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シートベルト

 水曜日のことだ。
 信号が青に変わってゆっくりと走り出したら、交差点の角に背広姿の男性が椅子に腰掛けているのを見つけた。「交通量調査かな?」と、かつて大学生の頃一度だけやったことのあるアルバイトを思い出しながら、近づいて行った。すると、その男性はやおら立ち上がり何か手で合図をした。「えっ?」と思った瞬間に、制服姿の警官が飛び出してきて、赤地に「止まれ」と白抜きされた旗で私を制止しようとした。「シートベルト?」と気づいたときにはもう遅く、路傍に停めたバスに近寄って来た警官に「シートベルトですよね」と苦笑いするしかなかった。
「困ったなあ、生徒を迎えに行くところなんです。免許証だけ置いていくってわけには行きませんか?」と、無理を承知でたずねてみた。
「それは無理です。急いで手続きしますから・・。余計な時間がかかってしまいますから、シートベルトを忘れないようにしてください」
「そうですよね、うっかりしてました」
「それとですね、6月から道路交通法が変わって、後部座席に乗る人もシートベルトを着用しなければならなくなります」
「ええ、知ってます。バス座席も全てですよね」
「はい、そうです。でも、バスの場合、後部座席の人がシートベルトを着用してなくても注意をするだけで、罰則は科せられません」
「そうですか・・。シートベルトをしてないと罰金ですか?」
「いいえ、減点です」
「えっ、罰金の方がいいなあ。どちらがいいか、選択できないんですか?」
「そんなことはできません。減点と決まっています」
「そうですか・・」
せっかくのゴールド免許もこれでサヨナラだ。ちょっとがっかりし始めたら、警察車両に乗り込めと言われた。バスに乗っている生徒に、「ごめんね。すぐに終わるらしいから、ちょっと待ってて」
と言い置いて警察のミニバンに乗った。
 若い警官に免許証を渡すと、一枚の書類にこまごましたことを書き込み始めた。私はシートベルトをするのをよく忘れてしまう。車に乗り込んで最初にすべきことはシートベルトの着用であるのは分かっているが、免許証を取った時にはシートベルト着用が義務化されていなかったものだから、その習慣がどうしても身につかない。車を運転しながら、はっとして慌ててカチッとシートベルトをすることもあるが、最後まで忘れたままでいることもある。こんなことを書くとどこからかお叱りの声が聞こえてきそうだが、今回のことを契機に「二度とシートベルトの着用を忘れないようにする」と心に誓ったから、過去のことはリセットしてもらおう。(虫が良すぎるか・・)
 
 結局、10分ほど手続きにかかってしまい、バスに乗っている生徒にも、バスを待っている生徒にも迷惑を掛けてしまった。全て私の不注意のせいであるから、生徒一人一人に謝った。「シートベルトなんか・・」という油断が大きな事故につながらないとも限らない。車の運転は、万が一のことを考えて絶えず集中することが何より大切だ。己にもっと厳しくなり、ますます安全運転に心掛けなければならない。
 さらに、バスに乗る生徒にもシートベルトをするよう指導していかなければならない。今まで碌に使ったことがないから、シートベルトのセットの仕方が分からない生徒も多いだろうし、シートベルト自体も座席の下に落ちてしまっているところもある。小さな生徒もいるし、面倒くさがる生徒もいるだろう。全員に徹底させるにはなかなか骨が折れそうだが、安全に送迎するためにはそうした努力を怠ってはならない。
 今回のことが、安全運転の大敵である「不注意」「油断」を、己の中から駆逐するためのよい反省材料となるのなら、ゴールド免許をパーにしてしまったことぐらいでクヨクヨしていられ・な・・い・・・。
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「山のあなた」

 「山のあなた 徳市の恋」を見た。草剛が盲人の按摩役を演じるこの映画のことは、妻から漏れ聞いてだいぶ前から知っていた。しかし、その内容はほとんど知らなかった。ただ草剛が何度も昔の映画を見せられて、その通りに演じるように言われたことだけは映画館に向かう車の中で妻に教えてもらった。この前の日曜日に「瞼の母」を見てきた妻が、「前から3列目だからよく見えたけど、やっぱり剛はかっこいい!!」と興奮気味に話したので、「それじゃあ、映画も見に行こう」ということになった。妻は「一緒に見に行っても、どうせ文句しか言わないからいやだな・・」とブツブツ言っていたが、「そんなの見てみなきゃ分からないよ」と言い切って出掛けることになった。なんでも、この映画は1000円で見られるようで、「どうして?」とたずねた私に、「心をほっと癒してくれる映画ができたからたくさんの人に見てもらいたくて1000円にしたんだって」と妻はすぐに答えた。本当にSMAP関係のことは何でも知っている。映画の内容も尋ねたら教えてくれそうだったが、それではつまらないので、これ以上のことは聞かずにスクリーンに向かった。
 あらすじは次のようだ。

「山間の温泉地に徳市と福市という目の不自由な按摩がやってくる。彼らの楽しみは山道での目明きの人間を追い抜くこと。ある日徳市は、東京から来た美千穂という女を担当し、彼女の謎めいた佇まいに淡い恋心を覚える。翌日も美千穂に頼まれ、徳市が宿を訪ねると、宿では奇妙な盗難事件が起こっていた。そして物語は意外な方向へ…」


 
 前半は展開がだるくて眠くなってきた・・。館内のエアコンがきつくて寒いし、後ろの方でぺちゃくちゃ話をしているおばさんたちはうるさいし、映画に集中できなくて席を立ちたくもなったが、そんなことをしたら妻に叱られてしまう。何とか我慢しながら見ていたら、少しずつテンポがよくなってきた。いくら昔ののんびりした温泉場を舞台に描いた物語でも、これではちょっとつまらないな・・などと感じているうちに、映画は終わってしまった。外に出て、「草の按摩の演技がオーバーすぎたよね」と妻に言ったところ、「仕方ないじゃん、そうやれって言われたんだから。言われた通りにやったらああなったんでしょ」とぶっきらぼうに答えた。「ふ~ん、そうか。それ以外はまあまあよかったんじゃないの?」「そうかなあ・・」「草はどんな役でも、ある程度まではできるん力はもうあるみたいだね。ただそれ以上のものを望んだりすると、あれこれ文句も言いたくなるんだろうけど」「まあねえ・・」
 ご飯を食べた後で、妻が買ったパンフレットを見せてもらった。すると、この映画は名匠・清水宏監督が70年前に発表した「按摩と女」を、石井克人という映画監督が完全カヴァーしたものだと書いてあった。「リメイク」ではなく、「カヴァー」だと強調してあったのに興味が引かれた。昔の楽曲を「カヴァー」したというのはよく聞くが、映画を「カヴァー」したというのは初め目にした。要するに「按摩と女」を、出演者が違うだけでそっくりそのまま再現したかったということなのだろう。妻はこのことを知っていたようで、盛んに「何がしたかったのかよく分からない」と首をひねっていたが、私がこの映画に感じた「だるさ」もその辺りにあったのかもしれない。70年前の白黒の映画なら、そういうものとして見るだろうから、現代に生きる私との感覚の「ずれ」も、時代の違いだと思って納得できる。だが、あえて昔のままの演出そのままを現代のきれいなスクリーン上で見せられると、「ずれ」が鮮明になってしまい、どこか違和感を感じずにはいられなくなるような気がする。やはり、昔の主題はそのままにしながらも、少しは現代風なアレンジや解釈を加えた「リメイク」という手法をとっていたら、この映画ももう少し楽しめたかな、と思った。
 
 それでも、そんなことなど気にせず、映像の端々に映し出される日本の美しい原風景を1000円で楽しむつもりなら、見てもいい映画かなと思わないでもない。
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本当にイヤだ!!

 6月からさらにガソリンが10円程度値上がりするようだ。これでレギュラー1ℓあたり170円を越えるようになる・・。もう溜息しか出ない。暫定税率がかけられなかった4月のガソリンスタンドからの請求書は、「本当にこれだけ?」と思わず言ってしまったほど安かった。もちろん暖かくなって、石油ストーブ用の灯油を買う必要がなくなったこともあるが、それでもやはりガソリンで1ℓ25円安いというのはかなりの恩恵だった。一般家庭ではさほどでもなかったかもしれないが、自動車がなくては仕事ができない事業所などでは、安いガソリンの有難さを噛み締めたことだろう。それなのに無慈悲な政府与党は、自分たちの既得権益を守らんがために暫定税率を強行に復活させてしまった・・・、などと今更繰り返したところで腹が立つだけだからやめよう。
 しかし、今の原油高はどう考えてもおかしい。産油国からの原油供給は安定しているというから、かつてのオイルショックのように原油不足が懸念されての高騰ではなさそうだ。いくら経済音痴の私でも、ここまで高騰し続けるとその原因らしきものを探らずにはいられない。以下に私なりに調べ、解釈した原油高の構造を示してみたいと思う。

 中国をはじめとした新興国や米国の需要増加により、原油価格が上昇したという見方もあったが、今ではサブプライムローン問題で行き場のなくなった投機マネーが流れ込んだという説がもっぱらだ。
 「サブプライムローン(アメリカの低所得者向け住宅ローン)問題の焦げ付きで、大手金融機関はサブプライムローン関連商品から撤退した。もともと高金利と格付け会社の過大評価によって投機の対象となってサブプライムローンが急速に破綻し始めると、金融機関はこぞって資金を引き上げた。しかし、顧客から預かったお金を遊ばせておくわけにもいかず、今稼ぎやすい市場である石油市場に投資資金を投入したため、石油市場で買い注文が増え、原油価格が高騰した」
などと簡単にまとめるのは無謀であろうが、原油高の大まかな仕組みは大体こんな感じだろう。
 アメリカの石油先物取引市場で、原油が1バレル当たり130ドルを越えたと新聞で報道されていたが、先物取引なるものの仕組みがよく分からない私には、ただただPCの画面の数字を個人の思惑、利益のために操作しているだけのようにしか思えない。政府が発表した'07版エネルギー白書では現状の原油価格について「50-60ドルが需給バランスで決まり、それ以外が投機・投資マネーの流入や地政学リスクに起因する」と指摘しているようだ。でも、どうしてそこまで分かっているのなら、何か対策を講じようとしないのか。もちろん日本一国で有効な手立てを打てるはずもない。世界各国が一致団結して問題にあたらなければ、何の解決にもならないだろう。それなのに、現今では各国が有効な対策を何も打ち出していないように思える。なぜだろう?何も考え付かないのか?それとも、原油高で大儲けをしている一部の人たち(必ずいるに決まっている)に遠慮でもしているのだろうか。私には、それが不思議でたまらない。
 日本で株取引の操作で巨大な富を得た一部勢力が司法の場で裁かれたのは、まだまだ記憶に新しい。そうした錬金術に長けた、もっと巨大な勢力が石油市場を席巻して、今のガソリン価格の高騰をもたらしているのだろうか。そんなわずかな人々がゲーム感覚で世界経済を牛耳っているとしたなら、憤りを通り越して悲しみすら湧いてくる。お金さえ儲かれば何をやってもいいというのか・・。
 
 私は、6月の値上げを知って以来、今月中に自動車のガソリンを満タンにしておこうと、少しでも安いスタンドを探して給油し始めている。深夜12時過ぎに行くと2円割引があるセルフスタンドで、塾が終わって疲れた体を引きずって給油していると、無性に惨めな気持ちになる。こんな努力をしても、すぐにまた値上げされてしまえば虚しさを感じるだけだ。それでも、バスを動かさねばならないし、そのためにはどんなに高いガソリンでも買わなくちゃいけない。ひょっとしたら、今年中に1ℓ200円を越えるとの観測もあるようだが、もしそうなったらいったいどうすればいいのか。
 考えれば考えるほどイヤになる話だ・・。
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獣医にて

「ベンケイ君、どこか変わったところはないですか?」
「ええ、元気だと思います」
「はい、それなら狂犬病の予防注射を打ちましょう。その前に体重を量りましょうか。・・・はい、31kgですね・・、あれ、去年よりも2kg減ってるなあ・・」
「そうですか・・、少し前に太ってきたんで、ご飯を少し減らすようにはしてたんですが」
「ベンケイ君は'97年生まれですからもう10才を越えましたね」
「そうか・・、そうですよね。相変わらず元気なんで何才かなんて忘れていました」
「11才ですね。私が知ってる範囲で、秋田犬の寿命はだいたい10才くらいです。中には12、3才まで生きるものもいるようですけど、珍しいですね。大型犬の寿命はだいぶ伸びてきましたが、それでも10才くらいが平均かなと思います」
「えーっ、そうなんですか・・。全然知りませんでした、寿命なんて考えたこともなかったし・・。ちょっとびっくりしました」
「ベンケイ君を今こうやって見て気づくのは、睾丸が大きいことです。これは精巣に腫瘍ができているからかもしれません。精巣の腫瘍が前立腺にまで転移すると、前立腺肥大になり、尿の出が悪くなります」
「うーん、人間と同じですね・・」
「そうです。尿が出なくなると、まさに地獄の苦しみを味わうようになり、周りの者はとても見ていられません。そういう場合には、安楽死という選択もあります・・」
「そこまで考えなくちゃいけませんか?」
「もちろん今すぐっていう訳ではないですし、必ずそうなると決まっているわけでもありません。あくまで仮定の話です」
「もうそろそろそういう年齢だということだけは覚悟しておけってことですね」
「はい、そうです」

 先日、我が家の愛犬弁慶の予防注射とフィラリア予防の薬をもらいに行った獣医で思いもかけぬことを言われてしまった。毎日接していて、以前と変わらず元気な様子である弁慶に老いが忍び寄っているなどと考えたことはなかった。考えてみれば10才を越えている弁慶であるから、そろそろケアしてやらなくちゃいけない年齢であるのは明らかなのに、弁慶はいつまでも元気な犬のままであると勝手に思い込んでいた。獣医の話に寄れば、11才というのは秋田犬としては長生きの部類に入るようだが、老犬などという雰囲気はまるでない。今までと同じように、見知らぬ人が通ればワンワン吠え立てるし、散歩に連れ出しても軽快に走っていく。ただちょっと以前のような持久力はなくなったかな、と感じなくもないが、それでも目に見えて衰えてきたなどとは全く思ったこともない。私が迂闊であったのかもしれないが、弁慶に老化の兆しを見つけたことなどなかっただけに、獣医の話は衝撃的だった。
 「よくて後2・3年しか生きられないのか・・」
とても信じられないが、生き物それぞれに与えられた時間は限られているのだから、こればかりはどうしようもない。こうやって他人事のように構えている私自身さえ、命の蝋燭の残りはかなり少なくなっているはずだ。ただそれに気づかないだけで、今こうやっている間にも刻一刻と蝋燭は燃え続けている。悲しいかな、それを止めることは誰にもできない・・。
 弁慶と私のどちらの命が先に尽きるのかも分かったものじゃない。だからこそ、今この一瞬一瞬を大切に生きていって、少しでも悔いを残さぬようにしてかねばならない。そのためには、自分に何ができるかなどと考えるより、己のしたいことをどんどんやっていくようにするしかないだろう。
 
 とりあえず、弁慶と散歩に行く時間を増やすようにしようではないか。
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ちゃんぽん

 日曜日、妻が前日から東京へ草剛の舞台「瞼の母」を観に行って不在だったため(なかなかよかったらしい・・)、私が夕食を作った。と言っても、自力で作れるはずもないので、長崎へ修学旅行に行ってきた中学生がお土産に買ってきてくれた「長崎ちゃんぽん」を作ることにした。

 

 二人分入っていたので私と父が食べるのにちょうどいい。麺を茹でてスープとともに煮立てれば出来上がるようだ。滅多に台所に立つことのない私でも、これくらいなら簡単にできそうだ。それでも、勘で作って失敗してもイヤなので箱の裏面に書いてある「作り方」通りに進めて行った。

 ①ちゃんぽん麺は半生ですので、あらかじめ沸騰したお湯に入れ4~5分間程度ゆでます。

 
②ゆで上がった麺を必ず水洗いしてぬめりをとって下さい。


ここが一番面白かった。水を流しながらせっせと洗っていくうちに、麺に芯が通っていくのが分かった。始めはくたっとしていた麺が水洗いするうちにしゃきっとしてきて、さぞや食べ心地がいいだろうと期待した。

 ③水洗いした麺とちゃんぽんの具の中身を一緒に鍋に入れ、ひと煮立ちさせると出来上がりです。どんぶりに盛り付けてお召し上がりください。
 ※お好みで、コショウ等を加えると一層美味しくお召し上がれます。

 


完成!!
 

 早速食べてみた。麺は思ったとおりコシがあって、歯ごたえもよく美味しい。だが、肝心のスープはあっさりしすぎていて味わいがなく、具材も小さくて何を食べているのかよく分からなかった。父に感想を聞くと「あんまりうまくないな・・」と顔をしかめた。私も同意見だった。楽しみにしていただけにちょっと残念だった・・。だが、作り方の説明の下に、「ちょっと一工夫」として、
「ご家庭の野菜<キャベツ・玉ネギ(多め)>を乱切りにし、鍋にラード(油)をひき強火で軽く炒めて下さい。その野菜にゆで上がったちゃんぽん麺とスープ具材を加えて、ひと煮立ちさせるとより一層美味しくお召し上がりいただけます」
とあった。なるほど、そうやって作ればきっと何倍も美味しいものができただろう。だが、如何せん私にはそんな腕がない。キャベツや玉ネギがどこにあるのかさえ知らないのだから、どうしようもない。
 二度と食べることはないちゃんぽんかもしれないが、もしもう一度食べるチャンスがあったら、是非とも自分なりに一工夫加えてみたいと思っている。
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琴欧洲(3)

 ワッハッハ~~~~~!!!!!!!
 琴欧洲優勝で大相撲5月場所は終了した。中日終了時点で琴欧洲の優勝を予見するような記事を書いた私としては、恐悦至極の結果であるが、琴欧洲の素質を考えてみればそれほど自賛するほどのことではない。大関昇進までは最短記録を数々塗り替えてきた琴欧洲にしてみれば遅きに失した感のある優勝だ。


 琴欧洲の表彰式でのインタビューはたどたどしい日本語ながら初優勝した喜びを表したものとして好印象を受けた。それなのに、
「満面笑みで雄叫びをあげる琴欧洲の優勝インタビューも、見方によっては見苦しかった。14場所連続して外国出身力士の優勝。喜びの表現方法が違うのはわかる。だが「秘すれば花」は、力士が持たねばならない神髄ではないのか」(毎日JP)
という見解があるのには驚いた。どうしてそこまで己の感情を押し隠す必要があるのか。千秋楽で勝ち越しを決めた力士や、三賞を受賞した力士が何人かいたが、通路や控えで喜びをあらわにする力士も多かった。その映像を見ながら、彼らの喜びが私にも伝わってきて、喜びを共有できた思いがして随分嬉しかった。そうした素直な気持ちを表現して何が悪いのだろう。「秘すれば花」などという日本的な美学も分からないではない。確かに大げさな感情表現は、昔ながらの日本的な感覚にすればふさわしくないかもしれない。だが、嬉しいときには嬉しさを素直に表すことをなぜ許してはいけないのだろう。
 
 そうは言っても、結びの一番で両横綱が土俵上で示した態度には私も憤慨した。その場面を再現すれば次のようだ。
 立会い厳しく突っ込んだ朝青龍の引きに白鵬があっさり土俵に両手をついて勝負は決まった。しかし、その白鵬を朝青龍が両手で突き放すようにダメ押しをした。それに応えるかのように、白鵬も起き上がりざまに右肩で相手の胸を突き返した。瞬間、横綱同士が土俵中央でにらみ合う。


 私も長い間相撲を見てきたが、勝負の付いた横綱同士が土俵上でにらみ合うなどというのは見たことがない。「自分の出足もあるから」と勢いが余ったと朝青龍は言い、白鵬は「(朝青龍が)先に仕掛けた」と終始憤然としていたというが、これこそ指弾されるべき態度ではないだろうか。相撲には勢いというものがあり、ダメを押さざるを得ない場合もあるだろう。しかし、それもお互い様のことで、自分がそうされたと言っても激昂するのは余りに短絡過ぎる。喧嘩両成敗というものの、実況を見ていた私には、白鵬が必要以上に反応したようにしか思えなかった。両横綱ともけがなどで白星が伸びずにイライラが募った場所だったには違いないが、こういうときこそ横綱としての「品格」が問われる。そういう観点から言えば、残念ながら両横綱ともまだまだ名横綱の域には達していないのは明らかだ。

 さあ、来場所は琴欧洲の綱とり場所だ。なにせ、カド番大関からの優勝だけに来場所での横綱昇進には否定的な見解が多いが、今場所のように安定した力強い相撲を続けさえすれば、自ずと結果は現れる。そのためには、13日目の安美錦戦に見せた精神的弱さを克服することが最大の課題だ。私としては、今場所の成績を自信にかえて、来場所で横綱昇進を決められるよう、応援するばかりだ。
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サザン

 サザンオールスターズが無期限の活動休止を発表した。このブログで何度か書いたことがあるように、私はサザンのファンだ。いくら近年は彼らの曲を聴くことが少なくなったとは言え、こうした発表を聞いて何も反応しないわけにはいかない。ファンの印を残そうというつもりはないが、少しばかり思ったことを書き留めておこうと思う。
 サザンは、今年でデビュー30周年になるから、私が大学生だった頃からの付き合いということになる。とは言え、彼らが出すアルバムを忘れずに買っていたのは1990年に発表された9番目のアルバム「Southern All Stars」までだったように思う。私がサザンの曲を車の中で絶えず聴いていたのもその頃までかもしれない。それ以後は、売れるのを狙ったような曲が多くて、なかなか聞く気が起こらなかった。あの、300万枚を売り上げたといわれる「TSUNAMI」なども、まともに最後まで聞いたことは一度もない。「サザンは初期の曲がいいよ」などと聞いた風な口をきくつもりはないが、サザンが世に出た頃のサウンドが余りに強烈な印象を私に与えたので、いつまでたってもその呪縛から抜け出せないのかもしれない。
 だが、「歌は世につれ世は歌につれ」という名言が示すように、歌は時代を映す鏡であろう。その時代の空気を的確に表現した歌は聴く者の心をかきむしる。時代の空気という曖昧模糊としたものを敏感に感じ取ることができるのは若い世代だ。私がずっと買い続けているディアゴスティーニの「青春のうた」に収められている曲は、そのほとんどが当時若者だった者が作り、歌ったものばかりある。時代の流れを体現する若者たちが作った歌を、多くの若者たちが聴いて心を震わせる、そうしたことを繰り返してきたのが音楽の歴史ではないだろうか。
 勿論年長者がマーケッティング調査をした上で若者向けに作った曲もあるだろうが、そんな恣意的な曲は早晩消えていってしまう。そういう意味では、「TSUNAMI」のヒットは長年売れる曲作りを続けてきた桑田佳祐のすごさを物語るものと言えるだろう。昔からのサザンファンのうち、どれだけがこの曲を支持したのか分からないが、サザンを知らぬ世代に訴えかける何かが「TSUNAMI」の中にはきっとあったのだろう。残念なことに、それを私は感じ取れないが・・。
 30周年を記念して、サザンとしては久しぶりのシングルが夏に発売されるという。果たしてどんな曲なのだろう、楽しみだ・・。とは書いたものの、正直言えば、さほどではない。たとえどんなに素敵な曲であっても、もう私の心に深く響くことはないような気がする。サザンという名で発表される曲は、どうしたって今まで彼らが長年培ってきたものから逸脱することはできないだろう。それはビッグバンドになってしまったサザンの宿命のようなもので、多くのファンの期待を裏切るわけには行かない。ひょっとしたら、今回の活動休止宣言も、こうした足枷からもういい加減に脱け出したい、もっと自由な発想ができるようになりたい、そうした思いが募った結果なのではないだろうか。勝手にそんな妄想を膨らませている・・。

 昔を懐かしむつもりもないし、美化するつもりもない。でも、サザンがまだ若かった頃の曲はやはり素晴らしい。「Ya Ya (あの時代<とき>を忘れない)」が私にとってサザンのベストであるが、その他にも好きな初期の曲はいくらでも挙げることができる。その中でも、サザンの30周年を私なりにお祝いするつもりで、「シャ・ラ・ラ」の映像を YouTube から載せておく。 初期のサザンのコンサートツアーではラストを飾る重要なレパートリーとされたらしいが、桑田と原由子のデュエットが泣かせる。そういえば、ドラマ「ふぞろいの林檎たち」の中でもよく流れていた。印象深い一曲だ。

   何するにせよ そっと耳元で語ろう
   例えば言葉が無くても心は 
   不思議な期待などもてるこのごろ
   Let me try to be back to this place anyday
   Let me try to be back to this place anyday
 



   
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この花何の花気になる花

春になってから、やたら草花が私に訴えかける。
「写真を撮ってよ、写真をブログに載せてよ」
本当だよ、嘘じゃない。
最近では車道の横に黄色い花がいっぱい咲いている。
何の花だろう?
名前も知らない花が私を見つめる。
「写真を撮ってよ、写真をブログに載せてよ」
分かった、分かった、私はカメラ片手に車を降りる。

  

きれいだ、こんなに排気ガスを吸っても元気に咲いていられるんだから、強い花にちがいない。 
でも、何という花なんだろう・・・。
新谷和江の詩が浮かんでくる。

  わたしを名付けないで
  娘という名 妻という名
  重々しい母という名でしつらえた座に
  坐りきりにさせないでください わたしは風
  りんごの木と
  泉のありかを知っている風          「わたしを束ねないで」

でもね、やっぱり名前が分からないと落ち着かない。
第一、人に話せないじゃない。
「ほら、あの道路わきに今盛んに咲いている、オレンジ色の花びらの付いた花・・」
などと言っていては、面倒で仕方がない。
言われた方だって要領を得なくて困ってしまう。
で、やっぱり調べてみた、「季節の花 300」というサイトで。
5月に咲いている黄色い花の名前は・・・。

「金鶏菊」

本当にそうなのかちょっと自信がない。
「きんけいぎく」という音が、なんだか軽やかな感じのする花びらには似合わない気がして・・。

さらに、
  ・北アメリカ原産。明治時代に渡来。
  ・美しい花の色、姿、大きさなどから「金鶏(体の黄色い鳥)」を想像して命名された。
  ・別名「コレオプシス」。

同じように外来種で、同じような花びらの形をしたコスモスには壮大な名前がつけられているし、和名も「秋桜」と詩的だ、それなのに・・。

「きんけいぎく、きんけいぎく、きんけいぎく・・」と呪文のように唱えていれば慣れるだろうか。
う~~~ん、ダメだ・・・。
「鶏」が入っているからやっぱり気持ち悪い。
「鶏頭」って花もなんだか嫌いだし・・。

鶏はいやだな。
どうしてもいやだ・・。
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「パンドラ」

 WOWOW初の連続ドラマとして放送されている「パンドラ」が今度の日曜・25日で最終回を迎える。私は妻が録画したものを1回目から見ているが、地上波のジャニーズ系をとっかえひっかえして作る安手のドラマとは比べ物にならないほど、ストーリーはしっかりしているし、実力を持った役者ばかりが出演しているので、実に見応えのあるドラマとなっている。
 ストーリーは、三上博扮する鈴木医師が18年の歳月をかけてたった一人で開発したがん治療薬「パンドラ」をめぐって、様々な人間が自分の思惑・欲望にしたがって右往左往する有様をリアルに描いている。「ヒトデの中にある抗がん物質を抽出し、それを人間の風邪のウイルスに注入して、全身を巡らせることによってがん細胞を死滅させる」という人類待望の新薬を開発した鈴木医師の周りには、地位や名誉や金銭欲に駆られた者たちが、その新薬を我が物にせんと集まる。それは、まるでパンドラの箱を開けたときのように、人間の想像しうる災厄が一斉に彼を襲ってくる。最初はただひたすら己の研究の成就に全霊を傾けていた鈴木医師が、欲望むき出しの周りの人間に煽られて、今まで己をないがしろにしてきた者たちへ鬱憤晴らしをしていくようになる変化を、三上博が鬼気迫る形相で演じたのには驚いた。人間は状況に応じて如何様にも変わるものだ、そんな思いを深くした。
 新薬開発の周辺で発生した犯罪調査に携わる刑事役の柳葉敏郎も、冴えない風貌ながらも悪を見逃さない確固とした信念を持った役どころを、地味ながら好演している。従来のピシッとしたイメージから外れているが、渋さが滲み出始めたギバちゃんもなかなかいい。
 他にも医薬関係の新聞記者役の山本耕史、医学部長役の國村隼、病院理事役の平田満、厚生労働大臣役の小野武彦など、誰もが重厚な演技をしていて、どの場面をとっても見応えがある。席を立つのもままならないほどの緊張した場面の連続で、1時間の放送時間があっという間に過ぎてしまう。久しぶりに次回の放送が待ち遠しくなるドラマだ。
 見所満載のこのドラマの中でも、私が今一番注目しているのは、官房副長官役で出演している女優・余貴美子だ。第4話からの登場だが、元アナウンサーで総理大臣の側近という役どころは元防衛大臣・小池百合子女史を連想させ、野心あふれたいやらしさを好演している。


 彼女は、NHKの大河ドラマ「篤姫」に島津斉彬の正室・英姫として出演していた。顔の痘痕を隠すために目から下を薄絹で覆っていたため、余美貴子の顔はよく分からなかったが、その独特な台詞回しと目の力強さは、私の印象に強く残った。それまで、彼女の名前は知っていたが、さほど詳しくはなかったので Wikipedia で調べてみた。

 「余貴美子(よきみこ 1956年5月12日)は、日本の女優。神奈川県横浜市中区出身(東京都や神戸市にも一時期暮らしていた)。所属事務所はアルファーエージェンシー。血液型はB型。台湾出身の父と日本人の母のハーフ。趣味は民謡、三線、タップ。好物は塩むすび。范文雀はいとこ。2006年3月に2歳年下のNHK美術スタッフと結婚。

 年齢は私よりも2歳上だ。熟女という括りで語っていいものかどうか分からないが、「落ち着いた大人の女性」の魅力があふれ出ている。名前から中国系なのかなとは思っていたが、范文雀のいとこだとはまったく知らなかった。彼女が亡くなったのは2002年だからもう6年近くなる。私にとっての范文雀といえばやはり、「サインはV」でのジュン・サンダース役だが、「探偵物語」で松田優作と共演したのも忘れられない・・。

 などと思い出話にふけっているわけには行かない。日曜夜10時から「パンドラ」最終回は絶対に見落とせない。日曜は大相撲の千秋楽もあり、なかなか楽しみな一日になりそうだ。飲みすぎてTVの前で寝込んでしまわないように注意しよう! 



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「友だち地獄」

 日々、子供たちと接していて、今の子供たちを理解しがたいと思ったことは余りない。毎年塾の生徒たちとは確実に年齢が離れていっているわけだから、ジェネレーションギャップを感じるのは当たり前だ。少し以前は子供たちとうまくやっていくのに自信をなくしかけたこともあるが、今はもう、親子以上に年の離れた子供たちと同じ土俵に立つことなどできるわけないと開き直って、自分の思い通りにやっているだけなので、「今の子供たちは理解できない」などと思ったりすることは少なくなった。それでもやっぱり子供たちの肉声を絶えず聞いているのだから、彼らについて思うことは多々ある。ただそれを意識すると身動きが取れなくなってしまいそうなので、あえて知らん振りをしていることも多い。
 そんな私にとって、土井隆義著「友だち地獄」(ちくま新書)は多くの示唆に満ちた本だった。「『空気を読む』世代のサバイバル」と副題が示しているように、今の若者たちが感じている「生きづらさ」を中心にして、彼らを取り巻く時代状況を明らかにしようとしている。学校生活における子供たちの人間関係から、リストカット少女・ネット集団自殺まで、現代の若者が共有している意識を私たちに示してくれているが、さすがの私も、リストカットを繰り返す少女やネット集団自殺をするような若者たちに接したことはない。果たして本書で語られたことがある特別な若者たちに限られたことなのか、それとも若者誰もが感じていることなかは軽々に判断できないが、「多分そうなんだろうな」と思わせるだけの論が積み重ねられていて、「現代の若者たちはこんなに生きづらさを感じているのか」と思うことたびたびであった。私はこういった新書を読むときには、チェックペンを近くにおいて、「なるほど」と思う箇所には線を引くようにしているが、本書を読み終えて、全編通してやたら線が引いてあるのに気づいた。それだけ私にとっては、読み応えのある本だったということになる。

 筆者は現代の若者たちの、対立の回避を最優先にする人間関係を「優しい関係」と呼ぶ。それは、他人と積極的に関わることで相手を傷つけてしまうことを危惧すると同時に、それによって自分も傷つけられてしまうことを危惧する「優しさ」のことである。したがって彼らの間では微妙な距離感を保つことが大切であり、それができない者はKY(空気が読めない)と呼ばれて疎まれてしまい、それがいじめへとつながっていくこともある。すなわち現代のいじめ問題は「個々の自律性を確保できずに互いに依存しあわなければ自らの存在確認さえ危うい人々の人間関係から、そしてその関係自体が圧倒的な力をもってしまった病的な状態から生まれている」(P.51)のだと、作者は言う。
 こうした状況から若者が感じている「生きづらさ」は、何も現代の若者特有のものではなく、いつの時代の若者も感じていたものであるが、その内実がすこぶる変容している。作者は、自死した二人の女性、「二十歳の原点」の高野悦子と「卒業式までは死にません」の南条あやとの間の差異に注目して、「生きづらさ」がどう変わったのかを明らかにしていく。「『周囲の人びとから自立したい』という焦燥感かがもたらす高野の生きづらさは、30年という歳月を経て、周囲の人びとから『承認されたい』という焦燥感がもたらす南条の生きづらさへと変転している」という指摘は、作者と同じように高野と南条の間の世代である私にとっては、両者それぞれのメンタリティーが私自身の中に共存しているのを感じるだけに、大いに首肯してしまった。特に南条の他者に見つめてもらいたいという欲求は、現代の若者を理解する上で重要なキーワードとなる。
 現代の若者は思想・信条といった言語的・社会的な観念に対してではなく、内発的な衝動や生理的な感覚のみに依拠した脱社会的な「純粋な自分」に強い憧れを示すが、そんな自分が簡単に見つかるはずもなく、かえって自分を見失い自己肯定感を失うという事態に陥ってしまっている。そのため、人間関係に対する依存度がかつてよりも格段に高まり、具体的な他者に自分を認めてもらいたい欲求が高まっている。しかも、その時々の状況に応じて移ろいやすい気分に根拠を見出そうとする「純粋な自分」は、一貫性に乏しく断片化したものになってしまうため、他人からの自己承認は己の存在をサポートするためになくてはならないものとなる。そうした若者たちにとって、携帯電話は生きていくための羅針盤、微妙な人間関係の中での自分の位置を知るための、いわば「自己ナビゲーション」のために今や欠かすことのことのできないツールとなっている。このように、本来無限の広がりを持つはずのネットは、現代の若者たちにとって、ごく狭い世界の中での「優しい関係」を維持して行くための必須アイテムとなっているのだ。
 最後に、こうした現代の若者に向かって作者は述べている。「生きづらさを抱えながら生きることは、世界をただ漫然と生きるだけでなく、その世界に何らかの意味を求めざるをえない人間の本質である。したがって、生きづらさの放棄は、人間であることの放棄でもある。むしろ、いま何かを問うべきだとしたら、それは(中略)いかにこの生きづらさと正面から向きあい、むしろ人生の魅力の一部としてその困難をじっくり味わっていけるのか、その人間らしい知恵のあり方についてだろう」(P.228)
 要するに、「困難から決して逃げるな、困難を楽しめ」ということになるだろう、簡単にできることではないが・・。
 
 今まで読んだ新書の中でも1・2を争う名著だと思う。
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