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「犬神家の一族」

 昨年末にTVで放映されたのを録画しておいた「犬神家の一族」2006年版を見た。と言っても一度に見るだけの時間はなかったので、寝る前に少しずつ、4日かけて見終わった。市川昆監督の遺作となったこのリメイク版を、公開当時見に行きたいと思ってはいたが、ちょうど受験期の忙しい時期に当たり、劇場まで足を運ぶことができずに見逃してしまっていた。それがやっと見ることができたのだから、念願が叶ったということになる。
 私にとって市川監督は、映画は「金田一耕助シリーズ」、TVドラマは「木枯らし紋次郎」といずれも心に深く刻まれた名作を残した映画監督である。その監督の遺作、しかも金田一役の石坂浩二と紋次郎役の中村敦夫が共演しているのであるから、この作品は市川監督の集大成を見るようで、私にはなかなか感慨深い映画であった。
 この映画の筋立てについては、改めて書き記すまでもないだろう。1976年に市川監督が映画化した最初の作品は私を含め多くの人たちが劇場で見ただろうし、その後古谷一行が金田一を演じてTVドラマ化されたから、物語は広く人口に膾炙しているように思う。事実私も、この2006年版を見ながら、結構細部まで覚えているもんだなぁ、とちょっと感心したくらい、犬神家の悲劇の物語は心に染み付いてしまっているようだった(加藤武の「よし、わかった!」という名ゼリフのタイミングはすべて分かった・・)。
 とは言え、人間の業の深さをおどろおどろしく描き出した横溝正史の傑作だけあって、何度見ても飽きることはない。だが、それもキャストの妙があってこその話だから、ここで76年版と06年版の主だった配役を並べてみて、私が感じたことを少し書き留めておこうと思う。

*金田一耕助・・言うまでもなく、どちらも石坂浩二が演じている。30年の歳月が流れたことは石坂の容姿から見て取れるが、それを余り感じさせないのはさすがとしか言いようがない。事件を解決して、一人去っていく金田一がこちらを振り返るエンディングは映画を見る人たちへ別れを告げているかのようで、グッと来てしまった。
*犬神松子・・76年高峰三枝子、06年富司純子。見る前は、高峰三枝子の堂々とした女優っぷりと比べたら富司純子では線が細いのでは、と危惧していたが、まったくの杞憂であった。犬神家の長女として他を圧する酷薄さから一転して、息子を溺愛する母親への変貌ぶりは背筋がぞっとするほどだった。こんなにもすごい女優だとは思っていなかっただけに、正直感服した。
*犬神竹子・・76年三条美紀、06年松坂慶子。この時の松坂慶子は太りすぎているようにも見えるが、それが妙な貫禄を醸し出していて、逆に適役のようにも思えた。でもやっぱりきれいだなあ。
*犬神梅子・・76年草笛光子、06年万田久子。これは明らかに草笛光子の方がよかった。万田久子はこんなに下手なの?と少々驚いた。草笛光子は06年版には琴の師匠役で出演している。
*野々宮珠世・・76年島田楊子、06年松島菜々子。私は松島菜々子の演技をじっくり見たのはこれが初めてだが、あまりいい印象はもてなかった。76年当時の島田楊子の方がずっと清純なイメージがあったように思う。
*犬神佐清・・76年あおい輝彦、06年尾上菊之助。この両者はどちらもいい。運命に翻弄される佐清の懊悩を演じきっているように思う。尾上菊之助は富司純子の実子だけに妙なリアリティーがあった。しかし、この役は美男子が演じるようにできているのだろうか・・。
*古館恭三・・76年小沢栄太郎、06年中村敦夫。この役を演じるには中村敦夫に少し枯れ具合が足りないようにも思ったが、それも小沢栄太郎と比べてのことで、中村敦夫もそれなりにいい味を出していた。だが、やはり私にとっては木枯らし紋次郎のストイックさが、彼には一番似合っていると思えて仕方がない・・。

 見終えて、他の金田一シリーズもリメイクしてもらいたいと思ったが、市川監督が亡くなった今、それはもう叶わぬ夢である。
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「ざらざら」

 川上弘美「ざらざら」(マガジンハウス)を読んだ。これは雑誌「クウネル」などに連載された短編を集めたものであり、夜眠る前に2・3話読むのには適した長さと内容で、読んでいた何日間は気持ちよく眠りにつけた。
 この本に収められた23編に共通するのは、20代から30代の独身女性(学生から働いている人まで)の心情を表現していることであろう。私と川上弘美は同じ年の生まれであるから、母親世代が日々の暮らしの中で揺れ動く娘世代の心をうまくとらえていると評することもできるだろうが、何せ私は男であるから、そのすべての機微を理解できるはずもなく、「ああ、そうなのか・・」「こんな風に感じたりしているのか・・」などと思うこともしばしばであった。もちろん川上弘美がどれだけ現代の若い女性の心理を知悉しているかは分からないが、女性としていつの世も変わらない通底する心情というものはあるだろうから(それは男でも同じだが・・)、私などよりもはるかに現代の若い女性の姿をとらえているのだろうと思う。
 だが、その描き方にはやはり年相応の、謂わば「母親のまなざし」のようなものが感じられた。失恋に悲しむ女の子や、新しい恋に胸ときめかす女の子、そうした若い女性を慈母のように暖かく受けとめ、優しく見守っている--全編を通じてそんな大きな心が行間から滲み出ている。以前読んだ「真鶴」で感じられた、現代を生きる女性の危うさと言ったようなものは読み取れなかったのは、それが短編では表現しきれない性質のものだからなのだろうが、この本が、「真鶴」から川上弘美という作家に私が抱いたイメージを一新してくれたのは確かだ。と同時に、彼女の作家としての懐の深さを垣間見たような気がして、軽い読み物と簡単には評しきれない、母親世代から娘世代への応援歌であると呼びたいような物語が揃っていて、読んでほっと心が安らぐような本であった。

 母と娘と言えば、最近我が家の娘が頻繁に母親に電話してくる。主に就職活動でぶつかる壁の大きさに打ちのめされて、愚痴を聞いてもらうためにかけてくるようだが、時には1時間以上も話し込んでいることもある。ひとしきり愚痴った後で、母親からのアドバイスを求めることもあるそうだが、会社組織に属したことのない妻では細かなことは分からないので、厳しい言葉も交えながら叱咤激励を繰り返すことになる。そういう言葉の一つ一つを娘は神妙に聞いているようで、それなりに心の支えとなっているようだ。(少し元気になって電話を切っても数日経てばまた同じように電話してくるのだが・・)
 先週などそうした心労が重なったためか、娘からインフルエンザに罹ってしまったと電話が入った。心配した妻が「すぐに行く」とこたえると、「うつるといけないから来なくていい」と気丈な返事が返ってきたものの、昼過ぎになって熱が上がってきたら、「やっぱり来てください」とまた電話がかかってきた。慌てて出かけた妻が、名古屋駅でSARSにも負けないマスクという宣伝文句のマスクを買って、娘の部屋まで行って、掃除・洗濯を一通りしてから、おかゆやらおかずやらを何食か作ってやった。そのまま一晩娘と一緒の部屋で眠ったら、もしかしてウイルスを持ち帰って、受験を控え今が一番大切な塾生たちにうつしてしまうかもしれないと、できるだけのことはやった上で、最終の新幹線に乗って妻は家に帰ってきた。
 こうした濃密な関係は父親と息子の間ではちょっと難しいように思うし、少なくとも私と息子はとてもそんな関係ではない。だからと言って、妻と娘の関係を羨ましく思っているわけでもないが、娘が長ずるにつれて、同じ女性として気脈の通じることが増えてきたように見えて、なかなか興味深い。

 そう思うと、この本は私のような干からび始めた親父が読むよりも、みずみずしさにあふれた若い女性が読む本なのであろう。でも、この本を読んで少しばかり私の枯れた心に潤いが戻ったように思うのは、少しばかりきれいごとに過ぎるかな・・。
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絶景!

 こんなところが近くにあるなんてまるで知らなかった。年末に開通した道路、長い間かかって整備したものの大して意味などないまったく無駄な道路だと思っていたが、こんな絶景ポイントを用意していてくれたなんて、なんともまあ、洒落たもんだ。確かに大枚をつぎ込んでまで造る道路じゃないと今でも思っているけど、この景色を見ているうちはそんなことも忘れてしまう。


 天気のいい日には絶好のドライブスポットなのかもしれない。ゆるく曲がったガードレールに守られた道は崖から突き出していて、20mも下のところから鉄柱で支えられている。遠目で見てもかなりスリリングな状況だが、実際に車から降りてみると横殴りに強い風が吹いてきて、思わず上着の襟を立てたくなる。だが、そこから目線を移してみれば、まさに神秘的な情景が見えてくる。


 エメラルドグリーンの水を湛えた池。陶土を採掘した後に湧き出してきた地下水が溜まったものであろうが、実に美しい色をしている。かつて私が子どもの頃、「エメラルドの伝説」という歌が流行した。

   湖に 君は身を投げた
   花のしずくが 落ちるように
   湖は 色を変えたのさ
   君の瞳の エメラルド

   遠い日の 君の幻を
   追いかけても 空しい

   逢いたい 君に逢いたい
   緑の瞳に 僕は魅せられた

   湖に 僕はひざまずき
   緑の水に 口づける

   逢いたい 君に逢いたい
   緑の瞳に 口づけを
 
 
 この景色を見ていたら、歌詞が自ずと浮かんできた・・。
 私は一度でいいから摩周湖に行ってみたいと思っている。写真でしか見たことはないが、この池とは比べるべくもないほど神秘のベールに包まれているように思う。だが、そんな夢がいつ叶うやもしれない私には、この池を見ながら「エメラルドの伝説」を口ずさむことで我慢しておかねばならないのかもしれない・・。


(追記)
だがガードレールから下を覗くと足が震えてくる。へっぴり腰でガードレールから身を乗り出して撮った真下の写真。本当に怖かった・・。

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秘密が明らかに

 てっきり報告するのを忘れてましたよ。デニーズで催されている「デザートスタンプラリー」、スタンプを5つ集めると「秘密のデザート」がもらえるという企画。4つ集めたのは少し前に報告したんだけど、翌週5つ目をゲットして見事権利は確保!!でも、お目当ての「秘密のデザート」はそのまた翌週に行ったときに食べることにしたんですね。楽しみは後に取っておいたほうがいいもの・・。


 先週の木曜日、喜び勇んで出かけたデニーズで、スタンプカードを誇らしげに見せたら、店員さんが「もう!?」と言って驚いてくれたから、何だか誇らしい気分になっちゃった。なんにせよ、人より先んずるのは気持ちがいいよね。馬鹿な性分でもそんな風にずっと生きてきたからしょうがないなぁ・・。
 で、しばらく待っていたら、出てきましたよ、「秘密のデザート」!!


 これはもう大きな写真を載せるしかないでしょう。
 生クリームを真ん中において、周りを囲っているのが、薄緑色の「キウイ」のシャーベット。左に「カシス」のシャーベット。次はチョコのアイスクリーム。生クリームに隠れて見えないけど、「バニラ」のアイスがあるんだよね、写真がへたくそで申し訳ない。その右が「イチゴ」のアイスクリーム(だったと思うんだけど・・)、そして最後にこれがちょっと自信がない。一緒に食べた妻と話し合った結果、「かぼちゃ」のアイスかなぁっていうことになったんだけど、違うかもしれない。色だけ見たらマンゴーみたいだけど、あのもってりした味はかぼちゃだったはず、たぶん・・。
 前に行ったときは店員さんが「期待しないでくださいよ」などと言ってたけど、なかなかどうしておいしゅうございました。デニーズは何を食べてもはずれがない、立派なファミレスだと私は思っているけど、デザートも優れものを提供してくれるから本当に最高だ。この「秘密のデザート」をペロリと平らげたら、心から幸せな気持ちになれた。デザートって、食事をした後の満足感をさらに高めて、幸せ感にしてくれるものだと私は思ってるけど、この「秘密のデザート」はまさにそんな感じを味あわせてくれるデザートだった。いくつものフルーツのエキスがぎゅっと凝縮されたアイスとシャーベット、などと私が中途半端に表現するよりも食べてもらえば一番いいんだけど・・。
 でも、やっぱりちょっとフルーツが食べたかったな、と思わないでもなかった。エキスは十分堪能できたけど、フルーツの形をしたフルーツが食べたい、そんな気がしないでもなかった。だから、そんなときにはこれがお勧めかな。


「フルーツなかむら」のハナコ。名古屋じゃ三越でしか買えないけど、果物屋さんのデザートだけにジューシーでめちゃおいしい。この写真は古いデジカメでとったものだから、イマイチきれいじゃないから、もっと知りたい人はこちらのHPを見て。さすがにきれいに写っていてどれを見ても垂涎もの・・。

 またせっせとスタンプを集めなくっちゃ。
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不調・・

 10日ほど前に買ったばかりのPCが早くも壊れた。CDドライブが開いたまま、閉じなくなってしまったのだ。


 そもそもこのPCを買ったのは、今まで使ってきたPCのCDドライブが作動しなくなってしまい、私立高校の入試問題を印刷するにはどうしてもCDドライブが必要なため、急遽買ったものなのに、これでは何のために買ったのかまるで分からない。
 「やっぱり展示品は駄目なのかな・・」
などと情けないことを思ったりしたが、とりあえず買った電気店に持っていった。
 「買ったときから、ボタンを押してもうまく開かなかったこともあったから、大丈夫かな、とは思っていたんですけど・・」
 「そうですか、展示品といってもCDドライブまで開けたりする人はいないですからもともとよくなかったのかもしれませんね」
と言いながら、少し押したり引いたりしていた店員さんは、
 「こりゃ修理に出さなくちゃ直りませんね。お借りしてもいいですか?」
あと1・2校、私立高校の入試問題を印刷したいのだが、動かないものは仕方がない。
 「はい、どうしようもないですよね」
 「すみませんね、大至急やらせますから」
 「修理費はかかるんですか?」
 「えっ?そんなものはかかりませんよ、当たり前です」
 「そうですよね、かかるって言われたら文句言おうと思ってたんですけど」
 まったく何のために買ったのか分からなくなってしまったが、まあ、遅かれ早かれ今のPCが寿命を迎えるだろうから、値打ち品が買えただけいいと思うことにしよう。(不良品ではどうしようもないが、直してもらえるなら我慢しよう・・)

 PCはいい。どこか悪くなったら交換すればきちんと動くようになるから。でも、人間はそう簡単には行かない。と言うのは・・、 
 昨日月曜日、いつもの時間に携帯の目覚ましが鳴って起きようと思ったが、体が言うことをきかない。まだ眠っていたいのかな、と他人事のように思っているうちにまた寝入ってしまったようで、目が覚めたのは1時間後だった。今度は起きようと思って、強引に起き上がったが、体は重く何だかだるい。階下に下りていってパンを食べたが、味がしない。TVをつけてボーっと見ていたが、どのチャンネルを見ても面白くない。TVを消して目を瞑ったら、すぐにでも寝ちゃいそうだ。
 「これじゃあダメだ、もう一度寝よう・・」
そう思って、妻に「体が起きようとしないから、もう一回寝てくる・・」と告げて自室のベッドにもぐりこんだ。すぐに寝入ってしまい、目覚めたら12時少し前、なんだ、午前中が終わってる。ぐずぐず起き上がったものの、寝る前と余り変わりがない、気持ちが晴れてこない。妻が用意してくれた昼食を食べて、また居間でぼーっとTVを見ていてもだるさは残ったまま、服を着替える気さえしない。「参ったなあ・・」一時間くらいそんな感じでうだうだしていたら、やっと少しずつ気持ちが晴れてきた。そろそろ塾の準備をしなくちゃ・・、などとあれこれやるべきことを数え上げていったら、何とか立ち上がることができた。
 そんな調子でゆっくりゆっくり動き出したら、ゆっくりゆっくり気力が戻ってきて、塾が始まる頃までにはいつものように気合が乗ってきたから、その後の授業は滞りなく終えることができた。よかった。だが、こんなことは余り経験がない。
 毎週月曜は日曜にビールを飲みすぎて半分二日酔いのような状態だが、それでも昨日のように気力が萎えてしまったことなど記憶にない。しかも今はいよいよ入試が始まり、一段と気持ちを込めねばならない大事な時期だ。そんなときにこんな体たらくでは困ってしまう。いったいどうしたんだろう?、ちょっと不思議だった。 
 要は私の体はもう若くないと言うことなのだろう。いくら気持ちで支えようとしても、そう思い通りに行かないのかもしれない。思えばこのところ、すこし就寝時間が遅くなっていた。「もう少し早く眠って体力を回復させるように!」と、心と体が訴えたのかもしれない。
 内からの声にもう少し耳を傾けなければならない、そんな自戒を今は噛みしめている。
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大相撲初場所・千秋楽

 朝青龍ってやっぱりすごい。何がすごいって、初日に運よく勝ったらそれを勢いにして、徐々に相撲感を取り戻していくんだから。14日目の魁皇戦などは堂々とした横綱相撲でまったく魁皇に相撲をとらせなった。確かに土俵上の所作には眉をひそめたくなるようなこともたびたびあったが、日の下開山天下無双の強さが復活すれば、そんな非難もかき消してしまう。今場所始まる前には「引退」が規定路線のように報じられてもいたが、前半戦を全勝で乗り越えた時点でそんな声はまったく聞こえなくなってしまった。まさに強ければ道理が引っ込むと言う、かつての朝青龍が戻ってきたようで、国技館が連日大勢の相撲ファンがで一杯だったのは、暗い話題ばかりだった昨年の相撲界の暗雲を吹き消すようで喜ばしい限りだ。(北の湖が理事長を辞したのがよかったのかな・・)
  
 などと千秋楽の結びの一番前までは思っていたが、やはり最後の大一番にはそんな雑念など吹っ飛んでしまう。ただひたすら朝青龍と白鵬の勝負の行方に思いを寄せながら、父と二人、ああだこうだと話し合っていた。父は千秋楽まで全勝で勝ち続けた朝青龍を相撲人気の回復に貢献したと大いに称えていた。確かに「満員御礼」の垂れ幕がある相撲は面白い。先場所までの目を覆いたくなるようながらがらの館内と比べれば、いかに朝青龍の存在が大きいのかが分かる。横綱に品格を求める声は今も大きいが、強くて品格に劣る横綱の相撲の方が、品格はあっても弱い横綱のだらしない相撲よりも見ていて面白いのは言うまでもないことだろう。(もちろん品格も強さも備わった横綱が望ましいことは当然だが、そこまで求めるのは難しいことかもしれない)
 本割りの対決は、あっという間に白鵬が勝ってしまった。TV解説の北の富士の言葉を待つまでもなく、朝青龍が立ち会いに失敗したのは明白で、優勝決定戦でどれだけ修正できるかが焦点となった。東西に分かれた支度部屋での両者の様子がTVで映し出されたが、若い衆を相手に立会いの稽古を繰り返す朝青龍とは対照的に、白鵬は床山に髷を結い直してもらう間じっと瞑目している。まさに「動」と「静」の両者がどういう相撲を見せてくれるのか、いやがおうにもTV桟敷の興奮は高まった。私と父は、「朝青龍が勝つ」と意見が一致したものの、やはり白鵬の地力も侮れないだけに、どういった展開になるかはまったく予断を許さない。
 館内の興奮が最高点に達したとき、時間いっぱいとなった。立ち会い鋭く立った、朝青龍が右の上手をがっちりつかむ。次の瞬間頭をつけて白鵬を寄りたてる。息もつかせぬ一気の攻撃に、さすがの白鵬もあえなく土俵を割ってしまった。その瞬間悔しそうに顔をしかめる白鵬とは対照的に朝青龍の顔は安堵の笑みがひろがった。やった!という歓喜の笑みというより、秘めた思いを達成したときに見せる充実した喜びのように私には見えた。だが、それも一瞬で、両腕を高く差し上げて万歳の格好をして見せた朝青龍の目には涙があふれていた。
 
 
 私は朝青龍のファンでもアンチでもないが、率直に喜びを表現した朝青龍には好感が持てた。北の富士は朝青龍が全勝優勝したら、幕内力士全員を始め解説者まですべての相撲関係者が朝青龍の軍門に下ることになると、勝負の前には怖れていたが、優勝が決定した後は朝青龍の精神力の強さを虚心坦懐に賞賛していた。この気持ちこそが多くの相撲ファンの心持ちを端的に表しているような気がした。
 
 だが、どうしても残念でならないのは、琴欧洲と把瑠都の後半戦での失速である。琴欧洲が10勝5敗、把瑠都が9勝6敗、この成績は彼らに期待する私にはどうにも我慢ができない。千秋楽ではともに力強い相撲で勝ってくれたが、決して今場所の成績に甘んじることなく、さらに稽古に励み、来場所以降の飛躍を切に願う。この二人がもっともっと強くなれば、相撲はもっともっと面白くなる。
 もちろん日本人力士、特に稀勢ノ里には頑張ってもらいたいのだが・・。
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「とんび」

 昨年11月に「論争 若者論」(文春文庫)を読んだ感想を記事にしたが、その際小説家・重松清の論考にはいたく感じ入ったので、少しばかり引用させてもらった。これだけしっかりした考えを持った人物が小説家というのなら、一度は彼の書いた小説を読んでみたいと思い、書店で選んだのが「とんび」(角川書店)という本だった。なにせ一度も読んだことのない小説家なので、どの本を読んだらいいのかまるで分からず、たまたま書店の棚に並べられていたこの本を手にとってみた。「涙が止まらない!感動の父親物語」と帯に書かれていたのを見て、「お涙ちょうだいの小説は苦手だな・・」と思いはしたが、他にこの小説家の作品が見当たらなかったので、とりあえず読んでみることにした。
 すぐに読み始めたが、確かに読んでいると泣けてくる。こうやって書けば読者が泣いてしまう、そんなことを作者が十分承知した上で書いているような気さえしてくる。それも何だかあざといように思えて、「面白くないなあ」と半分くらい読んだところで、しばらく読むのをやめてしまった。
 『幼い頃に親と死別したヤスさん28歳のときに、長男アキラが生まれる。最愛の妻・美佐子さんとの三人家族で幸せな日々を送り始めた矢先に、美佐子さんが不幸な事故で他界してしまう。その後は男手一つ、アキラの幸せだけを願いながら、悪戦苦闘するヤスさん・・・。』
 などとまとめてみれば、そこから広がる物語のスジはだいたい予想できてしまうが、まったくその予想通りに話が進んでいくものだから、逆にそれが面白いと言えば言えるかもしれない。家族の物語の王道を突き進むかのように、どこかで見たり聞いたりしたことがあるように話が展開していく。照れ性で、時には思ってもいないことを思わず言ってしまうような一本気な性格のヤスさんを始めとして、主要な登場人物は適材適所にステレオタイプな人々が配置され、読む者を決して裏切ることのない、安心して涙を流せるような物語となっている。私は今までTV番組でこうしたありきたりのストーリーは何度も見たことがあるが、小説では読んだことはない。と言うよりも、何の刺激も受けないような小説は、決して手に取らないし、たとえ読み始めても途中で読むのをやめてしまっていた。それがどういうわけか、年が明けて中断していたところから読み始め、結局最後まで読んでしまったのだから、この「とんび」という小説は、口では言えないような味わいを持っているのかもしれない。それは何だろう?
 私の娘はもうすぐ23歳になる。と言うことは私が父親と呼ばれるようになって23年経つことになる。生まれたくて生まれてきた訳ではないこの人生だが、父親にはなりたくてなったわけだから、やはりそこには自ずと責任が発生する。意図して父親になった以上、意図せずに子供になってしまった者たちを幸せにする責任がある。そんなことを漠然と心に秘めながら、父親としてできる限りのことはしてきたつもりだ。だが、その思いを恩着せがましく子供たちに語ったことはないし、子どもたちに分かってもらいたいとも思っていない。ただ日々の生活を自分なりに一生懸命暮らして子供たちに不自由はさせないようにしたいと思っていただけのことであり、私の自己満足に過ぎないかもしれないが、そんな私の思い(と呼べるほど確固たるものでもないが・・)と通じるものをヤスさんの中に見つけ出すことができたのが、最後まで読み通すことができた理由かもしれない。
 そして、やはり最後まで読んでよかったなと今は思っている。ヤスさんが、親になったアキラに語る次のような言葉を物語の最終部で読めたからだ。
 
 「親が子どもにしてやらんといけんことは、たった一つしかありゃあせんのよ」
 「・・なに?」
 「子どもに寂しい思いをさせるな」
 海になれ。
 遠い昔、海雲和尚に言われたのだ。
 子どもの悲しさを呑み込み、子どもの寂しさを呑み込む、海になれ。
 なれたかどうかは分からない。それでも、その言葉を忘れたことはない。
 
 そんな懐の深い親にはまだなれていない。たぶんこの先もなれないだろうが、なれたらいいなと思う・・。
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いちご

 今週はほとんど毎日いちごを食べている。しかも毎日違う種類を。きっかけはこれ。


 パック入りのいちごが並んでいる横に置いてあった。「いちごにこれを掛けたらおいしいだろうな」、そう思ったら急に食べたくなってこれといちごを1パック買ってしまった。種類は「ひのしずく」。本当は「とちおとめ」にしたかったけど、そのスーパーには売っていなかったのでやむを得ず「ひのしずく」を買った。


 たっぷり練乳を掛けて食べてみた。おいしい。練乳などなくてもいちごだけで十分なほどおいしい。ほどよくすっぱさも感じられ、練乳の甘さが逆に邪魔くさくなってしまった。それほどおいしいいちごだった。
 翌日それに味をしめて今度は違うスーパーで「とちおとめ」を買ってみた。余り格好のいいいちごではなかったが、味は形で決まるものじゃない、などと思いながら食べてみた、今度は練乳を掛けないで。


 う~ん、どうだろう。みずみずしさは感じられたが、みずっぽ過ぎると言えば言えるかもしれない。これなら練乳を掛けたほうがいいなと思って、掛けてみたら、やはりその方がおいしかった。
 また翌日、「あきひめ」という種類のいちごを買ってみた。このいちごはきれいな円錐形をしていて、見た感じは一番おいしそうだ。食べてみたが、思ったほどおいしくなかった。と言うよりも味がうすい。最近の野菜や果物は昔と比べると味が淡白になったような気がするが、このいちごもそうした流れに沿った品種なのかもしれない。


 そしてまたその翌日、「さがほのか」を試した。形は「とちおとめ」と「あきひめ」の間くらいだ。で、味は?う~~ん、「ひのしずく」と「とちおとめ」の間くらいかな・・。まあまあの味だ。これなら練乳はなくてもいい。


 これだけの種類を食べてみて、いちごってこんなにみずみずしいものなのか、と驚いた。どの種類も練乳など掛けずに、まず口に入れて味わうことが大切だと思った。そうして甘さが足りないな、と思ったときだけ練乳を適度に掛けるのが一番なんだろう、きっと。
 
 いちごってやっぱりおいしいもんだなあ!!
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バンザイシステム(3)

 去年もそうだったが、今年もセンター試験が終わってからこのブログへの訪問者数が急増している。
   日付    閲覧数  訪問者数
 2009.01.22(木) 547 PV  326 IP  
 2009.01.21(水) 702 PV  371 IP
 2009.01.20(火) 509 PV  230 IP
 2009.01.19(月) 464 PV  211 IP
 2009.01.18(日) 362 PV  166 IP

 訪問者の検索ワードを見れば、その理由は一目瞭然、私が昨年・一昨年に書いた「バンザイシステム」の記事を読もうとする受験生諸君がいっせいに増えるからであろう。
 「バンザイシステム」と言うのは、河合塾のHPにアクセスし、センター試験の自己採点結果と志望校を入力すれば、瞬時に合格可能性を判定してくれる、受験生にとっては有難いと言うか恐ろしいと言うか、とにかく便利なシステムである。携帯電話からもアクセスできるから、携帯を使いこなしている現代の受験生にとっては、便利この上ないツールだと言えるだろう。
 河合塾が全国の受験生から集めた膨大な自己採点結果を元に各大学の合格ボーダーライン(合格可能性50%)を設定して、その前後を合格濃厚ライン(80%)、注意ライン(20%)とし、各受験生の得点と比べて4段階で合格可能性を判定している(アイコンで一目で分かるようになっている。大きくバンザイをしているのは80%以上、小さくバンザイをしているのは50%~80%、手を上げていないのは20%~50%、泣き顔になっているのは20%以下・・)ので、果たしてどれだけの信用していいものか分からずか、また二次の出願に役立つような情報を少しでも得たいがために、私のブログのようなところにまで多くの受験生が殺到するのだろう。
 
 私の塾でも毎年このバンザイシステムを利用して生徒にアドバイスをしているので、このシステムの信頼度はかなり高いと実感している。確かに、2次試験がありセンターで失敗しても強気で行って2次で逆転できる可能性はある。しかし、それはかなり低い確率、もしくはいくつもの条件をクリアーした受験生にしか可能ではない、とほぼ断言できるように思う。それはなぜか、わが塾で学んでいる一人の塾生・D君を例に取ってみよう。
 彼は小学校の低学年から塾に通っていて、私が手塩にかけて(と言っては大袈裟だが・・)鍛えてきた秘蔵っ子であるため、900点満点で771点とかなりの点を取ってくれた。地元名古屋大学の農学部への進学を考えているため、バンザイシステムで判定してみたところ、濃厚ラインを上回った点数となり、両手を大きく上げてバンザイをしたアイコンが輝いていた。彼にとってはこれでほぼ合格できる目安が立ったため、私ともどもかなり喜んでいるが、実は彼の密かな第一志望は岐阜大の獣医学科であり、センターの結果がよければ挑戦してみたいという思いを持っていたようだ。だが、判定を見ると小さなバンザイをしているだけで、少しばかり心配だ。こういう場合に大切なのは、センターと二次試験の配点の割合だが、名大は900:1400、岐大は950:400となっていて、試験科目は名大が英・数・理、岐大は数・理となっている。これだけ見ると名大の方が二次のウエイトが高いため、いくらバンザイをしていてもそうは間単に合格できないように思えるが、そんなに簡単なものではない。こうした判定を見て志望校を決めるのが現代の大学受験なので、思わぬ点が取れた生徒は志望校のランクを上げたり、ボーダーライン近くの生徒がランクを下げたり、まるで目に見えぬ力に導かれでもするように、センターの結果をそのまま反映した序列が出来上がって、二次での逆転がなかなか簡単にはいかないようになってしまう。不思議ではあるが、「大学の志望校はコンピュータが決めてくれるよ」と常々私が高校生に話しているように、まさにコンピュータが目に見えぬ手の役割を担って、かなり整然とした分布図のようなのが出来上がってしまうのだ。
 それに二次試験は、私立の中高一貫校で厳しく勉強させられてきた生徒の方がやはり強い。そうした私立高では高校2年までに高校で学ぶべきことを学習し終え、3年生は丸々受験勉強に費やすことができる。その点、いくら優秀な生徒であると言っても、Dくんは公立高校の生徒であり、3年の二学期まで教科書の勉強をしていたものだから、センター対策が精一杯で、2次試験用の勉強は余り進んでいないのが現状だ。そんな彼がボーダーラインぎりぎりのところで、踏ん張りきれるかどうかはかなり心配だ。それに一年間ずっと勉強に励んできた浪人生もいる。私は正直に彼にそうアドバイスしたし、彼自身も不安を感じているようだったので、結局は名大に出願することになりそうだ。
 
 いずれにせよ、センターが終わったばかりで、いくら結果がよかったと言っても、まだ合格したわけではない。気をいっそう引き締めて最後まで全力を尽くして是非とも栄冠を勝ち取ってもらいたいと願っている。


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「チェ 28歳の革命」

 チェ・ゲバラについてかつて記事を書いたことがある。と言っても、ほとんどが引用文で、ゲバラの人となりを大まかになぞったに過ぎない。そんな私がゲバラの映画が公開されると知ったのは昨年末のことだった。公開されたら必ず見に行こうとその時決めたのだが、それをやっと昨日果たせた。「チェ 28歳の革命」と題されたその映画は今月末に公開予定の「チェ 39歳別れの手紙」との2部作であり、ドキュメンタリータッチなのだろうが、それだけではない深さを持った映画だった。
 私は「革命」という言葉に酔いしれた世代ではない。その言葉にさほどのシンパシーを感じることのない世代の人間であり、ゲバラが何をどう考えていたか詳しくは知らない。純粋な意味で共産主義国家と呼べるのはキューバくらいしか思い浮かばない現代に生きる一人の人間として、なぜ今武力革命の道を突き進んだゲバラを映画化せねばならないのか、はっきり言って分からなかった。確かに新自由主義により、世界各地で貧富の差が強まり、政治状況が悪化している現代ではあるが、かと言って、武力によって政府を倒さねばならないという理論が広く受け入れられるような政治状況でもないだろう。ゲバラの行動がかつてより理解しやすい状況になった言われればそうかもしれないが、あえて声高にそれを唱える必要もないと思う。なのに、何故・・。
 もちろん、ゲバラの短い生涯をつぶさに知りたいと思ったことがこの映画を見たいと思った一番の動機だが、それと同じくらい、何故今ゲバラなのか、それを実際に映画を見て知りたいと思ったのだ。
 
 「28歳の革命」はキューバ革命が成功するまでの道程を主として描いている。ゲバラが1964年に国連で行った演説の模様も挿入されていて、アルゼンチン人であるゲバラがキューバ革命を通じて、革命家・闘争家として自己を確立していく過程が丹念に描かれている。時々アメリカで行われたインタビューのコメントも流され、まるでゲバラの肉声を聞いているような気さえした。それほど、主演のベニチオ・デル・トロはまるでゲバラだ。いや私の中のゲバラ像とぴったりの人物だと言ったほうがいいのかもしれない。喘息に苦しみながらも多くの部下を率いて山中を行軍するゲバラ、時には厳しく軍の規律を守りながらも若い兵士と真摯に語り合うゲバラ、激しい銃撃戦にもひるむことなく先頭に立って攻撃するゲバラ、歓喜する民衆に応えながら満面笑みをたたえて制圧した都市へ進駐するゲバラ・・、どのシーンを取っても生きたゲバラを目にしているような印象を与えてくれる。それほど見事にゲバラを演じているデル・トロの力量は特筆ものだが、私は時折見せるやさしい顔が本当に素敵な役者だと思った。

 そうした印象深いシーンはいくつもあったが、私がこの映画でもっとも感銘を受けたのはインタビューに答える場面である。「革命家に必要なものは何か?」と尋ねるインタビュアーにゲバラは「愛だ」と答える。「Love?」と聞き返すインタビュアーに「人間への愛、正義への愛、真実への愛だ」と答えるゲバラに、私はこの映画の製作意図が隠されているように感じた。革命家に愛など不釣合いなもののように思えなくもないが、愛に拠らない行動など決して誰の支持も受けられない。人類の歴史を鑑みた時、愛の敷衍していない社会は悲しく辛い。どれだけ甘い男だと謗られようが、愛に貫かれた行動でない限りは決して他者には受け入れられないと私は思っている。憎しみを超克した愛によってしか、平和と幸福は我々に訪れることはないだろう、そんなメッセージを私はこの映画から受け取ったように思う。
 革命など流行らない今の時代、「革命家」を「為政者」と読み直したほうがよりこの言葉の持つ意味がはっきりするかもしれない。「為政者に必要なものは、人間への愛、正義への愛、真実への愛だ」--オバマが第44代アメリカ大統領に就任した日だっただけにより重い意味を私が感じたのかもしれないが、国民の安寧を図るために粉骨砕身する覚悟を表明した彼が、これから決して忘れてならない原則がこの愛ではないのだろうか。

 私はエンドロールを見ながらなぜか涙が止まらなかった。それは愛を心に持ち続けながら常に闘争の中に身をゆだねたゲバラの最期を悼む涙だったようにも感じるが、その理由を知るためにも「チェ38歳 別れの手紙」は必ず見ようと思っている。
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