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タバコ

 昨日は抜けるような青空が広がり、気持ちのいい一日だった。午前中ぽかぽか暖かかったので、思わず愛犬弁慶の散歩に出かけた。最近は塾が忙しく、なかなか散歩に出かけることができないため、弁慶も大喜びだったが、その道すがらタバコ屋の前にある自動販売機に目がとまった。私はタバコを吸わないので、自動販売機など普段気にも留めないのだが、陽の光がまぶしく反射してチカチカしていたので気になったのだ。


「いろんな種類があるんだなあ」と感心してみていたら驚いた。何とセブンスターが1箱300円もする!!


自分に関係のないものにはとんと興味がわかないのは、私の悪癖なのだろうが、セブンスター1箱が300円もするなんてまったく知らなかった。タバコを吸わない身にしてみると、300円はいかにも高い。1日1箱吸う人は1ヶ月で約1万円をタバコに使っていることになる。なんだかもったいないなあと思う。(かと言って、吸わない私がタバコ代を貯金しているわけでもないが)まあ、吸う人にしてみれば必要経費のようなものであるから、少しも気にならないのかもしれない。
 私は今はまったく吸わないが、18年ほど前に息子が生まれた頃まではタバコを吸っていた。ヘビースモーカーでもなかったが、1日1箱は吸っていたと思う。17の頃から吸い始め、30になるまでずっと吸っていたのだが、突然タバコを吸うと胸が痛くて仕方なくなった。煙を胸の中に吸い入れると、その煙が肺の隅々まで広がって肺胞1つ1つを締め付けるようなイヤな感じがした。それでも、「ままよ」とばかりに平気な顔をして吸い続けていたのだが、とうとうその無理も利かなくなるほど、胸が苦しくなってどうしようもなくなったので、タバコを吸うのを断念した。「禁煙しよう!」と決意を込めたわけではなく、ドクターストップが自然にかかったようなもので、まったく困難を味わうことなく、すーーっとタバコから足が洗えたような感じだった。吸わなくなって18年近くなるが、やめて以来1本も吸っていない。吸いたいと思ったことさえなかったのは自分でも不思議だ。
 
 タバコをやめて以来、他の人が吸うタバコのにおいが気になって仕方がない。喫茶店などで、隣の席の人が平気な顔をしてタバコをふかしていると、一刻も早く席を立ちたくなってしまう。煙いのがイヤなのは言うまでもないが、煙のにおいが服や髪の毛についてしまうのもイヤでたまらない。店から出てもしばらくは体中からタバコのにおいが立ち込める。まったく辟易してしまう。最近は喫茶店でも禁煙席が設けてあるところが多いから、なるべくそういうところに座るようにしているが、運悪くそこがふさがっていると喫煙席で我慢するしかない。隣に座る人がタバコを吸わない人であるのを願うばかりだ。
 しかし、よく観察していると、やはりタバコを吸う人は減っているように思う。私の父は体調が悪いと控えることもあるが、若い頃からずっと吸っている。弟もかなりのヘビースモーカーだ。しかし、妹の夫は吸わないし、妻の妹の夫も吸わない。また、女性陣も一人も吸わない。したがって私のごく近い身内では、義母を含めて10人中2人しか吸わないことになる。これだけでタバコを吸う人が減ったと結論付けるつもりはないが、少なくなっているのは確かなのではないだろうか。
 それにしても1箱300円は高い。吸う人が減ったので値上げせざるを得ないのだろうか。この価格に嫌気が差して今よりもタバコを吸う人が少なくなれば、JTもさらに価格を上げざるを得ない。そうすればタバコを吸う人がますます減る!そうなったら、私のようにタバコの煙が大嫌いな人間には住みよい社会がやってくる。JTさん、タバコの値上げをもっとしてよ。
 
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青い空

 塾の授業中、私立中受験生の小6の女の子が、「大気があるから空が青く見えるとこの問題の解説には書いてあるんですけど、どうしてですか?」と質問した。私は一瞬たじろいで、「う~ん、何でだろうな・・。海が青いのは青い空を反射しているからだって聞いたことはあるけど、空が青い理由か・・分らないなあ」とかなりしどろもどろになってしまったが、「プリズムって知ってる?多分光が空気の層に当たると、光の中の青い物だけが、見えるようになるんじゃないかなあ、勘だけど・・」とお茶を濁してしまった。 
 愛知県の私立中学入試は先週末から始まっている。その女の子も土・日で2校受験してきたが、今週末・来週末とあと3校試験が残っている。私の塾では一番成績がいい子であるだけに、質問の内容も高度だ。「なぜ空は青いのか」などという問題が入試に出ることなどありえないが、好奇心の芽を私が摘み取ってしまうのは許されることではない。ちゃんとした答えを出そうとあれこれ調べて、私なりに簡単にまとめてみた。
 太陽の光は見かけは白い光だが、もともとは七色の光(赤・オレンジ・黄・緑・青・紺・紫)でできた平行光線である。これが空気中の水滴などに当たったりすると屈折する。波長の長い赤はあまり屈折しないが、波長の短い青はよく屈折する。地球の大気中を通ってくるときに青はよく曲がるのでまっすぐ地面に届かずに空気中に散乱してしまう。それで空を見上げると散乱した青い光が四方八方から目に入って来るようになる。空全体が青く見えるのはこのためである。   
 こういった問題を解決するには、何よりも「情報」と「知識」が必要であるが、それだけでは解決できない問題も数多くある。そうした問題を解決しようとするならば、上の2つに「知恵」が加わらねばならない。それは自分の集めた「情報」と「知識」を吟味し、咀嚼し、さらに消化吸収した上で、自らの考えを導き出す作業のことであり、「思考」と言い換えてもいいだろう。これに関してフランスのジャン・ギットンという哲学者・神学者が興味深いことを自著「新しい思考術」の中で述べている。彼は、何よりも考えることの大切さを説き、思考を助ける3つの言葉を提唱している。それによれば、
 まず自分があることを考える。そして「これに対してある人は」という第一の言葉を唱えてみる。それによって、思考の中に反対論が入ってくる(無論それも自分で考えるのだが)。次に第二の言葉「なるほど」を言って、いったん他の人の考えを受け入れてみる。さらに思いをめぐらし発展させた上で、「しかし」という第三の言葉を使って、その問題について自分の判定を下す。 
 「あなたがたが思い浮かべた観念に、この形式を当てはめてみなさい。そうすれば、たぶん思考が生じるだろう」とギットンは述べている。 では、ギットンの言葉を信じて以下に試してみようと思う。
 「今年のヤンキースは果たして優勝できるだろうか?これに対して多くの人達がレッドソックスが有利だと言っている。なるほど松坂大輔が加わって先発ローテーションはかなり強力になった。攻撃陣は元々破壊力抜群なチームだけに、選手にケガさえなければ、相当の強敵である。しかし、ヤンキースには松井秀喜がいる。昨年は左手首の骨折のため、シーズンの大半を棒に振ってしまった。その松井が「今年こそは!」と静かな闘志をふつふつと滾らせている。必ず松井が鬼神のごとき働きをしてレッドソックスを打ち負かしてくれるだろう。したがってヤンキースの優勝は間違いない!」

 などと、青い空からヤンキースの優勝宣言まで、私の心もかなり乱反射しているようだ。

 

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ヒヤシンス

 ヒヤシンスの花が咲いた。満開と言ってもいい。甘い香りが室内に充満している。いい香りだ、心が落ち着く。
 鉢植えの球根を買ってきて以来、写真を撮ってきた。つぼみの状態で買ってきたものが徐々に膨らんで開花する様子は面白かった。朝顔の成長記録も以前このブログに乗せたことがあるが、今回はそれよりも早く開花してしまった。

  


  


 

この鉢を買うときに花の色がピンクと紫の2種類あったが、ピンクを選んでよかったと思う。押し付けがましくないピンクの花弁は桜の花びらのような色で、懐かしい気がする。淡いピンクという色が私は好きなのかもしれない。少しネット検索してみたら、白色のヒヤシンスもあるようで、来年はもう少し色んなヒヤシンスを集めてみたいと思う。
 ヒヤシンス(Hyacinth Orientals)という名は、ギリシャ神話の美青年ヒュアキントスから由来する。以下は Wikipedia からの引用である。
 『同性愛者であった彼は、彼が愛する医学の神アポロンと(彼は女性も愛していたが、同性愛者でもあった。)一緒に円盤投げに興じていた。(古代ギリシャでは同性愛は普通の事だった。むしろこれは美徳とされていた。)
 しかしその親しげそうで、楽しそうな様子を見ていた西風の神ゼピュロスは、(彼もまたまた同性愛者で、ヒュアキントスを愛していた。)やきもちを焼いて、意地悪な風を起こした。その意地悪な風は、アポロンが投げた円盤がヒュアキントスの額を直撃してしまった。そこで懸命にアポロンはその時の怪我を治そうとするが、彼の医学の神の力をもってしても治らず、ついにはヒュアキントスは大量の血を流して死んでしまった。ヒアシンスはこの時に流れた大量の血から生まれたとされる』

 このエピソードからヒヤシンスの花言葉は「悲しみを超えた愛」となっているらしいが、この世の中にはそんな愛はそうそうない。ギリシア神話ならではの話ではあるが、そうした謂れをもつヒヤシンスが私の手元にあって、芳香を漂わせてくれているのは、なかなか詩的なことではないだろうか。



息子の進路決定よりも早く満開になってしまったが、ぜひこの後に付いていってもらいたいものだ。
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じゃんけん

 じゃんけんをしなくなった。子供の頃は何かあるとすぐにじゃんけんで決めていた気がするが、今では最後にじゃんけんをしたのがいつだったか思い出せないほどだ。子供の頃、何かの順番を決めなければならない時とか、面倒なことをしなければならない時とかに、じゃんけんで白黒つけるのはなかなか有効な手段だったように思う。じゃんけんで決まったら、もうそれ以上グズグズ言わずに約束したことを実行しなければならないと言う不文律があって、大抵の者はそれに従った。そんなときに未練たらしく「もう一回!」とかいう奴は皆から軽蔑されたものだ。まあ、そんな奴は大体が嫌われ者だったような気がするが・・・。
 1ヶ月ほど前の毎日新聞に、じゃんけんの掛け声やあいこの時に続ける言葉についてアンケート調査した結果が載せられていた。それによると、じゃんけんの掛け声としては、「じゃんけんぽん」が最も多かったそうだ。「共通語」とまで書いてあったのはおかしかったが、語尾が「ぽい」「ほい」「しょっ」などと微妙に異なるバージョンもあったという。私の周りでは「じゃんけんぽん」と「じゃんけんぽい」とを併用しているような気がする。これには、地域によって大きな偏りはなかったらしいから、まさしく共通語なのだろう。
 次に多かったのは、「いんじゃんほい」「ちっけった」「じっけった」だそうだ。「いんじゃんほい」は関西地方や愛知県でよく使われ、大阪や兵庫では語尾に「ほい」や「ほーい」をつけるのが特徴であるようだ。そういえば私の小さい頃は、「いんちゃんで決めよまー」などと方言丸出しでよくじゃんけんをした。その時の掛け声は「いんちゃんほい」と言っていたような気がする。名古屋のすぐ横なのに関西系?とちょっと不思議だ。また、「ちっけった」は東京や静岡・茨城など東日本に多く、「じっけった」は東北地方と岡山・香川など西日本の数県で使われるようだ。
 他には、「ほーらいき」「おーこーりきえっせ」が秋田県。「いしけんぎー」が宮城で、「おーえっき」が青森。さらに、新潟では「ほーれんよっせ」、群馬は「ちっかっぽい」。長い掛け声もあって、富山は「じゃんへんへーのはっさんし」、山口は「じゃんけんもってすっちゃんほい」、福岡からは「じゃんけんじゃがいもさつまいも」という回答が届いたそうだ。色々あって面白い。中には男女で違う掛け声の地方もあるようで、和歌山では女の子が「じゃんけんほい」男の子が「じゃらけつほい」と言うのだそうだ。
 さらに、「あいこ」だった場合にどう続けるかについての調査では、約8割の人が「あいこでしょを繰り返す」と回答したそうだ。他には、「あいこんです」「あいこっち」「あーらっせ」「どっこいほい」「勝負でしょ」などという面白い回答も寄せられたとある。あいこが何度も続く場合には、「しょ、しょ・・」と省略するケースも多いが、語尾を繰り返す場合、「じゃんけんしっ」では「しっ、しっ」となり、「ちっけった」なら「た、た」となるようだ。他には、「あわんでしょ」(秋田)、「しょっしょのしょ」(長崎など)、「あいらっしょ」(茨城)、「すっちゃんけ」(岐阜)と続けるところもあるらしい。私の場合は、「あいこでしょ、しょ、しょ・・」という一般的なパターンだったような気がするが、大勢でじゃんけんする場合、一旦あいこになると延々とあいこが続く場合もよくあって、飽きずにずっと繰り返していたのを思い出す。楽しかったなあ。
 そういえば、チョキにはいくつか異名があって、石川では「キー」、北海道・新潟・岐阜などでは「チー」、愛知では「ピー」と言われるとあったが、確かに今でも私はチョキのことを「ピー」と言うことがある。というよりも、チョキなどというようになったのは大人になってからで、それまではずっと「ピー」と言っていたというのが実情だ。今の子供たちに「ピー」などと言ってもきょとんとされてしまうが、やはり私にとってはチョキではなく「ピー」だと思う。

 この新聞企画は「呼び名で分かる」というシリーズだが、読むたびに色々な発見があって面白い。今の子供たちが話すのを聞いていると、TVなどの影響なのか方言を使う割合がずいぶん減っているように思う。「お国訛りは通行手形」などといわれた時代とは隔絶の間があるこの頃だが、それでもまだまだ言葉遣いからその人の出身地や世代が分るというのは興味深い。
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分数の割り算

 先週末、ゴジ健さんが分数の割り算の仕組みについて渾身の論文を書かれたが、私も職業柄、自分なりの考えをまとめてみなければならないと思っていた。しかし、センター試験のため落ち着かぬ日々を過ごしたので、思うように時間がとれず今日まで延び延びになってしまった。ゴジ健さんよりも分りやすい説明ができる自信はないが、試してみる。
 
 分数の割り算を考える前に、分数の掛け算について確認しておいたほうが割り算の仕組みを考えるのに便利なので、まず掛け算について考えてみる。
 
 (3/5×3/4=3×3/5×4 になる理由)
1辺が1の正方形の面積は 1×1=1 。これをもとにして縦が3/5、横が3/4 の長方形の面積を考えると、下図(1)の斜線の部分の面積を考えることになる。
                     (図1)                (図2)
 

まず(図2)の斜線部の面積を求めると、縦は1を5つに分けた長さで 1/5、横は1を4つに分けた長さで 1/4 であるから、その面積を求める式は 1/5×1/4 となり、それは図から明らかなように正方形の面積1を縦に5つずつ、横に4つずつに分けたもの、すなわち 5×4=20 個に分けたものであるから、面積は1/20 となる。したがって、1/5×1/4=1/5×4=1/20 である。
 そこで、これをもとにすると、(図1)の縦3/5、横3/4 の長方形の面積は、(図2)で求めた面積1/20 の図形が、縦3個、横3個、つまり 3×3=9個集まったものである。つまり、面積が1/20 の図形が9個集まった長方形の面積は、9/20 となる。結局、これが縦3/5、横3/4 の長方形の面積であるから、
   3/5×3/4=3×3/5×4=9/20    となる。

 これをもとにして分数の割り算に進む。

例えば、「4/5ha の畑をトラクターで耕すのに 3/4 時間かかった。このトラクターが1時間あたりに耕す面積を求めよ」という問題を考えてみる。
 ゴジ健さんが論破されたように、割り算とは『あるものに対しての1単位あたりの数を求める』ことである。「1単位当たり」というのを「もとにする量を1としたとき」と言い換えてもよい。すなわち、「比べる量は、もとにする量を1としたときにいくつになるのかを求めるのが割り算」と言いかえることができる。
 そう考えると、上の問題で、もとにするのは時間であり、時間を1時間としたときにどれだけの面積を耕すことができるのかを求めることになるから、式は、
  4/5÷3/4  となる。これを図にすると、
                               (図3)

斜線は 3/4 時間で耕した 4/5ha を表している。この図をもとにして、1時間で耕す量を考えてみると、下の(図4)の斜線部の大きさを求めることになる。
                               (図4)

(図3)と(図4)を見比べてみれば、(図4)の斜線部の大きさを求めるには、4/5ha の 4/3 倍の大きさを求めればいいことが分る。すなわち、
    4/5÷3/4=4/5×4/3=4×4/5×3 である。

これは比の考えを使うと、さらに分りやすい。3/4 時間と1時間では、時間の長さが3:4となる。これを図に表すと、
                               (図5)

図から明らかなように、1時間で耕せる面積は、3/4 時間で耕せる面積の 4/3 倍となるのである。

 分数の割り算の仕方を、塾では「割る数の逆数(分母分子を入れ替えた分数)を掛けろ」と教える。この問題の場合は、トラクターで耕す時間の基準となる1時間は 3/4 時間の何倍であるかを、(図5)など利用して考えて、4/3 倍の時間であると分れば、1時間に耕せる面積は 3/4 時間で耕した 4/5ha を 3/4 の逆数 4/3 倍した面積、すなわち、4/5÷3/4=4/5×4/3=4×4/5×3=16/15 haとなるのを理解することはできると思う。

 しかし、難しい。もっと簡単で明快に説明できればいいのだが、私ではこれが精一杯だ。


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バンザイシステム

 センター試験というのは、よく知られているようにマークシートに答案を書く。しかも問題用紙を持ち帰ることができるので、自分がマークした答えを問題用紙にチェックしておけば、帰宅後、その日のうちにネット上で公表される正答と照らし合わせて、何点取れたかを自己採点できる。したがって、センター試験の終了する2日目の夜には、自分の得点を殆ど完全に知ることができてしまう。翌日、その結果をそれぞれの学校に持ち込んで、幾つかの予備校が配布している用紙に自己採点の結果を書き込んで提出すれば、各予備校がそれを集計して、独自のデータを作り、センター試験の結果による各大学に合格するためのボーダーラインを設定してくれる。自分の成績とボーダーラインと照らし合わせながら、2次試験に出願する大学を決定するというのが、センター試験を受験した生徒の一般的な動きである。
 その結果が今年も24日の夕方に公開された。約55万人の受験者のうち、河合塾は40万人弱のデータを集め、わずか2日のうちにその膨大なデータを集計・分析し、各大学の各学部ごとにボーダーラインを設定するのだから、ものすごいスピードだ。しかもこれは無償の、いわばサービスのようなものであるから、本当に感心する。信頼に足るデーターを迅速に受験生に与えることで、予備校としての使命を全うしているようで、正直感心する。勿論、河合塾だけではなく、駿台予備学校と代々木ゼミナールも同じようにデータを出している。その3大予備校のボーダーラインを比べてみると、若干の違いがあって、どれを信頼するかによって、受験生の命運が左右される可能性もある。特に、大学全入時代を迎えた今年は、強気の出願を勧める報道も多数あって、受験生はしばらく悩まなければならないだろう。
 このボーダーラインはネットで調べることも勿論できる。しかも、10年ほど前から各予備校のホームページ上で、合格可能性を判定してくれるシステムも開設されていて、とても便利だ。河合塾は、それを「バンザイシステム」と名づけて、簡単な操作をすれば、センター試験の結果から合格可能性が分るサービスを提供している。各科目の自己採点結果を入力し、自分の志望大学・学科を入力してクリックするだけで、即座に判定が出る。志望大学名の横に、少年のイラストが付いていて、それが金色の服を着てバンザイをしていると「合格濃厚ライン(合格可能性80%の目安)以上」、青い服でバンザイをしていると「合格濃厚ライン~ボーダーライン(合格可能性50%の目安)」、少し憮然とした顔をしていたら「ボーダーライン~注意ライン(合格可能性20%の目安)」、大きな涙を流していたら「注意ライン未満」というように、一目見ただけで分るようになっている。もっと詳しいデータを知りたければ、詳細ボタンをクリックすれば、自分がその大学の志望者の中でどれくらいの順位にいるかを棒グラフで示してくれる。 
 駿台は「インターネット選太君」、代ゼミは「合格判定サービス」という名で同じシステムをHP上で提供しているが、私は河合塾の見やすさが一番だと思って、毎年利用している。今年も、息子を始め塾生の何人かの自己採点結果から、バンザイシステムを利用したのだが、微妙な判定が出た。今年は問題が難化したせいもあって各大学のボーダーラインが下がり、得点率で言えば、どこも5~6%減っている。昨年のボーダーを見て、ため息をついていた者も多かったが、この得点率の低下で2次で頑張れば何とかなるという生徒も出てきた。わが息子も、色々試した結果、2次での出願校もほぼ決まった。決して楽ではないが、ぜひとも乗り越えてほしいと心から願っている。
 河合塾のHPには、受験生へのメッセージとして「自分の夢まで、自己採点しないでください」との文言が掲げてあるが、センターの自己採点の結果、どん底に落ち込んでいる者にはなかなか届かないかもしれない。しかし、まだまだ可能性はいくらでもある。前を見て頑張るだけだ。
 まずは、私立!!
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コピー機

 塾でコピー機はなくてはならない機械だ。コピー機を使わない日はないといってもいい。私の塾ではずっとS社のコピー機を使っている。別にそこの機械が気に入っているわけではなく、たまたま取引をするようになった事務機器会社がS社を扱っていたから、何の考えもなく使っている。しかし、コピー機というものは精密機械であり、高価なものである。現金でおいそれと買える品物でもない。したがってリース契約を結んで毎月リース料を支払うことになる。塾を始めて25年近くなるが、ごく最初の時期からリース契約を結んでいる。
 だが、このリース契約というものは、実態がよく分らない。あれこれ交渉して自分では納得して契約しているつもりだが、時々釈然としなくなる。勿論、現金で購入すれば何も問題はないのかもしれないが、そんな余裕がないので、どうしてもリースに頼ってしまう。毎月のリース料の中には、当然リース会社の利益も含まれているから合計金額を考えれば、決して安くなってなどいない。私も重々それは理解しているつもりだが、毎月引き落とされる金額を見るたびにもっと安ければいいのになとため息をつく。
 リース契約をしているのは、コピー機だけではない。このPCもそうであるし、印刷機(リソグラフ)、電話機、ファックスもリースである。それらを皆合計するとかなりの金額を毎月支払うことになる。全て必要経費になるからいいのかもしれないが、出費するお金であることには変わりはない。何とかもう少し安くしようと、リース期間が満了したものは新しい機械に買えずに、できるだけ長く使うようにしなければならないと思っている。
 しかし、コピー機だけはそう簡単に話がすまない。というのは、コピー機というのにはリース料だけではなく、印刷コストが1枚1枚にかかるのだ。トナー(黒い粉)や紙代だけでなく、ある一定の枚数を印刷すると、メンテナンスと言って、コピー内のキットを交換する必要がある。コピー機のシステムには色々あって、会社によって違うらしいのだが、S社の場合4万枚印刷するとそのメンテナンスの時期がやってくる。私の塾の場合、それが大体3年周期でやってくる。問題なのは、そのメンテナンスをしてもらうのに7万円かかることだ。しかも、3年経つと保守契約が切れてまた新たな契約を結ばねばならない、それに4万4千円。さらには4千枚印刷するごとにトナーが無くなってしまうので、そのたびごとに4千円払ってトナーを購入しなくてはならない。この合計をメンテナンスのときに支払わなくてはならない。私は今まで、メンテナンスの時期が来るたびに、この経費を払うのが惜しくて、コピー機を新しくしくして新たなリース契約を結ぶことを繰り返してきた。そのたびに、少しずつリースが料が高くなってきたが、それは許容できる範囲に抑えて、ここまでやってきたつもりだ。
 

 年が明けてから、そのメンテナンスの時期がやって来てしまった。予定の枚数4万枚をコピーしてしまったのだ。メンテナンスのお知らせランプが点灯した時、「あ~あ、またか」とイヤになった。コピー機をどうするか、事務機器会社と交渉しなければならない。しかし、他っておくわけには行かない、この入試の時期に使えなくなっては困ってしまう。電話して10年来の付き合いとなっている営業担当者に来てもらった。5年のリース契約がまだ3年過ぎただけなので、リース残高も組み込んで新たな契約をしなければならないため、どうしても月々のリース料が今までよりも高くなると言う。私は、何とか今までと大差のない金額に収めたいものだから、珍しく粘ってみたのだが、「もうこれが精一杯ですね、これで何とかお願いします」などと最終金額を出されてしまうと、すぐに根性が萎えてしまう。まあ、これならいいかと、適当に妥協し続けた結果が今の高いリース料になっているのだが、相手の営業マンもさすがにつぼを心得ていて、私などでは粘りきれない。「じゃあ、お願いします」と、結局は今までよりも2千円ほど高い金額で契約してしまった。高性能など望んでいないのに、今はもうデジタルコピー機しかないなどと言われて、M社の製品に変えることになった。
 それでも、色々融通はきいてくれる会社なので、今まで付き合ってきて不満を感じたことはない。今回もいっぱいいっぱいの誠意を見せてくれた結果だということにしておこうと思っている。
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ブーム

 宮崎県知事にそのまんま東(「氏」が必要なんだろうなあ、やっぱり)が当選した。それは宮崎県民のなした選択であるから、他県に住む私があれこれ言う筋合いではないだろう。しかし、新聞報道で、対立候補の陣営から「芸能人が応援に来てくれれば、しょせんタレント候補というイメージになったのに・・」との本音が漏れ聞こえたという記事を読んで、面白いなと思った。東が己の判断でそうしたのか、選挙参謀がいてそうさせたのかは知らないが、知名度は抜群でありながら色々な騒動を起こし顰蹙を買うことも多かった彼を、政治家として見てもらうためにあえて芸能人を応援に駆り出さなかったのはなかなか周到な作戦だったと思う。名前を知ってもらうことから始まる選挙運動では、タレント候補は一歩も二歩も他候補に先んじているものだ。しかし、マスコミに露出することが多い分一つのイメージが固まっていて、それを払拭するのも大変なのかもしれない。東の場合はそれを地道な活動によって乗り越えたわけだが、一旦新たな一面が知られれば、そこからは知名度が物を言って、彼を支持する動きがうねりのように広がって行ったのであろう。それは、青島幸夫や田中康夫が知事に当選した時に起こったのと同じような現象なのかもしれない。
 昨日の朝、東が宮崎県庁に初登庁するする姿をTVで見かけたが、花束を受け取った彼が、スーツ姿ではなく、ジャンパー姿で深々と一礼する姿は、彼のポリシーを体現していたようにも見えた。だが、彼の真価を問われるのはこれからだ。選挙活動をしていたときの気持ちを「そのまんま」持ち続けて県民のために汗を流せるか、地方分権で大きな権力を持つようになった知事という立場に幻惑され、あらぬ方向にそれてしまうか、他県に住む私はついつい興味本位で見てしまう。それはウゴメクさんを始めとする宮崎県民には失礼なことかもしれない。

 同じように今ブームといえば、秋川雅史の歌う「千の風になって」がNHKの紅白歌合戦で注目されて以来、とうとうオリコン1位になったという。私は昨年末に紅白の見所に関して、テリー伊藤のコラムを読んで「千の風になって」がいい曲らしいから是非聞きたいものだという記事を書いた。私は大晦日この曲を聴くのをとても楽しみにしていたのだが、紅白で聴いたときには、はっきり言って「何だこれ?」と思ってしまった。確かに秋川雅史の歌声は素晴らしかった。普段聞いたことのないテノール歌手の声を耳にできたことは素晴らしい体験だった。だが、新井満の訳詞・作曲になるこの曲には、なんら感動しなかった。訳詞は冗漫で、言葉が曲にしっかりと乗っていない。曲もなんだかどこかで聴いたことがあるような単調さで、正直言ってがっかりした。このブログでの年越しライブでは、自分で話題を提供した手前、なんだかいい加減なコメントでお茶を濁したような気がするが、TVの前では期待が大きかっただけにかなり落胆していた。(確かめもせず、記事にしたのは失敗だったと反省している)
 だが、この曲が今大ヒットになっているという。私の感受性が鈍いのかもしれないと、録画を何回も見たのだけど、印象は変わらなかった。どうしてこれが?という疑問は今も持っているが、この曲がブームになったのは、新井満を始めとしたスタッフの売り出し方が成功したのではないかと思う。年末には書店に「千の風になって」関連の書物があふれていた。どういう内容の本かは知らないが、「千の風になって」のイメージを伝えるのには役立っただろう。テリー伊藤のような業界人も宣伝に協力したのかもしれない(私はまんまと乗せられてしまったのが悔しい)。あざとさが見え隠れするような気もするが、それはそれで素晴らしい戦略なのだろう・・。

 ブームというものはある程度のノウハウを知った人たちには、狙って引き起こすことができるものなのかもしれない。すごいなと思うし、恐ろしいなとも思う。その悪い一つの例が、納豆のダイエット効果の実験データを捏造したと言われている、「あるある大事典Ⅱ」のスタッフ達だろう。彼らは今までにも同じような手口で幾つかのブームを作り上げてきて、感覚が麻痺していたのかもしれない。
 ブームに踊らされることのないよう、真実を見抜く目が大切なのは言うまでもないが、これだけマスコミの発達した社会では難しい。だからこそ、常に批判的精神を持ち続けなければならないと思う。
 
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復刻ビール

 「降る雪や明治は遠くなりにけり」という俳句は、中村草田男という俳人の作らしい。上の句は忘れ去られ、下の句だけがかつてはよく使われたものだが、今では明治の代わりに昭和を入れてもいいような時代になってしまった。塾生も今の高校3年生が卒業してしまえば、全員平成生まれとなる。白髪だらけの頭ではあるが、気だけは若いつもりでいる私でも、生徒全員が平成生まれとなるとさすがに自分の年齢を意識せざるを得ない。
 今、キリンビール創立100周年を記念して、明治と大正時代に作られていたラガービールを復刻した商品が売られている。これと、現在売られているラガービールと、昭和40年頃に売られていたラガービールを復活させたクラシックラガーと合わせた4本がセットになったものが売られていたので、買ってみた。


これを買ったら、当然飲み比べてみなければならない。日曜を待って、塾の終わった夕方に試してみた。今回は畑仕事から帰って来た父も加え、私と妻の3人で飲み比べてみた。


まずは、明治時代のラガービール。飲んですぐ妻が、「おいしい」と言った。「フルーティーな感じ」などと洒落た表現も使ったが、私も同感だった。私は最近サッポロの「冬物語」をずっと飲んでいるが、あのとろっとした濃厚な味わいがこの明治のラガーにも感じられた。しかもすっきりした飲み心地もしてなかなかの味わいだった。父も「これはうまいな」と私たちに賛成した。


次は、大正時代のラガービール。しかし、これには参った。何も味がしない。水を飲んでいるようなものだ。「うすい!」妻が言うと、父も「何の味もせんなあ」と物足りなさそうな顔をした。本当にこんなビールを売っていたのだろうか。「大正っていう時代は印象の薄い時代だから、こんなもんかもしれんな」などと父が面白いことを言った。父は昭和8年生まれである。


3本目は、クラシックラガー。1996年にキリンラガーは熱処理方式から熱処理しない「生ビール」に品質改良されたそうであるから、これは「生ビール」化される前の味なのだろう。いわば「昭和」のラガーだ。これには明治ほどではないにしろ、コクを感じた。父は「大正よりもましだな」、妻も「大分濃いけど、私は明治のほうが好きだな」。でも、昭和の頃、私たちが飲み始めた頃のラガーはもっとおいしかった印象があるのだけれど・・。


最後は、今市販されているラガー、「平成」のラガーだ。ここまで飲んでくると、大分気持ちがよくなってきたが、父は「うすいなあ」、妻も「おいしくない」、私も「ラガーってこんな味だったっけ?」と思わず文句を言ってしまった。普段、私はラガービールは買わない。外食したときにラガーしか置いてないときにやむなく飲む程度で、めったに飲まない。それなのにこんな味しかしなくては、二度と飲みたくなくなってしまう。どうしてなんだろう?
 
 結局、父と妻は意見が一致して、1位「明治」2位「昭和」3位「平成」4位「大正」。私は、1位「昭和」2位「明治」3位「平成」4位「大正」。「大正」がダントツの最下位だった。この結果から、「今の私たちは濃厚で芳醇なビールを飲みたいと思っているのではないのだろうか」、などと一応の結論を導き出してみたのだが、まったく信憑性はない。
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これから!!

 現実の反対語は幻想だろう。現実を知ってから、自分の今までの希望が幻想だったと知ることは往々にしてあることだ。しかし、問題はそれからだ。己の現状での力を知って、そこから這い上がっていこうとすることが大切なのだ。負けは負け、仕方ないことではあるが、それをしっかりと認め、己の力を見極めることが次へのステップアッップへとつながる。一度や二度の失敗くらいどうってことない。失敗することは何も恥ずかしいことではないし、悲しむことでもない。己の至らなかった点を教えてくれたのだと考えれば感謝の気持ちさえ持っていいくらいだ。失敗したことがない人などいない。大事なのは失敗した後だ。
 
 息子はセンター試験が思うようにいかなかったと嘆いている。しかし、これから私立大学の入試、さらには国公立大学の二次試験と、挽回のチャンスはいくらでもある。さほど落ち込む必要は何もない。とは言っても、私のように齢を重ねた者ならそう簡単に割り切ることはできるかもしれないが、わずか18年くらい生きただけの少年にはものすごい試練なのであろう。私自身は何とかそうした波を乗り越えてこれたのだが、今でも時々波の大きさにへこたれそうになってしまうので、わずか18の息子がこの試練に押しつぶされそうになっても仕方がない。かと言って、息子もこの試練を己の力一つで乗り越えられなければ、何の成長もない。私は、ただただ、頑張れと心の中で声援を送るのみである。己で乗り越えなければ、血や肉になってはくれないだろう。

 「天才とは努力しうる才だ、というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。努力は凡才でもするからである。然し、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。彼には、いつもそうあって欲しいのである。天才は寧ろ努力を発明する。凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るという事が屡々(しばしば)起こるのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌うからだということになろう。」
                       小林秀雄『モオツァルト』

私が息子にすまないと思うのは、彼を天才に生んでやれなかったことである。しかし、天才には天才の苦労がある。(勿論、凡才には凡才なりの苦悩があるはずだが)。しかし、そうした他人がうかがい知れない懊悩に足を踏み入れさせなかっただけでも、よかったと思う。たとえ、多少物覚えが悪かろうと、そんなことは大したことではない。他人に迷惑さえかけなければそれでいい。--そんなふうにずっと思ってきた。
 自分で採点を終えた息子は半ば自暴自棄になっていた。「ダメだ」「あ~あ、もっとセンターの勉強しておけばよかった」「最悪・・」、そんな言葉を連発していた。それを聞いた私や妻は、「いまさら何言ってるんだ、いまさらグズグズ言っても仕方ないだろう」と言い返してしまうが、息子の落ち込みはかなりのものだった。そんな姿を見れば可哀想になってしまう。しかし、私も受験のプロだ。何度もこんな修羅場は味わってきた。たとえ自分の息子であろうと、己の考えを曇らせるわけにはいかない。こんなときこそ私が落ち着いて構えていなければならない。今まで培ってきたものはこういう逆境のときにこそ、力を発揮するはずだ。泰然自若、この言葉を噛みしめなければならない。
 落ち着いて考えれば、何も変わっていないじゃないか。これから巻き返しの時間はたっぷりある。落ち着いて前を見据えて、焦らず一歩一歩進むだけだ。
 
 息子よ!春は近い、必ずやって来る。くじけるなよ!              

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