goo

オレステス

 木曜日、妻が東京まで藤原竜也の舞台「オレステス」を観に行ってきた。2時開演の舞台に、10時半に家を出ればのぞみを使って十分に間に合うというのは驚きだ。夜も9時前には帰ってきたらしいから、2時間半の舞台を観て往復したにしては早い帰宅だ。途中でSMAPのコンサート会場に立ち寄ってグッズを買って来たというから、色々楽しんできたようだ。
 帰ってきた夜は「よかった!!」としか感想を聞かなかったが、翌日になってもうちょっと細かくたずねてみた。
 「ひげは似合ってた?」
 「うん、TVで観たときよりもずっとかっこよかった」
 「いい席だった?」
 「うん、すごく前のほうで通路側だった。竜也君が通路でせりふを言う場面があるのだけど、ふっと振り返った竜也君の顔が私の本当に目の前に来たの。すごかったなあ・・・」
 「ふ~ん・・・。で、話の筋は分かったの?」
 「色々本は買ったんだけど、読みきれなくて困ったなあと思ってた。そしたら、○○子(娘)が話の内容を簡単にまとめてメールしてきてくれて、それを新幹線で読んでいったから私はよく分かった。でも、そうやって少しは勉強していかないと一回観ただけでは話の内容が分からない気がする」
 「まあ、ギリシア神話だからな、カタカナの名前を覚えるだけでも大変だ。で、どんな話なの?」
 「オレステスとエレクトラという姉弟がいて、その父親がトロイに出征中に、母親が叔父と不倫をしたものだから、その叔父を殺して・・・」
 「エッ?ちょっと待ってよ。その話どこかで読んだことがあるぞ。何だったかな・・・」
 私はしばし記憶をたどってみた。ギリシア神話は色々な物語の土台になっているから、こうした話はどこかで読んだり見たりしたことがあるとは思うが、そうした作り変えた物語ではなく、もっと直接にオレステスを主人公にした戯曲を読んだ覚えが・・・
 古い記憶をよみがえらせていたら、はっと思い出した。「蝿」だ!サルトルの「蝿」だ!大学生の時に読んだ。なぜ思い出せたのか分からないが、サルトル全集(人文書院)を引っ張り出して確かめてみた。すると、やっぱりそうだった。登場人物の名前がフランス語読みして、「オレステス」が「オレスト」、「エレクトラ」が「エレクトル」となっているが、間違いない、これだ!我ながらよく思い出したものだと浮かれ気分で、妻に「あとがき」を読み上げてやった。
 「・・父の暗殺者の叔父と、さらに実の母まで殺してしまったオレステスに、ゼウスは怒りと悔恨の女神エリニュエスたちを蝿の形で放つが、実存者オレステスは・・」
 「何よ、実存者って。そんな小難しい話は聞きたくないからやめて。舞台では二人とも殺したところから始まっててそれから色々あるんだけど・・・」
 「最後はどうなるの?」
 「教えてあげない。知りたければ自分で舞台を観ればいいでしょ。でもね、最後の場面でチラシが上からどっと落ちてきて、アメリカ・イスラエル・PLO・レバノンの国歌が書いてあるの。あれの意味がね、ちょっと・・」
と言われたって、私には何がなにやら分からないが、とにかく舞台を堪能した充実感は味わえたようだ。こうした日には、やたら機嫌がよく少々のことではプリプリしないから家族としては大助かりだ。その喜びのおすそ分けがこれだ。

   

日本橋の千疋屋というお店の「オムレットバナナ」なのだそうだ。妻が言うには、TVでもよく紹介されて有名な店らしいが、運良くお相伴に預かることができた。さっそく食べてみたのだが、う~~ん・・・どうだろう、これならヤマザキの「まるごとバナナ」のほうが私にはおいしいかな・・・
(東京駅で買ってきてくれたアンパンはめちゃくちゃおいしかった)
コメント ( 12 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

解釈

 9月26日の竜虎の母さんのブログの記事に広瀬量平という人の作曲した「海はなかった」という合唱曲の詞が載せられていた。岩間芳樹という人の作詞らしいが、私は全く初めて読んだ詞だった。その詞の解釈を友人のみたぽんさんがコメントとして載せられていたが、それがとても面白くて、私もついつい調子に乗って、自分なりのその詞の解釈を載せてしまった。

  夏の終わりの浜辺を歩く、をとめとわらべ。
  二人の手は触れ合うでもなく離れるでもなく・・・
  浜に残る二人の足跡は、ともにすごした夏の思い出。
  ふと見れば砂の上に一枚の羽、
  をとめとわらべはそれを手に取り、
  去っていった二人の夏の墓標にその羽をそっと置く。
  楽しかった夏よ、さようなら・・・
  やがて来る秋を二人で迎えるためにどの花を手折ろうか・・・

などと、作詞者の意図とは全くかけ離れた解釈かもしれないものを臆面もなく載せてしまったのだが、今日になってそれがとても興味深いことだと気づいた。
 詩とは作者が自らの感動を素直に歌い上げたものである。表現形式がどうであれ、使う言語が何であれ、詩の中心にあるものは感動である。その感動を伝える手段として身振り手振り、表情などを使うこともできるだろうが、そうした動物的な表現方法には飽き足らず、直接相手の心に伝えようと言葉を使うのが人間の特長であろう。しかし、その言葉というものは、はなはだ当てにならない道具である。ある人がある思いを込めて一つの言葉を使う。その言葉に込められた思いが、その言葉の向けられた相手がその言葉に持っている思いと完全に一致することはほぼ不可能であろう。人それぞれがその背後に積み重ねてきたものが違う以上、それは当然であろうが、普段の私たちはそうは思っていない。自分の発する言葉の意味がそのまま相手に伝わるものと勝手に思い込んでいる。例えば、「これおいしいね」と食べ物を指して言うときは、自分の特殊な好みを基に言っているのではなく、世間一般誰でもおいしいと言うだろうなという類推から「おいしい」という言葉を使っている。そういった最大公約数的な意味を基にしているから日常の会話は成り立っているし、それが暗黙の了解事項なのであろう。
 しかし、詩の場合、一つ一つの言葉に込められた意味には、詩人それぞれの独自の思いが込められている。独善的とまで言わないまでも、かなり拡大解釈したような言葉遣いがされている場合も多い。詩人がそうした言葉を使いながら、自らの感動を表現しようとするとき、自分の持っている語彙の中からその感動を表現するのに最適と思われる言葉、できるだけ明晰な言葉を自分なりに選択してはいるだろうが、感動という形のないものを表現する以上、その言葉に込められた意味をうまく読む者に伝えるのはなかなか難しい。逆に言えば、詩人が自らの思いを最大限伝えられる言葉を選んで書き上げた詩にふれるたとき、読む者は作者の感動を追体験でき、それが優れた詩と呼ばれるのではないだろうか。
 だが、そんな詩は稀である。多くは言葉の選択があやふやであったり、的外れであったりする。そうした、言葉の吟味が十分なされていないような詩では、それをどう解釈しようがそれは読む者の自由であることになる。解釈が読む人それぞれによって異なれば、かえって広がりを持つ場合もあるのかもしれない。(まあ、そうした効果をはじめから狙った詩もあるだろうが)
 「海はなかった」の場合、言葉一つ一つの意味はそれなりに分かっても、それを集めて全体的に読んだ場合、今ひとつイメージがわいてこない。言葉の組み合わせに明晰さが足りないせいではないかと思うのだが、そのために勝手に詞の描く場面を思い浮かべられるのがいい。この詞が合唱曲に付けられたのもそのあたりの理由なのかもしれない。一人一人が自由にイメージを膨らませながら歌い上げる、そうした重層的な合唱曲にしようと思って作られた詞なのかもしれない、ひょっとしたら。 
 
コメント ( 88 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

工事(3)

  

 塾舎は2階建てである。周りには大きな建物はないため、2階からの見晴らしはよかった。それがこんなに近くに建てられてしまうとやっぱりいやだ。わざわざこんなにいっぱいいっぱいまで建てなくてもいいのにと思うのは全くこちらの我儘なのかもしれないが、そう思いたくなるほど、接近している。
 この建物が建って、初めて塾に来た1人の生徒がバスから塾舎を見て、「なに?あの赤いの?」と叫んだ。確かに鉄骨の赤さがすごく目立つ。遠くから見ると赤い柱が周りの色を圧倒している。塾舎は赤い牢屋に閉じ込められたような印象さえ受ける。

 

それにしても、建設現場を見るのは楽しい。鉄骨が組み上げられて行くのを見ていると、プラモデルを作るときの楽しさが感じられる。クレーンが鉄骨を運ぶ。それを待ち受けている作業員が決められた場所にセットしていく。ボルトでキュッ、キュッと締めていく音が心地よい。こういう建築現場を見ていると、自分はどうして父親の仕事を継いで大工にならなかっただろうと軽い後悔を時々感じる。父は私のやりたいようにやらせてくれて、何一つ指図したことはなかった。自分が体を酷使してきつい仕事を続けてきたためだろうか、私に大工をやらせたくなかったという話をしたことはあるが、本心はどうだったのだろう。
 もう今さらそんなことを言ってもどうにもならないが、私には大工の仕事はとても無理だっただろうと思うことがいくつかある。その一つは高いところが苦手だということだ。

 

見ていると、作業員たちはまるで地上にいるかのように細い鉄骨の上を歩いていく。よくもあんな高いところを歩けるものだと感心する。父の仕事の手伝いで、屋根に上ったことは何度でもあるが、足は震えてとても身動きのできる状態ではなかった。恐る恐る動く私に父が苦笑していたのを覚えているが、そういう父も高いところは余り得意ではなかった。ただ、棟梁としての意地と責任感だけで何とかこなしてきたようだが、私にはそれほどの根性がない。それを見抜いた父が早い段階で私に仕事を継がせるのをあきらめたのかもしれない。
 
 月曜から始まった作業は水曜で一段落したようだ。これで骨組みの建設は終わって、次には周囲を壁でおおっていくのだろう。もうすぐ塾の教室からは壁しか見えなくなってしまう。


今はこんな状態だが、壁しか見えなくなってしまったらどんな感じになるのだろう。日当たりも悪くなり、薄暗く閉塞感でいっぱいになってしまうのだろうか。塾の授業は夜が中心だからといっても、やはり外の明かりが見えなくなるのは寂しい。
 ブラインドを一日中下ろしておくしかないのだろうか。それも寂しい。
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

工事(2)

 塾舎の横の空き地に大きな倉庫が建てられることになって、9月6日にその工事の模様を記事にした。その後着々と工事は進み、私も折りあるごとにその様子を写真に収めてきた。自分が工事の現場監督であるような気もしたし、工事に手抜きがないか見張っている監視人であるかのような錯覚を起こしかねないほど毎日工事の様子を見てきた。前回は地中部の基礎工事の段階までの写真を載せたから、その続きの写真から載せていこうと思う。

  

地中部の基礎の上に、最初の土台を作る工事だ。毎日3、4人の職人さんでこつこつやっているので、一気には進まないがこつこつ着実に進んでいく。私よりも高齢な人ばかりが朝早くから夕方遅くまでずっと働きづめである。いくら秋風が吹き始めたといっても日中はまだまだ暑い頃だった。汗びっしょりになりながら、作業を続けている、大変な仕事だ。コンクリートを流し込んで1、2日休みが入った。

  

コンクリートが固まると、周囲を土で埋め、次には地上部の土台を作り始めた。同じ作業の繰り返しのように見えるが、地上部は直接柱を立てる部分であるため、型枠をはめるのにもメジャーで測ったりしながら慎重に作業を進めていた。ここで狂ってしまったら、建物が傾いてしまうか、まるっきり建たなくなってしまう。慎重なのも当然だろう。しかし、ベテランぞろいの職人さんたちは大した苦もなく作業を進めていく、さすがだ。

  

枠が外されて、基礎工事は完成したようだ。整地されきれいな土地に変わった。すぐに資材が運ばれてきて、クレーンで鉄骨を下ろした。
 ここまでが先週の土曜日。いよいよ建つのかと、ちょっとわくわくする気持ちと、いったいどんなに大きいものが建つのだろうかという心配が交錯した。まあ、建ってみなけりゃ分からないさと、開き直るしかなかったが、そんな私の胸のうちなどまるで関係なしに、月曜日の早朝から倉庫の建設が始まった。私が目覚めて、しばらくたって塾のほうへ行くともうだいぶ建っていた。余りの大きさに思わず「おお!」と声を上げてしまった。鉄骨がたっているだけなのに、ものすごい威圧感があった。

と、ここまで書いてきて一気に見せてしまうのも芸がないかなと思って、「続きはまた明日」と、このネタをもう少し引っ張ってみることにした。
 さあ、どんなものが建ったのか、請うご期待を!!


ちなみに、塾の教室の椅子に座って外を見るとこんな風景が広がっていたのだが・・・
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

iPod

 このブログを始めて1年間は、家族の誕生日が来るたびに「Hppy Birthday」という題名で、記事を書いてきた。それも今年の2月の父の誕生日で一回りしたため、もうこれで誕生日のことを取り上げるのはよそうと決めた。6月に自分の誕生日は思わず書いてしまったが、それくらいは仕方ないかなと手前味噌な気持ちでいた。それでも、誕生日の日になればきっと黙ってはいられないだろうなと漠然と思っていたのだが、案に外れて息子の誕生日9月21日には、全く関係のない記事を書いてしまった。それを書きながら、そういえば息子の誕生日だと思い出したが、途中で書き直すのも面倒で、もういいやとそのまま書き終えて載せてしまった。息子には申し訳ないことをしたとは思うが、忘れたわけではないし、21日には「誕生日おめでとう」と直接言ったから、父親としての最低限の義務は果たしたような気はしている。
 家族の誰かの誕生日には外で食事をするのが我が家の恒例行事であるが、息子は今受験生であり、勉強以外のことに時間をとられるのを喜ばないため、やむなく延期という形にしてある。少しぐらい付き合ってくれてもいいのにと思うが、私が皆と一緒に唯一食事のできる日曜日には模試やなにやら色々予定が詰まっていて、帰宅するのが毎週遅い。帰宅を待って出かければいいのだろうが、日曜日はビールを浴びるほど飲みたい私にはそんなことは無理だ。したがって、あと半年、納得いくまで勉強して首尾よく合格できたなら、そのときには盛大なパーティーを開いてお祝いしてやろうと考えている。
 でも、誕生日のケーキは買ってきた。「お誕生日おめでとう」という言葉が入ったデコレーションケーキだが、私がいないうちに ♪Happy Birthday to you.♪は歌われてしまい、5等分された一切れしか残っていなかった。仕方がないからそれを写真に撮ってみた。


息子のリクエストで、市内の「むぎのほ」という洋菓子店のケーキだが、なかなかおいしい。この店は、ロールケーキの種類が豊富で時々無性に食べたくなる。

 いくら受験生で自ら望んだことであろうと、これだけではさすがに寂しいだろう。そう思った妻が誕生日のプレゼントに、iPod を買ってやった。私は全く知らなかったのだが、Amazon からの包みを私が受け取り、何だろうと思いながら、妻にぽんと投げて渡したら、「何するの、iPod だよ!」と怒鳴られた。そんなこと言われても知らないものはどうしようもない。息子が帰宅して包みを開けたところを見せてもらった。


ほう、これが噂に名高い iPod か、などと感心してしまったが、小さいし薄っぺらい。これに何百曲も歌が入ってヘッドフォンで聞けるなんてとても信じられない。iPod どころか、昔のウォークマンさえも使ったことのない私には神々しくさえ見える。何でも、PCから直接ダウンロードすることも、CDをPCに取り込んでそれをインポートすることもできるのだそうだ。息子の説明を聞いてもよく分からなかったので、「要するに音楽を聴くための道具なんだろう」、そう言ってやったら、あきれた顔をされたが、「英語のリスニングもこれで聴くよ」と、根っからの受験生のようなことを言った。まあ、それもいいかもしれないが、たまには気を抜くことも大切だから、リラックスできる音楽を聴くようにしなければならない。焦るなよ。

 来春大学に合格したら、お祝いのために息子のワインセラーの中で眠っている、1988年産のワインで祝杯を挙げようではないか。楽しみだ。
 がんばれよ!!
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Pop up!(2)

 23日土曜、妻は大阪までSMAPのコンサートを見に行った。今年はこれで5回目、意外と少ない。名古屋公演が例年より短縮されたせいもあるとは思うが、一応受験生の母親であるため、少しは自主規制がかかっているらしい。そうは言っても10月にもう一度、コンサート最終日の前日の公演には行く予定らしいし、藤原竜也の「オレステス」は東京と名古屋で4、5回見るらしいから、それほど殊勝なわけでもない。それでも、12月に予定される、藤原竜也の「ロープ」とかいう演劇はさすがに暮れの忙しい時期だけあって、断念しているようだ。それを聞いて、「何言ってるんだ、行って来いよ」と思わず言ってしまった私は、妻のことを考えてというよりも、無理な我慢をしてこちらがとばっちりを食らうのがいやだという防衛本能が働いただけかもしれない。
 娘と一緒に行ったらしいが、大阪ドームが京セラドームと名が変わっていたとか、席がすごく上のほうでよくなかったとか、ダフ屋の人たちもチケットがないと嘆くくらい大勢が集まったとか、コンサートの様子を少し聞いてみると、滔滔と話し始めてまるでよどみがない。それなら、たまにはコンサートの様子でも聞いてみるかといくつか質問してみた。
 まず、「コンサートは何から始まるの?」とたずねたら、「デラウマ」と答えた。名古屋限定のビールじゃあるまいし、「何それ?」と聞いてみると、「ディア・ウーマン」のことだった。
 次に、「中居くんの調子はどう?」とたずねてみると、「痛いに決まってるでしょう、まだ。それなのに踊るし、すごく動くの。もう涙が出ちゃって・・」と、肋骨のけがと足の肉離れで満身創痍のリーダーを称える。
 「今年は誰がいいの?」と聞くと、「みんな。メンバー全員」と答える。なるほど、そうなんだろうな。聞くだけ野暮だよなと思いながら、さらに、「これで5回目だろう、毎回構成が違うの?」とたずねると、「同じだよ。そんなの当たり前じゃん」と答えるが、見たことのない私に分かるはずもない。「じゃあ、何で5回も6回も同じものを見なきゃいけないんだ?」と私が突っ込んだところ、「好きだから」ときっぱりと答えた。う~ん、これにはもう何も言えなくなった。これこそ「スマヲタの鑑」とも言うべき心意気だ。
 「今回は、グッズは何も買ってこなかったの?」とたずねると、「始まる前は混んでいたから帰りに買おうと思って行ったら、ハンカチが売り切れてた」と言ったけれど、横を見たら名古屋で買ったハンカチがまだ何枚か残っている。ストラップも大量に買ってあったのがまだ周囲に散らかっている。何を今さら買ってくる必要があるのかと思ったが、「チケットを取るのに名前を貸してもらった人のため」のお土産なのだそうだ。お世話になった人たちには、ちゃんと礼儀は尽くさねばならない、当然だ。

 
 
 妻は日曜日、思ったよりも早く9時前に帰宅した。当然のごとく幸せな顔をしていたが、少々気になるのが、こうして自分が楽しんできた後、以前は1週間ほどは機嫌のいい状態が続いたのだが、最近は3、4日くらいしか続かなくなった。ひどいときには翌日からもう、キンキンしている。私にしてみれば、土曜の一番忙しいときに妻が出かければ、いくらかは負担が増えるわけだから、少しくらいは機嫌よくしてくれなくちゃたまったものじゃない。と、思っていたら、バッグの中から包みを出して私に手渡した。「栗蒸し」と書いてある。大津の叶匠寿庵、最中のおいしいところの羊羹らしい。手に取るとずしりと重い。「お土産」というから早速開けてみた。

 

さほど甘くはなかったが、栗がおいしくて思わず全部食べてしまった。かなりビールで腹がふくれていたはずなのに、別腹に入ってしまったようだ。満足・・
 さすが、30年近く一緒にいるだけある、つぼを心得ている。
 
 はい、10月も好きなところへどんどん行ってちょうだいね。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出の曲

 秋になると思い出す歌がある。吉田拓郎の『旅の宿』。1972年に発表されたときには私はまだ中学生だった。当然この歌の持つ情緒などというものを理解することはできなかったが、年をとるにつれこの歌のような一夜をすごしてみたいものだという思いが年々募ってきた。

   「旅の宿」 作詞・岡本おさみ
 浴衣のきみは尾花(すすき)の簪(かんざし)
 熱燗徳利の首つまんで、
 もういっぱいいかがなんて
 みょうに色っぽいね

 ぼくはぼくで跌坐(あぐら)をかいて
 きみの頬と耳はまっかっか
 あヽ風流だなんて
 ひとつ俳句でもひねって

 部屋の灯りをすっかり消して
 ふろあがりの髪いい香り
 上弦の月だったっけ
 久しぶりだね 月見るなんて
 
 ぼくはすっかり酔っちまって
 きみの膝枕にうっとり
 もう飲みすぎちまって
 きみを抱く気にもなれないみたい

私が想像できるもっとも風流な一場面がこの歌の中にある。「これくらいの詞で風流を論ずるな、余りに想像力が貧困だ」などと叱責を受けるかもしれないが、そんなことは気にしないでおこう。
 吉田拓郎と言えば、23日土曜日に静岡県掛川市にある「つま恋」多目的広場で、かぐや姫と31年ぶりに「つま恋コンサート」を開催した。その模様がNHKハイビジョンで生中継されることは、少し前にゴジ健さんに教えていただいた。土曜日は一日中塾でライブ放送を見ることはできないから、忘れずに録画して後から楽しもうと思った。DVDのRAMも買い込んで準備万端整えておいた。
 しかし、前日の22日、塾に少しの空き時間ができたため自宅に戻ったところ、居間のTVからサザンの桑田佳祐の声が流れてきた。「おお、サザンじゃないか、何の番組?」とTVを見ていた妻に話しかけたら、「Mステ」と教えてくれたが、桑田がいったい何を歌ってるのかすぐには分からなかった。「聞いたことはあるけど、何だろう?」と思いながら耳を済ませていたら、
   
   ♪Sugar, sugar, Ya Ya, petit chou.
    美しすぎるほど
    Pleasure, pleasure, La La voulez-vous.
    忘られぬ日々よ ♪
 
という歌詞が聞こえてきた。「えっ?これ 『Ya Ya』なの?嘘だろう・・・」と思いながらもさらに聞いていたら、やっぱり『Ya Ya』だった。その瞬間、本当にがっかりした。
「何でこんなだるい歌い方するんだよ、こんな歌じゃなかっただろう。過ぎ去った美しい日々へのオマージュではなかったのか。少なくとも俺はこんな歌い方許さないぞ」
などと歯軋りをしたのだが、そんな私の思いが届くわけもなく、桑田はそのまま歌い続けていた。私は途中で聞くに堪えなくなって家を出たのだが、その後ずっと気分が落ち込んでしまった。私にとって、サザンの数ある楽曲の中でこの『Ya Ya (あのときを忘れない)』が一番好きな歌なのだ。
   
   ♪互いにギター鳴らすだけで
    わかりあえてた奴もいたよ
    もどれるなら In my life again
    目にうかぶのは better days ♪

CDで、この辺りを聞くともう目頭が熱くなってしまう。「ああ、あの頃は」などと一瞬で昔にワープしてしまうこともたびたびだ。桑田もきっとこの歌には強い思い入れがあるはずだ(勝手な想像だけど)、なのにどうしてあんなに、だら~と伸ばしたスローテンポな歌い方をするのか・・・・
 本当にがっかりした。そのがっかりのせいで、あれほど意気込んでいた「つま恋コンサート」の録画もする気がなくなってしまった。今現在の吉田拓郎やかぐや姫に私は興味はないのだから、思い出は思い出のまま残しておいたほうがいい、そんな気がしたのだ。
 

 でも、録画くらいはしておけばよかったかな・・・
 
コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呼び方

 先日、毎日新聞に面白い記事が載っていた。「呼び名で分かる・年代編」というもので、『物の呼び方は時代で変わるため、最初にそれを何と呼んだかは、年齢によっても違う』という考えに立って、いくつかの例が紹介してあった。以下にまとめてみる。
 
 一番移り変わりが激しいのは服飾関係の名称で、呼び方が変わったアパレル用語はたくさんある。まず代表的なものが『パンツ』。1970年以前の生まれの私のような世代には、『パンツ』と言えば当然下着のことだったが、今ではズボンなどの表着(うわぎ)の意味を含むようになった。これは、60年代に登場したジーパンすなわちジーンズパンツの影響で、ジーパンの広がりとともに『パンツ』は表着も含むようになったという。確かに、「今日パンツをはいてくればよかった」などと若い女の子が言っているのを聞いたなら私などはびっくりしてしまうだろう。『パンツルック』などという言葉もよく見かけるが、なかなか頭は切り替わってくれない。脳の回転が遅くなったのか、新しいものを取り入れる力が弱くなったのか、いずれにしても昔から馴染んだ言葉をおいそれと違う表現には代えられないものだ。
 運動靴の『ズック』と『スニーカー』も同様だ。『ズック』という言葉は、今はもう死語になりかけていて、68年のメキシコ五輪で色鮮やかで斜めに縫込みを入れるような、デザイン性の高い運動靴が登場し、それ以来『スニーカー』という呼び名が広まり、運動靴全体を示すようになったという。私は『ズック』という言葉よりも『ひも靴』という方をよく使っていたような気がするが、こちらは間違いなく死語だろう。
 他にも、衣類系では、
  『チョッキ』 →『ベスト』
  『バンド』  →『ベルト』
  『チャック』 →『ファスナー』
  『ジャンパー』→『ブルゾン』
  『トレーナー』→『スエット』
などが挙げられているが、いずれも左側の旧語(?)のほうが私には随分馴染み深い。普段もそちらを使うことが多いため、「チョッキを着た上に、チャックは下げたままでジャンパーを羽織り、ズボンはバンドで締め、ズックをはいて出かけた」と言ったほうが、「ベストを着た上に、ファスナーは下げたままでブルゾンを羽織り、パンツはベルトで締め、スニーカーをはいて出かけた」と言うより理解しやすい。それが70年以前の生まれの証だと言われるならあえて否定しないでおこう。
 また、私が小さな頃あせも予防のために真っ白になるまで首筋や背中につけた『天花粉』も今では『ベビーパウダー』と呼ばれるのが主流らしい。『天花粉』の主原料はウリ科のキカラスウリの根で、1703年に書かれた「小児必用養育草」と言う書物に記載があるほど、古い歴史を持つものらしい。改めて漢字を見てみると、「天の花の粉」ととても詩的な呼び名である。「テンカフン」と音にすると「フン」という音が余りきれいな感じがしないが、「ベビーパウダー」と言うよりは響きがいい気がする。
 さらには、『スパゲッティ』も、ナポリタンとミートソースくらいしかなかった時代から、イタリア料理が普及するにつれてフィットチーネやラビリオなどさまざまな練った小麦製品が現れたため、その総称である『パスタ』が一般的になりつつあるようだ。でも、名古屋地区では、名物『あんかけスパゲティ』はあるが、『あんかけパスタ』は存在しないので、まだまだスパゲッティを使うことのほうが多い気がする。他にも
  『いり卵』 →『スクランブルエッグ』
  『ビフテキ』→『ステーキ』
が紹介されているが、これらは右側の新語のほうを、私はよく使っていると思う。特に『ビフテキ』はほとんど使ったことがない。
 と、ここまで書いてきて自分で気になる言葉を思い出した。それは『アベック』という言葉だ。男と女の二人連れを見て、「あのアベックさあ・・」などと私が話し出しても今の子供たちには分からないらしい。ちょっとたって、「あのカップルのこと?」と言い直されたことがよくあるので、『アベック』→『カップル』とインプットし直さないといけないようだ。  
コメント ( 15 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特技(2)

 以前、「特技」というタイトルでさくらんぼの軸を口の中で結ぶという少々地味な特技を披露した。実は、次の日も調子に乗って、特技(2)という題名で記事を書いたのだが、PCのキーボードをどこか間違えて押してしまったため、ほぼ完成していた記事が消えてしまった。がっかりして全身から力が抜けてしまい、また同じ記事を書く気になれず、たまたま書き溜めてあった記事をその日の記事として載せた。いつかまた書こうとは思っていたが、なかなかそんな気になれず、いつしか忘れてしまっていた。
 それが、一昨日の記事に竜虎の母さんから頂いたコメントに返事を書いているとき、急にそのことを思い出して、もう一度記事にしてみようと思い立った。今度は、ヘマをしないように注意しながら書いていくつもりだ。

 大学生のとき、主任教授がある助教授を評して、「あの先生のフランス語の能力は素晴らしい。同時通訳ができる語学力は他の先生とは比べ物にならない」とべたほめした後で、「もう一つすごい才能があって、意味の分からない単語を辞書で引くときに、一度でその単語の載っているページを開くことができる」と言われた。私はそのとき、そんなすごい先生でも、「辞書を引かなけりゃならないのか」などと学問の深さを垣間見た思いがしたが、勉強不足の私にはそんな神業のようなことは一生できないだろうなとも思った。
 そんな話は卒業後ずっと忘れていたが、塾で生徒を相手に辞書を使うことが多くなって、あるとき、自分がほとんど一発で意味を知りたい単語のページを開けられるようになっていることに気がついた。「おお、すごい」と、それ以来生徒の前で自慢してやって見せるようになった。少しの誤差はあるが、それも4、5ページの範囲に収まっている。試しにやってみた。まず、love という単語を引いてみる。

  

使った辞書は研究社の英和中辞典、かなり使いこんである。慣れた手つきでこれくらいだろうと開いてみたら、1077ページ、love の載っているのは 1083 ページだから 6ページも誤差があった。これではちょっと悔しいからもう一度試してみた。次は peace で。

 

今度は、1312 ページのところを 1316 ページを引いてしまった。う~ん、やっぱり一発でそのページを引くのは至難の業だ。でも、これくらいの誤差なら許容範囲だろう、などと甘めの採点をしておく。
 でも、これだけでは少し特技というには物足りない気がしないでもない。そこでもう一つ、とっておきの妙技を披露しよう。私の塾では、できるだけ生徒一人一人の勉強を丁寧に見ていこうとしているので、黒板を使った授業はしていない。問題を説明するのは各生徒のノートや問題集を使うことになり、顔を見ながら説明することが多い。そのため向かい合ったまま字を書こうとすると、反対側から書くことになって、簡単にはいかない。私もちゃんと読めるような字を書けるようになるまで大分時間がかかった。試しに英語で、love and peace と書いてみた。

  

どうだろう、なかなかのものだと自負しているが。ちなみに一番右の写真の下の文字が普通に書いたアルファベットである。大して変わらないように見えるのは、自慢すべきか恥ずべきかよく分からない。ならば、漢字ならどうだとばかりに書いてみた。

 

これもうまく書けた。右の写真の下の字が普通に書いた「愛」だ。余り変わらないできばえだ。すると、私はやっぱり字が下手なんだろうか・・・。ちょっとがっかりしてしまった。
コメント ( 12 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

議員

 日曜日の午前中、塾で授業をやっていたら、階下で「こんにちは」と呼ぶ声がする。宅急便かなと思って出て行くと、「○○○○でございます、ご無沙汰しております」などと、ご丁寧な挨拶が始まった。よく見れば県会議員の人だ。この人は私の父の遠縁にあたるとかいう人で、選挙のたびごとに親戚付き合いが始まる。4年に1度親戚の絆を強調するのだが、父よりも高齢なため、もう75歳は超えているだろう。背筋がぴんとして肌のつやもよく、チラッと見ただけではそんな年には見えないが、年齢を詐称するわけにも行かず、来年の県会議員選挙には引退を表明する手紙が少し前に来ていた。自分の長男を後継に指名したなどと、どうでもいいことを大げさに書き連ねてある可笑しな手紙であった。
「お父さんはおみえになりますか?」
「いえ、畑に行ってます」
「ああ、そうですか、お元気で何よりですね」
あんたの方こそ爺だろう、などと意地悪なことを思っていたら、
「私、このたび政界を引退する決意をいたしました。色々お世話になりましてありがとうございます。つきましては、後継者としてこちらにおります私の長男を・・」
と、横にいた息子を紹介し始めた。この息子というのは私の中学・高校の1学年下の後輩で、話したことはないが、顔ぐらい知っている。父親によく似て狐のような顔をしているので、なかなか忘れられる顔ではない。
「△△△△でございます。よろしくお願いします」
見れば、だいぶ太ったが、顔は狐のままである。赤いカッターシャツを着てネクタイを締めている。上着を着ていないので、赤シャツが目立つ。『何で白のシャツを着てこないんだ、バカか・・』などと心では思ったが、「はあ、どうも」などと名刺を受け取ってしまった。
「授業中ですか?」
と聞くから、
「見れば分かるだろう」といいたい気持ちを我慢して、「ええ」とだけにこやかに答える。私も大人の対応ができるようになったものだ。
「それはお忙しいところをお邪魔しました、なにとぞよろしくお願いいたします」と父親が如才ない挨拶をして立ち去ろうとしたから、私もつい「がんばって下さい」と完璧な社交辞令を言ってしまった。いやな奴だなあ・・・
 それにしても、あいつだって私が先輩だということくらい知っているだろう。嘘でも、「先輩助けてください」とでも言えばいいのに。そうしたら私だって、握手の1つくらいしたかもしれないのに・・・

 それにしても、この男は何のために立候補しようというのだろう。市会議員を何期か務めてから県会へというのが普通の道筋のように思うが、どうしてまた県会からスタートしようとするのか。親の後継というのを錦の御旗にして当選できるつもりなのかもしれないが、経歴を見ても、大して政治経験を積んできていないように思われる男が、わずか半年余りの活動で簡単に当選できるはずもないだろう。
 まあ、この父親というのも、たいした政治信条など持ち合わせていない人だから仕方ない。始まりは確か自民党だったと思うが、新自由クラブができたらすぐにそこに加わり、その後は政党の離合集散を象徴するかのように立候補するたびに党籍が変わっていた。県会議員を何期か務めた後、いきなり市長選に出馬して落選、その後は県会に戻ろうとして苦杯をなめた末に何とか返り咲いたが、今はいったい何党に属しているのか全く分からない。息子がくれた名刺を見たら、民主党・・・とかいう肩書きが書いてあったから、きっと民主党なんだろう。
 あ~あ、全くこんなに簡単に、即席で議員になれると思っている輩ばかりなのだろうか。たいした考えもないまま、勢いで議員になって、何も勉強しないで偉そうなことを言うようになる。今の世の中二世・三世議員ばかりだが、議員という商売はそれほど魅力的なんだろうか。困った風潮だが、少なくともこの男はきっと落選するだろうから、それから勉強し直せば少しはマシな人間になれるかもしれない。ぜひとも、そうならなきゃね。
コメント ( 10 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前ページ