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温泉!



「何年かぶりにやって来た西浦温泉の銀波荘。
のんびり、ダラダラ過ごせて幸せ。
ご馳走食べて、いい湯に浸かって、余は満足じゃ!」

などと酔っ払って携帯から投稿した記事、何とも自堕落な感じがするが、年度末の休暇で弛緩した状態を十二分に表していて、このブログでダラダラと綴ってきた記事の中でも己の心もちを端的に表現したものとして出色の出来栄えだと思う。この日を迎えるために一年間頑張って来たんだ、などと大袈裟なことも思いたくなるような久方ぶりの「命の洗濯」だから少々の誇張も許されていいのではないか、そんな思いで過ごした一日だった。

 上の写真は温泉旅館自慢の料理を携帯で撮ったものだが、なかなかの美味だった。カニ、あわびなど、海の幸をふんだんに味わうことができ、さすが老舗旅館!と満足できた。
 その後は、貸切露天風呂から満月を拝むことができたのも、旅情を満喫させてくれた・・。

 

 やはり海辺の温泉は最高だ。朝起きて窓の外に海が広がる光景には胸の中の様々な鬱屈が溶け込んでいくような気がする。

 
 

 「こうやって出かけることも必要なんだな」と、かなり心の憂さが軽くなった気がする今、しみじみと思う。
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阿部真央を知ってるか?

 バスの運転をしながらラジオを聴いていると、時々思わぬ拾い物をする。10日ほど前にNHKラジオから流れてきた、阿部真央という女性シンガーの「コトバ」という曲もそんな一つだ。いや、「拾い物」などと軽い言葉で表現するのが憚れるほど、かなりの衝撃を受けた。これだけ私に訴えかけてくる曲を聴いたのは実に久しぶりだ。




 ぶっきらぼうな歌い方にも聞こえるが、彼女の伝えたいものが詞の中にしっかり表現されているため、聴く者の心に直接響いてくる。いい詞だ・・。以下に載せてみる。

「コトバ」
今日掛けようとした言葉
あなたは「明日でいいや」って
先延ばしにする
今目掛けて欲しかった言葉
私は寂しさ拭えずに探してる

どうか知っていて
この時間(とき)の儚さを
さすればきっと見えるはず
惜しむべき日々が

伝えたいことなんて
本當単純だけど
生きて、今を 見せて、あなたを
今日言わなければ
後悔する言葉があるよ
明日消えちゃってもいいように
伝えてよ

「毎日同じ繰り返し」とあなたは
當たり前みたいに明日を待つ
人はいつ死んでしまっても
おかしくないのに
それを見落としてる

どうか見つめて
命の尊さを
さすればきっと気づくはず
“當たり前”なんかないんだと

「言葉はなくても
僕ら繋がってるよ」って
笑うあなた 頷けない私
口にしなければ
伝わらないことだってあるよ
明日消えちゃってもいいように
伝えてよ

心を隠して
許すことはキレイじゃない
それは逃げじゃないか
愛を以て伝え
られることを嫌う人などいない
…そう信じてる


伝えたいことなんて
本當単純だけど
生きて、今を 見せて、あなたを
今日言わなければ
後悔する言葉があるよ
明日消えちゃってもいいように

伝えたいことなんて
本當単純だけど
生きて、今を 見せて、あなたを
今日言わなければ
後悔する言葉があるよ
明日消えちゃってもいいように
伝えてよ



彼女は、1990年1月24日生まれということだから、20歳になったばかり・・。なんだかスゴイ!!



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花見 '10

 花見をした。
 天気予報では3時ころから雨が降り始めると言われていたので、空を見上げながらの花見だったが、なんとか天気がもってくれて、楽しい時を過ごすことができた。場所は毎年恒例の近所の公園。このところの寒さで桜の開花が遅れてしまい、「咲き始め」程度の花模様であった。だが、そんなことは私にはまるで関係ない。花見などただの口実で、昼間から飲めさえすれば無上の喜びだ。それに付き合わされる親戚の方こそ迷惑だろうが、今年も総勢20人ほどが集まったのだから、1年に1度の花見を楽しみにしている者たちも結構いるのだろうと勝手に解釈している・・。

 

 昨年は息子がこの席にいた。それに代わって、今年は娘がほんのちょっと顔を出した。卒業式を終え、木曜日に家に戻って来た娘は、束の間の休息をはさんで、午後から就職先の東京に向かうことになっていた。バタバタ忙しくてろくに挨拶もできずにいた親戚が一堂に会するこの花見を利用して、長い間お世話になったお礼を言いたいと殊勝なことを言っていた娘だが、何とか予定をやりくりして、出発する前に立ち寄ったのだ。前夜には私に向かって、
「お父さん、いろいろありがとうございました。就職するんで・・」
と、改まって別れの口上を述べ始めたのに、びっくりして、
「まあ、元気にやってくれや」
と、いい加減な返事しかできなかった私なので、出かける前にはきちんとした言葉をかけてやりたかったが、酔っ払い始めてしまってはそれもままならず、ただ親戚と歓談する娘の姿を見ているしかできなかった。まあ、こうやって娘と24年間付き合ってきたのだから、私と娘には相応しい旅立ちの仕方だったかもしれないが、妻の運転する車に乗り込んだ娘に向かって、両手を振って送り出したのが私にできるせめてもの祝福だった。
「辛くなったら、いつでも帰ってこいよ」
そう言ってやりたかったけど、そんなことを言ったら娘の将来を汚すように思えて言えなかった。
「いつでも俺はお前の味方だぞ」
そう心で呟いたのが娘に通じればいいのだけど・・。

 もうその後は箍が外れたように酔っ払ってしまった。勢いに任せて愛犬・太郎を連れて来て、皆で遊んだ。


 日に日に大きくなる太郎に誰もが驚くが、毎日見ている私たちでさえその成長ぶりにはため息が出る。娘が次に太郎と会う時には、きっともっともっと大きくなっているだろう。この短い帰省の間に何度か一緒に散歩に出かけた娘のことを太郎が忘れないうちに帰ってくれたらいいのだけど、それも仕事の都合で簡単にはいかないだろう。そう思うと、本当に娘が私の手元から巣立っていったのが実感されて、言いようのない寂しさに襲われる。もう6年もずっと離れて暮らしていたのだから、何も変わりはないはずなのに、このところふと心を過ぎる寂しさは今まで感じたものとは違う。ただ私が年をとったせいかもしれないが、心に大きな穴が開いたようで、簡単にはふさがりそうもない。このところ妻がどこか虚ろなのも私と同じ心境だからなのかもしれない・・。
 
 雨が降り始めたのを合図に、花見は散会したのだが、その後、私の弟家族と妻の妹家族とが我が家に寄って夕食を共にしてくれたから、娘がいなくなった寂しさを紛らすことができたのは良かった。娘が新しい生活に向かって励もうとしているのだから、私たちもくよくよしていられない。
 頑張ろう!!
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落花生

 親戚から落花生の大きな袋をもらった。



「豆小僧」の異名を持つ私は、豆全般何でも好きだ。その中でも落花生は大好きな部類に入るだけに、一度食べ始めたら止まらない。その証拠に、封を切ってわずか5分でこれだけ食べてしまった・・。


 寝る前に何かを食べるなんて体に良くない、と思って止めようとしても、次の瞬間には手に落花生の殻を握っているから止まるはずもない。とにかく美味しいんだから、どうしようもない。次から次へと口に放り込んでしまう・・。
 で、食べながら少し考えた。
「落花生を食べるとき、皮も一緒に食べた方がおいしいか、それとも皮は剥いて食べた方がおいしいか・・」


 皮には渋みがある。それが嫌いなら剥いた方がいいが、この渋みが独特な香ばしさを感じさせたりもするので、捨てがたくもある。食べ散らかした上の写真を見ても、殻に皮の付いたものもあれば、殻だけのものもある。なるほど、無意識で食べている時の私は、皮を剥くときもあれば、皮ごと口に入れてしまう場合もあるようだ。さらに細かく分析してみれば、その時の殻の割れ方次第で、皮が殻と一緒に割れてしまったら皮なしで食べ、実に皮が付いたままだったらそのまま食べてしまう、そんな感じだ。要するに、夢中で食べているときには、皮を意識することなどなく、ただひたすら落花生の豆を食べることに集中しているのだろう。私にとって、皮などあってもなくてもいいもののようだ・・。
 もちろん味の微妙な違いは分かっているのだろうが、次から次へと口に豆が入り込んでくるのだから、細かなことに頓着している暇などない。これが落花生好きの典型的な食べ方だと、勝手に解釈したのだが、果たしてどうだろう?

 本当は把瑠都が快進撃を続け、大関昇進を確実なものとしたことについて書こうかなと思っていたのだが、あいにく今場所把瑠都の相撲は一番も見ていないので、いい加減なことも書けないと思い断念した。その代わりにただの思いつきで「落花生」について書き散らしてしまった・・。
 だけど、やっぱりこの話題にすべきだったかな・・。

 「フィギュアスケートの世界選手権最終日は27日、イタリアのトリノで女子フリーを行い、バンクーバー冬季五輪銀メダリストの浅田真央(中京大)が2年ぶりの優勝を飾った。男子では高橋大輔が優勝しており、初の日本人アベック優勝となった。
 前日のショートプログラム(SP)で2位に付けていた浅田は、トリプルアクセルの一つは回転不足と取られたが、安定した演技で終了後は笑顔を弾けさせた。浅田はフリーで129・50点を獲得し、SPの68・08点との合計で197・58点をマークした」


おめでとう、真央ちゃん!!



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2010年の応援は、

 1月20日の記事で、松井秀喜のことを書いて以来、まったくこのブログでは松井のことに触れないできた。それはわざと松井の話題を回避したのではなく、松井のことが頭に浮かんでくることがほとんどなかったからである。そのあたりの私の心境は、盟友・ゴジ健さんに2月7日に以下の文章で明らかにしておいた。

「あれこれ考えてみたのですが、私が松井を応援してきた初志は「チャンピオンリング獲得」だったんだなと、改めて思いました。
日本で功成り名を遂げた松井に対して、私ができることはただただチャンピオンリング獲得のため身を枯らしてでも応援することでありました。
その思いをずっと抱きながら、やっと昨シーズンになってその悲願が達成されたのですから、松井に関してもう思い残すことは全くありません。
HR王になるとか、打点王になるとか、そんな野望はもともと思い抱いていなかったようです。
それが松井応援団として失格なのかどうかも、今の私にはどうでもいいことで、ただただ松井がチャンピオンリングを獲得できた喜びで全身で満たされたままです。
正直言って、もう松井にメジャーでプレーしてほしくありません。
あのWSでの大活躍を私の誇りとしたいので、この先否応なしに訪れるであろう松井の衰えた姿は見たくないのです。
松井の全人格を好きでたまらない、とまではとても断言できない私ですので、これも仕方ないことかなと、このごろは思っています。
でも、シーズンに入って松井が苦悶する姿を見たならば(多分そうなるとは思いますが・・)、「松井頑張れ!!」と声援を送りたくなってくるかもしれませんので、その時はまた声を張り上げるかもしれません」

 自分では正直な思いを吐露したつもりだが、ゴジ健さんにしてみれば、なんて惰弱な野郎だと思われたに違いない。それも当然のことだろう・・。
 だが、「球春」の訪れとともに、心の奥底から徐々に松井に対する思いがよみがえって来た。ひょっとしたら今年は松井を応援することはないのかな、と思っていたのが正直なところだが、ちょうど「啓蟄」の頃からだったろうか、なんだか松井のことが気になり始めた。もともと松井の動向は絶えずチェックしていたから、大体のところは把握していたつもりだが、そのチェックの回数が多くなってきた。やっと松井の応援団の席に戻れるかな、と思い始めた。しかし、それでも昨年までの髪を振り乱すような応援はきっとできないだろう。ヤンキースでワールドシリーズ制覇という大願成就を果たした松井にとって今シーズン以降のメジャーリーグは、謂わば今まで苦労したことに対するご褒美であり、結果を求めずに自分の思う通りにのびのびとプレーすることが許される場である、と思うからだ。そうした松井をゆったりした気分で眺めることができれば、私にとっても最高のプレゼントになる。そんな思いを先日次のようにゴジ健さんに報告した。

「私は今シーズン以降の松井は、メジャー選手としての余生だと思うことにしました。
残り少ないメジャー生活を心おきなく楽しんでくれればそれでいい、そんな気持ちになりました。
なので、松井が打てようが打てまいが、気にはなりません(つもりですけど・・)。
まあ、打てなきゃ打順が落ち、そのうちスタメンからも外されるんでしょうけど、それもまた仕方のないことで、ただただできる限りのことをしてくれればそれで十分だと思います。
期待してないとかそんな話ではなく、ダメならダメでいいじゃないか、でも全力は尽くせよ、って心境です。
でも、守備にはもう就かない方がいいと思います。
守備に着いたら、致命的な怪我をして、それで終わりのような気がします」

 本当にそう思う。もちろん、短気な私のことだから、松井がチャンスで凡退すれば、「何やってるんだ!」と罵声を浴びせることもあるだろうが、その頻度は昨年までと比べれば確実に減るだろう。松井本来の持ち味である、結果に拘らない悠揚さが消えることなく、一年間一生懸命プレーしてくれさえすれば、それでいい。
 などと妙に恬淡としたことばかり書いていると、シーズンが始まってギャーギャー叫べなくなるから、今日のところはこの辺りでお終いにしておくべきだろう・・。



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見えぬけれどもあるんだよ

      星とたんぽぽ
               金子みすゞ

    青いお空のそこふかく、
    海の小石のそのように、
    夜がくるまでしずんでる、
    昼のお星はめにみえぬ。
      見えぬけれどもあるんだよ、
      見えぬものでもあるんだよ。

    ちってすがれたたんぽぽの、
    かわらのすきに、だァまって、
    春のくるまでかくれてる、
    つよいその根はめにみえぬ。
      見えぬけれどもあるんだよ、
      見えぬものでもあるんだよ。

 
 金子みすゞについては、ずっと以前に記事にした。それ以来折に触れて彼女の詩を引用してきたが、その詩を読むたびに心の片隅がホッと暖かくなる。小学校の国語の教科書には彼女の詩がいくつか取り上げられているが、上の詩も学校図書「小学校 国語 三年上」に載せられている。「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」と印象深いフレーズが繰り返されていて、童謡詩の範疇にはおさまりきらぬ哲学的な意味をも含んだ奥深い詩であるように思う。したがって、小学校三年生の子どもたちにこの詩を味あわせるには、やはり何らかの補助がいるように思う。もちろん何度も暗唱してリズムを捉え、そこから滲み出てくるエキスを吸収できれば十分だとは思うが、こういう解釈もあるんだよ、と子供を手引きするのも大切な大人の役割ではないかと思う。大人の読み方を強制するのではなく、作者のみすゞさんはきっとこういう気持ちでこの詩を書いたんだよ、と示唆する程度ならば、子供たちが想像の翼を広げる妨げにはならないであろう。
 そういう意味で、現在塾で三年生のまとめ教材として使っている問題集の中の設問は、なかなか含蓄に富んだ良問であると思うので以下に写してみようと思う。

①.4行目の「海」「小石」は、それぞれ何の様子を表しますか。詩の中の四字の言葉で答えましょう。
②.5行目の「しずんでいる」は、何のどのような様子を言いかえた言葉ですか。次の中からえらび、○をつけましょう。
 ア.小石がじっと動かない様子。
 イ.昼の星が空が明るくて見えない様子。
 ウ.夜になって星がかがやく様子。 
③.二連目(9~14行目)で、たんぽぽの根を人間のように表したところに―――を引きましょう。
④.この詩から、作者のどのような気持ちが読み取れますか。(  )にあてはまることばをそれぞれ二字で書きましょう。
 (    )ないけれど(    )、というものが、たくさんあることに、気づいてほしい。 

 ①から、青い海の底に沈んでいる小石のように、目には見えないけれど、青い空の奥には星があるんだよ、ということがはっきり理解できる。
 ②によって、「海の小石」という言葉の縁語として、星が青い空の奥に「しずんでいる」情景が子供たちの心にくっきりと浮かび上がるのではないだろうか。
 ③では「擬人法」を意識させることで、星もたんぽぽも人間のように生きているんだ、と身近に感じさせ、より深く詩の世界に入り込むことを可能にする。
 最後に④を答えさせることで、何か妨げがあって見えなくても、目には見えないだけで大切なものは必ずそこにあるのだから、それを感じ取れるようになってほしい、というみすゞさんの願いが子供たちの心に響き渡る・・。

 などと設問の意図を勝手に解釈してしまったが、こういう解釈ができるからこそ、これらの問題は情緒的に優れていると思う。小学校3年生の子供が上の通りに感じるとは思えないが、そう感じてくれてもいいんじゃないかな、と己の恣意的解釈を顧みずに思ったりしている。
 ただ、最後に次のような設問を加えてなかったのは画竜点睛を欠く印象がある・・。

 ⑤.④で答えたようなものにはどんなものがあると思いますか。あなたの考えを答えなさい。

 私の答えは、コメント欄に。
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長かったなあ…

 23日に愛知県の公立高校の合格発表があった。我が塾生もなんとか無事全員合格できたので、まあまあの結果だと言えるだろう。
 これでセンター試験から始まった長い長い受験期間もやっと終わりを告げた。私立中学入試では順当に合格してくれたし、大学入試も予想外の健闘をしてくれて、全員がほぼ第一志望大学に合格してくれたから、苦楽を共にした私としては誠に嬉しかった。最後に残された公立高校でそれなりの結果を上げられれば、今年の受験は大成功だと言ってもいい、そんな思いを胸に発表前々日の日曜日には、京都の北野天満宮で最後のお願いをした。


 その甲斐あってか、中3生が皆合格できたのだから、天神さんの神通力はすごいものだと再認識した。もちろん今年も受験生には、娘が買って送ってくれた北野天満宮の「神梅」を食べさせ、「芽が出るように」と梅干しの種を試験会場まで持っていくように言い聞かせた。いくらの現代っ子でも受験が間近に迫ると、不安で心が落ち着かなくなる子も多い。プレッシャーに負けず、一生懸命努力してきた成果を十二分に発揮するためには、何か心の支えが必要だ。そんな時に「神梅」が支えとなってくれたら、との思いで一人一人に渡しているのだが、今年もそれを頼りに大きな壁を乗り越えられた生徒も多かったはずだ。来年以降もずっと続けていくつもりではあるが、娘が京都を引き払ってしまったので、「神梅」を買ってくれる当てがなくなってしまい、どうしたものかと少しばかり悩ましい・・。

 しかし、今年の受験は疲れた。私の思う通りに学習を進めてくれない生徒が何人かいたので、かなり精神的に疲弊した。あまりに勉強してくれないため、「今勉強しないでいつするんだ。後悔するのは自分だぞ。とにかく勉強しろよ」と、どれだけ口を酸っぱくして言っても、なかなか聞き入れてくれなかった。「やる気がないなら、帰れ!!」とついつい大声を出したことも何度かあった。できれば気分よく受験させてやりたいと思っているが、あれだけ勉強してくれないと、とてもそんな気にはなれなかった。私もまだまだ修行が足りない・・。まあ、それでも何とか合格できたからよかったが、その生徒たちとの精神的な格闘で、もう本当にヘトヘトになってしまった。
 だが、今年の受験でこれほどまでに疲れてしまったのは、やはり年齢的な衰えが一番の原因だろうとは思っている。夏休みが終わった9月以降、完全に休みだったのは、9月13日、11月1日、12月31日、1月1日のわずか4日のみだ。私としては、もう20年近くは続けている日程なので、さほど驚くべきことではないが、こんなに休みなしで塾を続けることはもう肉体的に無理なのかもしれない。今年に入ってからは、ずっと疲れが取れない状態で、いつも「疲れた・・」とぼやいていたような気がする。もうそろそろ肉体的に長時間労働には堪えられなくなってきているのだろう。日程を見直すべき時が近づいているのかな・・。
 
 だが、事はそう簡単にはいかない。一年後に受験を迎える生徒が何人もいる。再来年が受験になる子供もいる。彼らは皆私の受験指導を受けようと思って、塾に通って来る大事な生徒だ。彼らのことを思ったら、「疲れるから授業時間を減らしたい」などとはとても言いだせない。言いだしたいのは山々だが、それを言うのは塾をやめる時だとずっと前から決めている。なので、いくら疲労困憊しても、しばらくはこのまま走り続けるしかないようだ。でも、疲れる・・。
 
 こんなことをブツブツ言っていたって、もうすぐ4月だ、新学期だ。今私がやるべきことは少しでもゆっくりして疲れをとり、新学期に備えて英気を養うことだろう。長い長い受験期間が終わったばかりで心が弛緩しているのは仕方ないが、徐々に気を高めていって、新学期からまた全力投球できるようにしなければ!
 まさしく、「疲れるけど、頑張ろう!」だ。

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さらば、京都

 娘が大学院を卒業した。

 『みやこめっせにおいて、午後2時から沢田敏男 元総長、名誉教授をはじめ、各理事・副学長、各研究科長等の列席を得て、大学院学位授与式が挙行されました。修士等代表者と博士学位を取得された方それぞれに松本紘総長から学位記が授与された後、式辞があり、授与式は厳粛に執り行われました。
 今回学位を授与されたのは、3月23日付け課程博士514名、論文博士43名、修士2,131名、修士(専門職)151名、法務博士(専門職)187名です』

と大学のHPを見たら書いてあった。えっ?沢田敏男元総長?私が大学にいた頃の総長ではないか!まだ存命でいらしたのか!とびっくりして調べたら、1919年5月4日の生まれでいらっしゃるとのことで、御歳89才であられることになる。式に列席されるほどの元気でいらっしゃるとは何と喜ばしいことだ。元総長とは何の所縁もない私ではあるが、かつてご尊顔を遠くで拝したことのある誼で、長寿をお祝いさせていただきたい。

 上にも、「博士学位を取得された方それぞれに松本紘総長から学位記が授与された」とあるように、博士号を取得した人たちは一人ずつ名前を呼ばれ壇上に上がるため、ものすごく時間がかかったそうだ。そのために待たされる私たちはいい迷惑だ、などと娘は文句を言っていたが、参列した妻によると、近くにいた子供連れの婦人が、「もうすぐパパだよ」と言っていたそうなので、博士号を取得した人や家族にとっては、まさに一世一代の晴れ舞台なのかもしれない。とは言え、この日を迎えられたのも、家族や周りの人の支えがあってこそのものであり、口には言えないような苦労もしてきたのではないだろうか、などと、親子連れの情景を思い浮かべながら余計な心配をしてしまった。娘も、学問を極めようなどと身の程知らずなことは思わず、適当な時期己に見切りをつけ、まったく畑違いの職種に就こうとするのは、それはそれで賢明な選択だったのだろうと、改めて思った。

 ともあれ、これで娘が6年間お世話になった京都大学とも別れを告げることになった。自分自身が学生だった5年間を加えれば、都合11年間京大との繋がりがあったことになる。日曜日に京都に行ったときに、時間があれば時計台を望んで、長きにわたって私と娘を見守ってくれたお礼を言いたいと思っていたが、あいにく時間がとれずに残念なことをした。だが、帰り道に百万遍は通ったので、近くで一枚だけ写真を撮った。
 

 彼方に大文字が仰ぎ見える・・。なんだかこの写真を見ていたら、当てもなくこの辺りを年中ふらついていた30年前が思い出されてきて、目頭が熱くなってきた・・。私にとっての京都はやはり青春そのものだ(そんな言葉を使うのは安っぽい気がするが、それしか思い浮かばないから仕方ない)。辛いことも悲しいこともあったはずなのに、まったくそんなことは覚えていない。ただただ毎日が夢のように過ぎていったことだけが、胸の中に残っている。

 娘もいつか京都をそんな風に思い出すようになるのだろうか。

 しかし、今の娘では4月からの新生活のことで頭がいっぱいで、ノスタルジーにふける暇などないはずだ。そんな感慨に胸を焦がすのは、学生の頃を思い出してはため息をついてしまう、私のような日々の生活に疲れ果てた者の慰みでしかないようにも思う。だが、まだまだ私も老けこんでなどいられない。人生を楽しみ尽くさねばいくらなんでも勿体ない。
 これからは京都を一観光客として訪ねることにしよう。平等院に驚いたように、私の知らない京都は無限にある。何度も何度も京都にやってこよう。必ずそうしよう!!

 それまでの間、しばらくは「さらば、京都」・・。

 
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夜の高速道路

 日曜日、京都までは私が一人で運転していった。新しい車になってほぼ半年経ち、かなり自分の足として動かせるようになった。前の車よりも車体は一回り小さく、しかも2ドアクーペなので車高も低い。乗り降りには少しばかり苦労するが、その分小回りが利いて運転はしやすい。しかも、排気量は前よりも大きくてしかもツインターボが付いているため、圧倒的な馬力で瞬時にスピードが出る。街中ではアクセルを踏み込んだことはなく、アクセルペダルに足を乗せておくだけで勝手に走っていく。一度だけ高速道路でぐっと踏み込んだことがあったが、その加速感は恐ろしいほどで、とても私の運転技術では御すことはできないと体感した。だが、足回りはしっかりしていて、ハンドルをぐっと握ってさえいれば思い通りに動いてくれる。まだまだその性能を十分生かして切れていないが、走っていて楽しい車であることは確かだ。
 そんなことを感じながら、行きは渋滞に巻き込まれたことをのぞけば、気持ちのいいドライブができた。だが、問題は帰りだった。
 昨年の夏休みに、黒部ダムを見学した帰りに、日没後の暗い中央道を走っていたら、何故だか怖くて仕方なかった。普段毎日真っ暗な道をバスで走っている私にしては、どうして高速だとあたふたしてしまったのか、ずっと不思議に思っていたのだが、今回また夜の名神を走ってみて、今の私には夜の高速の運転はもう無理だな、と痛感した。
 京都東から名神に入ったのが6時半ごろ。夕闇せまる時間であったが、最初のうちは何ともなく、普通に運転していた。ところがやがて闇に覆われ、目の前に見えるのは前を行く車のテールライトばかりになった頃から、なんだか首が重くなり始めた。ぐるぐる回してコリをほぐしてみようとしたが、次第に首全体が硬くなってきて、頭の奥がしびれるような感覚に襲われた。まっすぐ前を見て、何とかやり過ごそうとしてみたが、そんな類のものではなかった。頼りのハンドルはしっかり握っているものの、前の車のテールランプ目がけて走っていくようで、このまま運転を続けたら、そのうち前の車に突っ込んで行ってしまいそうな危険を感じ、冷や汗が出始めた・・。。
「ちょっと運転変わってくれないかな。なんか変な感じがするんだ」
「いいけど、どうしたの?」
「頭の芯が固まったような気がして・・。首がカッチカッチに固まったような感じがして・・」
 運転を妻と代わるため、次のサービスエリアに入って、少しの間休憩した。自分で首を揉み解してみたが、固くなった首筋は急には戻らない。念のために妻から頭痛薬をもらって飲んでみた。しばらくしたら少し頭にかかった霞が消えかかったような気がしてきたので、妻の運転で再び高速を走り始めた。
 妻の運転は決して無理をしない。ずっと走行車線を走っているだけだが、途中目立った渋滞もなく、思いの外、すいすい走ることができた。妻も今の車が気に入っているようで、以前だったら運転しようなどとは言わなかった高速道路での運転も積極的に申し出てくる。もちろん妻だって私と同い年だから、夜の高速運転が楽なわけではないだろうが、この車だとそんなことも忘れてしまうのかもしれない。
 助手席に乗って、首のコリを解していたら、ゆっくりと回復していった。その間、ずっと考えていたのは、遠出をして行きも帰りも私一人で運転し続けるのはもう無理だな、ということだ。京都までの往復を一人で運転し続けるには、前を見つめ続ける状態を何時間も続けなければならない。京都までの片道だったら何とかやり遂げることはできるだろう。だが、それが一日で往復するとなると、心理的・肉体的な疲労は片道の何倍にもなるだろうし、さには夜の高速運転も加わるとなると、そのプレッシャーは極限にまで達してしまうのかもしれない。

「エコノミー症候群てそんな感じじゃないの?」
妻が言うので調べてみたら、私の状態がそれに当てはまるかどうか・・。

 『静脈血の鬱帯や血液凝固の亢進が原因となる。血流鬱滞の原因としては長時間同じ姿勢で居続けることや鬱血性心不全、下肢静脈瘤の存在が挙げられる。
 特に湿度が20%以下になって乾燥している飛行機、とりわけ座席の狭いエコノミークラス席で発病する確率が高いと思われているためにエコノミークラス症候群と呼ばれるがファーストクラスやビジネスクラス、さらに列車やバスなどでも発生の可能性はある。タクシー運転手や長距離トラック運転手の発症も報告されている。長時間同じ体勢でいることが問題といわれる』(Wikipedia より抜粋)

 う~~ん、そう言えなくもないが・・。


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宇治平等院

 卒業を控えた娘が京都の住まいを引きはらうため、家財道具一式を一旦家に送り返してきた。5月からの赴任先が決まったら、使えるものはまた使う意向であるから、とりあえずしばらくの間、家で保管しておくことになっている。引越し屋に頼んで運んでもらったのだが、まだいくらか細々したものが残っているため、それを取りに行く必要があり、私と妻、そして引越しの荷物を整理するため戻ってきていた娘の3人で、京都まで出かけた。
 夜半の嵐の名残が感じられる天気ではあったが、車の運転には支障はなかった。連休中の日曜日にしては案外スムーズに走行できたものの、草津インターを過ぎたあたりから、事故車の処理のために渋滞が激しくなり、瀬田西近くではほとんど動かなくなってしまった。これじゃあ、いつ京都に着ける分からない、とイライラし始めた私に、「じゃあ、瀬田西から京滋バイパスに抜けて行ったら?」と、後部座席で居眠りしているとばかり思っていた娘がアドバイスしてくれた。さすがに6年も京都に住んでいただけあって京都近郊の地図には詳しいようで、道順をあれこれ説明してくれたが、私にはほとんど理解できない。それでも、娘を信用することにして京滋バイパスに入って宇治まで行くことになった。
 宇治がどこにあるのかイマイチ分からなかったが、宇治と言えば平等院、折角なら平等院を見学してみたいな、と思った。娘は何度か訪れたことがあるそうだが、私も妻も一度も行ったことがない。当然多数決で立ち寄ることになった!!で、こんな時はやっぱりナビ、セットさえすれば瞬時に道を教えてくれる。宇治東で降りたら案外近くて、ナビに従ったら苦も無く到着することができた。

 『平等院は永承7年(1052)、関白藤原頼通によって開創され、鳳凰堂はその翌年の天喜元年(1053)、阿弥陀如来(国宝)を安置する阿弥陀堂(国宝)として建立されました。庭園は浄土式の借景庭園として史跡名勝庭園に指定され、現在、鳳凰堂周辺の洲浜や平橋・反橋、小島などが整備されています。
 その他にも、平等院には、大和絵風九品来迎図(国宝)、梵鐘(国宝)、鳳凰1対(国宝)など平安時代の文化財が多数残っています。特に11世紀の仏像群としては唯一残る、雲中供養菩薩像52体(国宝)は、いずれも雲に乗り、様々な楽器を奏で舞うなど、伸び伸びと繊細に彫り上げられています』

 と入口で受け取ったパンフレットには書いてある。10円玉の裏に書いてあるのが平等院だよなあ、と思いながら神々しいお姿を想像していたのだが、その佇まいは些か拍子抜けがするものだった。

  

 だが、凝視していると歴史の重みが伝わってくる。あの建物の中で頼通が・・などと思うのは楽しかった。中心にある鳳凰堂に入るには別料金が要って、しかも1時間以上待たねばならないと言われたので、残念ながら断念した。しかし、屋根の上に鎮座する鳳凰一対は、かなりの遠目ではあっても、今にも中空へ羽ばたこうとするようで、恰も生きているように思えた・・。


 私が一番心を動かされたのは、何と言っても「雲中供養菩薩像」だ。鳳凰堂に入らなかった私が見たのは、近代的な建物の中にある「鳳翔館」という博物館に展示された26体であるが、残念なことに写真撮影が禁止されていて、その融通無碍な姿を写真に収めることはできなかった。だが、どういうわけかネット上にはその写真がいくつかあった。で、それを載せてみることにする・・。

 

 平等院がこれほど素晴らしいところだとはまるで知らなかった。もっと時間があるときにゆっくり見学してみたいものだと強く思った。

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