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模試5年国語

 私の塾では、私立中学受験を目指す小学4~6年生を対象に、毎月模擬試験を実施している。以下に、5年生用の問題を抜粋してみるが、晩秋から初冬に移り変わる今日この頃の風情が味わえる短歌を集めた問題であるため、短歌を楽しむためだけにでも一読の価値はあると思う。

  次のA~Dの短歌を読んで、後の問いに答えなさい。
A.行く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲   (佐々木信綱)
B.霜やけの小さき手して蜜柑むくわが子しのばゆ風の寒きに (落合直文)
C.冬日ざし畳に淡しあな寒や明日は冬至と人のいうなる    (窪田空穂) 
D.(  )深き夜の街より帰り来て小さき火鉢の火をひとり吹く  (前田夕暮)

(1)Aの短歌に使われている表現技法を次のア~エから一つ選び、記号で答えなさい。
 ア.対句  イ.倒置法  ウ.直喩  エ.体言止め
(2)Aの短歌から受ける感じとしてもっとも適当なものを次のア~エから選び、記号で答えなさい。
 ア.はかなくて心細い感じ       イ.おごそかでおそれおおい感じ
 ウ.あわただしくて落ち着かない感じ エ.おおらかでゆうゆうとした感じ
(3)Bの短歌の「蜜柑むく」はだれの動作を表わしていますか。もっとも適当なものを次のア~エから選び、記号で答えなさい。
 ア.作者自身          イ.作者の子ども
 ウ.作者の子どもの友だち  エ.見知らぬ幼い子ども
(4)Cの短歌の「淡し」はどんな様子を表わしていますか。もっとも適当なものを次のア~エから選び、記号で答えなさい。
 ア.暖かさをあまり感じさせない日ざしの様子
 イ.寒さを感じさせるすりきれた畳の様子
 ウ.訪れる人がだれもいない静かな家の様子
 エ.部屋にふきこんでくる冷たい風の様子
(5)Dの短歌の(  )にあてはまる季節を漢字一字で答えなさい。

 以上である。短歌が実際の入試問題に出されることはあまりないが、模擬試験としてはどんなジャンルの問題にでも対応できる力を身に付けさせる必要があるため、5年生では12月の模試に短歌と俳句が出題範囲となっている。
 こうした設問で一番問題となるのは、(2)のように「Aの短歌から受ける感じ」を問う問題であろう。これは短歌を読んだ者がどう感じるであろうかを問う問題であるから、例えば「あなたはどう感じますか」と100人に街頭アンケートを取って、ア~エの中から選択してもらったら、全員が同じ答えということはないだろうし、0人というものもないだろう。人の感じ方はそれこそ千差万別であり、どれが間違いでどれが合っているかなどと決めることはできるはずもない。ならば、どれを選んでもよいのかといえばそうではない。もう一度設問をよく読むと、「もっとも適当なもの」を選べとあるから、「アンケート結果で一番多いであろうものを考えて選べ」ということなんだよ、と少々苦しい説明を子ども達にすることになる。「君の感じたことを述べよ」なら自由に感じたことを書けばいいが、このような問題の場合には、一番賛成する人が多いと思われる答えを選ぶようにと常に指導している。そうは言っても、「えっ、これが一番多い答えか?」と思わざるを得ない解答も時々あるので困ってしまうが。
 この問題程度で、私立中学入試を語ることはできない。小学校のレベルをはるかに超えた次元で戦うのが、私立中入試である。したがって、5年生の現段階では、これくらいは常識的な問題であり、全問正解しなければ難関校はとても望めない。さあ、どれくらいできるだろうか。勿論、私は全問正解だった、と立場上言っておかねばならないだろう。


    なお、解答と解説はコメント欄に掲載。
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博士の愛した数式

 手塚治虫原作の「どろろ」が映画化されることになった。私が小学生の頃に週刊少年サンデー誌上で連載された漫画を、妻夫木聡と柴咲コウの主演で実写化するという。最近アニメの実写化がさかんであり、私が知っているだけでも「あずみ」「デビルマン」「キャシャーン」「キューティーハニー」「忍者ハットリくん」など、いくつも思い浮かんでくる。しかし、原作を超えたと言われるほどの評価を得たものはないから、少々心配だ。体の48の部位が魔物に奪われた主人公百鬼丸が、数々の魔物と戦って己の体を取り戻していく過程が面白く、毎週読むのを楽しみにしていたのだが、何故だか途中で中断してしまい、そのまま未完で終わってしまった。どろろというのは、百鬼丸の体に仕組まれた妖刀を狙う子供の泥棒のことだが、この映画では大人に設定して柴咲コウが演じるらしい。私の大好きな作品だけに、期待と不安の交錯した気持ちで2007年の完成を待ちたいと思う。
 同じような気持ちで待っているのが、来年の新春に公開予定の「博士の愛した数式」だ。私がこの原作を知ったのは、1年ほど前NHKの「ラジオ深夜便」に作者の小川洋子が数日にわたって小説について語ったのを聞いたからだった。その時、彼女がこの作品について言及して「友愛数」というものについて説明した。「220と284の約数を自分自身の数を除いて足した和が、互いの数になっている」と言った。私は初めて聞いた言葉だったので、興味を引かれてバスを停め、メモした。家に帰って試しに計算してみたら
  220の約数の和=1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=284
  284の約数の和=1+2+4+71+142=220
確かにそうなる。素晴らしい。
 こんな数の組み合わせがあるなんて、私は大発見をした気がして、翌日書店でこの本を買い求めた。新刊本などあまり読まない私だが、この小説は文句なしに面白かった。80分しか記憶が持たないという博士と家政婦親子との物語だが、博士が可愛らしく、いじらしく思え、最後には不覚にも涙を流してしまった。そんなことは今までにあまりなかったことだから、自分でも驚いた。素直にいい小説を読んだと実感して、妻や息子にも読むように勧めた。
 その小説が映画化されるという記事を以前何かで読んだ記憶はあるが、詳細については全く知らなかったので、検索してHPをのぞいてみた。すると家政婦役が深津絵里、博士役が寺尾聡とあった。深津はちょっと若い気もするが、まあきれいな女優だから見ているだけでも十分だと思うが、博士が寺尾というのにはちょっと違和感を持ってしまった。寺尾聡といえば、私にはどうしても「ルビーの指環」のイメージを払拭できず、博士役をするにはまだまだ枯れ方が足りないような気がする。彼の父親の宇野重吉の晩年のほうが、私としては博士のイメージにぴったりなのだが・・・と思ってスタッフを見たら、「雨あがる」の小泉尭史が監督となっている。「雨あがる」はDVDを買って、私にしては珍しくちゃんと見たものだから、(「阿弥陀堂だより」のDVDも一緒に買ったが、こちらは見ていない)大体の作風は分かる。もし、今度の映画もあのテイストで撮られるとしたら、期待外れになってしまうのではないかと心配になる。寺尾聡と宮崎美子の妙に善人めいた役柄が途中からだるくて仕方がなくなってしまったからだ。もうちょっと違う描き方をすれば、と私には不満の残った作品だった。
 しかし、全く違った作風を「博士の愛した数式」で確立することだってある。どうか、原作のよさそのままか、それ以上に表現された作品になることを期待している。しかし、時期的に言って劇場公開を見る時間はないだろうな。またしばらく経って、DVD化されたものを見ることになるだろう、寂しいけれど・・・
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藤原竜也(3)

 昨日、11月27日は妻の待ちに待った藤原竜也くんとの握手会だった、いつもよりもおめかしをした彼女を駅まで送って行く前に、喫茶店に立ち寄ったところ、妻がこの服にはやっぱりブーツの方が似合う、と言い出した。私は彼女のなすがままにしておくのが一番面倒ではないため、車のキーを渡した。10分ほど経って戻ってきた彼女は完璧ないでたちだった。そそくさとコーヒーを飲み終えた妻を駅まで送って行ったのだが、普段よりなまめかしい彼女を見送るのは、自分のためではなく、藤原竜也という小僧っ子のためだと思うと情けない気もしたが、それも仕方ないものと、頑張って来いよと、意味不明のエールで送り出してやった。。
 しかし、妻がなかなか帰って来ない。夕食は、私の父が掘ってきた自然薯をすってとろろにして、行く秋の味を満喫したから何の不満もない。妻は大学時代の友人との同窓会みたいなものを中抜けして握手会に行き、その後また同窓会に戻るとか言っていたから遅いのは承知の上だが、それにしても遅い。少し心配になって10時過ぎに塾舎から自宅に戻ってみたら、もう帰っていた。なんだと少々拍子抜けしたが、「握手、握手」という私を全く無視して、「ただいま」と晴れやかに答えた後は、「握手会はどうだった」と私が聞いた瞬間から話が止まらなくなった。
 「電話で予約するだけで、当日来ればいいらしくって、色んな所から300人くらい集まっていたと思う。私は92番だったけど、SMAP仲間のNさんがいたから一緒に並ばせてもらって、120番すぎに並んだの。書店の事務所の一室を借りたようなところで、まるで何かの面接会場みたいに一人ずつ入っていって握手するようになっていた。長い人もいれば、短い人もいて時間はまちまちだったと思う。中には藤原クンの笑い声も聞こえた人もいたから、本当に人それぞれだったと思う」
 「で、お前はどうだったんだい?」インタビュアー気取りの私がたずねると、そこからはまさに夢見心地に答えてくれた。
 「Nさんは(香取)慎吾がイチオシの人だから、先に行ってもらって様子をうかがおうとしたんだけれど、さすがに何でもしゃべれるみたいで、来年の正月の『新撰組!』の話題で藤原くんから、『切られる場面しか出てないですけどね』という言葉を引き出したからびっくりしちゃった」その後は自分の順番がくるまで夢見心地だったそうだが、いざ自分の番になってもその気分は晴れなかったらしい。ただ、「天保の舞台見ました。次の舞台が決まったそうですね」と聞いたところ、「ありがとうございます。今度の舞台は落ち着いたものになります」と手をぎゅっと握り返して、答えてくれたそうだ。もうまったく、もうすぐ47になるおばさんにはとても見えない様子で、胸に手を合わせて何かを祈っている姿は、憑き物がついたとしか思えない。「こうなったら、藤原クンの舞台は全部見る!!」と私に宣言されても仕方がない。お前の息子は、来年大学受験で母親が浮ついていてどうするといいたいところだが、ぐっと我慢した。
 「握手したんだから、藤原には相当近づいたんだろうな?」とたずねる私に、これくらいの目線で話をした、と語ってくれるがそんなことを言われても困ってしまう。藤原竜也23才、私のイメージとしては小さい男のような気がするが、身長は180cmくらいあり、とにかくカッコイイのだそうだ。「俺と同じ位の背か」と対抗できるものが身長しかない私は、悔し紛れに言ってみるが、「背は同じくらいかもしれないけど、かっこよさがねえ・・」馬鹿か、私はお前のためにかっこよさを犠牲にして今日まで頑張ってきたのに、などと叫んでみたいのだが、いつになったらそんなことが言えるんだろう。
 まあ、そんなことが言ってられるうちはお互いが幸せな証拠だから、言わせておくしかないんだろうけど。
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老化?

  一昨日、昼ご飯を食べに行った帰りにコンビ二に立ち寄った。ウーロン茶と妻の飲み物を買って、お金を払って外に出た瞬間に転んだ。何かにつまづいて、とっさに持ちこたえようとしたのだが、あえなく倒れ込んでしまった。しかし、少しは踏ん張った甲斐があって、両手で前のめりになった体を支えることができたため、膝や顔を地面に打ち付けずにすんだ。そのはずみに買ったばかりのウーロン茶はどこかに飛んで行ってしまった。すぐ後に店から出てきた妻が、「何やってるの?」と冷淡にも笑い転げる。「クソ、つまづいた!」私は手を払いながら立ち上がったものの、恥ずかしさで身が縮む思いだった。辺りをさりげなく見回したところ、他に誰もいなかったのがまだ幸いしたが、それでも妻に大笑いされただけでも十分屈辱的だった。
 「1cmくらいの段差だよ、何で転ぶの?」「ふむ」私は憮然として車に乗り込んだが、ハンドルを握ると少し手首が痛い。上手く支えたつもりでも、急に負荷がかかったのだから多少は痛んでも仕方がない。それにしても何であんな物につまづくんだ、私が黙ったまま運転していると、妻が「年なんだって」と遠慮なしに言う。そりゃそうだろう、若い頃に転んだことなんてなかった。要するに、歩くときに足がちゃんと上がっていないのだ。昔なら何の苦もなく跨げた高さまで足が上がらなくなっているから、簡単に障害物につまづいてしまうのだ。悲しいけど現実だから仕方がない。こうやって1つ1つ老いを重ねながら、いつの間にか身も心も老いてしまうのかもしれない。
 そう言えば、2ヶ月ほど前にはもっとひどい転び方をしていた。この時は家族で夕食を食べに行った店から、食事を終えて出てきたところで転んだ。ほろ酔い気分でぼやっと歩いていたせいで小さな段差につまづいたのだ。「わっ」と叫びながら膝から倒れて、前のめりに突っ伏してしまった。息子が「大丈夫?」と叫んだ声に気を取り直して、短パンをはいていた脚の方を見たところ、むき出しになった右膝をひどくすりむいて血が流れ出している。「くそっ!」と立ち上がろうとしても膝が痛くてすぐには立てない。息子が近寄ってきたが、何とか手を借りずに立つことはできた。「大丈夫?」とまた息子に聞かれたのが恥ずかしく、「うん、大丈夫・・」と見栄を張ったが、打ち付けた膝がヅキヅキ痛む。何とか家までたどり着けたが、しばらくは痛みが退かなかった。痛みが消えた後でも、擦り傷はなかなか治らない。いつまでもグジグジと膿んで、なかなか傷口がふさがらなかった。年を取るにつれて怪我の直りが遅くなっている。ちょっとした傷でも、元に戻るには何日もかかる。イヤになってしまうが、これもまた仕方がない。
 さらには、近くの物が本当に見えにくくなってきた。老眼だ。もともと軽い近視で眼鏡をかけているため、塾の生徒に質問された時など眼鏡を外さなければ問題がはっきり見えなくなってしまった。はめたり外したりしなければならないのはすごく面倒だし、生徒から見れば何やってるんだろうってことにもなる。これではいけないと、1年ほど前に遠近両用の眼鏡に変えた。自分としてはまだまだ若い気でいるため、眼鏡屋へ行って「老眼鏡を下さい」とは言い出せなくて、「最近近い物が見にくくて・・」と切り出してみた。すると店員は心得たもので、老眼鏡とは決して言わない。遠近両用のレンズだとかシニアグラスだとか言葉を変えて私の心を気遣ってくれた。そうは言っても結局は老眼鏡に変わりはないから、生徒から「眼鏡が変わったね」と言われても、「老眼鏡にした」とは言えず、「前のが合わなくなったから」などと適当にお茶を濁しておいた。
 このように老いは確実に私の中に入り込んで増殖を続けている。しかし、それはあくまでも肉体のことだけで、頭はまだまだ犯されていないぞ、と大見得を切りたいところだが、悲しいかな物忘れが激しい・・・やはり、どこもかしこも同じように老い続けているのを実感する。だが、気持ちだけでもまだまだ若いつもりでいなけりゃ、とてもやってられない。頑張ろう。
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冬休み

 先日、冬期講習の日程を組もうとカレンダーを見たら、大変なことに気づいた。冬休みが12月23日から始まるのは例年通りだが、終わりが何と1月9日なのだ。いつもなら1月6日まで冬休みで7日が始業式なのに、今年は1月7日が土曜日、8日が成人の日で祝日、9日が振替で休みという日付になっている。したがって、冬休みが9日まであることになり、昨年より2日も休みが多いことになる。ということは、冬休みを利用した冬期講習を2日余分に行わなければならないのか・・・うーん、と私は考え込んでしまった。
 確かに追い込みの大事な時期であるから、1時間でも多く生徒に勉強させなければならない。そういう点では有り難い日程なのだろうが、問題は私自身の気力と体力である。12月は30日まで授業を行い、31日が塾舎の大掃除、1月1日はさすがに休みにするが、2日から私立中受験生の授業を始める予定だ。その後冬期講習の日程をこなすだけで、毎年かなり疲労困憊してしまうのに、2日も余分にあの厳しい日程をこなさなければならなくなると、気力・体力ともとてもじゃないが・・・とついつい愚痴をこぼしたくなってしまう。
 冬休み期間中は夏休みと同じように、朝9時前から夜11時半過ぎまで、休みなしにフル稼働しなければならないため、まるで余裕がない。夏休みなら入試をそれ程意識せずに授業を進められるのだが、冬休みともなるとそんな甘いことは言っていられない。私も生徒たちもビンビンに張り詰めて授業を行うため、精神的な疲労は夏休みの比ではない。しかも、寒さという敵がいる。少しでも油断すれば風邪をひいてしまう危険といつも隣り合わせだ。いくら年数を重ねてきても、冬休みの緊張感だけはいつまでたっても慣れることができない。
 うーん、ダメだ、今からこんな弱気でいたら、とても乗り切れない。気合を入れ直そう!
 それにしても、こんな日付けを決めたのはいったい誰なんだろう。私の学生の頃は、成人の日というのは15日と決められていた。それが「ハッピーマンディー」とか言って、3連休を作るために祝日の日を変更できるようになったことは知っている。まあ、中途半端に金曜日に始業式を行って土・日と連休になるパターンよりもまだましかもしれないが、本当に学校の休みが多い。こんなに子供たちを休ませていいものかと、正直心配になる。完全週休2日制になったのは2002年からだから、土曜日に1度も授業を受けたことがない生徒が社会に出るのはまだ10年近く先のことだが、彼らが社会に出て、それこそ休みなしで働かなければならなくなった場合、果たして対応できるのだろうか。
 英語の諺に、
   All work and no play makes Jack a dull boy.
(勉強ばかりしていて遊ばないと、子供はばかになる)
というが、同時に
   Strike while iron is hot.
  (鉄は熱いうちに打て)  
という諺もある。All work and no play には私も大反対であるが、今の子供たちの現状を見ていると、A little work and much play のような気がして仕方がない。その結果、
   A little work and much play makes Jack a lazy boy.
(少しの勉強で遊んでばかりいては、子供は怠け者になる)
となってしまうのではないだろうか。不安でたまらない。

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メサイア

 5日前に、娘が女優デビューなどと書いたが、今度は息子が歌手としてデビューを飾ることになった。11月26日、名古屋の愛知県芸術劇場コンサートホールという素晴らしい会場でデビューを果たす。「興味のある人はぜひ4:00からのコンサートにおいでください」などと告知したことを息子に知られたら怒鳴られるだろうが、これは本当のことである。そのコンサートというのは「メサイア」と呼ばれるキリスト教の音楽会のことであり、名古屋のミッション系の女子校・金城学院(「かねしろ学院」というのは仮の名で「きんじょう学院」が正式な名称)が主催する「メサイア」に息子が男性コーラスの一員(テノール担当)として参加するのだ。しかし、この「メサイア」というのはいったい何なのであろう。息子に尋ねてもはかばかしい答えが返ってこないので、少し調べてみた。
 
 「メサイア」とは、ドイツの作曲家ヘンデル(1685~1759)が作曲したオラトリオ(独唱・合唱・管弦楽によるキリスト劇音楽)のことである。キリストの生涯が、<預言・誕生><受難><復活・永世>の三部に分けて描かれた美しいアリア(独唱)とコーラス、特に「汝ら主をほめたたえよ」という「ハレルヤ」大合唱は、聴く者の魂をゆさぶり天高く突き上げられるような感動を与えられる。なお、「メサイア」とはヘブル語の「メシア(宗教的な指導者)」を英語読みしたものである。

 ふーん、なるほどと半分くらいは納得できるが、演技はなく、大道具・小道具・衣装を用いないオペラだと思えばいいようだ。
 息子は中学からミッション系の学校に通っているため、キリスト教と縁がないわけではない。中学3年間は聖歌隊というものに所属して、礼拝のときや何かの学校行事のときにはみんなの前で賛美歌を歌ってきた。私は一度も聞いたことがないが、妻に言わせると、なかなかきれいな声をしているらしい。幼い頃は、親戚の結婚式のたびに「愛は勝つ」という歌を歌わされたのがトラウマとなって、カラオケに連れて行っても絶対にマイクを握らなかったのに、何故だか中学では自分から聖歌隊に加わった。元来臆病者だから、人前で歌う姿など想像できなかったが、それなりに楽しんで3年間やり通した。もともと音楽には興味があるようで、クラシックコンサートにも何度か行ったことがあるし、高校になってからはあれほど嫌がっていたカラオケにも友達と行くようになった。歌うのは母親の影響を受けてSMAP中心らしいが、成長したものである。
 今度の「メサイア」に参加するきっかけとなったのも、昨年行われた「メサイア」を聞きに行って、えらく感動して自分も歌ってみたいと強く思ったからだそうだ。息子の友人の母親が金城学院の教師をやっておられるので、参加できるかどうかをお尋ねしたところ、「どうぞ」と許可がいただけて、9月から毎週1回合唱の練習に加わるようになった。女子校まで行って練習するのだから、「女子高生と仲良くなれるチャンスができていいな」と冷やかしてやったら、一緒に練習しているのは女子高生ではなく、もっと年上の女子大生や社会人の人ばかりだと答えた。希望して定員に余裕さえあれば誰でも参加できるようで、色々な人たちがいるらしい。みんなで力を合わせて一つのことを成し遂げようというエネルギーにあふれていて、いい刺激を受けているようだ。夜遅く帰ってきても、疲れた様子もなく充実した顔をしているから、貴重な体験をさせてもらっているんだなと、密かに喜んでいる。
 その「メサイア」もいよいよ明日だ。23日の祝日には午後から半日練習に励んできた。私が仕事を終えて帰宅したした時に、息子の部屋から練習する声がもれ聞こえてきた。初めて聞いたが、いい声だった。きっと本番でもうまくやれるだろう。私は聴きに行くことはできないが、素晴らしい時が過ごせるように祈っている。


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悲しいとき・・

  季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち  
  夢のない家を出て、愛のない人に逢う
  人のために良かれと思い、西から東へかけずり回る  
  やっと見つけた優しさは、いともたやすくしなびた
  春を眺める余裕もなく、夏を乗り切る力もなく  
  秋の枯れ葉に身を包み、冬に骨身をさらけ出す
  今日で全てが終わるさ、今日で全てが変わる  
  今日で全てが報われる、今日で全てが始まるさ
                  泉谷しげる「春夏秋冬」
 
 泉谷しげると言っても、今は役者としての彼しか知らない人も多いだろうが、れっきとしたフォークシンガーで、私の若い頃には、柔の吉田拓郎に対して、豪の泉谷しげるという位置づけで語られることが多かった。当時から、歯に衣着せぬ言説は聞くものの溜飲を下げさせてくれることが多く、かく言う私も彼のファンの一人であった。
 だが、実を言えば彼の歌はこの曲しか知らない。昔よく行ったカラオケで何度か歌おうとしたことがあるのだが、私の覚えているよりも何故かテンポが速く、いつも途中で断念したものだった。しかし、たとえ上手く歌えなくても、この歌は好きだ。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」をモチーフにしたような歌詞が、なんともいえぬ哀愁を感じさせる。己の出自と重ね合わせて、身につまされるというのではない。私のような我がまま育ちの見栄坊など、この世の辛酸など何も知らない大甘な男だ。いくら斜に構えてみたところで、ただのポーズに過ぎない。それぐらいのことはこの年になれば分かる。
 しかし、甘ちゃんだからこそ、大した考えもなしに起こした行動で、周りに迷惑を引き起こしてしまうことが多々ある。まさしく、

  人のために良かれと思い、西から東へかけずり回る  
  やっと見つけた優しさは、いともたやすくしなびた

である。
 人のためによかれと思い行動を起こしても、私の場合、それは結局自分を満足させるためでしかないようだ。何も真実が見えないまま、そんな自己満足のために迂闊に東奔西走しても、徒に周りを巻き込むことにしかならない。たとえそれで、なにがしかの結果を得られたとしても、そんなものはいとも簡単に崩れ去る物でしかない。「人のために」などと錦の御旗を振ったところで、結局は何にもならないとしたなら、そんなものはただの自己陶酔でしかなく、巻き込んでしまった周りの人たちにどう詫びればいいのだろうか。
 以前私は、人と人の心をつなぐには謙譲と寛容が必要だなどとしたり顔に書いた。つくづく大馬鹿野郎だ。何も見えず、何も聞こえず、何も考えられずに、ただ周りに迷惑をかけるだけ・・・こんな人間に誰がそんな心で接してくれるというのだ。いくら大声で詫びたところで取り返しが付かないではないか。
 こんなに悲しいことは今までにそんなになかったような気がする。
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お守り

 高2の女の子が修学旅行で九州に行くので、塾を1週間休むと言った。「そうか、気をつけてね」と言った瞬間に大事なことを思い出した。「大宰府には行くの?」「はい」「それじゃあ、お札を買ってきてくれる?」と無理矢理頼み込んでみた。そう言えば、今あるお札も、彼女のお姉ちゃんが修学旅行で大宰府に行った時に買ってきてもらったものだった。さらにはその上のお兄ちゃんが大宰府でお札を買ってきてくれたのがそもそもの始まりだった。もう少しで脈々とつないできた伝統(?)が途切れるところだった。「いいですよ」と彼女が親切に言ってくれたので、古いお札とお金を渡して「お願いね」と頼んだ。
 その子が昨日1週間ぶりに塾に来て、約束どおり大宰府のお札を買ってきてくれた。(しかも、ハウステンボスの「アニーおばさん」のチーズケーキと長崎の福砂屋のカステラまでお土産にくれた。いい子だなあ!)早速、いつもの場所に安置した。それを写真にとってみたが、場所は黒板の上にあるエアコンの上である。真ん中にお札を置き、その周りに置いてあるのが左からピッコロ、シーサー、秋田犬だ。何故そんなものが一緒においてあるのかと言われても、大した理由はない。はじめはジャジャ丸・ピッコロ・ポロリの3つの指人形を部屋の飾りとして遊びで置いていたのだが、いつの間にか塾のお守りのような存在になり、入試に臨む生徒たちがお守り代わりに貸して欲しいと言うようになった。試験当日は、少しでも平常心を保つことが大事であるから、そんなものでも心の支えになるなら、と希望者に貸し出しているうちに、いつの間にかジャジャ丸とポロリが行方不明になってしまった。入試が終わると途端に塾に来なくなる生徒もいて、返してもらう機会をなくしてしまうことが時々あるからだ。返せと、電話するのもなんだから、その度に新しいメンバーを補充しながら、現在では写真のようになっている。
 シーサーは私の娘が沖縄に行った時のお土産であり、秋田犬は『日本の天然記念物』という雑誌の付録であったフィギュアである。なんにせよ、一時の気休めであるから、どんなものであっても構わないのだろうが、一応はそれらしい謂れを無理矢理作り出して、これを持っていけば安心できるから、と気の弱そうな子には勇気付けている。いくら勉強していても、最後の最後はどれだけ普段どおりの力を出せるかが勝負の分かれ目だから、私にできる最後の仕事は生徒を勇気付けてやることだけだ。「ドキドキしてきたら、ピッコロを握り締めてごらん。すーっとして落ち着けるから」などと怪しい宗教家のようなことを言ってみることもある。まあ、試験さえ終わってしまえば私の言ったことなどまるっきり忘れてしまうのだから、期間限定の魔法のようなものかもしれない。
 これ以外にも、私の塾秘伝のお守りがある。それは京都の北野天満宮で売っている梅干である。北野天満宮は梅の名所として名高いが、それにあやかって梅干が箱に入って売っている。15年近く前に父が初詣に行った折りに買ってきてくれて、受験生に京都の受験の神さまのところの梅干だと言って分けたところ、なかなかの好評でそれ以来ずっと、受験生には1粒づつ渡している。「皮を食べたら種を取っておいて受験会場までもって行けよ、必ず芽が出るから」と言っておくとほとんどの生徒が素直に言うことを聞いてくれる。中には梅干が食べられないという子もいるので、そういう子には家族に食べてもらって種だけ持っていけばいい、と安心させている。おぼれる者藁をも掴むというが、本番近くなるとあれこれ精神的な支えがどうしても必要になるので、梅干は最後の切り札だ。
 今は娘が京都に住んでいるので、頼めば年末に買って帰ってきてくれるし、足らなくなれば郵送させればいい。それまでは、妻が日帰りで、観光がてら神社まで行って合格祈願をしてきた。えらく高くついた梅干だったが、今はずいぶん負担が少なくなった。だからと言って、効果が少なくなるなんてことはないだろうけど。
 本当に、私も気を引き締めなければならない時期になった。


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ハウルの動く城

 久しぶりにDVDを見た。まとまった時間が取れるのは日曜日だけ、その日曜日も授業が終わった瞬間に、ビールを飲んでだらだらモードに入ってしまうと何か1つの行動を起こすのが億劫になってしまい、何をやっていたのか分からぬままに時間が過ぎてしまう。ずっとこの繰り返しで、月曜の朝目覚めると、軽い二日酔いの頭で「あ~あっ」と溜息をつくことになっている。
 しかし、昨日は先週半ばに送られてきた「ハウルの動く城」を見ようと固く心に決めていた。それは、このブログのネタにする下心があったのと、最近になってやたらDVD発売のジブリのCMを見かけるようになり、「そんなに宣伝するなら見てやるよ」くらいの気持ちが湧いてきたからである。
 5時に塾を終え、自宅に戻ると妻が一人で「ハウル」を見終えたところだった。「どうだった?」と私が尋ねると「木村さんがよかった」とトンチンカンな答えが帰って来た。「だめだと言う人もいたから心配してたけど、よかったよ、木村さん」おいおい、いくらSMAPヲタだからと言っても、木村拓哉だけじゃないだろう。「話はどうなの?」「う~ん、ジブリが自己満足してるだけかな・・」「どういうことだ?」「見るんでしょ?見れば分かるんじゃない?」確かに見ればなにかが分かるんだろうけど・・「お前とは観点が違うからなあ」何でもかんでも、SMAPを基準にものを見られてはかなわない。私がそう嫌味を言っても「木村さんかっこいいわ。これならツヨポン(草なぎ剛)の『ロボッツ』も見なきゃいけない」と訳の分からぬことを呟いているだけなので、感想を聞くのは諦めた。
 夕食後、酔いも手伝ってうたた寝をしてしまい、はっと気付いたのが10時頃。2時間の映画だから、12時過ぎまでかかるかと思いながら見始めた。
 確かにハウルはカッコいい。1人だけ絵柄が違っていて、ジブリのキャラだとは思えない。木村拓哉の声もまあ悪くはない。しかし、その分ソフィーの声をやっている倍賞千恵子に無理を感じてしまった。ソフィーが魔法によって婆さんになった時はいいけれど、若い姿の時にはかなり違和感を感じた。声に若さがない。聞いていて切なくなってきたのは、私だけなんだろうか。そう言えばソフィーの顔立ちが若い頃の彼女に似ている。それだから過敏に反応してしまったのかもしれないが、残念な気持ちが拭えない。
 物語は3分の2までは面白かった。映像もきれいだし、ハウルの城など精緻に描かれていて人が言うほど駄作でもないなと思った。このまま行ったら最高傑作かも、と淡い期待を持ったが、やはりその期待は無残にも押しつぶされてしまった。ハウルの城が、魔女サリマンに見つかるといけないからと一旦壊されたまではいいが、それなら何故またすぐに作り直させたのだろう?もうここから先は話が全くちんぷんかんぷんで何がなにやら分からぬまま、エンディングになってしまった。最後にサリマンが、「王様を呼んで、こんなくだらない戦争をやめさせましょう」と言ったくだりでは、そんな力があるなら始めから戦争をやらせるな、と思わず叫びたくなってしまった。第一、どうして戦争が行われているのかについて、何の説明もなかったではないか。私が酔っ払っていたせいなのだろうか、話に訳の分からないことが多すぎる。
 そんなことを考えずに映像を楽しめよ、とジブリは言いたいのか。そういう意味なら妻の「ジブリが自己満足している」という意見も納得できる。「もう一回見たら話の内容が分かるかも」と妻は言うが、何度も見なけりゃ分からないような映画を作るな、と言いたい。原作があるようだから、機会があったら読んで、本当にこんな訳の分からぬ話なのか、ぜひ確かめてみたい。
 娘は映画館でこの映画を2、3回見たらしい。何に引かれてそんなに見たものなのか今度帰ってきたら聞いてみよう。まあ、セミプロ気取りで、とうとうと持論を展開してくれるだろうが、途中で聞くのが面倒くさくなるだろうな、きっと。
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フレディー

 風が冷たくなり、紅葉もいつしか残り少なになって、もうそろそろ冬かなと思う今日この頃、思い出す話は「葉っぱのフレディ」。ちょうど今、中学3年生の英語の問題集を製作中の私の手元には、教科書に載った「葉っぱのフレディー」のダイジェスト版がある。それを以下に訳して、行く秋を惜しんでみようと思う。
    
      『葉っぱのフレディー』
 春がやって来た。葉っぱのフレディーは背の高い木の枝に生まれた。何百もの葉がその木で生まれた。彼らはみな友達だった。みんなで一緒にそよ風の中で踊り、日の光の中で遊んだ。
 ダニエルは一番大きな葉っぱで、フレディーの親友だった。彼はたくさんのことを知っていた。彼は、自分たちが公園の木の一部であることを説明してくれた。彼はまた、鳥や太陽や月についても説明してくれた。

 フレディーは葉っぱであることが大好きだった。夏は特に素敵だった。たくさんの人々が公園にやって来た。
 「さあ、集まって木陰を作ろう」とダニエルは言った。「木陰を作るのは僕たちの生きる目的の一部です。人々を幸せにするのは、生きるためのよい理由です」
 老人たちが木の下に座って昔のことを話した。子どもたちは走り回った。彼らを見るのはとても楽しかった。

 夏が過ぎ、秋がやって来た。間もなく葉っぱたちは色を変えた。赤くなるものもいれば、黄色くなるものもいた。フレディーは紫になった。彼らはみなきれいだった。
 ある日、奇妙なことが起こった。葉っぱのうちの何枚かが、強い寒風に吹き飛ばされた。葉っぱたちはおびえた。「何が起きているんだろう?」彼らは言った。「葉っぱが家を変える時なのです」とダニエルは言った。「それを死ぬことと呼ぶ人もいるけれど・・」

 「僕たちは死ぬの?」フレディーはたずねた。「はい」ダニエルは答えた。「あらゆるものが死ぬのです」「僕は死なないよ!」とフレディーは言った。
 しかし、彼の友人たちは次々と落ち始めた。間もなくその木はほとんど葉がなくなってしまった。
 「僕は死ぬのが怖い」とフレディーはダニエルに言った。「私たちは自分たちの知らないことは怖いのです」とダニエルは言った。「でも、君は春が夏になり、夏が秋になった時に怖がったりはしませんでした。変化は自然なものなのです」
 
 「僕たちは春になったら戻ってくるの?」フレディーはたずねた。「分かりません、でも命は戻ってきます。命は永遠に続き、私たちはその一部なのです」ダニエルは答えた。
 「僕たちは落ちて死ぬだけなんだ。どうしてここにいるんだろう?」フレディーはまたたずねた。
 ダニエルは言った、「友だちや太陽や木陰のためにです。そよ風や人々や秋の色を思い出してください。それで十分ではないでしょうか?」
 その日の午後、ダニエルは微笑みながら落ちていった。フレディーが枝に残ったただ一枚の葉っぱだった。
 
 次の朝、初めての雪が降った。風が吹いて来て、フレディーを枝から離した。何も痛くはなかった。
 落ちるときに彼は初めて木全体を見た。彼は「命は永遠に続く」というダニエルの言葉を思い出した。
 フレディーは柔らかな雪の上に降りた。彼は目を閉じて眠りに就いた。
 彼は知らなかったが、木や地面の中には春の新しい葉っぱたちへの準備がもう進められていた。


 これを人生のはかなさを嘆いた話ととるか、命の永遠さを謳いあげた話ととるかは人それぞれであろう。しかし、これだけのダイジェスト版でも心に訴えるものを持った『葉っぱのフレディー』が素晴らしい物語であることだけは間違いないだろう。

 なお、英文は、 http://blogs.yahoo.co.jp/jukucho19580615/16206664.html で読める。

 
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