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ハロウィーン

 去年のハロウィーンにはかぼちゃをくりぬいて「ジャック・オ・ランタン」を作って、このブログに写真を載せた。塾の生徒たちもそれを覚えていて、「今年はかぼちゃ作らないの?」と聞いてきた子もいるが、2年連続で同じことをしても芸がない。芸がなくてもかまわないが、ネタがないのかと疑われるのもブロガーとしての沽券にかかわる。何かいい案はないかと頭をめぐらしていたところ、書店で「NHKまる得マガジン 伝えたい!季節の折り紙」という本を見つけた。「折り紙か・・」と思いながら、ページをめくってみるとハロウィーン用の「かぼちゃの折り方」が載っていた。「これにしよう!」とさっそく買って家で試してみた。
 しかし、このかぼちゃは正方形の紙で折るのではない。たてと横の長さが、3:8の長方形の紙で折ることになっている。ならばできるだけ大きな紙のほうが折りやすいかな、と事務室にあったオレンジ色した厚めのB4・PPC用紙を半分に切って使うことにした。

①八折りにして、折り筋をつける。
 


②4ヶ所をそれぞれ左右に段折りする。
 


③4すみの角を折る。
 


④段折りした上下8ヶ所の角を中割り折りにして内側に折り込む。
 


⑤へたと目・鼻・口を作る。今回はコピー機の上蓋をかぶせずにコピーして作った真っ黒な紙の裏側に下書きをして、それを切り取った。
 


⑥目・鼻・口をのりで、へたをセロテープでつけて完成。


う~~~ん、去年のかぼちゃのほうがやっぱりいい。かぼちゃのお化けと言うよりオレンジ色のコアラみたいで、なんとも評価を下しにくい・・。自分としては丁寧に作ったつもりなので、もっと出来栄えがよかったらなあ・・と少々残念ではあるが、作り直す時間もないので、これを今年のハロウィーン記念としておく。
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ねんきん特別便

 2、3日前にこんなニュースを見つけた。

<ねんきん特別便>4100万人返答なく 不明も171万人 10月27日22時15分配信 毎日新聞
 持ち主が分からない年金記録の照合を進めるため、昨年12月からすべての受給者と加入者計1億873万人に送り始めた「ねんきん特別便」について、社会保険庁は今月中にすべての発送作業を終える。9月30日まで計8811万人に送られた特別便のうち、46.5%に当たる4100万人からは返答がなく、171万人分はあて先不明で届いていない。発送を終えても、課題は積み残される。

 そう言えば、私宛てにも届いていた。開封はしたものの、ろくに内容も確かめずにそのまま放置してある。
「4100万人の中の1人か・・、回答を送らなくちゃな・・」
このニュースを読んで少しばかり反省した。だが、今の私には年金と言われてもあまりぴんとこない。年金を受け取れる年齢に達しているなら話は違うかもしれないが、払うばかりの私の年齢では、納入金額の変更の知らせならまだしも、「年金加入記録」などが送られてきても、確認するのも面倒でとても回答をしようなどという気にもならなかった。私が年金を受け取れる年齢に達したとき、はたして年金を受け取れるかどうかも怪しい昨今の情勢では、そんな記録などどうでもいいような気さえする。もちろん年金は払っているし、これからも払い続けるだろうから、何も後ろめたいことはない。ただ、自分が年金を受け取るなどということが今の段階ではイメージできないから、加入記録の確認という作業が億劫になってしまうのだと思う。
 でも、厚生労働大臣・舛添要一という署名の入った文書で、「この度の年金記録をめぐる問題について、心よりお詫び申し上げます。一刻も早く皆様の年金記録を正しいものとするよう、最善を尽くしてまいります」などと懇願されたなら、無闇に放置しておくわけにも行くまい。自分のしなければならないこともせずにやたら批判ばかりしているのでは話にならない。自分のすべきことはすべてした上で不満があれば文句を言うのが筋である。よろしい、私の年金記録を確かめてしんぜよう、舛添くん!!

 とは言え、私の場合実に簡単なことだ。「加入記録の確認の流れ」に従って、①の「年金記録のお知らせ」を確認したが、会社勤めを一度もしたことのない私には厚生年金はまるで関係ない。年金といえば、「国民年金」だけだが、それも結婚するまでは払っていなかった(と思う)。結婚して、国民健康保険に加入するのに必要だからと言われて強制的に年金を払い込む手続きを取らされた。そのため、国民年金の加入月数の合計が362ヶ月となっているのに、納付済月数が300ヶ月と62ヶ月も少なくなっている。20歳で納付義務が生じて結婚した25歳までの5年近くは払い込んでいなかったはずだから、この数字はたぶん間違っていないだろう。(今さら未納分を払う気はしないし、払うつもりもないけど、それだと何か不備が生じるのかな・・、よく分からないなあ・・)
 確認を終えたら、次は②の「年金加入記録回答票」に記入すればいい。氏名・現住所・生年月日・電話番号を書き込み、「年金記録の内容に「もれ」や「間違い」がない」に○を記入したらこれで完了。案外簡単だった。と言っても、それは私のように国民年金しか払っていない者だからであり、転職や結婚、転居などが重なった人の場合は、そう簡単ではないだろう。そうでなければ、年金の問題がこうまで大きくならなかったはずだから・・。しかもこの作業を加入者一人残らず行うと大見得を切った舛添大臣が、会見の度に発言をトーンダウンしていったのは、加入者全員の確認がどれだけ難しいことなのかが徐々に明らかになっていったからだろう。(無理なことは無理だと正直に言うのも必要だよ、舛添くん!!)
 年金問題は色んな考えがあって、どうしたらいいのか、誰もはかばかしいことを教えてくれない。私は年金がもらえる年齢まで生きている自信があまりないので、年金が破綻しようがしまいが、あまり関係ないようにも思うが、実際にもらえる年まで生き延びたら、いくらかなりとも国からお金がもらえるのをありがたく思うかもしれない。そうなった場合に何もためらうことなく年金を受け取れるよう、これからも払い込みを続けていくつもりだが、これからの高齢社会では払い込んだ総額ぶんの年金支給を受けられるとはとても思えない。そんな当てにならないものに頼る前に、自力で蓄えを残しておくのが得策なんだろうけど、それもそう簡単にはいかないのが実情であるから、なかなか難しい問題である。
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奇書?

 笙野頼子という作家を知っている人はいったいどれくらいいるのだろう。1994年に「タイムスリップコンビナート」で芥川賞を受賞した作家であるから、かなりの人が知っているのかもしれないが、寡聞なる私はついこの間まで、「名前くらい聞いたことがあるかな」という程度でしかなかった。そんな私が新聞の書評欄に彼女の名前を見つけたのはいつだっただろう。「だいにっほん、ろりりべしんでけ録」という訳の分からぬ題名の小説についての書評の中、某評論家との文学論争が・・などといった文言を読んで、今時文学論争なんて不毛なものに血道をあげる酔狂な人がいるのか、といたく感じ入って、読んでみようと思い立った。少し調べたら、これは3部作の3巻目であり、「だいにっほん、おんたこめいわく史」「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」なる前2作がすでに発表されていることを知った。ならば最初から読むべきだろうと、何軒かの書店で探してみたが、見つからなかった。仕方なくいつもの書店で3冊全て注文したのだが、届くまで他の小説でも読んでみようと文庫本を探してみたら、それも見つからなかった。かろうじて、「笙野頼子三冠小説集」という彼女が受賞した「野間文芸新人賞」「三島由紀夫賞」「芥川賞」の受賞作品を集めた文庫本を大型書店の片隅に一冊だけ見つけた。このときのことが笙野の認知度の低さを危惧するきっかけとなったのだが、とりあえず、「タイムスリップコンビナート」を読んでみた。で、読後感は正直よく分からなかった。この小説の何がいいのか私には理解できなかった。う~ん、3冊一度に注文したのは失敗だったかな、と少しばかり後悔したが、そんな私の気持ちなどお構いなしに、意外に早くその3冊を書店で受け取った。 果たして全て読めるか心配になったが、まずは「だいにっほん、おんたこめいわく史」から読むことにした。


 装丁はきれいだ。「タイムスリップ・・」を読んで、不思議な味わいの作家であることはなんとなく分かったが、そんな私の気持ちをそのまま表現したかのような妖しさを持ち合わせた装丁だ。
 だが、読み始めてすぐに「こりゃ無理かも・・」と白旗を上げそうになってしまった。何がなにやら分からない。帯には、
「ロリコンで成り上がり! 憲法を地上げ!
 美少女を官軍化し、遊郭を復活!
 独裁政権を牛耳り、反権力を自称!
 その名は、おんたこ!!
 世相の病的深層を近未来に託して描く、
 戦い続ける前衛のさらなる奇書!
 さあ、時代の醜悪さを文学に、留めよう!」
とあるが、確かにそんなことが書いてあったようにも思えるし、まったくそうでもなかったようにも思える。私の頭の中に残ったのは、ところどころに繰り返される、
「すっちゃんすっちゃんすっちゃんすっちゃん
 すっちゃんすっちゃんすっちゃんすっちゃん」
という意味不明な音だけで、もう何がなにやらさっぱり・・。それでも、我慢して毎日少しずつ読んでいるうちに、何となくクセになってきて、時々は一気に何十ページを読むようなこともあった。案外面白いかも、と思い出したのは半分を過ぎたあたりから。なのに、残り20ページほどの所まで読み進んだところで、唐突に小説が終わってしまった。「何、これ?」と驚いてしまったが、初めから3部作にするつもりで書き始めたようだから、次を読めばいいのかも、と思い直した。だが、残りのページに書かれた「困惑した読者のための取説―としての、後書き」を読んでいくうちに、この部分は蛇足だろうと思った。確かにこの小説を読んだ者は、作者のいいように翻弄されてしまったように感じるだろう。私がずっと感じていたように、訳が分からぬまま最後まで読み終えた、あるいは途中で投げ出してしまった人も多かっただろう。だが、それはそれでいいんじゃないかと思う。小説がある世界を描き出すものならば、作者の手を離れ、読者の手に渡った瞬間に、その世界をどう理解しようと読者の勝手であり、そんな読者の領域に作者がずかずかと押し入ってくるのは筋違いのように思う。もちろん、作者は作者の意図に沿って表現したものであるから、己の意図を読者に読み取ってほしいと思うのは当然だろう。しかし、作者が己の意図を読者に押し付けるのは、してはならないことだと思う。己の意図が伝わりにくいと思うのなら、初めから伝わりやすいように表現すればいいわけで、何も後書きという形で「こういったことを私は表現したかったんです!」と語るのは本末転倒ではないか、そんな気がする・・。
 
 ともあれ、この3部作はたとえ時間がどんなにかかっても読み通すつもりだ。私はそれなりに面白い小説だと思うんだけどなあ・・。


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居酒屋

 日曜日、父が旅行で出かけたため、夕食は外で食べることになった。どこに行こうか少しばかり迷ったが、妻と協議した結果ずっと以前から一度行きたいと思っていた和食割烹の店に行くことにした。6時頃には開いているだろうと思って、5時過ぎに家を出てぶらぶらと歩いて行った。その店は駅前にあり、歩きだと20分くらいはかかる。5時を過ぎれば日も沈み、一気に暗くなる。夜の冷気に包まれながら妻と無駄話をしながら歩いていくと、思いのほか早く着いた。だが、遠目に見た店は灯りがともっていない。時間が早すぎたかな、と思いながら近づいていくと、入り口に「本日休業」の板が掛けてあった・・・。「なんだよ・・」と電話で確認してから出かけなかった自分たちの愚かさを恨みながらも、「日曜の夜に閉店している店じゃ・・」などと店に責任を押し付けようとするのも何だか情けない。
 だが、さすがに長い距離を歩いてきただけにいい運動にはなった。お腹がすいた・・。「もうどこでもいいから行こう」と言ったものの、寂れた町では「ここ!」という店がなかなか思い浮かばない。車だったらすぐに次の店に迎えるのに、こういう時に歩きは不便だ。食事のために歩くなどというのは滅多にしたことがないので、勝手が分からなくていけない。「それじゃあ」と言って妻が提案したのは、そこから300mくらい離れた所にある居酒屋。何年か前に一度行ったことがある。その時悪い感じはしなかったので、「OK、そこに行こう!」と即決してすぐに歩き始めた。(お腹が減ってるのと、ビールが飲みたくてたまらなかったから・・)
 
 カウンターに座るとどっと疲れが出た。しばらくぐったりしていたが、運ばれてきた生ビールをグイッと飲んだら、元気が回復した。「さあ、食べるぞ」と意気込みながら、思いつくままに頼んだのが下の料理。

 

 

 

 

 一番上の生レバーと串焼き(つくねと砂肝)は妻の注文。「今日のレバーは生でもいけますよ」という店の人の言葉に乗せられて頼んだものだが、味はなかなかのものだったそうだ。2段目の牡蠣フライは一個がとても大きく、ボリュームたっぷりだ。刺身は文句なしにおいしかった。しし唐は私の好物だ。てんぷらの盛り合わせと穴子のてんぷらが一皿になって出てきた。このあたりでもうかなり満腹感がしてきたが、調子に乗ってさらに秋刀魚とたらの白子揚げを注文してしまった。生ビールも3杯目になり、かなり酔っ払ってきたから、もうこれ以上食べたくないなと思いながら口に入れたが白子のてんぷら。口に入れて噛んだら、ジョワッと口の中に柔らかな白子が広がる。何だか奇怪な食べ心地であまりおいしいとは思えなかったが、頼んだ以上全部食べねば、と無理して2個も食べてしまった・・。
 今振り返ってみると、たいした量にも見えないが、その時はいやというほど食べた気がした。食べ物よりもビールでお腹が満たされたのかもしれない。妻も「もうお腹いっぱい」、とか何度も言いながら頼んだものは全部食べてしまったから大したものだ・・。
 店を出て、腹ごなしにまた歩いて帰ろうか、などとはちらっとも頭に浮かばず、駅前のタクシー乗り場に直行した。
 たまにはこんな外出も楽しいものだ。
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「再帰性」

 とうとうガソリンが1ℓ130円台で給油できるようになった(セルフ給油所でのボーナス企画、スロットが3等の私は135円、2等の妻は133円だった!!)。夏のピーク時には180円近くもしていたのと比べれば、40円以上も安くなったことになる。満タンにして2000円近くも違う。すごい下がり方だと思わなくもないが、あの頃どうしてそんなに高いお金を払わねばならなかったのか、改めて腹が立ってくる。先物市場で7月3日に1バレル145.29ドルをつけたのが最高値だが、先週末には64.15ドルと半分以下にまで下がった。栄華を誇ったアメリカの金融バブルが一気にはじけた象徴のようでもあるが、ここまで株価が下がり、円高が進行してしまうと、「ざまあみろ!!」と快哉を叫んでばかりもいられない。かと言って私などが心配したところでこの金融不安がどうなるわけでもないから、先行き不安な気持ちを持ちながらも成り行きを見守るしかない。
 だが、アメリカという国は不思議、というか底力を持った国(または極めて鈍感な国)なのではないか、とMLBのポストシーズンの中継を見ていると思ってしまう。球場に集まる超満員の観客の熱狂振りからは、とても金融不安に見舞われている国だとは思えない。「そんなの関係ない」と知らぬ顔をしようとしているのか、あるいはせめて野球くらいは楽しもうと現実逃避しているのか、とにかくもTV中継を見る限り、国内では何も起こっていないように見えてしまう。まあ、野球を楽しむ余裕さえなくなったら、それこそ未曾有の国難になってしまうのだろうが・・。
 などと素人の私でさえ、心配する昨今の経済情勢であるが、日曜の中日新聞の書評欄に森永卓郎がJ・ソロスという金融投資家が著した「ソロスは警告する 超バブル崩壊=最悪のシナリオ」(講談社)について解説した書評が載っていた。森永は風貌が貧乏くさいし、オタクっぽい言動もしみったれた感じがして私は好きではないが、さすがに己の専門分野だけあって、ソロスの物の見方を要点よく解説していて、金融投資家がどういう方針で投資しているのかが少しばかり理解できたように思う。
 今年春に上梓された英語版の本書で、J・ソロスは「今年中にアメリカが作り出した巨大バブルが崩壊するだろう」と警告していたという。その警告はソロスが編み出した「再帰性」の理論に基づくものだという。私には初めて聞く理論だが、森永は次のように要約している。
 
 経済学が描く均衡の姿は誤っているとソロスは言う。経済学では、価格を媒介にして需給が一致する均衡価格が決まると考える。しかし、市場参加者の行動が市場そのものを変えてしまうために、時として市場で決まる価格は、本来の均衡とはかけ離れたところに暴走していく。投資家の行動が市場を変え、そのことが再び投資家の行動にフィードバックされる。それが再帰性。バブルはその典型だ。

 市場の空気を読み、機を見て敏なる変わり身の速さが投資家には必要なのであろう。ソロスの投資手法は、「再帰性によって本来の適正価格から大きく外れた商品を見つけて取引をする。本来よりも安ければ買い、高ければ売る。そして本来の価格に戻る過程で利益を得る」ことにあるという。ならば今回の金融不安の中でも、ソロスはうまく売り抜けて莫大の利益を得ているのだろうか?気になるところである。
 だが、これほど目鼻の利くソロスでもバブル崩壊の後に何が起こるのかは「分からない」と記しているという。私たちが知りたいのは、この後のことである。この金融不安がどれだけ私たちの生活に影響を及ぼし、どれだけ生活が苦しくなるか、そして少しでも楽な生活を送るためにはどうしたらいいか、ということである。しかし、それは金融投資家の職分ではないのかもしれない。彼らはひたすら利潤を追求する人々であるのだから・・。
 私が読んでも理解できることは半分もないだろうから、この本を読もうとは思わないが、こうした己の利益を第一義に考える人たちに世界の金融市場が牛耳られてきたのか、と思うと少々忸怩たる思いがするのも確かである・・・。
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もうすぐ11月なのに・・


 ちょうど一週間前の土曜日、塾バスで通りかかった保育園の銀杏の木が大分黄色くなっているのを見付けて、思わず写真に収めた。この木は毎年きれいに色づくので秋になると近くを通るのを楽しみにしている。保育園は子供の数が減ってしまい閉園されて寂しくなってしまったが、銀杏の木が昔と変わらない姿を見せてくれるのがせめてもの慰めだ。この木も子供たちの元気な声が聞こえなくなってきっと寂しいことだろう。だが、毎年こうやって黄色に染まるのを楽しみにしている者もいるのだから、いつまでも枯れずにいてもらいたい。
 などと柄にもなく感傷的な思いをもってしまうのも秋ならではなのかもしれない。そうは言ってもまだまだ「秋深し」などと感慨にふける気にはなかなかなれないのだが・・。


 それから1週間経った昨日、また保育園の横を通ったので同じ銀杏の写真を撮ってみた。だが、今見比べても色づき具合がほとんど変わっていない。もっと深い黄色になっているかなと楽しみにしていたのに残念だ。どうしてかな?とちょっと考えてみたが、この一週間はかなり暖かかった。10月も下旬だというのに上着を羽織ることなく、シャツのままで過ごしていた。教室でも、少し人の数が増えるとむっとしてきて、エアコンをかけなくてはならなかった。これでは木々が色づくのを躊躇するのも仕方ないだろう。それはなにも植物に限ったことではない。ヤモリも姿を見せなくなったと思っていたら、昨夜は大きな体を窓に貼り付けて蛾をせっせと捕まえていたし、まだ蚊も結構飛んでいる、しかもかなり大きなものが・・。

 

 10月の終わりにヤモリや蚊を見かけたことはあまりないような気がするのだが・・。秋はなかなか深まってこないようだ。
 しかし、バスで山間を走ってみると、所々に秋を感じることはできる。

 

 

 あいにく昨日は曇り空だったので、下手な写真がますますくすんでしまって、まったく秋の爽やかさが感じられなくなってしまった。紅葉の見ごろは11月も半ば過ぎのようだから、きれいに晴れ渡った日を選んで紅葉狩りとしゃれ込んでみたいと思っている。
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ミクシィ

 10日ほど前、授業が終わった帰りのバスの中で運転席のすぐ後ろに座った女子高生が「ミクシィで・・」とか話し始めた。その子は今時の典型的なギャル高校生でノリが軽くて話しやすいから、
「なんだ、ミクシィやってるの?」と聞いてみた。
「うん。携帯でね」
「ふーん、ミクシィって携帯からもできるの?」
「そうだよ。今はあんまり更新してないけどね」
「そうなの・・」と話を継いだところ、ふっと思いついて
「じゃあ、オレをミクシィに紹介してよ」といつもの軽口のつもりで言ったら、「いいよ。紹介してあげるよ」と簡単に答えた。
「そんなに簡単に誰でも紹介していいものなの?」
「いいんじゃないの・・。後から紹介メール送るね」と言ってるうちにその子の家の前に着いたので、「おやすみなさい」と言いながらバスを降りていった。
 
 私はミクシィに興味を持ったことはない。何だか閉鎖された空間のようなイメージがあって、私が近寄るべき場所ではないように思っていた。ただ、生来の物好きではあるから、機会があれば一度くらいは覗いてみたい気はずっと持っていた。でも、わざわざ知り合いに紹介してよ、と言うほどまで強い気持ちはまったくなかったので、ずっとその空間に足を踏み入れることなく過ごして来た。
 
 生徒を全員送って塾に戻った頃、女子高生からの紹介メールが届いた。
『・・・さんがあなたをソーシャル・ネットワーキングサービス[mixi(ミクシィ)]へ招待しています』
という文面から始まって、URLが貼り付けてあった。そこをクリックしたら、登録画面になったので、どうしようか一瞬迷った。面倒だからこのまま放置しようかな、という気もしたが、それじゃあせっかく紹介してくれた女子高生に悪いな、と思い直して登録だけはすることにした。しかし、私にはこのブログだけでもう十分だ。これ以上手を広げるのはとても無理なので、形だけの登録にしようと思って、登録名・ニックネームは我が愛する野球選手の名にちなんだものにしておいた。これなら長い間ほ放置しておいても忘れることはないだろうから・・。
 一応必要事項は書き込んで登録を完了させ、携帯からの簡単ログイン登録もしておいたが、やはりPCからもアクセスできるようにしておいたほうが何かのときに便利かな、と思った。私が登録したのは携帯版の「mixi モバイル」なので、果たしてPC版につなげることができるかどうかまったく覚束なかった。無理かな、と思いながらあれこれ調べてみた。だが、なかなか私がやりたいことを説明してくれるページを見つけることはできなかった。やっぱり無理みたいだな・・とさほど真剣になる必要もない私はすぐにあきらめてしまった。それっきりミクシィのことは忘れてしまった。
 ところが、3・4日たって携帯でMLBの試合経過を見ていたときに、あっと思いついたことがあったので、ミクシィに行ってみた。ひょっとしたら、と思ってログインした後に出てくるサポートメニューから、「ヘルプ」の横に並んでいる「お問い合わせ」をクリックしてみた。「ヘルプ」までは調べたが、「お問い合わせ」はメールを送って質問する場所だと思い込んでいたので、調べていなかったのだ。すると見事にビンゴ!!、列記された「よくある問い合わせ」の中に、「モバイルから登録したけど、PCからも利用したい」という項目があった。おお、これだ!と思いながらクリックしたら、「PCから再登録する必要はありません。http://mixi.jp/home.pl にアクセスし、登録した携帯メールアドレスとパスワードを入力することで、PC版のmixiをご利用いただけます」という答えが書いてあった。
 その通りにしてみたら、その通りになった。PCから利用したほうがやっぱり使いやすい。よかった、と嬉しくなったが、だからと言ってあれこれ書き込もうとは思わない。簡単に挨拶だけは記しておいたけど、ずっとこのまま放置しておくことになるだろう。

 もし、この記事を読まれた方で、私のmixiを発見された方がおられたら、「足あと」(っていうのかな?)を残していってくださいな。
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ブログ論壇

 佐々木俊尚「ブログ論壇の誕生」(文春新書)を読んだ。私もかれこれ3年半このブログを続けているが、好き勝手なことばかり書いていて、特に何かを発信したいなどという大それた考えはまったく持っていない。ただ最近は、何年か先の自分に向かって、今日はこんなことをした、こんなことを考えた、と伝えたいという気持ちが強くなってきた。そのためか、自分が面白いと思うことを書き綴っていけばいいや、という開き直りの気持ちがますます強くなってきて、何の一貫性もないそのときの思い付きばかりを書き連ねている。だが、それこそが無目的な生き方しかできない私にはぴったりだ、何か素晴らしい思想を披瀝するなんてことは私には到底できないからこんな調子でやっていければそれで十分だと思っている。
 ならば、「ブログ論壇」などという私とは対極に位置するブロガーたちの集まりなど気にせずともいいはずなのだが、本書を見つけると生まれつきの野次馬根性がむくむくと湧き起こってきてしまった。近寄ったことも、これから先近寄ることも多分ないだろう世界を垣間見たって仕方のないことだが、後学のために、などと愚にもつかない言い訳を思いながら、読んでみた。
 作者の佐々木俊尚は「毎日300前後のブログやニュースサイトを閲覧し、1日のうちに1000から1500の記事を読んでいる」と言う。それだけ読むに耐えるだけのブログがネット上にはあるということなのだろうが、その彼が選んだ著名ブロガーリストが巻末12ページにも及んで列記してある(もちろんそんなリストにこのブログが取り上げられるはずもない・・)。ざっと見てみたが、内田樹センセイのブログ以外はまったく知らなかった。私ののぞくブログの数など10もないだろうし、近頃ではなにやら忙しくて、ゴジ健さんや竜虎の母さんのブログ以外には立ち寄る時間もほとんどない。無限に広がるネットの大海原のほんの限られた場所を覗き見するくらいの私では、初めから「ブログ論壇」など無縁な存在なのだろう。
 ちなみに作者による「ブログ論壇」の特徴は次のようなものである。
『発言のほとんどはペンネームで行われ、したがってその社会的地位はほとんど問題にされない。そしてマスメディアがタブー視してきた社会問題に関しても積極的な言論活動が行われている。その発言が無視されることはあっても、発言内容を理由にネット空間から排除されることはない。その中心にはブログがあり、2ちゃんねるのような掲示板があり、ソーシャルブックマークがある』 
 そして、『この論壇を形成しているのは、主としてロストジェネレーション世代の人たち―すなわち1970年代に生まれ、就職氷河期を堪え忍び、格差社会にあえぎ、しかしインターネットを自由自在に操っている彼ら彼女ら』であり、『彼らの新しい言論は、古い言論を支配していた段階の世代と激しく対立し、その支配を脱却しようとあがき、そしていまや超克しようとしている』と書かれている。それは今まで言論を支配してきたマスメディア・新聞やTVと、インターネットという新しいメディアとの対立でもあるのだろうが、そうした対立の実例を作者はいくつも取り上げて、そのせめぎあいの激しさを私たち読者に知らしめてくれる。
 私の知らなかった事例もいくつか取り上げられていて、論争の場としてブログが大きな地位を占めるようになったんだな、と実感した。このブログも草創期には、高邁な議論ではなかったにせよ、激しい論争(言い合い)の場であったこともあったから、インターネット上の論議が「お互い罵りあう殺伐とした」「他人に悪意をぶつけ合う」ものになりがちであることは身をもって体験している。確かに作者が言うように「インターネットの世界は、人々がリアルの世界で抱いている考えや情念がそのまま生々しく表出してしまう実も蓋もない世界」(P.81)であろう。作者はそこから来る戸惑いがインターネットをめぐる議論の迷走を招いている原因だと述べているが、それをどう克服していくかが今後の「ネット論壇」が公共圏へ昇華していけるかどうかの鍵なのではないかと、本書を読み終えた今思う。
 そういう意味で、次の作者の言葉はブロガーの端くれとして心に留めておかねばならないと思う。
 『本当のモラルとは、みずから傷つくことも恐れずに他者にきちんと向き合い、倫理を究極に研ぎ澄ませることなのだ。そしてインターネットというすべてが相対化され、そしてすべての人間を飲み込んでいくタブー無き言論空間の中で、多くの人たちは実感として認識し始めている』(P.142)
 
 まあ、そう難しいこと考えずにやっていくだけなんだけど・・。 
 
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バーゲン

 デパートから送られてきたバーゲンの葉書につられて久しぶりに名古屋に出かけた。このところ面倒なことがいくつか重なって、少々面白くない気分だったので、気晴らしにはちょうどいい、そんな気持ちで出かけた。
 平日に出かけると、もう判で押したようにワンパターンになってしまう。10時過ぎに車で出発し、11時頃デパートに着く。そのまま買い物などの用事を済ませたらデパート内で昼食、その後は地下に回って家に帰ってから味わうための食べ物を買い込み、2時前にはデパートを出て、3時までに帰宅する・・・。もうここ何年もこの繰り返しだ。もちろん細部にはその時々でオプションが入るが、大まかに言えばほとんど同じだ。塾のある平日に出かけるからあわだたしいのも当然だが、年内はもう休みがとれない私では、それも仕方ないことだ。受験が終わるまでは、少しばかりの暇を見つけてはやりくりしていくしかない・・。
 
 バーゲンではまず弟の子供たちの服を選んだ。全品半額だから買ってやれるのだが、双子には120cm、下の坊主には90cmのものを探した。大量に並べられているから、あれこれ迷っていては埒が明かない。思い切ってパッパと選んだ。似合うかどうか、着てくれるかどうかが心配なところだが、今までもこうやって買って行った物は喜んで着てくれているから、今度もきっと大丈夫だろう。
 その後で、妻は自分のものを物色し始めた。その間に私も自分の服を探したところ、これならいいかな、と思うものを1着見つけた。


 最近は出かけるのにジーパンしか履かなくなっているので、それに合う上着を一枚欲しいと思っていたら、うまい具合にちょうどいい物を見つけた。これも子供服同様定価の半額で買えたのは嬉しかった。それでも買った物全部を合わせると、ちょっとした散財になってしまったが、たまにはこれくらいしなくちゃ楽しくない。こうやってお金を使ってこそ仕事にも一段と身が入るものだ、などと自分に言い訳しながら、昼食を食べに行った。
 さすがに平日だけあって、食事のフロアーはガランとしていた。いつもなら長蛇の列を成しているひつまぶしの蓬莱軒も並んでいる人はほとんどいなかった。ちょっと驚き・・。私たちが入ったのは「重慶飯店」。私は「ふかひれラーメン」、妻は「マーボー定食」を注文した。

   

 コラーゲンたっぷりのラーメンは美味しかったが、私にはちょっとばかり量が足りなかった。妻が食べ終えるのを待って、地下へ向かった。もちろん HARBS のレーズンバターケーキを買うためだ。駐車場に戻るとすぐに車の中で食べたが、やっぱり美味しい。最高だ!
 
 帰り道に弟のマンションへ、子供たちの服を届けに行った。電話したら、ちょうど双子が幼稚園から帰ってくるところなので、下で待っています、と義妹が答えた。それは好都合だ。マンションに着いたら、幼稚園のバスよりも私たちの方が早く着いたようだったので、義妹と並んで子供たちを待つことにした。程なくやってきたバスから降りてきた二人は・・。

  

 ソフトモヒカンにきめたあーちゃんはひたすら暴れまくり、ひまちゃんはニコニコ愛想がいい。幼稚園の制服姿は初めて見たが、半年も通っているとなかなか堂に入っている、もういっぱしの幼稚園児だ。水筒と小さなかばんを背負って毎日楽しんで行っているようだ。二人の元気な姿を久しぶりに見て、満足して帰途に着くことができた。
 ああ、楽しかった!

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スーパーで

 昨日、妻のお供でスーパーに行ったときのこと。用もなく、酒類売り場をふらついていたらウイスキーにもおまけが付いているのを見つけた。原酒のミニボトルだ。サントリーはウーロン茶だけでなく、ウイスキーの販売増進のためにもあれこれ苦心してるんだなと少しばかり感心した。


 私はウイスキーなどもう何年も飲んだことはないが、久しぶりに寝酒用に一本買ってみようかな、と思ってボトルに手を伸ばした瞬間に、不思議なことに気付いた。


 なんと、一番隅にあった2本のボトルについていたおまけから中身のミニボトルが抜かれていたのだ!!びっくりした。
 「こんなことしてもいいのか?」
と思わず近くにいた妻に声をかけた。
 「ひどいなあ・・・」
と妻も情けない顔をしたが、あまりにさもしくて悲しくさえなった。
 「これも立派な犯罪だよな」
などと言ってみたってどうしようもない。店員は気づいていないのだろうか?ちょっと見回しても店員はいなかったので、その場を離れてしまったが、なんてひどいことをする輩がいるんだろう・・。
 私はこのブログで何度も紹介しているようにおまけを集めるのが好きだ。だからと言って、本体を買わずにおまけだけ手に入れようとしたことは一度もない。そんなことは当たり前だと思っていただけに、こうした恥ずべきことを平気でしてしまう人々がいるのを知って愕然としてしまった。信じられない・・。
 レジ袋が有料化され、売り場にマイバックを自由に持ち込めるようになったため商品の万引き被害が急増したというのは前から聞いていたが、おまけを失敬するのも万引きと同じようなものだ。いくら店側が目を光らせていても限界がある。要は客のモラルの低下が著しいということなんだろうが、諸物価の値上がり、不況の影響なども無視するわけにはいかないのかもしれない。でも、そんなことは言い訳にもならない。実に嘆かわしい・・。
 
 そういえば、今月の初めにお稲荷さんに行った帰り道、立ち寄った岐阜羽島のスーパーには、セルフレジ機が置いてあってびっくりした。


 思わず使ってみたくなったが、勝手が分からないから躊躇した。すぐに他のお客がやってきて、この機械を使って会計を済ませたからじっと見ていたが、慣れれば簡単で便利なのかもしれない。(セルフスタンドも初めはかなり戸惑ったが、今ではもうお手の物だから、慣れが一番なんだろう。)だが、このレジを通すときに買った物をごまかす人がいるのではないか、という疑念がどうしてもぬぐえなかった。マイバックの中に万引きした商品を平気で入れる人が大勢いるのだから、いくつかの商品はレジを通さずに店を出て行く人がいるのではないか?などという心配がぬぐえなかった。
 まあ、私が思うぐらいだから、そんな対策は十分にできているのだろうから、いらぬおせっかいかもしれない。それにしても世知辛い世の中であることは間違いない、いやになるなあ・・・。
 
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