goo

秋味

 10月ももう終わりだ。次第に秋も深まってきたが、木の葉の色づき加減はまだまばらだ。自宅から1kmも車を走らせればすぐに山道になってしまうので、どんなに鈍感な私でも木々の装いの変化は見てとれる。今一番気づくのは、そこかしこに立っている柿の木に何とまあ多くの実がなっていることか。写真は私が何本も見かけた中で一番たわわに実っている木を写真に収めたものだが、如何せん携帯のカメラなのでピントが合わず残念な物になってしまった。実物は大きく広がった枝の隅々まで見事なほどびっしりと実がなって、数十メートル手前からでも柿色が浮かび上がってきて壮観を呈している。自然生えなのか、人の手が入ったものなのか判然としない場所に立っているのだが、何故こんなに実がなるがままにされているのだろうか。実の一つ一つは小粒だから、渋柿なのかもしれない。私の家の庭にも大きな渋柿の木が植わっているが、今年はあまり実がならなかった。毎年今頃は実がポトリポトリと落ちて、気付かずに踏んでグチャグチャになったりするものだが、何故だか今年は実が少なかった。実がまだ青いうちに私の父が枝を切ってしまったせいもあるだろう。歩く心配はない代わりに、この季節に恒例のものがない一抹の寂しさを感じないでもない。
 柿とは対照的に、山の栗の実はもうとうに落ちてしまったようだ。2週間ほど前に父が山に入って背負い籠いっぱいに栗を拾ってきた。毎年採りに行く場所が決まっていて大量に拾ってきては自分で殻をむいて実をとり出し、皮を剥いて妻に手渡す。妻はそれをご飯に炊き込んで栗ご飯にする。あまりの量の多さに一週間近くずっと栗ご飯が続くが、これは我が家の秋の風物詩として定番になっている。
 父といえば、田舎育ちのため野山に入って色々な物を採るのが生き甲斐のような人物だ。春には筍を掘ってくる。淡竹(はちく)と言って紫色をした筍だが、ウンザリするほど採ってきては親戚近所に配る。最後には配る所もなくなるほど採ってくる。夏は自分の畑の世話で忙しくて、山野にまじることはないようだが、キュウリやトマトなど畑の収穫物を連日持ち帰ってくるので、これも我が家だけではとても食べきれず、各方面に配ることになる。
 秋は父の本領が最も表れる季節である。畑仕事が一段落した頃を見計らっては、山に入り込む。目的は自然薯(じねんじょ--山芋)掘りだ。私は今までに1・2回しかついて行ったことがないので、人から話を聞くばかりだが、自然薯掘りに関しては超人的な神業の持ち主だそうだ。もともとが大工で力仕事はお手の物だが、1m位も地中に伸びた自然薯を途中で折らずに掘り出すには相当の技術と根気がいるようだが、父の掘ってくる芋は見事なまでに地中にあったそのままの形を保っている。私はそれを見ては「これは立派だ」などと驚くばかりだが、それを掘り出すのにどれだけの労力が要ったのかは知らないでいる情けない息子だ。
 しかし、掘ってきた芋をすってとろろ汁にして、ご飯にかけて食べるときのその食べっぷりだけは、立派な息子だと自負している。芋を土や砂・うす皮が取れるまできれいに洗い、それをすり鉢にこすって粗くおろす。それからすりこぎで丹念に丹念にこねていくのだが、決して簡単なものではない。同じ方向にグリグリ回し続けるには力もいるし、忍耐力もいる。私の最も不得意とする作業だが、近年は父だけに任せておくのも申し訳なく、私も進んですりこぎを握る。だが、まだまだ未熟だ。ビールでも飲まなけりゃ、とても我慢強く続けられない。
 粗い粒がなくなるまで1時間ほどじっくりこねた後で、日本酒・卵を入れ味を調える。なじませたら、かつおだしの醤油の汁を少量ずつおたまにとって流し込みながら、すり続けて仕上げていく。少し濃い目加減にのばしたところで完成!しばらくそっとしておくと、表面が細かな泡でおおわれていかにもうまそうになる。茶碗に少なめに盛ったアツアツのご飯に、とろろをたっぷりかけると、さあーっと小さな音を立てて広まる。それを一気に口に流し込む。う~~ん、うまい!何杯でも食べられる。 最高のご馳走だ!
 
 近年は父をはじめ、すき者が乱獲したせいか、自然薯が本当に少なくなったと父は嘆く。事実、今年はまだ一度も掘ってきていない。私としては一日も早く食べたいのだが、もう72にもなった父に無理をさせるわけにはいかず、じっと我慢している。だけど、早く食べたいなあ。


コメント ( 26 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんか・・ビミョー

 中間試験が終われば、必ず成績が返ってくる。塾としてはテストの点数をあげるのが義務であるから、どんな点数を各生徒がとったかは大いに気にかかるところだし、その結果をもとにして今後の指導方針も考えていかなければならない。そこで、なるべく全員から結果を聞くようにしている。しかし、当然生徒にも色々なタイプがあって、よくても悪くてもすぐに答えてくれる者もいれば、完全に拒否する者もいる。特に女の子は、はっきり教えてくれない子が多くて苦労する。たとえ教えてくれたとしても、私の「テストどうだった」という問いかけに、ほとんどの子が「ビミョー」と答える。「えっ、ビミョーってどういうこと?」と、この言葉が流行り始めた頃にはよく聞き返したものだが、今ではもう慣れっこになって、それは「普通のでき」ぐらいの意味だと解釈するようにしている。
 それにしても、この「ビミョー」という言葉は何度聞いても耳障りな言い回しだと思う。何か食べている時に「それおいしい?」ときけば「ビミョー」、マンガの本を読んでいる子に「それ面白い?」とたずねても「ビミョー」。いったいぜんたい何なんだ、おいしのかまずいのか、面白いのか面白くないのか、もっとはっきりしろ!と思わず怒鳴りたくなる。
 教育の専門家たちが、今の子供は自分の意思を明らかにしたがらないと指摘するのをよく見かけるが、その傾向は確かにあると思う。私などが中学生の頃は、とにかく他人と同じなのが嫌で、少しでも違う格好をしたかったし、違うことを言ってみたかったものだ。しかし、今の子供たちは人真似をしているつもりはないだろうが、他人と同じような服装をしたがり、同じようなしゃべり方をしたがる。そうすることで仲間意識を高めようとしているのかもしれないが、1つのグループ内には暗黙の了解でもあるが如くに、ステレオタイプ化した者達が集まっている。それは女の子の間で顕著な現象であるが、昨今では男の子でも同様だ。同じような色に髪を染め、同じような髪形をし、同じような服を同じように着こなす。そんな奴らを見ると、お前らには自分の意思というものがないのか!と思わず突っ込みを入れたくなる。前後左右どちらを見ても、自分のコピーばかりではかなり居心地が悪いと思うのだけど、彼らにとってはそのほうが楽なのだろうか。変なものだ。
 もう1つ、子供たちと話していて気になる言葉がある。それは「なんか」という言葉である。先日も、塾に遅刻してきた女子小学生に、遅れた理由をたずねたところ、「なんか一人の男の子が、なんか勝手なことばかりして、なんかみんなに迷惑ばっかりかけているもんだから、なんか・・・」と言って、少し考えてから「なんかみんなで話し合って、それでなんかその男の子が運動場を走らされたから・・・」と「なんか」を連発して、結局は何がなんだか要領を得ない話になってしまった。これは極端な例であろうし、その子にしてみれば無意識に使っている、いわば息継ぎのようなものかもしれないが、聞いていると本当に邪魔くさい。私に遅刻を怒られると勘違いして、焦って弁明しようとしたのかもしれないが、しどろもどろになればなるほど頻発される「なんか」という言葉は、その子の気持ちの揺れ具合を端的に表わしているようだった。言葉を探している間に、無言でいることに耐えられず、思わず出てくる言葉なのだろう。そうこう言う私でさえも、案外なときに使っていることもあって、気づくとはっとしたことが何度もある。これは結構みんなが使ってるなと思って、テレビのワイドショーを注意して見ていたら、出演者のだれもが多かれ少なかれ使っているのを発見した。これほど大人が使っているのなら、子供に伝染しても無理ないなと実感した。
 言葉は生き物だから、時代によって変わっていくのは仕方ない。しかし、逆に言えば、言葉が時代を映し出す鏡だと言うこともできるだろう。すると、今の時代は曖昧で、旗幟を鮮明にするのを避けようとする空気で覆われていることになるのだろうか。
 なんかビミョーだ!
コメント ( 27 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原竜也(2)

 10月に入り、妻は落ち着いた暮らしをしている。9月のSMAP三昧の日々が過ぎたあとは嘘のようにおとなしい、と思ったら、7日に東京まで『天保12年のシェークスピア』を観に行っていた。日帰りだったから、ついつい忘れるところだった。シェークスピアの37の戯曲が織り込まれた井上ひさしの原作を、蜷川幸雄が演出した舞台だ。出演者が、唐沢寿明、藤原竜也、篠原涼子、高橋恵子、夏木マリなど豪華なメンバーが揃っていて、4時間の舞台だがとにかく面白いらしい。妻に感想を聞いてみたが、「藤原くんがよかった」と思ったとおりの答えしか返ってこなかったので、馬鹿らしくなってそれ以上聞くのを止めた。ただ、しばらくしてから「時代が時代だから仕方ないんだろうけど、人を簡単に殺すのが観ていてちょっと・・・」と感想めいたことをぽつりと漏らしたが、原作も舞台も知らない私には何もコメントできなかった。「勿論そんなことは、藤原くんがよかったからどうでもいいんだけど」と他の出演者が聞いたら怒るようなことも言っていた。そのときの souvenir としては、「藤原竜也06年カレンダー」をうれしそうに買ってきたくらいだから、本当に藤原だけを観に行ったようなものだ。
 この公演も、11月6日に大阪で終演を迎える。妻は、5・6両日のチケットを苦労して確保したようで、京都の娘の部屋を宿泊所にして、千秋楽の前日と当日の公演を堪能する予定でいる。京都に拠点があることで、関西方面は気楽にほいほい出かけていくが、東には何もないので、息子をそちらに送り出して新たな拠点としようと画策している節がある。まあ、それは勘ぐり過ぎだろうが、本当に東部基地ができたら糸の切れたタコのように制御不能状態になってしまうかもしれない。
 何やら話が上手くつながりすぎて、わざとらしい気もするのだが、藤原竜也の写真集「no control」が発売された。言うまでもなく、発売日その日から我が家にはある。この写真集の発売に関しては、妻には心の葛藤が色々あったようで、後から話を聞くと笑えた。写真集発売を記念して、予約をしたファンに藤原竜也が直接写真集を手渡す握手会が、ある書店で企画されたそうだ。しかし、それは東京と大阪で催されるだけで、名古屋ではあいにく予定がない。『天保12年・・』の舞台もそうだが、何故名古屋を素通りするのか、名古屋はそれ程商業価値がないのか、と妻は何度も嘆いていた。が、とにかく名古屋では行われない。なら大阪に行こうかと思ったらしいのだが、藤原と握手するには電話などでは予約ができず、直接書店に赴き、写真集の予約とひきかえに整理券をもらわなければいけないと決められていた。さすがの妻も、予約をするだけのために大阪まで出向き、また握手をしてもらうためだけに別の日に大阪まで行くのはちょっと・・・と、断腸の思いで諦めたらしい。「そんなもん、行ってくればよかったのに」と私がからかってやったら、「でも、すぐに公演があるし・・今回は我慢した」と潔いことを言っていた。しかし、木曜日発売の週刊文春に、そのときの模様がグラビアに載っていたのを見つけて、「こんな太ったおばちゃんにまで笑顔で挨拶している。あーん、行けばよかったあ」と無茶苦茶なことを言う。でも、「藤原くんのファンは結構年齢層が高く、握手会に並んだ人も中年のおば様たちが多かったらしいの。誰にでもにこやかにしていた藤原くんでも、握手の相手が時々若い女性になると、さすがに笑顔が一段と華やかになったらしいわよ」などとウラ情報を教えてくれたから、気持ちはもう既に来週の公演に向いているのだろう。
 私は、「写真集を見せてくれ」と頼んでみたが、「なんであなたに見せなきゃいけないの」とけんもほろろに拒否された。別に見たくないさ、藤原の裸なんて、くそ!!


コメント ( 21 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋嬢

 昨年、名古屋地区で放映された「加藤家へいらっしゃい~名古屋嬢っ~」という馬鹿げたTV番組が再放送されている。3月25日には、DVD-BOX(全5巻)まで発売されたというから、人気番組だったのかなと不思議に思う。関東地区・関西地区でも放映されたらしいが、名古屋以外の地区の人が見たって何も面白くないだろうなと思う。余りにコテコテな名古屋弁と名古屋ネタ満載の番組なので、地元の人間ならツボにはまって大うけするところも、他地区の人には「何だこれ?」と思われるに決まっているからだ。
 主な登場人物である加藤家の人々の人物設定からして、地元の人間じゃなければ笑えないだろう。一部紹介してみると、
 
 父親 --- 自宅で開業の歯科医(名古屋は歯医者が多い)。前近代的・典型的な名古屋人でドラゴンズファン。
 母親 --- 有名ブランドづくしのカリスマ主婦としての地位を金でキープしている。 
 長女 --- 名古屋のTV局のフリーアナウンサー。
 次女(主人公)--- 名門金城(かねしろ)学院大3年生。ワガママで世間知らず。他人に気を遣うこともなく、世界は自分中心に回っていると思い込んでいる。名古屋のお嬢さまであることを誇りに思っている。「JJ」の読者モデルに選ばれることが生きがい。
 長男 --- 東海(ひがしうみ)高校2年生。家族の中では最も影の薄い存在。名古屋が嫌いで、ロス在住を切望。

 とまあ、地元の人間から見れば、よくもここまで嫌味な家庭を設定できたものだと思うくらいのいやらしい家庭だ。まず、父親。統計的に名古屋に歯科医が多いかどうかは分からないが、私の従兄弟でも、2人歯科を開業している。その暮らしぶりは、言うまでもなく派手である。たまに会うと、錦(名古屋の銀座)での豪遊振りを自慢してくれる、困った人たちである。その奥様達は、全身ブランドというほど金ピカではないが、優雅な生活をされているようだ。名古屋嬢を生み出す設定として、歯科医の家庭としたのはかなりの慧眼であると言えよう。
 その名古屋嬢の典型として描かれる主人公の次女のプロフィールには笑える。実は、私の妻も「金城(かねしろ)学院」らしき学校の出身であるが、共通する部分が色々あってなかなかの傑作だ。そんなことを言えば、自分の性格は全くの反対で、「他人を優先し、憂き世の辛さも身に沁み、人に気を遣ってばかりで、世界の片隅で健気に生きている」とでも反論するだろうが、そう思うこと自体がもうすでに、自分のことが一番大好きな名古屋嬢気質を表わしている。私の娘も京都では、「名古屋嬢!」などとからかわれているらしいが、そこまで派手とは言わないまでも、その素地は十分持ち合わせているだけに、反発はしても否定はできないようだ。
 去年あたりは、名古屋嬢と言えば「ブランド服と巻き髪」のゴージャスな外面ばかりが取り上げられたが、本当の名古屋嬢のいやらしさは、内面の高慢さにあると私は思う。地元で、SSKと称される名古屋の私立3大女子校に通うお嬢さま方にはそういうオーラを身にまとった子が多くて、塾生にも数人いるのだが、なかなか御しがたい。
 さらに長男の東海(ひがしうみ)高校というのは、私の出身校を模したものだろうが、この学校は多様な人材を輩出していて面白い。政治家で言えば、何の役に立ったのか全く分からない、元総理大臣の海部俊樹をはじめ、今回の衆院選で落選した直後に覚醒剤の常習で逮捕された小林憲冶まで、有名人が目白押しである。だが、お勉強ができる秀才さんの集まる学校としてのイメージが先行しているため、他の私立男子校と比べると華やかさに欠ける。それを上手く利用して長男の影の薄さを強調したのはうまいやり方である。
 この番組は、こうした人物設定が鋭いと思える、ごく一部の人にはリアリティーあふれる逸品だと言えなくはないだろうが、それが理解できない人が見れば、ただのドタバタ三文芝居に過ぎない。地元の、しかもコアな人々のウケ狙いとしか思えないこんな番組が、堂々と放映され、しかもDVD化までされるなんて不思議な気がしてならない。
 勿論、私は買うつもりは全くない。
コメント ( 18 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すっきり!

 なんだか最近、頭がというよりも心が煮詰まってしまい、授業をしていてもついつい言葉がきつくなっていることに気づいた。夏休みが終わってから、9月の最初の日曜を休んだだけで、ずっと毎日休まず授業をしているから、だんだんと視野が狭くなってきて、塾のことしか考えなくなってなってしまう。これは、心に黄信号が灯った状態であると、私は思っている。夏休みは、朝から夜遅くまで授業をしてへとへとになっても、日曜日は必ず休めるので、その日一日で気持ちを入れ直して次の週へとつなげることができる。その意味では、私の精神状態は肉体的な疲労にもかかわらず、ある程度良好な状態を維持できる。しかし、2学期になるとずっと休みなしで塾を続けることになるので、メリハリの利かない、いわばエンドレスの日々が続くような気がして次第に気持ちが鬱屈してくる。別に何かがしたいわけでもないが、温泉が恋しくなったり、やたら外でご飯を食べたくなる。バスの運転をしていても気づけばいつもこの歌を口ずさんでいたりする。

    僕が若者という名で呼ばれはじめて そして
    今になるまで
    つぶやき 
    あるいはさけびつづけた
    言葉を今 言おう
    何かいいことないかな
    何かいいことないかな
    何かいいことないかな
    何かいいことないかな
        河島英五 「何かいいことないかな」

 何かいいことないかなあ、毎日そんなことを考え出したらもうダメだ。どうにかして気持ちを入れ替えなけりゃあ、煮詰まってしまう。今の時期、受験生にとってはまさに正念場の時期であり、私がイラついていては敏感に生徒が反応してしまう。そうなる前に、気分転換をしなければならないことは、長い経験から分かっている。しかし、一日休んでリフレッシュなんて呑気なことは許されない。一日たりとも休むわけには行かない。松井の連続試合出場記録よりも、自分の連続授業記録の方が大切に決まっている。で、どうするか。
 毎年こうなったら、私は買い物に出かけることにしている。妻と連れ立ってデパートへ行き、何も考えずに欲しい物を買う。ただそれだけのことだが、私には結構効き目がある。まず、普段から人が集まるところに縁がない生活をしているから、都会の雑踏は祭りのように私の心を弾ませる。次に、欲しい物を探すことで我を忘れることができ、代金を精算する時(と言ってもカード払いだが)に、アアこんなに浪費してもいいのかと、しばし心の葛藤が味わえるのも、日常を離れられて頭の中がスーッとする。さらには、行き帰りの中で妻とぺちゃぺちゃしゃべり続けることも、大いに気分転換になる。さらにさらに、これだけまた借金したことになるから、よし頑張るぞと気合がこもってくる。うーん、私は何て単純にできているんだろう。
 そこで早速今日出かけた。朝早く起きて、教室の掃除を済ませ、授業の用意を簡単にし終えて、妻の用意ができるのを待って、勇躍出発した。それからは、3時ごろに帰宅するまで、怒涛の買い物(運良く私の好きなブランドがバーゲンをしていた)、昼食と一気に突っ走ってきた。何がなんだか分からぬ時間だったが、大きな紙袋を提げて帰って来たから、その分の効果がなければならないはずだ。
 で、どうだったかといえば、使ったお金の分くらいは頭がすっきりしたかもしれない。確かに昨日よりも心がずいぶん軽くなった。もっと買い物をすればもっと楽になれたかもしれないが、そうしたら、お金の心配がのしかかってくる。これくらいがちょうどいいのかもしれない。
 こんな単純な人間に生んでくれた両親に感謝せねばならない。
コメント ( 33 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちゃんと運転しろ!

 先日、塾バスを運転中にラジオを聞いていたら、元F1ドライバーの片山右京氏がパーソナリティーをしている番組があった。その番組は、車の運転についての様々な質問を受け付けていて、その日は、あるリスナーからの「車線変更が苦手です。なかなか入れてもらえないときもあれば、すっと簡単に入れる場合もあって判断が難しくて困ります。でも、入れてくれた場合には必ずハザードランプを点灯してお礼を言います」という手紙が紹介された。それに対して右京氏が、「本当は、ハザードランプを点灯させる必要はないのにね。昔は誰もそんなことをしなかった。気持ちよく譲り合う心を皆が持てば、そんなことをしなくて済むのにね。世の中がギスギスしているから、そんなこともしなくちゃいけなくなる。そんなのが必要じゃない社会になるといいのにね」とコメントした。これを聞いて私は、右京氏の感覚が優れていることにえらく感心した。彼の言うとおり、人々の心が寛容で満たされていれば、譲り合うことなど何も特別なことではなくなり、わざわざ礼を言う必要もなくなるだろう。当たり前のことを当たり前にする、そんな世の中になってくれたらと私も思う。彼の意見はまったくの正論だ。
 しかし、現実はそう簡単にはいかない。現代社会は多種多様な考え・感覚を持った人々から成る。私にとって正しいことが、ある人にとっては「?」となり、さらに別の人には誤りであることだってないとは言えない。以前私は、このブログで、人間同士のそうした埋めようもない溝をどうにかして克服するには、謙譲と寛容の心が必要であると書いた。それが理想論であるのは右京氏の考えと同じであるが、かと言って、現実を理想に近づける努力を怠ってはならないと思う。心を広く持ち、譲り合うことができたなら、かなり暮らしやすくなるはずだからである。
 話を車の運転にしぼって考えるなら、運転には個人の性格がかなり色濃く反映されるようだ。私などの運転は、自分としては最大限の注意を払っているつもりだが、人からは「荒い」とよく評される。妻などは、「同乗者に思いやりが足りないところなんて、あなたの性格そのものが表れている」と辛辣なことを言う。そこまでひどくはないだろうと思うが、そうは言い切れない証拠として、一つ嫌な思い出がある。2年ほど前のことだ。
 高校生の授業を終えて、生徒をバスで自宅まで送り届ける途中に山道を抜けなければいけなかった。一本道で11時過ぎだったため、そこそこのスピードが出ていたはずだ。しばらく行くと、前を走っていた軽四自動車に追いついた。ゆっくり走っている車なので、多少イラつきながらも後ろについて走って行った。私はもともと車間距離を十分とって走る方なので、近づき過ぎず、離れ過ぎずに1kmほど走っていったが、突然前の車が、ウインカーを出して停車した。狭い道なので、ゆっくり横を通り過ぎたが、何か唐突感は否めなかった。その後、塾生を降ろして帰宅したのだが、塾舎に入った途端に電話が鳴り出した。こんな遅くに鳴る電話に碌なことはないと思いながら、電話に出た。
 するといきなり、「お前んちのバスはどういう運転をしとるんだ」と怒鳴られた。「えっ?」「何だあの運転は。いつもあんな運転をしとるのか。お前か、運転しとったのは」「そうですけど」「何がそうですだ、ふざけるな。こっちは仕事で疲れてゆっくり走ろうとしとるのに、何であおってくるんだ」「えー、そんなこと・・」「何言っとるんだ、あやまらんか」どうも先ほどの軽自動車の運転手が、私の運転に腹を立てて電話してきたようなのだ。鬱陶しいから、とりあえずは謝っておこうと思って、「それはすみませんでした」「すみませんて、全然心がこもっとらんじゃないか。悪いと思っとらんのだろう」「いえ、そんなことはないです。すみませんでした」「なにがすみませんだ」・・・などとしばらく言いたいことを言われ続けた。私としては、電話で相手には見えないだろうが、文字通り平身低頭、心から謝ったつもりだった。が、なかなか納得してもらえず、最後には面倒くさくなってしまい、適当に聞き流していたら、相手は自分の中で溜飲が下がったのか、「もう疲れたから寝る」などと勝手な言葉を吐いて一方的に電話を切ってしまった。私は唖然として、その夜はなかなか寝付けなかった。
 私の運転に謙譲の心が欠けていたのは事実だろう。しかし、相手が少しでも寛容さを持ち合わせていたなら、こんなトラブルにもならなかったことだろう。勿論、私がもっとしっかり車間距離を開けて落ち着いて運転していたなら、最初から何も起こらなかったはずだ。う~ん、何か納得がいかないのは、やっぱり私が「謙譲と寛容」の心などを持ち合わせていない愚物だからなのだろうか。たぶんそうなんだろうなあ。
コメント ( 26 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あれから5年

 10月24日は、塾生Y君が亡くなって5回目の命日だった。Y君などとイニシャルで呼ぶのはよそよそしくてイヤなのだが、故人とは言えプライバシーを守るためY君と呼ぶ。
 彼は高校1年の4月から私の塾に通い始めた。長身で、ボサボサの髪形をして、どこか松田優作の若い頃を髣髴とさせる雰囲気を持った子であった。声がやたらに大きく、私に質問するときにも周りに響くので、もう少し小声で話せと何度となく注意したものだが、とにかく元気で、勉強にもやる気を見せる好男子であった。生前の彼の最後の思い出は、5年前にこの地方を襲った東海豪雨の日のことである。私が生まれてから一度も経験したことのないほどの土砂降りが丸一日ずっと続き、道路は水であふれ、川はどこも氾濫一歩手前になるほどの激しい豪雨だった。さすがにその日は塾も早めに切り上げたのだが、Y君からもその日の授業に欠席の連絡が入った。次の授業には出席したY君が私にその豪雨の夜のできごとを、例の大きな声で教えてくれた。「早めに学校は終わったんだけど、電車が不通になったことを先生が教えてくれたもんだから、もう帰れないやと諦めて、同じような友達何人かと一緒に学校に残って徹夜しようということになったんです。勿論、先生の了解も得てあったんだけど、みんなでワイワイやっていたらあっという間に朝になっちゃった。本当に楽しかった」私は、修学旅行みたいで楽しかっただろうな、などと答えたと思うが、その日が彼と話した最後になってしまった。
 その次の授業に、彼は現れなかった。欠席の時はいつも連絡をくれる家なのに変だなとは思ったが、よくあることと大して気にはしなかった。それから2日後の朝、Y君の母親から「Yが学校で倒れて入院しました。しばらく休みますが、また元気になったら行かせます」と電話が入った。私は驚いて、その夜塾に来たY君の友人に状況を尋ねた。すると、「部活のバスケでランニング中に突然倒れて、救急車で病院に運ばれた。心臓が止まっていたけれど、処置をしたら心臓は動くようになった。しかし、意識不明の重体」と涙ぐみながら教えてくれた。えーっ、あの元気の塊のYが、・・・私は絶句するしかなかった。その子は、その日に病院に見舞いに行ったが、集中治療室に入っていて顔を見ることができなかったと言う。話を総合すると状況は極めて深刻のようだ。私も翌日病院まで駆け付けようかとも思ったが、そんな逼迫した所へ私が行っても邪魔になるだけだと、はやる心を抑えて自重した。しかし、その塾生からは毎日詳細な連絡をくれるように頼んでおいたが、日に日に容態は悪くなるばかりだった。そして、倒れてから一週間目に当たる10月24日に息を引き取ってしまった。享年16歳、あまりにも、あまりにも短い一生だった。その報せを受け取ったとき、私は流れ落ちる涙を止めることはできなかった。
 お通夜は、妻が私の代理で参列したが、目を真っ赤に腫らして帰って来た。「Y君の高校の同学年の生徒が全員参列していたし、地元の幼馴染たちもほとんど来ていたみたい。その子たちがみんな泣いているし・・・とにかくみんなが悲しんで泣いていた・・」妻は思い出してまた泣き出した。
 翌日の葬儀には私が参列した。この日も、同級生全員が参列していた。普通の葬式ならば、参列者が少し離れた所に集まって、三々五々雑談する姿が見られるが、この時は誰一人として言葉を発する者はなかった。ただ、すすり泣く声、嗚咽をこらえる声などがもれ聞こえるだけで、しめやかに読経の声だけが式場をおおっていた。私は後ろの方に立って、Y君の遺影を見つめながらこの世の不条理についてずっと考えていた。こみ上げる涙をグッと我慢しながら、焼香台に向かったのだが、いざ焼香という瞬間にY君の母親と目が合い、こらえていたものが堰を切って流れ落ちてきた。頭の芯がジーンと熱くなり、何が何やら分からぬまま焼香を済ませ、ご両親に一礼して後ろへ下がった。私だけではなく、参列者全員がハンカチで顔を覆っていた。ああ、今思い出しても涙が出る。あんなに悲しい葬式は、二度とご免だ。
 葬儀のあと、3日ほどしたら、Y君の母親がお礼に来られた。何と言っていいのか分からず恐縮する私に、Y君の死因について教えてくださった。体が大きい割りに、まだ心臓がそれに見合うだけ発達していないと、運動などで一時に大量の血液を送らなければならなくなった場合に、心臓に想像以上の負担がかかり心臓が破裂してしまう、そういったことがごく稀にだが起こるそうだ。Y君もそのケースに当たるらしいが、何もそんなことが彼に起こらなくても・・・私は神の非情さを恨んだ。
 彼の命日にはずっと、花を彼の仏前(悲しい言葉だが)に供えさせていただいている。しかし、花屋に頼んでもって行ってもらっている。彼の遺影を見て、彼に線香を手向けたなら、必ず涙があふれて来るに決まっているから、臆病な私はまだ一度も彼の家を訪ねたことがない。
コメント ( 18 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲーム理論

 05年のノーベル経済学賞が、「ゲーム理論」を冷戦下の安全問題に応用し、経済学の領域を超える「紛争と強調」の研究が評価された、イスラエル・ヘブライ大のR・オーエン教授とアメリカ・メリーランド大のT・シェリング教授に贈られることになった。「ゲーム理論」とは何かと色々検索してみたのだが、要は、相手の出方に応じてどう行動するのが一番己に利益になるかを考える学問のようである。経済学など打算で物を言う学問であると毛嫌いしていた私だが、この理論は子育てや近所付き合いにも応用できるそうだ。小難しいことを言うより実践から学べ、と思う私には、そんなに各方面に応用できるバラ色の理論などハナから疑えと言いたくなるのだが、間違ってはいけないから少し調べてみた。
 シェリング教授は、冷戦中の50年代にこの理論を安保・軍拡問題に応用し、交渉当事者が手段を限定的にしたり、自らの立場を意図的に悪くしたりすることが、長期的な利益につながる可能性があることを解き明かし、戦略研究の古典として影響を与えている(asahi.com)そうだ。特に核攻撃に対して、必ず核による報復攻撃を行うことにし、他の選択は捨てて自らの手足を縛ることが核戦争の抑止に有効であることを証明したらしい。しかし、これでは何のことやらよく分からない。
 ゲーム理論の解説本を読めば、必ずと言っていいほど「チキンゲーム」が載っている。「チキンゲーム」とは、別々の車に乗った2人の運転手が互いの車に向かって一直線に走行するゲームである。衝突を避けるために、先にハンドルを切ったほうがチキン(臆病者)となり、屈辱を味わう。このことから、ある交渉において2人の当事者がともに強硬な態度をとり続ければ、悲劇的な結末を迎えてしまうにもかかわらず、プライドが邪魔をして双方が譲歩できない状況を比喩するのに使われることもある。小泉首相の靖国神社参拝をチキンゲームのようだと批判する声も新聞紙上で見かけたりするが、言い得て妙な気がする。
 このチキンゲームには、必勝法があるらしい。車を走らせながら、ハンドルを外し、相手に見えるように窓外に投げ捨ててしまう。すると、激突を避けるために相手は必ず譲歩する。これは自分の手足を縛るシェリング理論の応用と言える。
 う~ん、と私は唸ってしまう。ゲーム理論というのは、プレイヤーが合理的であることを前提としている。チキンゲームで言えば、衝突を回避するという屈辱は、衝突に比べれば些細な結末である。そのため、起こりうる衝突を事前に回避する行動が合理的といえるだろう。しかし、現実には衝突覚悟で、いわば、自爆覚悟で迫ってくる相手だっている。そんな相手に、非合理さを訴えたところで何も聞こえない。聞く耳持たない相手に何を叫んでも無駄なことは、誰にだって経験があるだろう。相手を説得しようとすることは、相手を自分と同じ土俵に立つ者と認め、自分の言葉で自分の心を相手に伝えることに他ならない。そうした場合には、分かってもらうための方便をあれこれ考えるのは有効であろうが、最初っから分かろうとしていない相手ならどうすればいいのだろうか。同じ土俵に上って来ずに、どんなことをしてでも自分の意見を押し通そうとする相手にはどうすればいいのか。非合理な相手に合理で立ち向かうことは不可能なのか。こちらも同じように非合理になってしまったら、その瞬間に交渉は終わってしまう。理には理で向かえばよいが、非理には何で立ち向かうべきなのか。私の認識不足なのかもしれないが、「ゲーム理論」は答えてくれていないように思う。

 彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず。彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆(あや)うし。(「孫子」謀攻編)

 やっぱり、「君子危うきに近寄らず」なのかなあ。

 
コメント ( 46 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断髪!

 髪の毛を切った。この前切ったのが、確か3月の終わりだったから、半年以上も伸ばし続けていたことになる。面倒だからこのまま伸ばし続けてやろうかとも思ったが、肩近くまで伸びてはさすがに家人からもブーイングが出始め、もう限界かなと思って切った。と言っても、理髪店に行った訳ではなく、自分で鏡を見ながらハサミでザクザク切り落としただけだ。実を言えば、もう15年以上も自分で切り続けている。何故だか理髪店の椅子に座ったまま、小一時間も拘束されるのがイヤでたまらず、自分で切れば勝手でいいやとばかりに、ずっと自分で切っている。当然切ったばかりの頃は、切り残しやら長さが不揃いやらで、異形ではあるのは否めないが、一週間もすれば自然に馴染んできてほとんど違和感がなくなる。今も、窓ガラスに映った頭を見るとイビツな感じがするが、細部に拘らなければなかなかなもんだと、無理にでも納得している。
 夏の盛りにもうかなり長くはなっていたが、松井がワールドシリーズを制覇するまでは切らないでおこうと、殊勝にも願をかけていた。だが、あえなく地区シリーズで敗退してしまい、心にぽっかり空いた穴をしばらくは埋められなかった。翌朝の試合中継に備えてビデオの予約をする必要もなくなったし、朝早く起きる必要もなくなった。松井の試合があった頃には、どんなことがあっても必ず8時前には目覚めていたのが、今では9時過ぎにしか起きられなくなってしまった。なんだかヤンキースの敗退で生活の歯車が狂ってしまったようで、自分に喝を入れるいい方法はないものかとあれこれ考えた結果、そうだ、髪の毛を切ろうと思い至った。
 小さな頃は真っ直ぐな髪質で、きれいなお坊ちゃん刈りをした写真が残っているぐらいだが、長ずるにつれて髪の先がクルクルと巻くようになってしまった。高校から大学の途中までずっとパーマをかけていたせいかもしれないと、冗談めかしてよく言うが、実際そんなことはないだろう。娘を見るとくせ毛っぽいので、全くの直毛である妻からではなく、私のほうから遺伝したと考えるのが自然だ。すると私のくせ毛も、先天的にあった要素が年をとるにつれて顕在化したものだと考えるのが妥当であろう。今のように短い間はさほど目立たないくせ毛も、髪が伸びるにつれて波立ってくる。後ろ髪など、鏡で見るとさほど長くないのに、いざ切ろうと思って指で延ばしてみると、本当に肩まで届いた。それを勢いよく3~5cmずつ切っていった。私が切る様子を横目で見ていた妻が近寄ってきて、「ここがまだまだ長い」と言って、ハサミを奪って遠慮なしに切った。おかげで鏡の前に敷いて置いた新聞紙が髪の毛でいっぱいになった。
 しかし、切り落とした髪を写した写真を見るとイヤになる。小学生の頃から白髪が目立つ、父親譲りの若白髪であったが、最近では全体的に髪が薄くなったせいもあるのだろうが、ほとんどが白髪になってしまった。後ろ髪にはまだ黒髪が残っているようだが、前髪は雪をかぶったように真っ白だ。中3の国語の教科書に、松尾芭蕉の「奥の細道」が載っている。その中に
    卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな   曾良
という句があるが、ここを学習するたびに、毎年必ず生徒が私を見てくすくす笑う。「染めればいいのに」とありがたい忠告も頂くが、今さら色を付けたところでかえって見苦しいだろうと、このままで行く覚悟だ。
 あーあ、本当にイヤになる。私の母が亡くなったとき、棺に入った母と最後の別れをする段になって、あっと思い立った私が母の髪を一房、ハサミで切り落とした。それを遺髪として母の霊前に供えてあるが、その髪の色合いが写真に収めた私の髪の色と酷似しているのだ。なんだか、カウントダウンが始まっているような気がして暗然たる心持ちになる。
 
 だけど、髪の毛を切った途端に寒くなって来るとは、なんとタイミングの悪いことだ。すかすかして、寒い!
コメント ( 38 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キラーストリート

 サザンてやっぱりいいなあ--最新アルバム「キラーストリート」を聞き終えた率直な感想である。 
 前作「さくら」から7年ぶりのアルバム発売とあって、文字通り待望久しい一作である。7年も経ったのか、と時の流れに驚くのだが、その間にも、290万枚をセールスした「TSUNAMI」などシングルCDは何枚も出していた。そのうちの何曲かと新曲を合わせて30曲が入ったこのニューアルバムは、中身がびっしり詰まった作品に仕上がっている。勿論、私は立派なことを言えるほどの音楽通ではないから、専門的なことは分からないが、デビュー以来ずっとサザンを聞き続けてきた1ファンとしては、懐かしくもあり、改めて彼らの楽曲の奥深い魅力を堪能させてくれる傑作であると断言したい。
 思い起こせば、私の20代はサザン一色だった。彼らのデビュー曲「勝手にシンドバッド」がリリースされたのが、1978年6月25日、私が20歳になったばかりの時だった。湘南育ちで青山学院の学生という、まさに生粋の都会派であるにもかかわらず、どこか泥臭さが消えない彼らの楽曲は、私を一瞬にして虜にした。「いとしのエリー」は今でも歌詞を見ずにフルコーラス歌えるし、「C調言葉に御用心」「栞のテーマ」「チャコの海岸物語」など、イントロを聞いた瞬間に口ずさみたくなる曲ばかりだ。1982年の「Ya Ya あの時代を忘れない」は、今でも楽しかった大学時代のことを思い出すときに、私の心のバックミュージックとして必ず流れる名曲だ。サザンの数ある曲の中で一番好きな曲は何かと尋ねられたら、迷いなく、この曲を答える。その後も「ミス・ブランニューデイ」「Bye Bye My Love」「真夏の果実」など、私が30代に突入するまで常に傍らにあったのが、サザンの曲だ。
 その間に発売されたアルバムは全て買い、カセットテープにダビングして車の中でずっと聞いていた。15年ほど前に初めてCDチェンジャーの付いた車に乗るようになってからは、サザンのCDが必ず1枚はセットされている。ふっと彼らの昔の曲が聞きたくなる。CDを合わせて、曲が流れ始めると、その瞬間にそれをよく聞いていた頃にタイムスリップして、懐かしさで胸が締め付けられそうになる。まさに私の青春の音楽だと言っては、まだまだ音楽シーンのトップを走り続け、しかもニューアルバムを発表したばかりの彼らに失礼になるだろう。
 しかし、サザンのメンバーもそろそろ全員50歳前後。まだまだ若く見える桑田佳祐も来年の2月で50歳だ。客観的に見ればいいオヤジだが、この「キラーストリート」には、そんな年齢を感じさせないパワーがあふれている。多少、歌詞に説教臭さが感じられなくもないが、愛がどうのこうのとばかり言っていられる年でもないし、50年の歳月が滲み出てきても当然であろう。それが桑田独特の歌い方で、曲に合わせて聞かせられると、なんの嫌味もなく耳には入って来るから不思議だ。これこそがサザンの楽曲が持つ真骨頂なのかもしれない。
 今回のアルバムで、私が今のところ最も気に入っているのは、Disc2の「リボンの騎士」だ。原由子が歌っているが、その歌詞の終わりの部分を。
    
    出来栄えのいい大人の仮面は脱いで
    裸の自分に嘘をつかないで
    淫らな獣のオスのままでいて
    私の中に生命を宿すために
 
 この曲について、桑田が語っている。「卑猥な言葉を歌ってもイヤらしさを感じさせないと言われる、彼女のニュートラルで独特な声質に今回も期待していたが、思った通り、癒されたい男たちの願望を歌ったこの曲を、安らぎ感漂うララバイへと導いてくれた」
 そのとおり。まったくサザンは最高だ。
コメント ( 14 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前ページ