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著作権(2)

 中学3年生は3月12日から始まる公立高校入試に備えて、過去問に必死で取り組んでいる最中だが、そんなとき一人の生徒が、「先生、23年Aグループの国語の問題がないんですけど」と訴えてきた。「ないって、どういうこと?」と言いながら、その子のところに行ったら、びっくり、白紙だ・・。


ただ、2、3行文字が書いてあったので、読んでみた。
「この作品は著作者の掲載許可を得られませんでした。
申し訳ございませんが、ご了承下さいますようお願いいたします」 
 そう言えば、昨年の入試当日の夜、インターネットで問題をプリントアウトしたところ、問題文が読めないようにしてある箇所があったのを思いだしたが、あれは著作権の関係上、本文を載せることが出来なかったからなのだ。「なるほど・・」と妙に納得してしまったが、問題文が読めなくては生徒たちの勉強にならない。いくら何でも昨年の問題が読めないでは困ってしまう。何とかして見つからないかと、ネットで調べてみても、この問題文だけはどうしても載っていなかった。困ったなあ・・、と思いながら、違う種類の問題集を持っていた生徒に、見せてもらったら、本文が、辰濃和男という人の「ぼんやりの時間」(岩波新書)という本からの引用であると書いてあった。引用文の載っているページ数まで書いてあったから、この本を手に入れれば、問題文を読ませることはできる!と分かった。
 そこで早速アマゾンで注文したのだが、その本が早くも月曜日に届いた。火曜日に来る3年生のために、本文の引用箇所をコピーして、問題の番号を添付したり、穴埋め問題のために言葉を隠したりした。それを印刷してして生徒全員に配ったところ、生徒の一人が、「どうしてこの文の作者は問題集に載せることを拒否したんですか?」「そんなこと言われてもなあ・・」「読んでもらいたくないんですか?」「読んではもらいたいんだろうけど、自分の許可無しでどんどんコピーされるのがイヤなんだろうな、きっと」「色んな人に読んでもらった方がいいと思うけどなあ。宣伝にもなるし・・。」「そういやそうだな・・。入試問題に出ていた文の全体を読みたいって思う子もいるかもしれないしな」「そうですよ、一人でも多くの人に読んでもらった方がいいにきまってますよ、ぜったいに」
 この辰濃和男という人がどういう人なのか、新書の後書きの範囲でしか知らないが、どうしてこんなにも著作権に厳しいんだろう。ざっと読んでみたが、取り立てて面白い文でもなく、入試問題として読ませるのに手頃な文章にしか思えなかったから、なんだか勿体ぶっているようで、鷹揚さがないように思ってしまった・・。自分の文章が入試問題に選ばれ、多くの若い者たちにたとえ多少なりとも読んでもらえるのだから、ケチケチせずにもっとオープンにしてくれればいいのに、と心から思った。

 このブログを始めた頃に、著作権について書いたことがあったが、その頃と比べれば、問題集に本文が掲載されていないことはかなり少なくなった。それも、問題集の出版社がかなりの著作権料を払っているから可能になったと聞いているが、「結局は金かよ」と思わないでもない。でも、彼らもいわゆる「売文の徒」であるから、おいそれと妥協できないのも当たり前かもしれない。

 
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アウトレット

 土岐にあるアウトレットモールに行ってきた。今調べたら、2005年に開業したそうだから、できて7年にもなるのに、行ったのは初めてだった。たまには妻のご機嫌伺いをしておかねば面倒なことになるから、服の一枚でもプレゼントしようか、と思い立ったからだが、できれば安く済ませられればそれに越したことはないと、初めてアウトレットモールという所へ出掛けてみた。


 東海環状を使えば、家から車で20分足らずで着いた。天気が良かったので、広い駐車場からは雪を被った山々が遙か見渡せた。写真でははっきり見えないのが残念だ・・。
 140以上の店舗があるというだけあって、本当に広い。
 

 月曜の午前中にもかかわらず、結構賑わっていて、ちょっと驚いた。でも、出店している店の名前を見てみると、なかなかのところが揃っていて、その商品が安く買えるなら、人が集まるのも当たり前だと思った。妻に買った服も、定価の半額だったから、随分得をした気になった・・。
 だが、それだけについつい思わぬ散財をしてしまうのが私の悪いところだ。LEGO の店があったので、何気なく入っていったら----。こんな物見つけたらもうダメ・・。


 LEGO で作った列車が、リモコンで線路の上を走るのだそうだ。う~~~~ん・・・・。やっぱ我慢できないよな・・。

 ということで買ってきてしまったが、想像以上に面白い。

一部を組み立ててみたが、病みつきになりそう・・。


 完成したら、またここで紹介しよう。
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「し」か「じ」か?

 昨日、喫茶店で読んだ中日新聞朝刊に「いろは歌」についての記事が載っていた。何気なく読んでいたら、思いもかけぬ内容で少なからず驚いた。

  いろはにほへと ちりぬるを
  わかよたれそ つねならむ
  うゐのおくやま けふこえて
  あさきゆめみし ゑひもせす

という「いろは歌」が次のように解釈されていたのだ。

  色は匂へど 散りぬるを
  我が世誰ぞ 常ならむ
  有為の奥山 今日越えて
  浅き夢見じ 酔ひもせず

 私はずっと、「あさきゆめみし」の箇所を「浅き夢見し」だとばかり思っていて、「浅き夢見じ」という読みだとは全く思っていなかった。つまり、「し」をそのまま過去の助動詞「き」の連用形「し」だと思って、「酔ってもいないのにはかない夢をみてしまったものだ」と解釈していたのであって、否定の意味を表す「じ」とした場合の「酔ってもいないのにはかない夢など見ないよ」という解釈とは正反対の意味にとらえていたことになる。だが、この世の無常を憂う前半部から言って、酔生夢死する己の愚かさを嘆いた私なりの解釈の方が流れがいいのになあ、と思ったものだから、どちらの方がいいのか、少し調べてみた。
 すると、「教えてgoo」に正鵠を射た説明が載っていた。

『「みし」についてはこの歌全体をどう解釈するかで大きく違って来る語だと思います
「あんなに咲き誇っている花だっていつか枯れてしまうのだから、どんなに凄い人だってそれがずっと続く訳じゃない、今日も一日何とかやって来て」
と来て、「あさきゆめみし ゑひもせす」
・酒を飲んだ訳でもないのに、はかない夢なんか見るもんじゃないよ(見じ)
・酔ってる訳じゃないけど、ついつい夢を見てしまう(見し)
最後の解釈の仕方次第で歌の調子がかなり変わってしまいますよね』

Wikipediaなども調べたが、「いろは歌」の「し」を、「し」とするか「じ」とするかは、はっきりと確定はしていないようだった。なにせ、随分昔に作られた「歌」だけに、解釈は人それぞれで構わないということなのだろう。「し」でも「じ」でもどちらでもお構いなく、というような・・。ならば、私は今まで通り、「し」で通していこうと思うが、それも、なんだか己の情けなさが如実に表れた解釈のようでもあり、ちょっと躊躇しないわけでもない。だが、「はかない夢を見るもんじゃないよ」としたり顔に言われても、「夢見なきゃ生きていけないだろう」と言い出してしまうのが私だから、死ぬまで情緒的に生きていくしかないんだろうな、と開き直って、「浅き夢見し、酔いもせず」と断言することにしよう。

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塩酸

 学年末試験のために化学の勉強をしていた女子高生が、
「潮解と風解の違いは何ですか?」
と質問してきた。私は、
「潮解っていうのは、物質が空気中の水蒸気をとりこんで自発的に水溶液となる現象のことで、風解というのは、ある種の水和物から全部または一部の水が失われる現象のこと。簡単に言えば、潮解と反対の現象・・」
と答えたが、ふと思いついて、
「潮解を起こす代表的な物質は水酸化ナトリウムだけど、水酸化ナトリウム見たことある?」
と訊いてみた。それに、
「写真とかならありますけど、実物はないです」
と生徒が答えたものだから、
「じゃあ、見せてあげるよ。空気中に置いておくと、本当にドロって解けた感じがしてくるから・・」
そう言って、事務室にある流し台の奥にしまってあるはずの水酸化ナトリウムを探しに行った。
 昔、小学生と「酸とアルカリ」の勉強をするときに、アルカリの代表として薬局で買った物があるはずだが、と思いながら探してみたが、どういうわけか見つからなかった。捨てた記憶はないけどなあ・・とちょっと不思議だったが、その代わりに「塩酸」がしまってあったのを見つけた。そう言えば、これも勉強のために薬局で買ったものだった。


「水酸化ナトリウムはなかったけど、塩酸ならあったよ」
と見せたところ、ギョッとした顔をした。そりゃあ、塩酸だもの、強酸だもの、危険だもの・・。
「ずっと昔に薬局で買った物だけど、危ないよね。処分した方がいいよなあ・・」
 と言っても、こんな劇薬、勝手に処分してもいいのだろうか。授業が終わった後、ネットで検索してみた。 

「大量の水の中に塩酸を入れて流してしまえば,実用上の問題は生じないと思います」

あれこれ書いてあったが、結局は大量の水とともに流してしまえば大丈夫みたい。
そこで、トイレのにある洗面台の蛇口を開きっぱなしにしておいて、少しずつ塩酸を流していった。
「ひょっとすると危険かな」
とびびりながら、作業を進めたが、時々白い煙が微量出て来ただけで、案外楽に流し終えることが出来た。一安心・・。

 でも、後で塩酸の管理方法について、次の様な記述を見つけて少し驚いた。
「塩酸は保存に気をつけないといけませんね。容器からわずかに揮発する塩酸ガスによって、付近の金属製のものが全てさびてしまいます」
塩酸を長い間しまっておいた流しの中にあった金属物が、やたら錆びていたのは、そういう理由だったのか・・。さすが、「劇薬」だ・・。


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ペットボトルのキャップ(3)

 塾舎の事務室に置いてある冷蔵庫の取っ手に結びつけたコンビニ袋、そこにペットボトルのキャップを貯めるようにしているのだが、パンパンになってはち切れそうになってきたので、回収ボックスに持って行くことにした。でも、その前にやっぱりいくつあるのか数えてみたい。前回コンビニ袋一杯になったときは、400個くらいだったと2010年10月の記事には書いてあったが、今回はそれよりも多いんじゃないか、とコンビニ袋の膨れ具合から推察してみた。


 10個ずつ1列に並べて数えやすいようにしていった。先ずは、100個。


サントリー烏龍茶と伊右衛門のキャップがやはり多い。これくらいでは、コンビニ袋のキャップが減ったようには思えない。さらに、200個、300個。

 

 まだまだ残っている。並べるだけでも結構疲れる。「こんなことして遊んでないで、ワープロ打ちをやらなくっちゃ!」と勤勉さが訴えかけてくるが、何とか振り切ってさらに並べていった。400個、500個。

 

 さすがに残り少なくなってきた。1000個あるかな、と淡い期待を寄せていたが、そこまではとてもなかった。ちょっと残念・・。


 よし、これで600個!!だが、もう後わずか・・。端数を数えてみたら、606個!!なんだか記憶の片隅に残っている数字だが、そんなノスタルジーに耽ってもいられない。この今回集めたキャップ606個は、そのほとんどが自分で飲んだペットボトルのキャップだと思うとしばし唖然としてしまう。全部で何リットルの液体を流し込んだことになるのだろう・・。

 でも、これだけじゃワクチン一人分にも満たない。(800個で1人分だそうだ・・)
 もっと飲まなきゃいけないけど、今回はとりあえずこれだけを回収ボックスに持って行くことにしよう。


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「呪いの時代」

 このところワープロ打ちに心血を注いできたせいか、表現能力が落ちている。毎晩こブログを書いているときに、頭に浮かんだことを的確に表現することができず、まさに隔靴掻痒の思いに悩まされている。少し前ならもっと端的かつ明晰な表現ができた気がするのに・・、そんな苛立ちもあって、なかなか長文を書けなくなっている。
 そんな状態の今の私に、内田先生の「呪いの時代」を読み終えた感想を書き留めることなどとてもできそうもないが、1冊本を読み終えたら、このブログにその感想を書くことを習慣としてきた以上、無理でも試してみることにする。

 本書で内田先生の言わんとすることは「あとがき」に解説されている。

『この本の中で私は別に目新しい知見を語っているわけではない。みんなが知っていることをもう一度繰り返し確認しているだけである。呪詛も贈与も人類と同じだけ古い制度であり、それがどう機能するものかは誰でも知っている。けれども、多くの人々はそれは神話や物語の中のことであって、私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうではない。呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである』
 
 確かにそうかも知れない。だが、横溢する知識は汲めど尽くせず、論は縦横無尽に駆け巡る。「内田節」とでも呼びたくなるような闊達な論旨は、読む者を知の奥深い森へと誘い続ける。己を韜晦することのない、忌憚なき言説は直截に胸に響き渡る・・。などと使い慣れない言辞で、先生を評したところで、己の非才を糊塗することもできず、只管恥じ入るばかり・・。

 しかし、本書を読むと、このところの内田先生の動向に合点が行く。ハシズム・橋下徹批判、「私たちは原発のない日本をめざします」という意見広告、に至る理路が整然と述べられていて、「なるほど」と肯んじた。次の一節など、大阪市長に捧げたい・・。

『「私が正しいか、お前が正しいか、二つに一つだ」というような場面というのは現実にはまずありません。僕の望みを実現するためには、まず「あなたの言うことはもっともだ」と言ってくれる支持者を増やさなければならないし、反対者とも何とか折り合いをつけて同意を取り付けなければならない。それをしたくないのは、おそらく「合意形成」を「屈服」や「妥協」と同義だと思っているからでしょう。けれども、「私は正しい、おまえたちは間違っている」とただ棒読みのように繰り返すだけの言葉づかいは何かを壊すことはできますけれど、何かを創造することはできません。
 「壊す」ことも「創造する」ことも、今ある現実を変えるという点ではよく似ています。ですから、「Change」という威勢のよきかけ声を挙げて興奮している人は、自分がものを壊しているのか、作り出しているのかということにはあまり興味を示しません。長く生きてわかったことの一つは、「現実を変えよう」と叫んでいるときに、自分がものを壊しているのか、作り出しているのかを吟味する習慣を持たない人はほとんどの場合「壊す」ことしかしない、ということです。そして、常識的に考えればわかることですが、壊すだけで作り出すということを誰もしなければ、いずれ世の中のすべては破壊し尽くされて、もう壊すものさえなくなるということです』(P.15~16)

 
 やっぱり引用ばかりになってしまった・・。予想はしてたんだけど・・。

 
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ヒヤシンス(2)

 少し寒さが緩んできた。2月も下旬だから、春の兆しが見え始めても当然なのだろうが、寒い日がずっと続いていたから、心の底からホッとする。そんな気持ちからか、昨日スーパーに妻のお供で行ったところ、ヒヤシンスの球根が売られているのを見つけたので、ためらわず買ってきた。


 1個98円だったから、10個買った。赤花と紫花を5つずつ、もし他の色があったら、もっと買っただろう。なんだか気持ちが晴れ晴れしていて、ちょっと浮かれていたのかもしれない・・。
 添えられた札に、「鉢植え、プランター、水栽培」と書いてあった。5年前にもヒヤシンスを買って育てたことがあり、このブログの記事にもしたが、その時は鉢植えだった。今回は水栽培にしてみようかな、とも思ったが、ちょうどいい入れ物が10個も見つからなかったので諦めた。その代わりにマグカップならいくつも転がっていたので、それに植えてみることにした。


 ちょっとおしゃれな感じがして気に入った。一気に10個植え替えた。紫花は青い縞のカップに、赤花は無地のカップにと分けて。


 簡単そうに見えるけど、案外時間がかかった。でも、こうやって並べてみると、「これが一気に咲いたら、さぞかし艶やかだろうな」と楽しみになってきた。5年前は淡いピンクの花弁だったから、どこか探せば、色んな色のヒヤシンスを見つけられるかもしれない。白が欲しいなあ・・。
 マグカップはまだまだ沢山残っているから、容れ物の心配はない。

 作業を終えて、塾舎の入り口の小さな花壇を見たら、秋に植えたチューリップの芽が出ていた。


 ヒヤシンスとチューリップ、どちらの開花が早いだろうか・・、それも楽しみだ。
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2匹のエンゼル

 毎晩寝る前に餌をやっているのに、白いエンゼルフィッシュがこんなにも大きくなっているとは気づかなかった・・。


 黒いエンゼルフィッシュ(通称ベーダ-くん)がほとんど大きさが変わらないのに比べて、後から仲間入りした白いエンゼル(通称しろこちゃん)が、ベーダ-くんと同じくらいまで成長したのには、驚いた。そう言えば、よく餌を食べる。いつの間にか水槽にいるのは、このエンゼル2匹と、4匹ほどの小さな魚(通称ふんどしくん)たちだけになってしまったから、ひとつまみの餌も1匹1匹が成長するには十分な量なのだろう。魚の数が少なくなった分だけ、水槽をのびのび泳ぎ回れるのも、彼らにとってはストレスが溜まらない快適な住環境なのかもしれない。

 熱帯魚と言うだけあって、寒い冬は温度管理が大切であるが、ヒーターが入れてあるので、水槽の水を触ると結構暖かい。だが、そのせいなのか、水の減りがものすごく早い。絶えず温めているので、少しずつ空気中に蒸発していくのであろう。もちろん、沸騰などしていないが、ぬるま湯程度にはなっているから、気づくと水槽の3分の2くらいになっていることもあって、慌てて温水を注ぎ足すこともしばしばだ。

 初めて熱帯魚を買ってきた日は、ちょうど猫のチョボも家にやってきた日だった。その時の熱帯魚たちはとうに全滅してしまったが、チョボは大きくなって、飼い猫なのか、野良猫なのか分からない状態ながらも元気に生きている。そう思うと熱帯魚の命は儚いものだが、ベーダ-くんはかなり早い段階に買い始めた魚だから、かなり長寿の部類かもしれない。もうこれ以上は大きくならないようだが、まだしばらくは元気に泳いでいてもらいたい。

 暖かくなったら、仲間を増やして、群泳する姿を見たいと思っている。水槽の中のバランスを崩すのはいけないかもしれないが・・。

 
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松井のヤンキース復帰ならず・・

 なんでも、ヤンキースのDHがイバニエスに内定したそうだ。このところの報道から言えば、十分予想できた結果だが、「松井がヤンキースで花道を飾る」という淡い期待が潰えたことには、少しばかり落胆した。
 でも、もう諦めるしかない。ただ、松井がヤンキースと契約したらこのブログに貼り付けようと用意していたYouTubeの動画が無駄になってしまったのは、残念だ・・。


 と思ったけれど、もうこれで永遠にピンストライプ姿の松井を見ることは出来なくなったわけだから、やっぱり貼っておくことにした。



 思えばヤンキース時代の松井は試練の連続だった。だが、輝いていた。苦悶に顔をゆがめながらも、チャンピオンリングのために、命を燃やしていた。もしかしたら、そんな松井をもう一度・・、と思ったりもしたが、現実はそんなに甘くなかった・・。


 日本に戻ってくるのかなあ・・。それとも引退するしかないのかな・・。
 
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ティガー

 19日、日曜日の名古屋の最低気温は-3.2℃だったって・・。どおりで寒いはずだ。日中こそ陽が差してぽかぽか気分も味わえたが、まだまだ寒さに耐えねばならないようだ。ジャングル部屋の葉っぱたちも、我慢できずに茶色くなったものたちもチラホラしだしたが、あと少しの辛抱、何とか冬越しに成功して欲しい。
 だが、私には強力な助っ人が現れ、いつまでも続く寒さに負けないだけの備えができた。それがこれ。


 先日東京ディズニーランドに行ってきた塾生が買ってきてくれたお土産だ。頭にかぶると、手袋までつながっている。耳が覆われた上に、手まで入れられるのだから、百人力だ。手袋として使わずに、マフラー代わりにしても暖かい。かなりの優れ物だ。


 温風ヒーターだけでは、少しばかり寒かったので、先ほどからかぶっているが、めちゃくちゃ暖かい。もらってすぐに妻がかぶってみたところ、けっこう可愛らしく見えたものだから、調子に乗って私も可愛いかな、と思ったが、さすがにそんなことはなかった・・。かぶったまま外に出て行けるかな、と無謀なことも思っていたが、とても無理だと分かった・・。ただ、ティガーになれた気はするから、プーさんを探しにいきたくはなった・・。

 いつまでも若いつもりでいるが、私もかなり爺さんぽくなってきた。TVで元同級生の辰巳琢郎のCMを見たが、あの男でさえ、かなり老け顔になっていたから、私の崩れ具合は推して知るべしだろう。でも、老いを受け入れるにはまだまだ抵抗がある。とことんまで若いつもりでいようと思っている。

 でも、さすがにティガーのかぶり物で、町に出るのは危険だろう。怪しい人に思われてしまう・・。 
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