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京都にいる友

 今日で5月も終わるが、この1ヶ月間毎日このブログに投稿を続けてきた。自分なりに意志を表す文を書き綴ってきたつもりだが、面白くないものばかりだったかもしれない。しかし、何も面白いことを書きたいわけでもなく、ましてやうけを狙った文章など書けるはずもない。ただ言いたいこと、書きたいことを淡々と書いてきただけだ。前の文章など読み直したことがないから、いったいどんなことを書いたのか、タイトルを見ただけでは思い出せないものもある。駄文を垂れ流ししているだけだという気がしないでもないが、まあ、1ヶ月間毎日欠かさず書き込んでこられただけでも自分としてはすごいことだと自惚れている。
 そんな時、妻が夕刊を私に渡して、「これ。」といってある記事を示した。それは京都の中心部で小学校が10数年前廃校になって以来、風営法の縛りがとれて風俗店が林立するようになり地域住民を悩ませていたが、その廃校の運動場を近くの小学校が部活動に利用するようになって、また風営法が効力を発揮できるようになって、風俗店の新規の出店を防ぐことが可能になったという記事だった。この記事のどこに注目すればいいのか理解できず、何度か読み返したが、記事を書いた記者の名を見て驚いた。中学から大学まで同じ学校で過ごした古い友人だったのだ。大学卒業後は新聞社に勤めている彼とは次第に疎遠となり、3年前に大学のサークルの同窓会であって以来顔を見ていないし、電話で話したのも1年近く前が最後だった。京都の支局でデスクをやっていると話していた彼が署名入りで書いた記事を妻が目ざとく見つけて私に教えてくれたのだ。彼にしてみればこうした記事を何度となく発表してきたのだろうが、私が実際に読んだのはこれが初めてだったのでかなり感動した。改めて読んでみると彼らしさが感じられるものではなく、一般的な新聞記事に過ぎないものだが、私には素晴らしいレポートに思われ、あいつも頑張ってるんだなあ、と妙に心が熱くなった。
 同じ世代の者が一生懸命生きている姿を見るのは励まされる。まだまだ頑張るぞ、と意を新たにした出来事だった。
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英語

 ヤンキース松井選手を応援していると、インターネットで英語のサイトを読む機会が増えてくる。教科書的な英語で書かれている場合は無理なく理解できるが、口語的な表現がなされていると理解に苦しむことがある。なんにせよ、日常的にネイティブに接しているわけではないので、今現在使われている表現をリアルタイムで身に付けることは無理だが、その都度、英語は生き物であることと、その深さが実感できる。
 それは何も英語に限ったものではない。日本語の奥深さは、例えば、中日新聞に毎朝再録されている、漱石の『吾輩は猫である』を読んでみれば理解できるだろう。和語の柔らかさと漢語の鋭敏さの微妙なコントラストに、西洋語がエスプリをきかしたその表現は、登場人物の超日常性と相まって、読む者をしばし軽妙洒脱の世界へと誘う。 
 しかし、現代では高校生にとってさえ、夏目漱石は古典であり、しばしばルビなくしては読み進めない。鴎外の『舞姫』なども解説書なしでは理解できない書物であり、中島敦の『山月記』に至っては片言節句詳細な語義説明が必要である。これを国語力の低下と考えるか、時代の趨勢と捉えるかは人それぞれであろうが、悲しい現実であることは間違いない。
 国際化が叫ばれ、英語力の充実を望む動きもあるが、まずは自国の言葉を完璧に使いこなせることを念頭に置いた教育がなされるべきであろう。自国の言葉、固有の文化をおろそかにした国家が生き残った例はないのだから。
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愛ずる

 先ほどラジオでどなたかが、愛ずることー対象物をしっかり見ることによってそれを愛するようになれるーの大切さを説いておられた。例えば、赤ん坊は確かに可愛いが、泣いたりして手に負えなくなることもあり、それが幼児虐待への引きがねとなることもある、そんな時は赤ちゃんをじっとゆっくり見つめてみよう。彼・彼女の眠る姿、ぐずる姿、笑う姿、全てをじっと見つめるうちに、いやな感情は霧散し、愛情が深化していくはずだ。
 すばらしい言葉だと感動した。いくら我が子でも鬱陶しいと思うときはよくある。そんな時、我々は往々にして彼らから目をそらし、背を向けてしまう。それが親子間の意思の疎通を欠く原因となり、断絶を招く元となる。いやなものから目を逸らしたくなるのは人情だが、親は子をまっすぐに育てる義務があるのだから、彼らをじっと見つめ、愛でてやらなければならない。親の愛があってこそ子は育つものだから。
 このことは男女間の関係にもある程度当てはまるだろう。お互いをしっかり見つめ合い、お互いの個性を尊重し合い、お互いを高めあっていく。確かに素晴らしい。男女間がある段階まではこうした理想を述べ合うことも意義あることだろう。常に互いを意識し合い、決して過干渉にならないこと、そんな夢のようなことが実現可能だと幻想を抱ける段階までは。
 しかし、一緒に暮らし始め、お互いのいやな所、我慢できないところが見え始めると、見詰め合ってばかりいてはかえって逆効果だろう。いつまでもそんなことを続けていけば、雪ダルマ式に不満が募ってしまうはずだ。かといって、お互いから目を逸らしてしまえば、その時点で2人の間は終わってしまうだろう。では、どうすればいいのだろう。
 私は、見つめ合うばかりではなく、後ろを向き合うのでもなく、2人で同じ方向を向いて生きていくようにしなければならないと思う。それが何であれ、2人が共通の目的を持ち、それに向けて協力し合っていくことが必要だと思う。子育てであれ、事業であれ、趣味であれ、2人が力を合わせられるもの、合わせなければ達成できないものを見つけ出さなければならないのだ。そういうものは必ずあるはずだ。
 もしどうしても見つからなければ、残念だが、もうその関係は解消した方がいいだろう。
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好き嫌い

 食べ物に関して私は好き嫌いがはっきりしている。鶏肉は絶対に食べない。鳥という存在自体がまず生理的に受けつけない。あのごつごつした脚、目から嘴にかけての凄惨なイメージ、ああ、姿を思い描くだけで全身に悪寒が走る。ましてや鶏肉に加工されたときの、羽根をむしられた皮のつぶつぶ感はとても堪えらない。妻や子供たちは手羽先だ、モモ脚だ、砂肝だなどと本当においしそうに頬張るが、何故そんなものが食べられるのか理解できない。食べた後に残される骨など、とてもじゃないけど、触れない。ああ気持ちが悪い。
 トマトもだめだ。間違って口に入れたことは1,2回あるがあのいやな味だけはとても表現できない。ただただ、まずい!しかし、ケチャップは好きだ。鶏肉はだめでも玉子は好物なので、オムレツにしてケチャップをかければお気に入りの一品となる。スパゲッティなら、トマトソースはOKだ。市販の味付けされたものでなく、ただトマトの果肉をつぶして作ったソースでも大丈夫だから、おかしなものだ。
 ナスも食べられない。夏など、焼きナスをおいしそうに食べる人を見るたびよくあんなものが食べられるなあと不思議に思う。ナスは多分1度も口に入れたことがないのでどんな味なのか分からないが、きっと私には受け入れられないと思い込んでいる。
 チーズもだめだ。あれは臭いがいやだ。でも牛乳は大好きだし、バターはおいしい。チーズケーキが食べられるようになっただけ少しは進歩したと思っている。
 何でこれらの食物が嫌いなのか全く分からない。物心付いたときにはこうなっていたので、それ以前に何かいやになる原体験があって、それがトラウマとなって、今日まで来たのだろうか。いい年こいてそんなに好き嫌いがあっては恥ずかしい、といつも妻にいじめられるが、いい年になっちまった今更どうしようもないことなので、あきらめてもらうしかない。
 これが食べ物だからまだ許されるだろうが、人間関係だったらそんなに簡単なものじゃない。誰にだっていやな面はある。それが目に留まってその人を敬遠するようになったとしても、そのままその嫌悪を固定観念として引きずっていってはいけない。絶えず相手のよい面を見つけようとし続けなければいけないだろう、なかなかできることではないが。特に子供を相手にする場合は、今見せているのとは違う一面をこの子は持っているはずだと思い、それを見つけ出す努力をしなければならない。子供はあくまでも子供なんだから、大人が見捨てるようなことはしてはいけない。
 いやな子供ばかりでうんざりすることも多いが、やっぱりそういう気持ちは持ち続けていきたい。
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うちの奥さんはSMAPの大ファン

 我が妻はSMAPの大ファンである。CD、DVDは勿論のこと、メンバーの載った雑誌は店頭で必ずチェックし、己が目に適ったものは全て購入する。彼らの出演するTV番組は何週間も前から全て知っており、彼らのスケジュールもかなりの割合で把握している。彼らの番組を録画するため、我が家にDVD録画機が導入されたのは巷間あまりその存在が認知されていなかった時期であった。1代目はもう壊れてしまって(使いすぎ?)、今は2代目が彼女の寝室に鎮座している。
 何故これほどまでに血道をあげているのかよくは分からないが、キムタクってカッコイイ、から始まって、中居くん、吾郎ちゃん、慎吾クン、ツヨシと全てのメンバーがお気に入りとなり、今では、メンバーの中の誰かが好きという次元を飛び越え、SMAPというグループの大ファンとなっている。毎年(去年はスケジュールの調整ができず催されず)行われる彼らのライブコンサートには、地元の名古屋の全公演日行くのは当然として、北海道、東京、大阪、広島へと、日本中彼らを追っかけて行く。その土地土地に仲間がいて、行く度に大きな荷物を抱えて帰ってくる。こんなことを書くと、家族をほっぽらかして遊び歩く悪妻のようだが、遠出するときには2日分の食事は用意してから出て行くので、残された者たちが食うに困ることはない。彼女なりに回数はぎりぎりまで抑えてあるつもりなので、こんなに行くのかなどとちょっとでも不平を言ったりすれば、喧嘩になるのがオチなのでなるべくやりたいようにやらせておくのが、夫婦円満、家族安心の秘訣にいつの間にかなってしまった。
 これだけでもかなり迷惑だったのに、去年から藤原竜也という俳優が彼女の新しいアイドルとなって、ちょこちょこ彼の舞台を見に行くようになった。今年も6月に名古屋で2回、埼玉で1回公演を見に行くことが、まあ私たちの間の協議の結果決まっている。これ以上広げるなよと釘はさしてあるものの、どこまで暴走するか分からない一面がある奴だから少々心配である。
 彼女も私と同じ、46歳。顔を見ればだいぶ歳を重ねたとはいえ、まだまだ老け込むには早すぎる。若い娘に混じってキャーキャー熱狂するのも、若さを保つためにはいいのかもしれない。まあ、そう思っておこう。
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智恵子の享年

 昨夜眠る前に久しぶり、というよりほとんど初めて「智恵子抄」を読んでみた。詩篇のいくつかは読んだことがあるが、読み通したことはなかったので、眠い目をこすりながら読み進んでいこうと思った。「レモン哀歌」は何度読んでも胸を打つ詩だと感動しながら、巻末の高村光太郎の年譜を開いてみて驚いた。智恵子が亡くなったのは、52歳!私がそれまで思っていた享年(漠然と20代後半位)とはあまりにかけ離れていた。勝手に作ったイメージで読んでいたけれども、光太郎と智恵子の愛はそれほどみずみずしく新鮮な印象を読む者に与えるのだろう。
 文学、特に詩は読む者が自らの感受性でイメージを膨らませ、1つの世界を作り上げ鑑賞するものなのだが、52歳のおばさんが狂死する物語という事実を突きつけられると、「智恵子抄」=純愛詩集と自らが勝手に作り上げた思いが幻想であったような気がして少なからず寂しかった。しかし、智恵子がたとえ何歳であったとしても、私たち読者はそんなことお構いなしに、1人1人の「智恵子抄」を作り上げればいいわけで、そうした想像力の広がりを許す表現方法としての文学の深さが再認識できた。
 これが映像だったら、智恵子が何歳で、どんな容姿をしていて、話し方はこうだったと表現者のイメージを押し付けられてしまう。文学ってこれからも生き残っていけるだけの存在価値を持ち続けられるだろうか、としばしば不安になっていたが、やっぱり文学の力は永遠なのだ。 
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何故勉強しなければならないの?

 中学生と勉強をしていると、時々「何故英語なんて勉強しなきゃいけないのか?」とたずねられる。これに外国に行ったときに困るからだ、などと答えたところで、彼らは外国なんか行かない、と簡単には納得してくれない。だから私は、「高校に行くためだ」と即物的に答えることにしている。すると彼らは不満そうな顔をしながらも、ふーんと引き下がる。高校に入るためと答えるぐらいしか、自分の将来になんらのビジョンも持っていない今時の中学生を黙らせることはできないのだ、残念ながら。
 しかし改めて、何のために勉強するのかと考えてみると、明確な答えを出すのはなかなか難しいが、現代の子供たちに限って言えば、「我慢すること、忍耐することを覚えるためだ」と教えてやりたい。現代の子供は、落ち着きがなく、人の話を聞かず、自分の好きなことしかしない。少子化の影響で子供1人にかける大人の手が多くなって甘やかされて育ってしまう彼らにとって、最も難しいことは、いやなことを我慢して最後までやり遂げることだ。昔の子供たちはいやなことがあっても誰の助けも得られず、自力で乗り越えていくしかなかった。それが今の子供たちはちょっと辛そうな顔をすれば、四方八方から救いの手が伸びてきて彼らを窮地から救い出してくれる。彼らはそれに甘え、自分で簡単にできることまですぐ人の手を借りようとする。こんな状況では忍耐力が身に付くはずもなく、小学校など、お行儀の悪い子供で一杯だ。しつけは家庭でするものなのに、親は子供のYESマンに成り下がってしまっている。自然大人を大人と思わない、尊大な、王様・女王様のような子供ばかりが育ってくる。
 そんな彼らに勉強を教えるにはまず行儀作法から始めなければならない、と信じられないようなことが塾でも起こっている。学校が勉強をまともに教えていないのはもう当たり前の感覚になってしまったが、家庭が子供のしつけを放棄したのは正直勘弁してほしいと思う。自分の子供に社会に出て恥ずかしくないぐらいのマナーを身につけさせるのは最低限の親の仕事だと思う。しかしそれができてない以上、子供たちにとって自分の意思に反して強制的に勉強させられるのは苦痛以外の何者でもない。勉強とはもともと「知的好奇心を満足させ、学ぶ喜びを知るためのもの」だろうが、そんなことは現代の子供にとってとても理解できない。だから私は彼らに、「勉強ってのは面倒くさいものだ。だけど、面倒くさいからこそ、それを我慢して続けていけば、忍耐力が付き将来必ず役に立つ時が来る。だから今はどんなに面倒くさくても我慢して勉強しろよ」と諭すことにしている。(勉強するのを嫌がる子供に、こんなに論理だって説明するのはかなり難しいが。)
 なんにしても物を教えることは難しい。特に、己が納得しなければ先に進もうとしない者らを相手にするときには。

『お父さん、お母さん、子供はあなたたちの鏡ですよ。子供を見ればどんな親かが分かってしまいます。恥ずかしい思いをしないよう、子供に最低限のマナーを身に付けさせてください』
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何故松井は1ヶ月以上もホームランを打てないのか。(2)

 松井がこうも長期間ホームランを打てないのは異常事態である。何故打てないのだろうか。侃々諤々の議論が繰り広げられているが、その主なものをいくつか取り上げてみる。
1.花粉症の影響で眠られぬ夜が続き、体調をくずした。
2.筋トレの影響で野球に必要ではない筋肉が付き、それがバットのスムーズな出を妨げた。
3.テイクバックをとるフォームに変えたためボールに差し込まれ、詰まってしまう。
4.チームの不振に4番バッターの責任がプレッシャーとなった。
5.体のバランスがとれず、体の開きが早くなってしまった。
6.肉体的な疲労の蓄積。
 私が目にしたものを大別すればこれぐらいになると思う。私見ではどれもが正しい。これらが複合的に絡み合ってこんなにも長い期間松井はホームランを打てないでいるのだろう。
 しかし、私は精神的な面での松井の失敗を取り上げてみたいと思う。松井自身の話によれば昨シーズンの終盤あたりから自分のバッティングに自信が持てるようになり、オフシーズンは筋トレにより、一段と逞しさを増し、更なるパワーアップを図った。その成果はオープン戦で現れた。ホームランキング奪取を仄めかすほど、あふれる自信で臨んだ開幕戦の対ボストン線での大爆発。松井はここで思わぬ心の油断に囚われてしまったのではないだろうか。自分は打てる、どんどんホームランを打っていこう、ライトスタンドにアーチを叩き込もう、と。彼はほとんどの投球を引っ張りにかかってしまった。その結果が1年目に揶揄された「ゴロキング」の再現だった。4月中旬から5月上旬までビデオを見るがごとくファーストゴロ、セカンドゴロの山を築いた。
 私はこの頃から松井のバッティングに2年目のような柔軟性が失われているのに気付きだした。去年はあれほどあったレフと方向への強い打球が影を潜めていたのだ。レフと方向へ引っ張って強い打球を打つという彼が目指したものが忘れ去られているように思えた。あまりに繰り返される凡打を見て、私は松井は意地になっているのではないかと思った。どんな球でもライトスタンドへ叩き込むホームラン打者になるのを目指して始めた、今年のフォームをとことんまで追及しようとしたのではないか。チームは不振を極め、とてもそんなことが許されるものではないことは知りながらも、このフォームが完成できればチームを優勝に導けるのだと、意地を張ってやり通そうとしたのがかくも長い間ホームランを打てなくなった大きな原因ではないかと私は思う。
 トーリ監督は、松井をセンター中心に打ち返す中距離バッターだと評している。ホームランよりも打点を期待するバッターだとたびたび発言している。私も松井のライトスタンドへの豪快なホームランを見たい者であるが、メジャーで松井が目指すべきものはセンター中心のバッティングであり、その結果としてのホームランだと思っている。
 ここ10日ぐらい松井の調子は確実によくなってきている。それは左方向を意識したバッティングを見せるようになって、ピッチャーの投げるボールに逆らわないようになったからである。強引さがなくなり、バットが自然と、いわばスーッと力強く出てくるようになった。この変化をどう考えたらよいのだろうか。松井が己の試みの失敗を悟り、去年までのセンター中心の意識を取り戻して臨むようになっただろうか。潔く気持ちを切り替えたのだろうか。松井はバッティングに関してはかなりの頑固者だと聞いたことがある。そんな男が簡単に自説を曲げるとは思わないが、いったいこの変化はどこから来たのだろうか。シーズン終了後にでも、彼自身の口から聞けたらいいと思う。
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ドアノブ

 私の部屋に入るドアのノブが少し前から壊れていて、部屋への出入りがなかなか面倒だ。うまくいけばすぐに回ってくれるが、ちょっとずれると空回りして開けられない。直せばいいんだろうが、ほとんど寝るためだけの部屋だからついつい先延ばしにしてしまう。その場で気が向かないと先送りしてしまう性格は困ったものだが、ほかっておけるのはまだ必要に迫られてはいない証拠なのだろう。
 だが、考えてみればドアノブが本当に機能しなくなったらどうなるのだろう。ほかに窓がなければその部屋に入れなくなってしまう。鍵などかけていないのに、ノブが鍵のようになってドアが役目を果たせない。普段は何気なく回しているノブだが、壊れたときには実に厄介な代物になってしまう。回しても回しても動いてくれず、中に入れない、苛立ちと焦燥感が募ってきて半ばやけ気味にドアを蹴っても何の役にも立たない・・・まだそれがただの部屋ならまだしも、トイレのドアだったら、と想像してみると下手なホラーよりも恐怖を感じる。急な腹痛で一刻の猶予もならないときにそんな事態に直面したとしたら・・・ああ、怖い!
 考えてみると、部屋の入り口に「戸」があるのは当然だが、大きく分けてドアのように前後に開閉するものと引き戸のように左右に開閉するものとがある。引き戸は構造上自然に開閉することはないので留め金をつける必要はないが、ドアタイプは留め金がなければ風が吹いたときなど自然に開閉してしまうので今のようなノブが付けられ、回してとめる役を果たしているのだろう。日本の古来からの住宅には襖や障子など引き戸が多く、ドアのようなものは少ないように思うがどうなんだろう。
 そんなことを考える暇があれば、自分の部屋のノブを修理する算段でもしたらよかろうに、怠け者はなかなかそちらへ気が回らない。完全に壊れたらどうするんだよ!
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またやっちゃった・・・・・

 松井が何故こんなにも長くホームランを打てないのか私なりの考えをまとめ、後は結論を付け加えたら完成と言う段階で、またやっちゃった。間違えて変なキーを押したら、画面が変わって、文面が削除されてしまった。今はとても書き直す気力が出てこないので、一晩寝て(ヤンキスーVSメッツがもうすぐ始まる)元気が回復していたらもう一度書き直そうと思う。その前に松井がホームランを打てば書くのはやめると思うが。
 とりあえず・・・
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