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パンダクリップ

 久しぶりにサントリーウーロン茶のペットボトルにおまけがついていた。「パンダクリップ」全6種。スーパーで見つけたのは1週間ほど前。その時は2種類しか残りがなく、あとの4種類はどこで見つけたらいいのか見当がつかなかった。サントリーのペットボトルのおまけは、どこのスーパーやコンビニでも一斉に付けられるものではなく、店の系列によっておまけを付けたり付けなかったりしているようだ。従って2種類を見つけたスーパーと同じ系列店に行けばいいのだろうが、市内には同じ名前を冠したスーパーは他にはないから、どこを探せばいいのか分からなかったのだ。
 だが、実を言えば、今回のクリップを全種類集めるのには乗り気がしなかった。その理由ははっきりしている、「可愛くない!!」。まるで女子中学生のような感想で少しばかり恥ずかしいが、それでもやっぱり可愛くないものは欲しくない。今まで集めたおまけは、それなりに可愛らしくもあり有用でもあったので集めるのに必死になったものだが、今回はそんな気持ちが沸き起こってこない。
 「もっとデザインを考えろよ」
 だが、やはり中途半端は気持ちのいいものじゃない。積極的に集めようとは思わないが、たまたま出かけたスーパーやコンビニでこの「パンダクリップ」を見つけたら、その時は全種類買うことにしよう。また、同じ種類を買ってしまう愚は避けるため、最初に見つけた2種類は常に上着のポケットに携行しておき、このおまけを過不足なく集められるよう、準備しておこう。

 そんな心積もりでいたところ、一昨日久しぶりに行った別のスーパーでとうとう見つけてしまった。「おお!」と思わず声を挙げながら、ポケットから先に見つけた2種類を出し、それと見比べて残りの4種類をすべて買うことができた。さすがにちょっと嬉しかったが、6種類くらいならやはり大した苦もなく集められるものだな、と感心した。これが12種類になったりすると、あちこち探し回らねばならないことが多く、かなり苦労した記憶がある。今回気持ちがあまり入らなかったにも拘らず、簡単に見つけてしまったのは皮肉のようにも思えるが、これで6種類全部そろったわけだから、記念にここに写真を載せておくのは当然のことだろう。

  

 ウーロン茶        坦々麺             フルーツパフェ

  

 兎まんじゅう       春巻              シュウマイ

 写真を撮っているうちに大事なことに気が付いた。これは今までのマグネットとはちょっと違う。確かにマグネットも付いているが、中国料理のところがクリップになっていて、紙などをはさめるようになっている。う~~ん、おまけとは言えども絶えず新しいものを開発するように心がけているんだなあ、サントリーは。偉いもんだ。
 ちなみにクリップの部分に紙を挟んでみたらこんな感じになった。

 

 じっと写真を眺めていたら、パンダが可愛らしく見えてきた。ちょっといいかも・・。


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展望台から

 日曜日に市の中心にある施設の展望台に上った。以前、この建物ができてすぐに一度上ったことがあるので、これが二度目だった。あいにくの天気であったため、遥か遠くまで見晴らすなんてことはできなかったが、自分の生まれ育った町を360度見下ろすことができたのはなかなか気持ちのいいことだった。気分よく何枚も写真を撮ってみたが、展望台を囲むガラスが汚れていたのと曇天とで、はかばかしい写真が撮れなかったのは残念だった。
 まずは西方面。

 西を向けば、その先には名古屋がある。円形の建物の向こうに電車の駅があり、名古屋の中心まで30分ほどで着く。近年は名古屋のベッドタウン化してきたようにも思うが、なんと言っても古くからの地場産業で栄えた町だ。独自の町作りを模索していけばそれなりの存在価値はあるはずだが、簡単にはいかないようだ。

 次に北。

 家並みが途切れた向こうには陶土採掘場が広がる。わが市と言えば、やはり陶器。何はなくとも陶器。それしかないよ・・というくらい陶器産業とともに発展してきた町である。だが、陶器産業の沈滞は恒常化し、昔ながらの「窯焼き」(陶器製造業者)はどんどん廃業に追い込まれていて、明るい展望は見えない・・。

 さらに東。

 山の向こうは岐阜県。写真の中央辺りにぼんやりと、私や私の子供たちが通った小学校が見える。まさに「濃尾平野の北東のどん詰まり」と呼べる地域だ。私は大学生の頃を除いてずっとこの辺りに住んでいる。何の発展もない、さびれかけた町ではあるが、生まれ育ってきた町だけに人一倍の愛着はある。

 最後に南。

 マンションが立ち並ぶ向こうに、大きな団地が広がっている。さらにその向こうに行けば、豊田市につながる。我が市でもトヨタ関係の仕事をしている人は多いので、今般の大不況でかなりのダメージを受けている人も多いのではないだろうか。私とて、その影響を免れることはできないだろう・・。

 などと曇天に影響されて暗いことばかり書いてしまったが、わが市は決してへこたれはしないだろう。明るい未来があるなどと世迷言を言うつもりはないが、よりよい明日を迎えられるように精一杯努力しよう、そんな意気込みが全市から澎湃と湧き上がっている、そう思いたい。
 私も頑張ろう!!
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「チェンジリング」

 朝9時50分から始まる「チェンジリング」を見るため、10分ほど前に劇場に着いてびっくりした。長蛇の列ができている・・。


 水曜日はレディース・デイでいつも人は多いが、こんなに大勢なのは初めてだ。だが、係員の人がマイクを使って叫ぶ声を聞いて納得した。「本日の『おくりびと』の入場券は完売しました。お並びになってもチケットは買えません」とずっと繰り返している。
「すごいなあ・・」
思わずため息をついてしまった。この劇場では今日明日は2回の上映だが、金曜からは5回フルに上映する予定らしい。アカデミー賞効果を実感したが、だからと言ってこんなにも皆一斉に見に来なくても・・と少しばかりひねくれた見方もしたくなった。「3月になればDVDも発売されるし、そんなに焦らなくても」などと言っていては時流に乗り遅れるのだろうか。私は昨年の「おくりびと」の公開時には、死をテーマにした映画は苦手だなあ・・と最後まで踏ん切りがつかず、結局見ないままで終わってしまったから、見たい気もしなくはないが、これだけ大勢の人が押し寄せるのを目の当たりにしてしまうと、なんだかそんな気持ちも萎えてしまった。
 
 などと思いながらも、大勢の人でごった返す売り場をくぐり抜けて、「チェンジリング」を上映するシアターの席に座った。ストーリーの前半部を記せば、「1928年、シングルマザーのクリスティンは、ロサンゼルス郊外で9歳の息子ウォルターと暮らしていた。ある土曜日、彼女は同僚に泣きつかれて断り切れずに休日を返上して仕事へと向かう。暗くなって彼女が帰宅すると、家で一人で留守番をしているはずの息子の姿はどこにもなかった。彼女はすぐに警察に電話するものの、24時間は行方不明の子供を捜索しないとの返事を受け愕然とする。だが、その後の彼女の必死の訴えが実り、数ヵ月後に警察から息子を発見したとの連絡を受け、駅まで迎えに行く。が、そこで彼女が会ったのは、息子とはまったくの別人であったため、彼女はそう警察に訴える。だが、そんな彼女の叫びを警察は封じ込めようと彼女を精神病院に閉じ込めてしまう・・」
 この辺りまではNHKラジオの番組で浜村純も解説していたから、ここに書いてもネタバレの謗りは受けないだろう(浜村の解説は、本当にここまで言っちゃって大丈夫か、といつも心配になる)。これだけでも十分胸を打つ話のようではあるが、どういうわけか私の胸には迫り来るものがあまり感じられなかった。息子の行方を捜し求める母の姿を克明に追ったりはせず、どこか淡々としたシーンが続くので、息子を愛する母親の心情が伝わってこない。「アンジェリーナ・ジョリーの真っ赤な唇がいやだった。子供がいなくなったら、あんな真っ赤な口紅を塗ろうなんて気は起こらないよ」と妻は言っていたが、物語にイマイチ感情移入できなかった理由は、デリケートな題材を扱うにしては繊細さが画面から伝わってこなかったせいなのかもしれないと思った。毎日新聞の映画評では絶賛されていたし、月イチゴローでも1位に選ばれたそうだが、私はさほどの映画ではないと感じた。終わりの30分くらいは、もっと簡潔にまとめてもよかったような・・。アメリカ映画はスケールの大きなものは確かに面白くて、日本映画にはとても真似できないと思うが、人情の細かい機微を描き出すのはやはり日本映画のほうが勝っていると思う。まあ、デテールに拘りすぎて木を見て森を見ない映画も多々あるから、どちらがどうとも言えないのだろうが・・。
 
 だが、映画の終盤で明らかにされたように、80年も前のアメリカでは、不正を行う役所や警察に対して市民が立ち上がって糾弾する自浄作用が働いていたというのは、さすが民主主義国家を標榜するだけのことはあると思った。この映画のサブタイトルとして掲げられた「真実の物語」という言葉を果たしてどれだけ信じていいのかは分からないが、そうした動きがこの時代にあったことは、あながち誇張ではないだろう。ひるがえって、80年前の日本はどうだっただろう?治安維持法が施行された頃だよな、確か・・。
 

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検索ワード

 gooブログの編集画面には訪問者がどんな言葉を検索してそのブログにたどり着いたかを示す「検索ワード」機能がついている。例えば、2月23日のこのブログの「検索ワード」上位は次のようになっている。(カッコ内の数字は検索数を示す)
   歌詞 スカイレストラン (2)
   デニーズ秘密のデザート (2)
   本当の環境問題     (1)
   分数の割り算の仕方について (1)
   大人の科学 茶運び人形 (1)
   代ゼミ バンザイシステム (1)
   代々木 バンザイシステム (1)
   駿台 バンザイシステム  (1) 
   漢検 一級 批判 もうけすぎ おかしい (1)
   バンザイシステム (1)
   ディズニー 疲れる (1)
   クローズZERO 結末 (1)
   あの日に帰りたい スカイレストラン (1)
 私は時々この「検索ワード」のページを見る。自分の記事がどんな目的で読まれたりするのか、ちょっとは興味のあることであるから、何日も遡って見たりすることもあるが、やはりこの時期に多いのは「バンザイシステム」関連だ。受験生やその関係者がセンター試験の結果によりどこの大学が受かりやすいかを調べるのは当然のことであり、私もここ数年センター試験の後で、このブログの訪問者が俄かに増えることも知っているので、今年もそんな人たちの少しでも役に立てばいいが、と思って解説記事を書いた。とは言え、2次試験も始まろうとする現時点では、「バンザイシステム」で検索する必要はあまりないだろう、という気もするが、ひょっとしたら、「バンザイシステム」の記事でこのブログの存在を知った人が私の他の記事にも少しは興味を持って、再び訪れてくれているのかもしれない。もっとも、そんな酔狂な人は余りいそうもないが・・。
 でも、不思議なことに「歌詞 スカイレストラン」という検索ワードはずっと以前からコンスタントに表示されている。かなり古い曲であるから、毎回違う人が検索しているとはとても思えないので、誰か決まった人たちがこの言葉を使って検索し、このブログを訪れてくれているのかもしれない。そう思うと、なんだか神秘的な気持ちにもなり、この「検索ワード」を眺めているだけでも、ちょっとした物語が出来上がるように思えてくる。(「あの日に帰りたい」のメロディーには元々「スカイレストラン」の歌詞が付いていた、と言うのはユーミンファンならずともちょっとした驚きだ・・)
 
 だが、この「検索ワード」を最近見ていて気になることが一つある。それは「デニーズ秘密のデザート」という検索ワードだ。デニーズのデザートを食べてポイントを集めると「秘密のデザート」が食べられるというキャンペーンなのだが、私はいち早くポイントを集め、秘密のデザートを食べ、その感想と写真をこのブログに載せてみた。それはそれで自分としては面白い記事だったが、実は後日譚がある。あの後もデニーズに毎週通って、せっせとポイントを集めて、もう一回「秘密のデザート」を食べることができたのだが、なんとその時に出てきたものが、最初のものとは違っていたのだ!!かれこれもう10日以上前のことだが、ついついこのブログに書きそびれていたので、「検索ワード」で「デニーズ秘密のデザート」という文字を見るたびに内心忸怩たる思いがあった。それがやっと今日思いを果たすことができる。すっとした。


 本当はもっとちゃんとした形をしていたのだが、意地悪な妻が私がカメラを用意している間に、スプーンで押し潰してしまったため、こんないびつな形になってしまった。だが、イチゴをふんだんに使ったケーキは、生クリームもたっぷり盛られていておいしかった。
 「どうして変わったんですか?」と妻がたずねると、チーフという名札をした店員さんが、
 「こんな寒い時期にアイスばっかりって言うのはやっぱり・・」と苦笑交じりに説明してくれた。私としては、あのデザートも十分おいしかっただけに、もう食べられないのはちょっと残念な気がした。

 こう考えてみると、「検索ワード」はこのブログと外の世界を繋ぐ架け橋のような役割を果たしているようで、これからも折にふれて注目していこうと思っている。


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金魚

 日曜日、散歩していたらある家の前に水槽が置いてあった。すこし緑色がかった水の中には大きな金魚が3匹泳いでいた。
 「こんな風にも飼えるんだね」と言う妻の言葉にちょっと刺激された私は、
 「金魚飼いたいなあ」と言ってみた。私には生き物をちゃんと育てることはできない、といつも反対されてきたので、ちょっと言ってみた、という感じだったのだが、意外にも
 「風水では水槽があると何かにいいんだって。何にいいのかは忘れちゃったけどとにかくいいらしいってTVで言ってた」
 「何かにいいなら金魚飼ってみるか」
 「こんな風に外で飼えるならね。家の中だと邪魔でしょう」
 「OK。外でもいいから、明日金魚買いに行こう!」
散歩で思いもよらぬことになった。金魚は10年ほど前、むちゃくちゃ飼いたくなった時があって、大きな水槽や濾過器やら一式揃えて、何匹も飼っていたのだが、次々と病気にやられてしまって全滅してしまった苦い思い出がある。それに懲りて水槽は物置に放置したままだったが、ここ半年ほどまた金魚が飼いたくなってきて妻に何度も話したのだが、そのたびに「あなたに生き物は無理!」と却下されて思いを果たすことができないでいた。それだけに今回の妻の同意には少しばかり驚いた。だが、せっかくのチャンスを逃しては後悔するから、翌月曜日、少し離れた農協の金魚売場に出かけた。
 どうして農協に金魚が売っているのか分からないが、昔から熱帯魚とともにいろんな種類を売っている。家にあるのは60cmの大きめの水槽だけど、以前全滅したのは、この水槽の許容量を超えるほど多く飼いすぎて、一気に病気が蔓延したためだと思っているので、今度は少しだけ飼うようにしようと思った。4匹にしようかと思ったが、4という数は余りいい気がしないので5匹にするか、と思った。だが、値段を見たら、1匹500円から600円もする。これだと5匹買えば3000円近くするわけだから、金魚にそんなお金を使うのも何だか勿体無い気がしたので、とりあえず3匹だけにすることにした。選んだのは次の3匹。

  

  リュウキン         タンチョウ        オランダシシガシラ 
 リュウキンはフナを小型化したワキンとは違って、まさしく観賞用の金魚だ。尾ひれが長く水の中をゆらゆらひらめく様は、優雅といっても過言ではないだろう。タンチョウは頭のてっぺんが赤くなっている。丹頂鶴にその名が由来するのは一目瞭然だ。オランダシシガシラはもう少し大きくなると、頭がボコボコしてくる。ランチュウも同じようになるが、ランチュウは育てるのが難しいから、私にはとても手に負えない。
 これら三匹はまだまだ小さい。水槽を丁寧に洗い、「麦飯石の砂」という水の汚れを防ぐ効果があるという小石を底に敷いて、酸素を送るブクブクを入れたら準備完了。(家の外に置くなら、水道の蛇口も近いから、水を替えるのも簡単だろうと思って、濾過器を設置するのはやめた。掃除したりするのが案外面倒だし・・)水をバケツで汲んで何杯も入れた(余り冷たくては金魚たちがびっくりするかな、と思って、少し熱い湯を1杯入れてみた)。あとは水道水のカルキを抜くための薬を入れたら、完成。さあ、金魚を入れてみよう。

 

 さすがに水槽が大きくて、小さな金魚3匹だけでは貧相に見える。しかも、新しい環境に慣れるまで時間がかかるのか、金魚たちは底でじっとしている。広々とした水槽で元気よく泳いでくれるのを期待していた私はちょっとがっかりしてしまった。
 最後に野良猫に食べられたりしないよう、水槽の上に網を置いておいた。これなら大丈夫、とまでは言えないが、それなりの効果は果たしてくれるだろう。
 大事に育てていこう!!
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お雛めぐり(3)

 なんだか鰻が食べたくなった。受験の季節も大詰めを迎え、今一度気合を入れなおさねばならない時期だけに、私がへばっていては仕方がない。鰻でも食べて元気になろう、そんな気持ちが働いたのかもしれない。鰻屋の多い市内でも、一番おいしいと目している店に長焼きを頼んで、取りに行くことにした。午後5時に取りに来てくれと言う話だったので、塾が終わった3時過ぎ、散歩がてら妻と二人で1kmほど離れた店まで歩いて行った。
 先週の日曜も同じように散歩に出かけて妙に酔っ払ってしまったので、今週は同じ轍を踏むことがないよう妻と二人話し合っていた。が、せっかくの日曜日、ビールくらい飲まなくちゃもったいないということで、鰻屋の近くのコンビニでビールを買うことにして、そこまでは飲むのを我慢しようと決めた。しかし、そんなやせ我慢をするにはやっぱり何か楽しいことがなくては無理だ。そこで、市の中心部で行われている「お雛めぐり」の会場を訪ねてみることにした。とは言え、昨年もその写真をこのブログに載せた記憶があり、さほど変わり映えもしないものだろうと思っていたのだが、実際にのぞいてみると、前年よりも一段とパワーアップしたようで、見ごたえのある展示となっていた。

  

 雛壇に飾ってあるこれらの雛人形はすべて陶製だ。見上げるほど高くまで並べられた人形は一つ一つ違っていて、思わずじっと見入ってしまう。毎年私が写真を撮って、このブログに貼り付けている観光案内塔に飾られている陶製の雛人形もいくつか並べられていて、まさに品評会のような趣を呈している。わが市も不況の影響を免れることなどできないから、こうやって機会があるたびに自慢の製品を内外にアピールすることは大切なことだ。私も以下に気に入った雛人形の写真をDigi Bookに収めて、甚だ微力ながらも地場産業の振興に寄与しようと思う。




 ひとしきり写真を撮った後、コンビニでビールを買ってきた。それをこの施設の屋上にある展望台で飲みながら、ぐるりと見回せる市内の写真を撮ってみた。雨が今にも降りそうな夕暮れだったため、はかばかしい写真は撮れなかったが、また後日披露することにしよう。ただ、50年過ごしてもういやになるほど見慣れていた町並みが案外新鮮な印象を与えてくれたのには驚いた。「腐っても鯛」という表現があるが、まさしくわが町はそんなものだ。私としてはまだ腐りきってはいないと思うが、その一歩手前であることはこの市に住む誰もが思っていることかもしれない、残念ながら・・。
 
 まあ、そんな偉そうなことも、鰻屋でもらった鰻を家で食べたらまったく忘れてしまった。おいしかった!!。
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襲来(2)

 母さんブログでヒヨドリの記事を読んだ翌々日、わが方にも大群が襲来した。はるか広島から大挙して飛来したなどということはないだろうが、若干のタイムラグはあるもののほぼ同じ時期に遠く離れた鳥たちが同じような行動をとるのを目にするのは、なかなか興味深かった。
 このヒヨドリの行動は毎年恒例のことであり、もうそろそろかな、と先日も思ったばかりだから、何も驚くにはあたらない。だが、前日までは見向きもしなかったところへ一斉にやって来て、実を食い散らかして去って行く、その行動を誰が指揮するでもなく、本能に従って果たすのは、鳥たちが自然のリズムに則って生活しているからであり、その正確さには驚嘆するばかりだ。
 
 標的となる木は、塾舎と川を挟んだ向かいにある家の庭にあるクロガネモチの木(ネット検索して、多分これじゃないかと思うんだけど・・)。冬の間中小さな赤い実をびっしりつけていたのが、やっとヒヨドリたちには食べごろになったのか、最初は三々五々やってきたのが、次第にものすごい数の集団が集まってきて、まさに鈴なりになって実を啄ばんでいた。その様子をカメラに収めようとしてみたが、少しでも物音を立てると、一気に逃げ去ってしまうため、遠く離れたところから望遠で撮影することしかできなかった。そのため、迫力に欠けた写真しか撮れなかったが、その中でも上出来の部類に入るものを何枚か載せてみる。


 ヒヨドリが集まってきているのに気がついたのは、11時ごろ。塾舎の事務室に座って眺めていたら、どんどん数が増えてくる。さほど鳴き声を上げたりもしないので、羽音のほうがバタバタうるさいくらいだ。赤い実がどんどん減っていく・・。
 




 鳥が大嫌いな私でも、さすがに部屋の中にいて、かなり離れた所から見ているだけなら、さほど恐怖を感じないですむ。数えたりはしなかったが、50羽以上はいただろう。そんなに大量のヒヨドリが1本の木をめがけて次から次に飛んでくる様子は、さすがの私も圧巻だと思った。しばらく我を忘れて、じっと眺めていたが、お昼になってお腹が空いたのでいったん自宅に戻った。


 昼食を食べ終えて塾舎に戻ってきたら、ヒヨドリは1羽残らずいなくなっていた。後に残った木を見ると赤い実はすべて食べ尽くされていた・・。すごい!!なんて早業だろう。
 
 いったいあの大量のヒヨドリはどこから来て、どこへ飛んでいってしまったのだろう。まさか広島から飛んできて、神奈川方面に飛び去って行ったなんてことはないよな。
 報告を待ちたい・・。
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ネット完備の部屋

 1ヶ月ほど前に慌てて買ったPC、それなのにすぐに壊れてしまったあのPCが修理から直ってきて以来、一度も開いていなかった。このままでは買ったことさえも忘れてしまいそうなので、何か使い道はないかと考えてみた。今までのPCが使えるうちはこのまま使っていこうと思っているので、当面は塾に置いておく必要はない。来年の中学教科書改訂を見越して、問題集作りのためにワープロ専用機にして、家と塾の間を持ち運ぼうかとも思ったが、せっかくのパソコン機能を埋もれさせるのも忍びない。ならば、とちょっと頭をひねった結果、妙案が浮かんだ。
 今でこそ、塾舎に光回線を引いてPCにつないであるが、それ以前は自宅にある妻のPCのADSL回線を、LANで結んで塾舎まで無線で飛ばしていた。天気の悪い日などはうまくつながらなかったし、つながらなくなることも何度もあったので、業を煮やして光回線に変えたのだが、そのときのLANはそのままにしてあるから、よく考えてみればそれを使うことは可能なはずだ。ならば、自宅の自室に新しいPCを持って行って、LAN接続をすればインターネットができるのではないだろうか・・。
 「なるほど、名案だ!」
と己の思いつきに唸りながら、妻に話してみた。
 「多分できると思うよ」
そう答えた妻はさらに、
 「無線で飛ばしたりしないで、直接LANの線をPCにつないじゃえばいいんじゃないの。でも、設定は自分でしなきゃいけないよ」
 「設定?難しいの?」
 「難しいと思うよ。できなきゃ電気屋さんに頼めばいいわけだし・・」
 「そうだな・・」
とは言ったものの、そんな難しいことが私にできるはずもない。試してみて、ダメだったら諦めればいい話だから、やるだけやってみようと思って作業を始めた。
 一階の妻のPCからルーターを経由して、長い線が二階の私の部屋まで引かれている。そこで無線の送信機につながっているから、それを外してPCにつなげばいいだけのことだ。簡単は簡単だ。

 さあ、どうだ、うまく行ったか?PCを開いてインターネットのアイコンをクリックしてみた。

 すると、苦もなくつながってしまった。設定など何もしなくても、すぐに富士通のスタート画面が現れた。びっくりした。拍子抜けするほどあっさりできてしまった・・。早速Googleでこのブログを検索し、クリックしてみたらすぐに表示された
。すごい!!
 「今のPCは頭がいいなあ・・」
と感心した私が妻に報告すると、
 「設定しなくてもよかったの?ふ~~ん、それはすごいなあ」
と驚いた様子だった。
 「でも、ネットをやるんだったら、セキュリティーもしっかりしなくちゃいけないよ」
と、先日ウィルスに侵入されて右往左往していた私を皮肉るように言った。
 「ノートンかウイルスバスターが入れられるそうだけど」
 「それはお試し期間でしょ?それが終わったらインストールしろって連絡が来るよ」
 「そうなの?まあ、その時にまた考えりゃいいよね」
と先日の一件で、あるセキュリティーソフトの会社から矢のような催促を受け続けてほとほと参ってしまった私は、「またあんな目にあうのか・・」と、内心暗澹としたが、とりあえずノートン先生を選んでおいた・・。

 これでわが部屋も晴れてネット完備のお部屋に昇格したわけだが、あくまでもメインは今までのPCで、新しいPCはサブ的な役割を果たすためだけに使おうと思っている。
 インターネットはほどほどに・・・。
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「決壊(下)」

 平野啓一郎「決壊」を読み終えた今、何とも言いがたい思いでいっぱいになっている。物語としての結末はきれいについている。登場人物の思いも丹念に描かれていてキャラは十分立っている。起承転結、なんら違和感はない。完璧な組み立てだとさえ思う。だが、一抹の物足りなさ、800ページにも及ぶ長編小説を読み終えた読後感としては希薄なものしか残っていない。何故だろう?
 物語はスケールが大きく、悲劇的な展開は推理小説めいて、先が読めないまま息もつかせぬ迫力で私をぐいぐい引き込んでいった。事件の大きさが劇画的でもあり、話を大きく構えすぎて、最後にきちんと収拾が付くのか、些か心配になったが、それを見事に纏め上げた手腕は素晴らしい。初めて平野啓一郎を読んだが、その流麗な文体(きらびやかな語彙がふんだんに使われているが決して読みにくくはない)とともに、ストーリーテラーとしての力量も見事で、日本文学の歴史に確固たる地位を築く人物だと思った。凄惨な場面が連続する物語も、現代に生きる私たち誰もが直面する可能性のある危機(どれも迂闊に看過できないものばかり)を表現しており、読む者に己と己を取り巻く社会環境を深く省みさせずにはいられない重厚なものとなっている。
 だが、読んでいる途中に感じた「これはすごい小説だ」という思いが、最後の1ページを読み終わったときに薄れてしまったのは何故だろう?話の終わり方に不満があるわけではない。こういう結末になるより仕方なかった、という思いは強い。でも、やっぱりもっと違った終わり方を私は期待していたように思う。かと言って、どんな終わり方をすればよかったのか、と自問しても何も浮かんでこないのだから無責任な感想でしかないのだが・・。
 だから、この文を書いていても、何をどう書いていけばよく分からない。画龍点睛を欠くなどという次元の話でもない。ただただ、何かもう少し展望の開ける終わり方ができなかったか・・。「このままじゃ、やりきれないよな・・」、確か読み終わった直後にちらっとそう思った。現代社会が持つ病巣をいくつも描き出して、それをこのまま放置しておいたら(放置するしかないのかもしれないが)、私たちの想像をはるかに超えた悲惨なことが近い将来起こってしまい、多くの人が巻き込まれ、数え尽せぬ悲劇が起こってしまう・・・、そうした警鐘を鳴らそうとするための終わり方なら、かなりの成功を収めていると思う、この小説が読む者に与える衝撃は計り知れないものだから・・。しかし、そんなことを平野は意図していたのだろうか?果たして小説家は人心を擾乱させる檄文の如き小説を書いて満足するものだろうか・・。
 決してそんなことはないと思う。「悪魔」が支配する世界の来迎を避けねば!!などと叫んで人々を惑わす宗教家のような役割など果たそうと思ってはいないだろう。ならば、この小説世界を読者に提示することで、平野は何を伝えたいのだろう、私は読み終えてからずっと考えている。「死」・「喪失」・「赦し」・「愛」・「時間」・「自我」・・・、そんな言葉がぐるぐる頭を駆け巡りはするが、それがうまく体を成してくれない。混沌として、広漠として、どうにも考えがまとまらない。
 だが、それでいいのかもしれない。この小説は始めから最後まで、明晰な言葉で表現されているが、その明晰さをもってしても、表現しきれないものを表現しようとしているため、読む者の受ける印象がまとまりの付かない抽象的なものになっているのではないだろうか、次第にそう思うようになってきた。それはもちろん、私の理解力の拙さにすべてが起因しているのかもしれない。読み進めるうちに、平野啓一郎って頭がいいんだなあ・・、と感心すること頻りであったから、私の生半可な能力では、彼の言わんとすることを十全に捉えることはできないのかもしれない。(実を言えば、平野自身もきちんとした答えを持っていないのではないだろうか、とさえ私は勘繰っているのだが・・)
 
 とにもかくにもこの作品を読んで、「恐るべし平野啓一郎!」という感想だけははっきり持った。私が感じた戸惑いも、あまりに素晴らしい小説を前にしての躊躇なのかもしれない。
 機会があれば他の作品も読んでいこうと思っている。
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春近し

 今週になって冬が逆戻りしてきた感があるが、日はかなり長くなり、春の訪れはもうすぐだ。松井秀喜は復活を予感させる打撃を見せているという。私は映像でそのバッティングを確かめたわけではないので、自分の感想を言えないのは残念だが、ネット上のニュースを読んでいると、膝の回復は順調のようで、今年の爆発を期待させてくれる。なんと言っても今年が松井にとっての正念場であるから、力強い松井の姿をシーズン通して見せてもらいたい。(MVPなどと欲は言わないけど・・)
 球春の訪れとともに塾の受験シフトもかなり大詰めになってきた。昨日は公立高校の推薦入試、我が塾からも何人かの生徒が面接試験に挑んだ。見事合格すればそれに越したことはないが、「たとえ不合格になっても一般入試がまだあるから、気楽な気持ちで頑張ってこい」と元気よく送りだした。全員合格してくれれば何よりなのだが・・。
 先日記事にしたDくんは名古屋大学にセンター推薦で合格した。センター試験の点数と提出書類の審査だけで合否が判定される試験で、かなりの点数を取ったDくんだけに私も本人も受かるものだと信じていた。私立大学も受験したが、順調に受かっているので喜ばしいことだ。だが、まだ2次試験が残っている生徒も何人かいるので、彼らにはもう一踏ん張りしてもらわねばならない。
 それと、私立中受験をした女の子は予想通り5校目も受かり、とうとう塾の新記録を達成した。さすがに5校目となると感激が薄れるのか、受かって当然というような顔をしていたが、5戦全勝というのはすごい。本人はそれだけ緊張を強いられたわけだから、それを無事乗り切ったことは今後の大きな自信にもなるだろう。普段あまり褒めない私が「すごい、すごい」と繰り返し称えたものだから、ちょっと恥ずかしそうな顔をしていたのは小学生らしくて可愛かった。
 着々と春に向けて世の中は動いている。どれだけ不景気の風が巷に吹き荒れようとも、人間の営みなどまったく意に介することなく、自然は時を刻む。私の部屋のシンビジュウムもとうとう満開になった。もうそろそろ切った方がいいなと思い立ち、鋏で2茎切って花瓶に挿し、床の間に飾ってみた。今年の花は大輪で力強いと思っていたが、部屋中の光を集めたように花弁が輝いている。母の残してくれたシンビジュウムがこれほど立派に咲いたのは初めてだ。



 このシンビジュウムに負けまいとしているのか、福寿草も例年より多くの花を咲かせている。こちらは黄色が可憐だ。

 


 冬の名残の寒さの中に春の胎動が感じられる今、輝き始めた命が私たちを元気付けてくれる。「もうすぐ春だよ!!」、耳を澄ませば聞こえてくるようだ。庭の梅もほころび始めた。




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