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Pop up!

 8月30日にSMAPのコンサートがナゴヤドームで開かれた。当然のことながら、妻は娘と二人で出かけたのだが、今年はこのチケットを手に入れるのに相当苦労したようだ。名古屋公演は、30・31日の2日間行われる。例年に比べて、1・2日少ない上に、新しいファンが多くなって簡単にチケットは手に入らないだろと予想はしていた。実際には、31日のチケットは無事手に入れられたが(アリーナの10列目くらいの特上の席らしい)、30日は外れてしまい、友人知人にたずねても誰も当たらなかったそうだ。「SMAPがすぐそこにいるのに、ヲタが行かないわけには行かないでしょう」などと訳のわからぬ理屈を付けて暗躍した結果、何とか娘と自分の分、2枚をネットオークションで手に入れた。「いくらで買ったの?」とたずねた私に、「ええ、まあ、5・6倍の値段かな・・」などと曖昧な返事をしていたが、本当のところいくら払ったのかは分からない。「外れた分の返金があるからそれで買えたからいい・・」と手前味噌な言い訳で誤魔化したところで、かなりの散財には違いない。そこで文句を言っても、逆切れされるのがオチだから、「それはよかった」とお茶を濁しておくのが生活の知恵と言うものだ。

 

 前夜、塾を終えて帰宅すると、妻と娘が居間で何か作業をしていた。「何やってるんだ?」と聞かずとも一目見て分かった。「明日の用意か・・」「そう」と元気よく答えた妻はもうかなり気合が入っているようだ。4枚の団扇に「G・O・R・O」と稲垣吾郎ファンの娘が、工作など苦手だったはずなのに、色紙を貼り付けている。「これを振ってキャーキャー言うのか」と私がたずねると、「そうだよ」といつになく娘の愛想もいい。2人ともこんなに機嫌がいいのなら、毎日SMAPがコンサートをやってくれればいいのに、などとつい思ってしまったが、「じゃあ、その花は何なんだ」と買って来たばかりの造花を指してたずねたら、「『世界に一つだけの花』になったらこうやって踊るんだよ」と妻と二人で踊り始めたから、軽いめまいがして、やっぱり一年に数回行けば十分だと思いなおした。

 当日は3時過ぎに娘の運転で、ナゴヤドームに出陣して行った。グッズを買うのに並ばなけりゃいけないからと、妻は麦藁帽子をかぶって行った。家に残っていたコンサート案内の紙を見たら、グッズの値段が一覧表になっていた。ペンライト・1,300円、バスタオル・3,000円、ハンカチ・3,000円、トートバッグ・1,000円、キャップ・3,000円・・・ふーん、やっぱり高いものだ。すると、龍虎の母さんのブログで紹介されていたグッズの写真は、あれで総額いくらするんだろう。すごいなあ・・


これが私への土産に買ってきてくれたコンサートグッズだ。昨年もストラップを買ってきてくれたが、すぐに壊れてしまった。今、私の携帯にはゴジ健さんに修理していただいた、松井仕様の50円玉と5円玉のストラップが付けてある。SMAPのストラップは塾舎においてあるコードレスフォンにつけることにしよう。
 31日はアリーナだ。きっとふらふらになるまで声を張り上げるんだろうな。一緒には絶対に行きたくない。それにコンサートの雰囲気は、竜虎の母さんのブログで十分に堪能させていただいたから。
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12×2

 従兄弟の四十九日法要があった日曜、もう10日近くなるが、法要に参列した私の弟を迎えに双子の子供たちが母親と一緒にやってきた。と言っても、私は御斎でかなり酔っ払ってしまい、帰宅してから甲子園大会の決勝を見ているうちに眠ってしまって、気がついたら試合は引き分け再試合となっていた。びっくりして居眠りしていた塾の事務室から慌てて自宅に戻ってみると、双子たちが台所に座って夕飯を食べ始めたところだった。「おお、来てたのか」などと訳のわからぬ声を上げながら二人に近づいていっても、さすがに2歳を超えただけあって、わーっと泣き出すことはせずに、興味深そうに私を見ている。この子達に会う時は、ほとんどと言っていいくらい私は酔っ払っているので、きっと彼らの目には私の顔はいつも真っ赤に映っていることだろう。情けない話だが、2、3ヶ月に一度しか会う機会はなく、来たら来たで歓迎してやらねばならないから、ついつい酒宴となってしまう。弟は私とは比べものにならないくらい酒豪であるため、父と二人で日本酒を酌み交わし、私と妻がビールで座に加わる。義妹もかなり酒には強いが、こういうときには運転手とならなければならないため、我慢しているが、家に帰ったら飲むようにと、いつもビールを手土産に渡している。
 

この写真は酔っ払った私が携帯で撮ったものだが、さすがに酔いが回っていたらしくかなりブレてしまった。でも、ブログに載せるにはこれくらいの方が子供たちの顔がはっきり見えなくていいかもしれない。二人とも、7月1日の2歳の誕生日に私がプレゼントした服を着てきてくれた。姉のほうが生まれてからずっと大きいがこれでも差がだいぶ縮まったほうだ。遠近の関係もあってかなり違って見えるが、実際はこんなに違いはない。弟は運動神経がかなりいいようで、俊敏な動きをしているし、ボールを投げたり蹴ったりするのも驚くほどうまい。欲目かもしれないが、将来運動選手にするとなかなかの才能を発揮するのでは、などと思ってしまう。姉は、このワンピースがよく似合う、お嬢様風の顔立ちをしていて、サルのような顔をした弟と双子だとはとても思えない。しかし、姉のほうが弟を頼りにしているようで、いつも、「あーちゃん、あーちゃん」と弟の名前を呼んでいる。残念なことに、暴れん坊の弟の耳にはめったにその呼びかけは聞こえないようで、一人で部屋を走り回っている。
 
 「コンビ二に行こうか」と私が二人に呼びかけると、甥のほうが私に抱きついてきた。「よし、行くぞ」と掛け声を上げると、私の弟が娘を抱いて後からついてきた。甥を抱きながら、「コンビニ、コンビニ!」と私が声を上げていると、甥も「コンビニ、コンビニ」と繰り返す。私はうれしくなって「コンビニ、コンビニ」、甥も「コンビニ、コンビニ」とずっと繰り返していた。しかし、200mもそうやって歩いているうちに、次第に腕がだるくなってきた。「そういえばこいつやけに重いなあ」そう言って後ろを振り返ると、弟が「12kg」と答えた。「本当?そんなに重いの、へーえ・・」未熟児で生まれて、数ヶ月保育器から出られなかった甥がもう12kgになったのか、すごいなあ・・私は思わず感慨にふけってしまったが、腕のだるさはますます激しくなる。「本当に重いなあ」、そう弟に言ってみるが、娘を抱いている弟はさほどでもないという顔をした。それじゃあ負けちゃいられないと、もう一踏ん張りして何とかコンビニにたどり着くことができた。
 二人に好きなものをいろいろ買ってやって、さあ帰るかと、今度は姪を抱いてコンビニを出たのだが、途中から「パパ、パパ」と言って父親の方に行こうとする。じゃあ、交代するかと甥を受け取ろうとしても嫌がって私の方には来ない。「いいよ、二人とも抱いていくから」、そう言って弟は左右の腕に一人ずつ抱えながら、さっさと歩いていく。そのまま家までふたりを抱えたままとうとう帰り着いてしまった。私はコンビニの袋を両手に抱えてついて行ったのだが、そのときの弟の力強さには驚いた。12×2=24kg・・・と同時に、父親って言うのは本当に強いものなんだな、と大した父親になれなかった私は心から感動した。
 いつの間にか弟のほうが立派な父親になっていた。
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夢の跡

 日曜日の午前中、用事があって伯母の家に立ち寄ったところ、昼食を伯母の娘婿がやっている店で食べようと誘われた。その店のことは3月にブログでも紹介したが、陶器会社を息子に譲った人が半ば道楽で始めた定食屋であるが、ちゃんとした修行をしたことのない人が作るものにしてはなかなかの味を出している。そこそこの賑わっていて、開店して1年以上経つ今もつつがなく営業している。私は3月以来一度も立ち寄ったことがなく、たまには顔を出さないと申し訳ないと思っていた矢先だったので、渡りに船とばかりに伯母の誘いに従った。
 山間にある陶器工場の一隅に立てられた、山小屋風の建物であるが、空調も行き届いていて、ゆったりとできる空間となっている。メニューは8品、どれを注文しても800円と切りがいい。私の従姉妹が、一年経ってもなれぬ手つきで注文を聞いたり、食事を運んだり、片付けたりと大忙しである。この日は店に入ると先客が8人ほどいたが、そんなに大勢の客がいると、従姉妹は半ばパニック状態になってしまって、傍目で見ていていると可哀想になるくらいである。遊んでいても楽に暮らせる人たちが、道楽とはいえ、汗を流しながら働いているのは不思議な気がする。開店以来なんでこんなことを続けているのか、私には理由がよく分からないが、やってる本人達にさえ理由がはっきりしていないのかもしれない。
 
 私は五平餅を冷麦と一緒に頼んだ。何故だか、今までそこで五平餅を食べたことがなかった。今ではその店の、ちょっとした名物料理になっている五平餅をやっと注文することができた。

 

おいしかった。もち米は硬くもなく柔らかくもなく、ちょうど食べやすく焼き上げられていた。何よりも味噌だれが絶品だ。胡桃をつぶして混ぜてあるようで、舌触りがぶつぶつするがそれがまた風味を醸し出していて、ピリッとした味を引き立てている。冷麦も薬味に自家なりの柚子が添えられていて、おしゃれな感じがした。器の一つ一つに手作り感が味わえるのは当然のこととはいえ、趣味がいいものばかりであるのはさすがだ。
 
 などと満腹になって外に出て、そういえば、とあることを思い出した。同じ敷地内に従姉妹の夫の兄一家がやっていた洋風レストランがある。その一家も陶器会社を経営していて、その地域では一番の老舗として有名な会社であった。それが何を思ったのか、昨年の愛知万博に訪れてくる人々を当て込んで、立派な洋風レストランを開業した。観光バスが何台も止まれるような広々した駐車場を持ち、おしゃれなたたずまいのそのレストランは、山の中で異彩を放っていた。

 

しかし、このレストランが7月始めに閉店してしまった。営業していた陶器会社が資金繰りができずに倒産してしまったのだ。負債は5億円とも言われているが、その報を聞いた者は、私をはじめ誰もが当然の結果だと思った。当初から無謀な計画であることは衆目の一致するところであったが、当事者たちはどんな夢を追ったのだろう、一気に暴走して倒れてしまった。こうした事業をプロデュースする人がいて、その人の口車に乗ってしまったのだとか、色々な噂は飛びかっているが、要は自分の身の丈にあった仕事をしていなかったのが、最大の原因なんだろう。冒険するのは時には必要だろうが、地に足をつけていなければ嵐に巻き込まれて吹き飛ばされてしまう。そうしたことが彼らには分からなかったとしか思えない・・

 建物はすべてカーテンが引かれて中が見えないようになっていた。こんな建物、使い道がないことくらい明白だ。一体どうなるのだろう、他人事ながら心配だ。
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バルサン

 「トピックス」という題名で、右腕が虫に刺されて点々と赤い痕が残っていると書いたが、今度は左腕にも10個ばかり同じような痕ができてしまった。痒いから掻くし、掻けば余計痒くなってますます掻いてしまう、そんな悪循環を繰り返しながら、これはもう寝ている間に何か虫に刺されている、布団を干したくらいじゃおっつかない、そんな気がしてきた。こうなったら、バルサンを焚いて部屋の中からダニやら何やらを駆逐しなければいけない、そう決めた。なにせ、赤い点々が腕に広がっているのはどうにも見栄えがよくない。子供たちが不審がる前に、こちらから「虫に刺されちゃって・・・」などと言い訳しているが、それもこう度々ではいかにもうそ臭い。変な病気を持っていると誤解されてもいけないから、思い当たることは何でもしなけりゃいけない。そう思って、日曜の一日を使って、私の部屋をきれいにしてみた。


ざっと整理して、ベッドに敷いてある畳も取り外して満遍なくバルサンが行き渡るようにした。(マットレスでは柔らかすぎて寝にくいため、ベッドには昔から畳を敷いている)寝室とTVの置いてある部屋が一続きになっているが、開け放してバルサンの準備にかかる。

 

説明書を読みながら、黄色い上ふたに付いている「すり板」を本体の中央部にある出っ張りに、マッチをこする要領で、こすり付けてみた。ぼっと一瞬火が着いたが、次の瞬間には消えて代わりに白煙がもうもうとわきあがり始めた。まずはTVの置いてある部屋から始め、次には同じ要領で、寝室にも白煙を焚いた。

 


白煙が立ち上るのは、ものの2・3分で終わって、後は霞のように部屋中に漂っている。このまま3時間は部屋に入らないようにと、薬屋で忠告を受けてきたので、焚き始めた正午ごろからそのまま4時過ぎまでほかっておいた。

 

4時過ぎになってから、掃除機を持ち込んでくまなく掃除をしたつもりだが、果たしてどうだろう。部屋に巣くっていた虫たちを駆除することができただろうか。その結果はすぐには出ないかもしれないが、とりあえず自分のできることはやってみた。これで、また虫刺されが増えるようだったら、一体どうしたらいいんだろう。
 虫のいない、きれいな部屋になったことを願うばかりである。
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ゆり

 ここ1週間ほど少し市街を離れた道を運転していると、道端にゆりの花が咲いているのに目が留まる。1本だけ咲いているのもあれば、群れを成して咲いているものもある。ゆりの花が大好きな私は、運転しながらもついついゆりの花を目で追ってしまう。余所見して運転してはいけないと戒めてはいるのだが、ついつい見てしまう。反省しなければいけない。

 
 
それにしても不思議なのは、何故ゆりが今の時期に咲くかということだ。ゆりは夏の初めに咲くものじゃないのか。カサブランカは確か、母さんのブログで夏の初めに咲いたのを見せていただいた。夏の終わりにこれほどまで咲くなんて思いもしなかった。毎年そうだったのかもしれないが、どうも腑に落ちない。そこで、少し調べようと思ったのだが、いったいこのゆりはなんというゆりなのだろうか、花の名前に疎い私にははっきりと名前が思い浮かばなかった。「山百合なのかな、鉄砲ゆりなのかな・・・」などと思ってはみたものの確証はない。そこで、「山百合」で検索してみたのだが、どうも違う。山百合は、白い花弁に黒い点々が無数についている。ならばと、「鉄砲ゆり」で検索してみたところ、思いもしなかったことが分かった。

「テッポウユリ」
丈が 50cm〜1m 程度に生長し、楕円形で長い葉をつけ、葉脈は水平方向に入る。
原産地での花期は 4〜6月で、茎の頂上に純白で細長い花を横向きにつける。花長は 10〜15cm、直径 5cm ほど、花弁が 6枚あるように見えるが根元がつながっており筒状になっている。雌雄同花である。

載っていた写真はよく似ているが、花期が違うからどうも別のゆりのような気がする。じゃあ、何だろうと思ってさらに調べたら、「タカサゴユリ」という花を見つけた。

「タカサゴユリ」
テッポウユリに似るが、茎が比較的太く丈夫で、丈が 1.5m ほどに生長するものもある。 花期は 7〜9月、花長は 15〜20cm、直径は 5cm より大きめと、テッポウユリよりも大型になる。また葉が細く、花は白を基調とするものの薄い紫色の筋が入り、花被片は 6枚で(やはり根元がつながっている)、外側の花被片は橙褐色になり、花は横向きだが少し下に傾くことが多いとされる。
ただし、本種はテッポウユリとの交雑種が多く、また変異も起きやすいと考えられており、たとえば花が純白でありながら葉が細く大型の個体が観察されるなど、その違いが外見からは判別しにくい場合も多い。

  

どうなんだろう、「タカサゴユリ」でいいのだろうか。

それにしても、やっぱりゆりの花はいい。白色が清楚さを象徴し、花の形も押し付けがましくなく、かといって凛とした存在感はある。すらっと伸びた茎も颯爽とした印象を与えてくれる。全身で「ゆり」という花の美しさを、見る者の目と心に焼き付けている。
 素晴らしい。
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下宿

 京都の大文字の送り火のニュースを新聞で読んだ瞬間に、私が大学生の時ずっと住んでいた下宿についてブログに書こうと思った。あれこれ思い出して、大文字焼きの写真も探し出して、準備を整えていたら、ある事情のため、その日は書く気がなくなってしまった。そんなことを書いて、まったく学生気分の抜けないばか者だ、などと思われるのがいやだったものだから、急遽違う記事を書いて載せておいた。自分の書きたいことを自由に書いているつもりでも結構周りの反応を気にしてしまうのは、記事を公開しコメントを頂いている以上仕方のないことだ。でも、誰の、何のために書いているのか考え直してみれば、そんなこと気にする必要はないはずだ。心に浮かぶことを誰に遠慮するでもなく書き連ねていくこと、それこそが私がブログに記事を書く時に常に思い浮かべるモットーであるが、なかなかそう簡単にはいかないのが現実だ。ブログの性質上、読者を意識しないで文章を書けるはずもないが、読者を意識しすぎると誰のための文章なのか分からなくなってしまう。そのあたりの兼ね合いをうまくやっていかねばならないのだろうが、今はそう細かいことを気にしないで書いていきたいと思っている。

 私が大学生の時に暮らしていた下宿は、鉄筋2階建てのしゃれた建物で、当時としては贅沢な部類に入るところであった。玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いて各自の部屋に行くのだが、いつもしんとしていてちょっとしたホテルのような雰囲気があった。管理人の老夫婦が私の親戚の知り合いだったという関係で、私は大学の合格発表を見終えたその足で、母と契約のためその下宿を訪ねた。大学からはかなり遠い場所にあったが、高野川のほとりで周りは林に囲まれた、とても閑静な所にあった。一応は勉強するために大学に通うわけだから、学生には絶好のロケーションだった。遠くても、自転車に乗っていけばさほど遠くないよ、などという説明を受けて自分の入る部屋もここだと紹介され、満足して契約書にサインした。
 入学後は毎朝起きてカーテンを開けるたびに、まっすぐ大文字山が見えた。春から夏、夏から秋、さらには冬と季節が移っても、大文字山は変わらぬ姿を見せてくれた。毎朝拝むようにして見ていた大文字山だが、その下宿に住んでいた間に一度も送り火を見たことはなかった。夏休みになって京都でぐずぐずしているよりも実家に帰って、妻と遊んでいるほうがずっと楽しかったから仕方がない。今ではせめて一度くらいは見ておけばよかったのに、と後悔しているのだが、当時はまったくそんな気が起きなかった。本当に長い休みがあるとすぐに帰省していた。だから、どうだろう、一年の4分の3くらいしか下宿で寝泊りしていなかったのではないだろうか。
 しかし、下宿はやはり大学に近い所に選ばなければいけない。遠いと、朝起きる気がしない。あんな遠くまでいけるか、などと入学後数日で思ってしまった。高校まで授業をサボるなんてことはしたことがなかったし、授業中に居眠りするなんてことも高3の受験勉強で疲れ果てるようになるまでしたことがなかった私でも、根が怠け者だからなのだろうが、講義をサボることに何の痛痒も感じなくなるにはそう時間はかからなかった。なにせ、自分の中には通学が不便だからという大義名分があったのだから平気なはずだ。しかも、サークルに入って、いつしか昼夜逆転のマージャン生活に入ってしまったのだから、講義に行きたくても行く時間などなくなってしまった・・・

 まったくもって、下宿は大学の近くに選ばなけりゃいけない。その轍を踏まないように、娘は大学近くのマンションを選んだ。私のはるか遠くの下宿と比べれば、大学までの距離など半分以下だ。私だったら、欣喜雀躍するだろうに、わがまま娘はそれでも「遠い!」などと文句を言っては、講義をサボる口実にしている。「それはただの怠け者の台詞だろう。俺なんかずっとずっと遠い所に下宿していたんだぞ」などと、娘が1回生の頃はよく文句を言ったものだが、最近では自分の将来の進路を考えて、ある程度講義には出席しているようだ。当たり前のことなのに、「おっ、頑張ってるじゃん」などと馬鹿オヤジはうれしくなってしまう。

 まあ、娘の例を出すまでもなく、子どもがちゃんと大学に行くには、本人の自覚が一番大切なものなんだろう・・・当たり前か。
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松井の復帰

 松井の左手首が全治したと医師から診断を受け、両手を使ったバッティング練習を始めたとの報道があった。徐々に激しい練習に移っていき、来月中旬の復帰を目指すと言われている。
 5月上旬の骨折以来、3ヶ月以上も待たされたことになるが、まずは全治を祝わなければならないだろう。100日以上松井がヤンキースを離れていた間、私はほとんど野球のニュースを見たり聞いたりしなかった。ヤンキースが松井が不在、さらにシェフィールド選手も怪我で欠場する中、代役たちの活躍などで、勝ち星を重ねて、現在アメリカンリーグ東部地区で首位を走り、優勝マジックまで出ているのをつい最近まで知らなかった。元々松井がヤンキースに移籍してから見始めた大リーグであるから、松井がいなくなってしまったら、興味がもてなくなってしまった。にわかヤンキースファンであると公言して憚らなかった私だが、それでもあまりに手のひら返したようで、自分でもちょっと浅はかな気がしてならない。そう考えてみると、松井の欠場中は、ヤンキースどころか松井の情報もあえてシャットアウトしていたような気がする。ブログでも、ほとんど松井を話題にすることはなかった。自分が本当に松井ファンであったかどうかも怪しく思えるほどだった。

 でも、8月になって、もうそろそろ復帰できるのではという観測が流れ始めた頃から、次第に気持ちがそわそわし始めた。前回の検査で、両手でバットを振ることを許されなかったというニュースに触れたときはかなりのショックを受けた。「このまま今年は出られないのか・・・」そんな悲しい気持ちでいっぱいになった。骨折後、「焦るな松井、今年を棒に振っていいから、とにかく完全に治せ」、と思い続けてきた私なのに、いざ今年は駄目かもしれないとなると、「多少痛くても復帰しろよ、男だろ」などと檄を飛ばしたくなったのには自分でも驚いた。それもやっぱり、グラウンドでプレーする松井の姿を1日でも早く見たいと、私自身が焦っていたせいなのだろう。松井自身はインタビューなどで、まったく焦っていないと発言していたが、それには松井の度量の大きさを改めて教えられたようで、私自身の浅慮さが恥ずかしくなってしまった。

 しかし、実際問題として、松井はそう安閑と構えていられるわけではない。松井の代役としてレフトを守ってきたカブレラ選手が、だんだんと力を発揮するようになり、かなりの成績を収めている。トレード期限間際に移籍してきたアブレイユ選手は3番バッターとして派手な活躍を繰り返している。松井が復帰したとして果たしてプレーする場所はあるのだろうか、そんな不安が頭をよぎる。今日の報道では、トーリ監督が、復帰はDHで、と述べているように球際の細かいプレーをこなすのはまだ無理だと思われているようだ。シェフィールド選手の回復具合との兼ね合いもあるのだろうが、怪我をする以前の役割がそのまま残っているはずがないことは松井自身が一番知っていることだろう。それでも「不安や焦りはない」と発言できる松井の自信はどこから来るのだろう。リハビリが順調にこなせたからなのだろうか。体調が万全だからなのだろう。メジャーでの経験から来る自信なのだろうか。

 その答えが出るのは今シーズン終了後だろうが、きっと大事な場面で松井は大きな働きをしてくれるだろう。舞台が大きくなればなるほど素晴らしい力を発揮してきた男、松井秀喜の力を私達ファンは信じるしかない。私は必ずやってくれるものと信じている。

 頑張れ松井!!

 

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スリル

 何故、ブログを続けているのかと問われたら、自分の心の平衡を保つためだと答えるだろう。毎日の生活で、知らず知らずのうちに蓄積してしまう鬱屈を少しでも晴らすためにブログに思いを書き留めていく、それは随分役に立ってきた。確かにブログ上の出来事がどうしようもないほどの重荷になったこともあるが、おおむねそれは人間関係の難しさであって、ブログに文字を記すことは私の心の掃除をする役割を果たしてくれてきたように思う。

 夏休み前は、塾が始まる前に翌日の記事の概要を書いておいて、塾が終わって日付が変わった頃から添削を始め、投稿するまで少しばかり推敲するというパターンを繰り返していた。十分時間はあり、何も焦る必要はないのだが、それでも、忙しくて、明るいうちに何も書いてないと寝るまでにちゃんと書けるかしらと不安になったものだった。別に書かなきゃいけないものでもなく、そこまで強迫観念めいた感覚を持つのもおかしなものだが、いい加減に見えて変なところできちっとしたことをしないと気が済まない変な性分がこの辺りに現れている。夜寝る前、もし眠れなかったらどうしようなどと心配に思っているうちに、いつの間にか爆睡している私のことだから、大して心配しないでもいいことは分かりきっているが、性格の脆弱さは如何ともしがたい。焦り始めると記事の出来など二の次で、大急ぎで書き上げほっとしたいだけになってしまう。そういう時に、何とか書き上げ投稿ボタンを押すと心底ほっとする。安堵感で体が包まれ、快感さえ感じるほどだ。

 しかし、忙しい夏休みの間、記事を書く時間は、塾が終わって帰宅し教室の掃除を終えた12時過ぎから眠るまでの1時間から長くても2時間しかない。休み前はこんな短時間ではとても毎日続けることは無理だろう、と心配していたが、何とかここまで続けてくることが出来た。バスで塾生を送っていくときや塾の授業が一段落したときなどに何を書くかは大体決めておいて、12時過ぎから一気に書く。なるべく文字数を少なくし、かといって見た目の分量は減らさないようにと考えると、記事に写真を使う誘惑にはなかなか逆らえない。ぴたっとはまった写真を載せれば私の拙い文章よりも雄弁だし、読んでくれる人の理解も早いだろう。なので、いつの間にか写真は夏休み中の、このブログの必須アイテムになってきた。短い時間で必死に書いていると、もし書けなかったら・・などとは思わない、というよりもそんなことを考える余裕がない。ただただ早く書き終えようとばかりに集中しているので、結構充実感を味わってきたものだ。

 それが、己の感情に流されてしまってしばらくはこのブログを休もうと思い切ってしまった。何だかいやになったのは4月ごろに味わった気持ちに通じるものがあったので、先手を打っていったん休んでみようと思ったのかもしれない。
 本当にしばらく何も書かないでおこうと思っていた・・・
 
 でも、やっぱり今夜もここに文章を書いてしまっている。公的(?)には内緒だが、やっぱり書いていると集中できて、一日の締めくくりとして自分をシャキっとさせる効果がある。私にはブログがまだまだ必要なんだな、そんなことを早くも思い始めてしまっている私は、ただの書きたがり屋さんなのだろうか。
 まあそんな戯言はともかく、やっぱり他人のことなど気にせず自分の思い通りに
やっていくのが一番なのだろう。それでどんな批判を受けても、それはそれでスリルを味わえるものだから、それも楽しんでいけるようになればいい。

 でも、それが一番難しいんだよな。
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想像力

 私は、「想像力が貧困」というステレオタイプ化した言い方が以前からよく分からない。想像力とは元来、心に何も制限を加えず自由に働かせたときに起こる心の動きのことだ。勿論、空想と違って、根っこのところが現実とつながっていなければならない。現実とのつながりをなくした心は確かに広がりは増すかもしれないが、荒唐無稽の妄想を生み出してしまうことになりかねない。自由というものに、他人に迷惑をかけないという最低限の制限が加わるように、夢想が想像力であるためには現実とつながりがあることが唯一の制限である。しかし、現実というものは一人一人違っている。それぞれが体験してきたことが集積されて、個々の現実が形成されている。想像力がそうした一人一人の現実とつながるものであるなら、それは現実を超えたものではなく、個々の現実を補完する働きをするものだと言えるだろう。しかし、そのことはある人が己の限界として勝手に作り出してしまう囲いを逸脱してはならないということではない。むしろ、そうした囲いから飛びだすための力を生み出す源が想像力なのである。
 そう考えてみると、想像力は個人個人の現実と比例はしていないが、現実を反映したもの、現実の関数だと考えることができるだろう。ならば、想像力が貧困だということは、その人の現実を貧困だと断言することとほぼ同義になってしまう。確かに、他人の目から見れば下らぬ現実にしか見えないこともあるが、それをあえてそれを口にしてしまっては、その人の人生を否定することになってしまう。他人から今までの己の人生を多かれ少なかれ否定されることは、なかなか看過することはできない。なぜなら、疾風怒涛の人生であろうと、いたって平板な人生であろうと、どちらにもその人が必死で生きた跡が残っているはずだからだ。それを否定されることはかなりつらい。
 己の人生を否定するのは勝手だが、他人の人生を否定する権利は誰も持ち合わせていないはずだ。思わずそう言ってしまうこともあるし、意図的に言うこともあるだろう。しかし、いずれにしても他人を評するときには言葉を慎重の上にも慎重をきさねばならないと思う。
 
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頑是ない私

「頑是ない歌」
      中原中也

思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ

雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然として身をすくめ
月はその時空にゐた

それから何年経つたことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち
思へば遠くきたもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ

考えてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

考へてみれば簡単だ
畢竟意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ



竜虎の母さんの打ち込みを拝借、サンキュー!!
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