなか決着が付かないようだ。
 どうしてこんな事態になったかをくどくど考えるまでもなく、人間が野生動物の住みかを減らしてしまったのが、全ての原因なんだろう。開発により奥地へと追いやられた動物達が、食べ物を食べ尽くして、人家近くまで食べ物を求めて下りて来る。それをまた追い返そうとしたところで、動物達がおいそれと言うことを聞くはずがない。戻ったところで食べるものがないのだから。どれだけ嫌われ、どれだけ疎まれようとも、生きていくためには人間に寄生するしかない。悲しいけれど、現状では、野生動物がいつの間にか半野生動物になってしまっている。
 ウリ坊をどうするか、このまま見捨てておくべきか、それとも、山に連れ帰るべきか、住民の間で大きな問題となっている。前者の考えをする人たちは、自然は自然のままにしておけ、という理屈を使う。しかし、イノシシはもう、自然の生き物ではなくなっているのに、こういう時だけ、自然を持ち出すのは、人間のエゴだと反対者は言う。一方、山に連れ帰って放したところで、食べ物を求めてまた下りて来るに決まっているし、そのうち大きくなってしまえば、手に負えなくなって人間に害を及ぼすと、この考えに反対する者は言う。聞いていればどちらにも一理ある。一理あるからこそ、どうしようもなくなって、身動きが取れなくなる。
 これは何も行政レベルの話だけではない。私たち自身にしても、選ぶべき2つのうちで、どちらにも棄てがたい魅力があるような場合はよくある。そんなときはどうしたらいいのだろう。よく考えたら分かるのだろうか。いやいや、そんな堂々巡りなどしても時間の無駄だ。
 そんなときは、見る前に跳べ! "Look before you leap." じゃなくて、"Leap before you look." だ。
 で、ウリ坊はどうするかって?とりあえず、助けてやれ。後はそれからだ。
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祭りのあと

 愛知万博が閉幕した。3月25日から、9月25日までの185日間で、のべ2200万人が入場したそうだ。2200万人と言っても、全期間入場券なるものを買って、何度も万博に通った人々が、入場するたびにカウントされた数字だから、重複した人々を削っていけば、半分以下か4分の1くらいにはなるのではないだろうか。私の塾生でも、学校の遠足を含めて、5回から10回は誰でも行っているから、実態はそれくらいの数字に収まりそうな気がする。
 閉幕日の25日は、TVを見れば必ずどこかの局で万博関連番組をやっていた。一度も行かなかった私にしてみれば、今さらそんなものを見ても仕方がないので、全てパスしたが、一夜明けた26日の朝刊も万博一色だった。たしかに、今度の万博は、初めての市民参加型の万博であったと協会幹部が胸を張るように、多くのボランティアが万博の運営に大きな役割を果たした。私の住む市でも、「おもてなしボランティア」なるものが募集され、駅前などで万博に向かう人々の案内などを行っていたが、それは素晴らしいアイデアだったと思う。ボランティアの人々、主に中高年の方たちが、おそろいのユニフォームで駅前を闊歩する姿を毎日見かけたものだ。誰もがみな生き生きと活躍して、わが市を訪ねた人々によい印象を与え、万博の評価にもつながる大きな役割を、きっと果たしたことだろう。
 しかし、万博は終わってしまった。これからあのボランティアの人たちはどうするのだろう。彼らにとってボランティア活動は、万博を側面から支えるものとして、己の自負となっていただろうし、自らの生活を充実させてくれるものでもあっただろう。それが終わってしまった。また、連日のように万博会場に足を運んだ、リピーターたちもどうするのだろう。期間中は、今日は何をしようと考える間もなく万博に行き、様々なイベントに参加したり、パビリオンを見学したりしていれば、一日が過ぎていった。仲間もできただろうし、きっと楽しい毎日だったことだろう。それが、25日で完全に終わってしまった。日常になりかけた生活が、夢のように消え去り、万博以前の生活に逆戻りしなければならない。さぞかし、心に空虚を抱えていることだろう。この半年間が、それなりに満たされたものであったが故に、これからの生活がつまらないものに見えてしまうのではないだろうか。

       祭りのあとの淋しさが
       いやでもやってくるのなら
       祭りのあとの淋しさは
       たとえば女でまぎらわし
       もう帰ろう、もう帰ってしまおう
       寝静まった街を抜けて     吉田拓郎「祭りのあと」

 祭りとは非日常の空間、「ハレ」の空間と言ってもいいだろう。そこから、日常に引き戻されたとき、人は限りない虚脱感を味わうのではないだろうか。「浦島太郎」は、竜宮城という非日常の世界から現実へと戻ってきたとき、その狭間の苦しみに耐え切れずに「玉手箱」を開けてしまう。中から出た白い煙で、「浦島太郎」は現実の世界に貼り付けられてしまう。嘆いたところで仕方がない。宴の間にも時は流れ続け、人を通り過ぎていくことなどないのだから。
 万博という竜宮城が消え去った後、どれだけの人々が玉手箱を開けてしまうだろう。玉手箱を開けることなく、良い思い出として万博の日々を心の片隅にとどめておけるならば、その人にとっては素晴らしき万博となるだろうが、万一玉手箱を開けてしまった人には、きっと心のケアが必要になるだろう。万博協会も、大成功と浮かれることなく、閉幕後の対策にまで注意を向けて欲しいものだ。
 
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Happy Birthday ! (2)

 今日、9月26日は、私の亡くなった母の誕生日だ。1936年9月26日生まれだから、生きていれば、今日で69歳になったはずだ。52歳で亡くなったから、もう17年間も会っていないことになる。そうか、葬式の時には、1歳に満たなかった息子が17歳になったのだから、当たり前のことだ。17年、私は何も変わらなかったような気がするが、子供達の姿を見れば、積み重ねた年月の多さには驚かされる。
 母の生涯を語るのは簡単だ。材木商の五女として生まれ、何不自由なく育ち、20歳で私の父と結婚し、私を頭として2男1女をもうけ、52歳で死んだ。簡単だ。人の一生なんて、要するにこんなものだと思う。私のこのブログでのID、jukucho19580615 は、「1958年6月15日に生まれ、塾長を生業として生きてきた」という、私の半生を見事に要約したものとして、自分なりに気に入っているのだが、あとこれに私の死んだ年月日を付け加えさえすれば、私の一生を全て言い表すことができるだろう。変な戒名を付けられるより、ずっとその方がいいような気がする。ならば、墓碑銘も名前の下にこう彫ってもらおうか、「jukucho19580615-20xxxxxx 此処に眠る」なかなかいい考えだ。
 しかし、52年の人生というのは、短いものだ。私が後5年しか生きられないわけだから、それは少々つまらない。別に取り立ててやりたいことがあるわけでもないから、無駄な時間を過ごすだけのような気もするが、それでもやはりもう少し長くは生きていたい。末期のすい臓がんと診断され、余命3ヶ月と宣告されてからの、母が日に日に衰えていく姿を見続けた私としては、死ぬのならあんな苦しみ方をしたくはない、とは思うのだが、最後まで頑張りぬこうとした母を思えば、決して諦めずに、少しでも長くこの世に生きていくのが人間の務めだとも思う。まあ、いざその立場に立ってみなければ、どうなるかなど私には分からないが。
 母が、家族全員が、病と闘っているときに、母と私達兄弟が卒業した地元の小学校が、創立50周年を迎え、記念誌を発行することになった。私が学年の代表に選ばれ、同級生の現住所を調べ、記念誌に小学校の思い出を書くように要請された。母のことで、そんなことにとても構ってはいられなかったが、何とか調べ上げ、いい加減に書きなぐった文章を、提出した。以下にそれを記す。

 僕は妙にひねた小学生だった。周りのみんなが坊ちゃん刈りをしていたのに髪を長くのばし、学校行事で校歌を歌うのがいやでいつも横を向いていた。それは何か特別な考えがあったからではなく、ポーズを決めようとしていただけなのは、野球の大会で自らのエラーもとで負けてしまった時、悔しくて涙が止まらなかったことからも分かる。つまり見栄ばかり気にしていても心は今よりもずっと純粋だったのだ。
 人は様々な経験を重ね年をとっていくものだが、誰にでも、できることならもう一度戻りたい「永遠の夢のような時」といったものがあるはずだ。僕にとって、この小学校ですごした6年間がそれにあたる。何も考えず、一日中遊び回って、何もかもが楽しくいつも笑っていられた時ーー僕は心からの「懐かしさ」とともに振り返る。
     思へば遠く来たもんだ
     十二の冬のあの夕べ
     港の空に鳴り響いた
     汽笛の湯気は今いづこ   中原中也「頑是ない歌」 

 母が生きていた小学生の頃、まさに私は王様のように毎日を謳歌していた。何もかもが自分の思い通りになり、笑っていられた時、それを「永遠の夢のような時」と表現したのだろうが、そんなときは二度と帰らない。17年たった今、「懐かしさ」とともに振り返ることはなくなったが、それでもふと母のことは思い出す。
 母が最後に私に呟いた「お父さんを・・・」というメッセージを私は守って来たのだろうか。母の思いを父に伝えることを怠らなかっただろうか。
 久しぶりに思い返せば、恥じ入るしかない。



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酔いどれ芙蓉

 夏休みが始まる頃、私の父が、車庫の横に少しばかり土を盛り上げて、何かの苗を植えていた。野菜なら、少し向こうに畑があるから、そちらに植えるはずだから、いったい何を植えているんだろうと思って聞いてみたら、「花の苗」だと答えた。なんでも、知り合いの家に毎年咲く花で、頼んで苗を分けてもらったのだそうだ。「何の花?」と問い返すと、「きれいな花が咲く奴だ。名前は、う~ん、今度聞いとく」と頼りないことを言う。「大きくなるの?」とさらに尋ねると、「大きくなるぞ、この車庫の屋根よりも高く伸びるだろうな」「それは楽しみだね」とは言ってみたが、名前も分からないような花では、きっと大したことはないな、邪魔にならなけりゃいいがと、内心小バカにしてしまった。
 ところが、夏の間中、せっせと水遣りを怠らず、毎日嬉しそうに眺めている父を見ているうちに、こんなに楽しみにしているんだから、余程きれいな花が咲くのかもしれない、と私もだんだんと思うようになってきた。思ったほど早く伸びる性質の草花ではないらしく、糸瓜のように目に見えてぐんぐん伸びることもなく、朝顔のように蔓を巻きつけるでもなく、ゆっくりとではあるが、葉を見事に茂らせながら、しっかりと成長してきた。9月になって、私に時間的余裕ができたせいもあるが、時々その花を観察するようにしていたのだが、いつの間にか蕾が付き始め、日に日に大きく膨らんできた。もうそろそろ花が咲くのかなと楽しみにし始めた矢先、昨日の朝、ふっと見ると写真のようにきれいな白い花が一輪だけ咲いていた。思わず携帯を取り出して、写真に収めたのだが、私の手のひらより一回り小さいくらいの、大輪と言ってもいいくらいの美しい花だった。押し茂った葉の緑ときれいなコントラストをなして、白い大きな花弁が微笑んでいるように見える。確かに父が言ったようにきれいな花だ。私としては予想外のできごとに喜ぶとともに、父を疑った不明さを恥じた。
 ところが、驚きはそれだけではすまなかった。今日の夕方、野良仕事から帰って来た父親の様子を、塾舎の2階から見下ろしたところ、びっくりした。車庫の横に咲いた例の花の色が違うではないか。昨日は純白と言ってもいいくらいだったのが、今は濃い桃色になっている。えっと驚いて、思わず父に声をかけた。「花の色が変わったよ」すると父は誇らしげに答えた。「そうさ、色が朝と夕方では変わるんだ。朝は白いが、夕方になると赤くなる。まるで酔っ払ったみたいにな。だから、名前は、う~ん、『酔いどれ芙蓉』だ」素晴らしい。花の変色もすごいことだが、その名がまた実にいい、『酔いどれ芙蓉』。早速、ネット検索で調べてみた。
  
  「酔芙蓉」 学名:Hibiscus mutabilis cv. Vercicolor
 フヨウ(芙蓉)の園芸品種で,朝に白い花を咲かせますが,午後になるとだんだんピンクにかわり,夕方から夜にかけてさらに赤くなり,翌朝にはしぼんでしまいます。このさまを,酒飲みの顔がだんだん赤くなってくることにたとえて,「酔う芙蓉」ということからつけられた名前です。(花期:晩夏~初秋)
 
 これほど花の様子を端的に表わした名前は他にあるだろうか。命名者のセンスの素晴らしさに脱帽してしまう。
 明日は日曜。『酔いどれ芙蓉』が赤くなり始めるよりも、私の顔の方が先に真っ赤になってしまうだろうな。


 
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ネコ

 写真のネコは、半分野良ネコ、半分我が家の飼いネコである。名前は、私の父が「ちょぼ」と名付けた。鼻の辺りに黒い斑点がちょぼちょぼっと付いているから、というのが理由だが、その生い立ちはなかなかのいわくつきで面白い。というより、ちょぼの母ネコと私達とのいきさつが面白いので、それをこれから書いていく。
 2年ほど前のことだ。生徒達を送って塾舎に入ろうとした私の目の前を、ササーッと横切って玄関の中に入って行く小さな動物がいた。余りに突然でワーッと叫んだほどだったが、目を凝らしてみると、階段の下に一匹の子ネコが蹲っている。こちらを睨み付けて、小さく唸っているが、どうも様子が変だ。左の後ろ脚を真っ直ぐ伸ばしているし、よく見れば血だらけだ。床面のタイルも血で汚れているので、怪我をしているのは明らかだ。私が抱き上げようとすると、歯を剥いて抵抗する。いくら子ネコだと言っても、迂闊には手を出せない。しばらく睨み合いを続けていたが、埒が明きそうもないので、いつでも出て行けるように、扉は開けておいて、翌朝もしまだそこにいたら、その時どうするか考えようと決めて帰宅した。
 翌朝、目が覚めて昨夜のことを妻に話したら、早速様子を見に行こうと言う。私の家族は、どちらかというと犬の方が好きな私を除けば、全員がネコ好きである。怪我をした子ネコなどと言えば、ほかっておけないだろうと思っていたら、案の上の反応だった。しかし、塾舎に行ってみると子ネコの姿が見えない。なんだ、逃げたのかと少し拍子抜けしたが、ふと階段を見ると血痕が点々と付いている。えっと思って、静かに階段を上ってみると、廊下の隅に子ネコが蹲っていた。相談するまでもなく、まずは捕まえようと、妻が我が家の飼いネコを獣医に連れて行く時に使う洗濯ネットを持ってきた。手馴れた手つきで子ネコにかぶせたかと思うと、ヒョイと首筋を簡単に捕まえて、私の目の前に突き出した。初めて近くで見てみると、左後ろ脚が根元まで大きく裂傷を負ってぶらりと垂れ下がり、かなり大きく腫れ上がって変形していた。あまりのむごたらしさに、私は思わず顔を背けたが、妻は目に涙を浮かべて、獣医に連れて行こうと言い出した。なんで、野良ネコの世話までしなけりゃいけないのかと思ったが、弱り切って頼って来たものを無下に見捨てることもできないだろうと、柄にもない義侠心を出して、獣医に向かった。
 多分、交通事故にあった怪我だろうというのが、獣医の見立てだった。このままほかっておいたら衰弱して死んでしまう。手術すれば命は助かるだろうが、だからといってちゃんと歩けるようになるとは限らない。それに手術には当然費用がかかるから、どうするかの判断は私達でするように言われた。私はどうしたものかと逡巡したが、妻は何のためらいもなく、獣医に「手術してください」と言い、私の方を向いて「お金は私が払うから」と言い切った。そんなことを言われると、損得勘定で判断しようとした自分がとてもちっぽけに感じられ、それにひきかえ、何の因果もないネコのために、出費を厭わない妻の心はまるで菩薩のようだと、いつものシニカルな気持ちからではなく、純粋に心からそう思った。
 手術は成功し、あとは飲み薬と塗り薬を暫くの間続ければ、何とか歩けるようにはなるだろうという獣医の言葉を信じて、妻は献身的に子ネコの面倒を見た。それがネコにとっては、有難迷惑に過ぎなかったのは、処置をする度に毛を逆立て、シャーシャー唸り声を上げながら、私達を威嚇し続けたのでも分かる。幸いなことに、少し走れるようになるまで回復したが、悲しき野良ネコの習性、とうとう最後まで妻に慣れることなく、走れるようになるとすぐに逃げ出して、二度と私達には手を触れさせなかった。それでも、懲りずに妻がエサをやり続けたので、図々しくもそれを食べながら露命をつなぎ、ちょぼを産み落とした。
 今はもう、どこかへ行ってしまったのか、野垂れ死にしたのか、全く姿を見かけなくなったが、人間と野生動物との心の交流の難しさを教えてくれたネコだった。


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イタリア

 怒涛のスマコン4連戦が終わって、我が家にも穏やかな日常が戻ってくるかと思いきや、妻は頭の中にまだまだ、バンバカが駆け巡っているらしい。頭の中のリズムに合わせているためか、動きが妙にリズミカル(コミカル?)だし、時には妙な掛け声を出したりと、まるで夢遊病者のようだ。4日間で合計16時間も異空間に遊んでいれば、そうなるのも当然だろう。しかし、同行した娘の方は、イタリア旅行を翌日に控えているため、そんな余韻に浸る余裕もなく、荷造りに忙殺され、動き回っていた。何とかやり終えて、3時過ぎに大きなトランクを抱えて出て行ったが、私としては娘の今回の旅行に、強い不安を感じている。というのは、団体ツアーで旅行するものと勝手に思い込んでいたら、実は、旅行会社は大まかな日程を組み、飛行機とホテルの予約をしてくれるだけで、移動のスケジュール・手段などは自分たちで決めるという、個人プランの旅行なのだそうだ。これを今朝知った私と妻は、しばし呆然としてしまったが、娘は「ツアーなんかで行くわけないじゃん」と、平気な顔をしている。今さら怒ってみてもどうしようもなく、ただ、「それなら余計に、身辺には注意しろよ。絶対に危なそうな場所には近づくなよ」と念を押すことしかできなかった。
 中・高・大と同じ学校に通う友人と2人で、ローマ・フィレンツエ・ヴェネツィア・ミラノを1週間ほどで旅するのだそうだ。怖いもの知らずが2人で調子に乗らなければいいが、と心配の種は尽きないのだが、「イタリアに着いたら現地の空港で、国際電話もかけられる携帯電話を借りる予定になっているから、心配ないよ。日本からも普通にかけられるし」と娘は全く屈託がない。それでも、今日は一日準備をしながら、「胃が痛い、胃が痛い」と彼女なりに緊張感を見せていたらしいから、彼女なりに用心して、危険な所に近づくような馬鹿はしないだろうと、自分に思い込ませようとしている。考えてみれば、娘は今までに海外に行ったのは2回しかなく、しかもそれは小学校に入学する前のことだったから、今回が初めての海外旅行と言ってもいいだろう。だから、適度な緊張感を最後まで持続させ、旅行を楽しむだけの分別は持ち合わせているはずだと、また1つ自分を納得させる根拠を見つけようとしている。家にいないのはいつもと一緒だから、別に心配しなくても、と思ってもみるのだが、やはり外国だと思うと、私までも緊張してしまう。変なものだ。これが、老婆心というものなのだろうか。
 しかし、何故イタリアなのだろう。ふつうなら、アメリカかイギリスに行きそうなものだが、イタリアとは意外だ。イタリアに興味があるのは知っていたが、以前はイギリスに行きたいと言っていただけになおさらだ。我が家が何かイタリアとつながりがあるわけでもない。あえて探せば、私が最初に買った洋楽のレコードが、「ジリオラ・チンクエッティ」というイタリア女性のものだったなどと言っても、娘が知る由もない。13年ほど前に私が「ランチア・テーマ」という車に乗っていたのは娘も知っているだろうが、故障ばかりしてほとんどまともに乗れずに、1年たたないうちに手放してしまったから、さほど印象には残っていないだろう。今ここで思い悩むくらいなら、出発前に聞いておけばよかったが、なにせ、スマコンで大忙しの我が家であったため、まともに話しができなかった。まあ、理由がどうあれ、イタリアの長い歴史の中で生み出された芸術文化に直接触れる機会がもてるのは、彼女の今後の人生にプラスになるに決まっているから、じっくりと堪能してきて欲しい。
 大学に入って、バイトしながら、コツコツ貯めたお金で行く旅行だから、たいして派手なことはできないだろうから、無茶なことはきっとしないだろう。イタリアの文化を味わうための研修旅行に行ったんだと思って、無事に帰ってくるのを心待ちにするだけである。
 
 あっ、しまった。小遣いはやったけど、土産はいいぞ、と言うのを忘れた!
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ナゴヤドーム(2)

 やっと、SMAPナゴヤドームコンサートが終わった。やっとと言うのは、さすがの私も少々閉口したからだ。日・火・水と最寄の駅まで車で送っていき、火・水は仕事が終わってから、迎えに行った。4日連続で、12時近くまで家を空け、帰ってきたらきたで、疲れただの、眠いだのと、しゃがれた声で言われても、馬鹿じゃないのと言うしかなかった。確かに妻が、どこではしゃいでいようが、私には関係ないのだが、それでも、どこか面白くない気持ちは残ってしまう。まあ、幸せそうな顔をしているから、勘弁しといてやるかとは思うが・・
 しかし、SMAPのファンというのはかなり年齢層に幅があるものだなと実感した。夜、迎えに行くと、バンバカグッズを持った様々な年恰好の女性達が大量に降りてくる。なんでも、キムタクが「5万人のファンのみんなありがとう」と叫んでいるらしいから、ドームには1晩で5万人近くが集まるのだろう。それがコンサート終了後に一斉に帰宅するのだから、地下鉄の駅などは人でごった返して、危険な状態らしい。退場制限が掛かって、アリーナ席などは、外に出るのに1時間以上かかった日もあったらしい。さすがにそれだけの人数が集まれば、年齢層も多種多様で、今年などは結構な年配の女性とともに、小学生の姿も多く見られたそうだ。SMAPのメンバーの年齢が上がってくるにつれ、ファンの年齢も上がり、子持ちの奥様が子供づれでやってくることが多くなったのだろう。まあ、我が家のように、母娘で同じ対象に黄色い声援をあげるってのも、親子関係としては幸せなのかもしれないが。
 妻によれば、火曜日のコンサートの前に、シンツヨ(慎吾と剛)が愛知万博に行き、帰りに名古屋の栄で味噌煮込みを食べてきたとMCで話したそうだが、ちょうどそのとき栄で買い物をしていた妻達は、絶好のチャンスを逃したと悔しそうに話していた。そのとき、調子に乗った妻が「木曜日にスマさんたちが万博に本当に行くなら、私も行こうかな」などと暴言を吐いたので、いくらの私も「いい加減しとけよ」と思わず叱責した。すると、「やっぱり?」などとおどけた調子で答えた妻を見て、今が本当に最高の気分なんだろうな、と羨ましくなった。こんなときに「お前なあ、これだけ毎日SMAP三昧してりゃあ、もういいだろう」などと説教垂れたところで何にもならない。
 説教なんてものは、いくらこちらが力を込めて、説得力満点で話したところで、相手の心に響かなければ何にもならない、それどころか、反発を食らうだけだ。説教するには、それにふさわしい状況というものがあるし、相手の精神状態、立場というものも考え合わせなければならない。そんなことお構いなしに、文句を並べ立てたところで、馬の耳に念仏、何にもなりはしない。そんなものは、感情の押し付けに過ぎず、言うものは自己満足を味わえるかもしれないが、聞くほうからすれば、いらぬ世話としか受け取れない。酔っ払ったオヤジがくどくど繰り返すようなもので、誰が最後まで聞いていよう。いくら、あなたのためだと言われても、誰も信じない。邪魔なだけだ。
 私も長い間、子供達と接してきて、少しはその辺の事情は分かっているつもりだが、それでも時々空回りしてしまう。私の場合は、いくら無駄と分かっていても、説教するのが仕事だから、やむをえないとは思うが、自己嫌悪に陥ることも少なくない。そんなときは、もっと楽しくやろうよ、力を抜いてリラックスしようよと自分に言い聞かせるのだが・・・
 世の中の人全てが、妻が今週見せていた顔をして暮らしていけたら、平和で楽しいだろうな、と思う。そんな世界だったら、誰も文句を言わないし、毎日笑って暮らせるだろう。「イマジン」の世界ってそんなのだったっけ。
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Happy Birthday!

 9月21日は、故松田優作の誕生日である。彼は1949年の9月21日に山口県下関市で生まれた。もし生きていれば、今年で56歳だったはずだ。彼が生きていたなら、日本の映画界もかなり違っていただろうと残念に思うし、年老いた彼の演技というものも見たかったのにと、今さらながら、早すぎだ死が悔やまれる。
 亡くなったのが1989年だから、17回忌を記念して「17th memorial THE 優作 BOX」なるものが、発売されることとなった。「暴力教室」「俺達に墓はない」「ヨコハマBJブルース」「それから」「ア・ホーマンス」を収録した、いわゆるDVDボックスである。私の最も好きな作品である「それから」が今回初めてDVD化されるのは、待望久しかっただけにとても嬉しい。さらには、「ヨコハマBJブルース」は一度も見たことがない作品だけに、発売日が今から待ち遠しい。
 
 だが、Happy Birthday ! と本当に私がお祝いを言いたいのは、実は息子に対してなのだ。彼は今日で17歳になった。思い返せば、17年前の今日、陣痛の始まった妻を車で病院まで連れて行き、分娩室の前で見送ったほんの暫く後に、妻の言葉を借りれば、スッポンと彼はこの世に生まれてきた。私にとって、夢にまで見た男の子が生まれたことで、喜び勇んで誰からも愛されるような素敵な名前を付けてやろうと、あれこれ思案した。その結果、「三四郎」が字画やらなにやらもうまくいくから、これにしようと意を決して、妻に相談したところ、反応が芳しくない。そのときまだ3歳に満たなかった娘は「サンシロウクン、サンシロウクン」と気に入ったようだったが、私の両親も「姿三四郎」を連想するらしく、反対だった。四面楚歌に陥った私は泣く泣く断念したが、次には、夏目漱石が駄目なら、森鴎外だとばかりに、鴎外ゆかりの名前を提案して、やっと周りの承諾を得た。その名をここで公表するわけにはいかないが、男らしくもある素敵な名前だと、私は自讃している。もっとも、息子本人が気に入っているのかどうかは分からないが、不満を耳にしたことはないから、まあまあの選択だったんだろう。
 保育園に入るまでは、いつも私と一緒にいた。その頃は、週に3回は本屋に通っていたので、そこが彼の遊び場だった。本屋で走り回って奇声を発する子供が時々いるが、まさに息子がそんな子供だった。今思えば何たる親子だと、恥ずかしくもなるが、幼い時から本に親しむ習慣を身につけさせたいという思いで、そんな愚行も許してしまっていた。そんな私の思いとは裏腹に、息子は読書よりもTVゲームを愛する少年になってしまった。読む本といえば、ゲームの攻略本ばかりという時期が長く続いたが、最近になって、少しは読書欲が芽生えてきたのか、この間も、太宰治の「人間失格」の文庫本を手にしていた。私が、『「人間合格」てのもあるぞ』とからかってやったら、『知ってるよ』と答えたのには驚いた。本当かなあ、と半信半疑ながら、これも成長の証だと素直に受け止めることにした。
 私の17歳の時は、体を壊して高校にも半分くらいしか行かなかったが、息子は健康そのものである。部活動など、中学からまともにやっていない男だが、最近は学校で友人達とバスケットを遅くまでやるようになり、体つきもかなりがっちりしてきた。もともと私に似て、背は高い方だから、筋肉が付けば格好よくなるだろうと思う。顔は、親バカで言うのではなく、かなりいけてると思うので、これでもう少し大人の会話ができるようになれば、女の子がほかっておかないぞと、そんな日が来るのを心待ちにしている。だが、もう少し時間がかかりそうだ。「ゆっくりと大人になりつつある」と、17歳になった息子を見て、それもいいかなと実感する。
 あらためて、Happy Birthday !!
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