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よいこの泡びぃ~

 市内に大型酒販店「リカーマウンテン」が開店した。先日娘が帰ってきたときに「あっ、リカマンだ!」と叫んだそうなので、調べてみたら、滋賀県を発祥の地として、京都から愛知県にチェーン店を拡大している酒販会社なのだそうだ。娘は京都で友達とちょっとした飲み会を開くときには、「リカマン」へ買いに行くと言っていたそうなので、京都の学生の間では安い店と評判になっているのだろう。そんな話を妻から聞きながら、「リカマン」に行ってみた。いろんな酒がおいてあって、市内にある他の大型店よりは品揃えがいいかな、というのが第一印象だったが、ビールしか買わない私では、ワインや日本酒の値段を見ただけで安いのかどうか判断がつかない。すぐにビールの売り場に行ったところ、キリンの「一番搾り」350ml1ダースに4500余円の値札が付いていた。「高すぎない?」と妻に話そうとした瞬間に、そう言えば1週間ほど前に他店で「ビールが値上がりします」という貼り紙がしてあったのを思い出した。
「そう言えば、200円から300円上がるって書いてあったよなあ・・」
「そうだね。何でもかんでも値上がりするね・・」
新聞やTVでは3月からの値上げラッシュを連日報道しているが、ビールは一足早く値上がりをしたようだ。「上がる前に買っておけばよかった・・」などと後悔してももう遅い。だが、よく見ると、SAPPORO の「黒ラベル」は4100余円の価格で売られていたので、そちらを買うことにした。「黒ラベル」は「一番搾り」の次に好きな銘柄なので、400円も違えばそちらを買ってしまう。いくらなんでも1割近くの値上がりにはため息をつくしかない・・。
 しかし、ことはビールだけには収まらないから大変だ。あらゆるものが軌を一にして値上がりするようだから、いったいどうやってやり繰りしていけばいいのだろう。ガソリン価格の高騰がすべての原因ではないだろうが、経済の仕組みがよく分からない私では、高騰したガソリン価格を元凶にしたくなってしまう。年が明けてからの寒さで灯油の使用量がぐんと増え、ガソリンスタンドからの請求書にはべら棒な数字が書かれていた・・。まったくいやになる。
 こんなことばかり考えていると自棄を起こして酒でもあおりたい気分になるが、さすがにそんなばかげたことはできない。が、ちょうどいいものを店内で見つけた。「よいこの泡びぃ~」とラベルに書いてあった。


 「お酒ではありません」と書いてあるが、グラスに注ぐとビールのように泡が出るらしい。炭酸飲料だが、こんな飲み口だとラベルに描いてある。


 1本130円ほどだったので買ってみた。家に帰って早速栓を抜いたら、見たところはまるでビールだ。

 

 飲んでみた。確かに飲み終わると、思わず「プハ~」と言ってしまう。唇の周りに泡も付く。私が飲んでいれば誰だってビールと思うだろう。しかし、甘い、とにかく甘い・・。当たり前だろうけど、ビールのようにぐいぐいは飲めない。無理して330ml全部飲んだら、全身が甘ったるくなったような気がした。
 もちろんアルコールは0だから、酔っ払ったりはしない。だが、しばらくの時間いやなことを忘れて楽しめただけでもいいかな・・。
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春よ来い!

 寒い、雪がちらつく、いやになる・・。もう2月も終わるというのに、いったいいつまで寒いんだ、などとブツブツ言いながら、庭の片隅を見たら、福寿草が咲いていた。忙しさにかまけてのんびり庭を見る余裕もなかったが、春の足音が確実に近づいているしるしを見つけてほっとした。


 これで3年連続庭に咲いた福寿草の写真を載せた。毎年変わらず同じ場所に同じ頃に咲く植物をこうやって記録できるのも、ブログを続けているからだろう。それまではさほど気にも留めなかった福寿草にこうやって目が行くようになり、季節の移ろいを目で感じられるようになったのも、ブログの効用の1つだと思う。
 黄色の可憐な花弁を見ていたら、「福寿草」といういかにもめでたい名前にあやかりたいものだという気持ちが自然とわいてきた。息子の幼馴染で、高校までずっと同じ学校に通っていた子がいる。昨年は浪人覚悟で、難関大学を受けたものの不合格、捲土重来を期して一年浪人してがんばってきたのだが、今までのところ受験した私立大学から合格がもらえず、かなり追い込まれてしまった。予備校に通いながら、私の塾でも勉強を続けてきて、センター試験までは一応の成果を出してきたのだが、その後の踏ん張りがきかなかったのか、私大のセンター利用試験、一般入学試験と苦汁をなめ続けている。国立大学の前期試験は東京まで行って受験してきたが、帰宅後に自分としてはかなりの手ごたえを感じていた大学での不合格が判明して、とうとう私大の2次試験を受験せざるを得なくなってしまった。国立大の後期試験も残っているので、まだまだ合格できる大学はいくらでもあるはずだが、ここまできてしまうと本人がかなり弱気になっている。重圧を跳ね返せる気力をはたして取り戻すことができるかどうか、かなり心配である。そうは言っても、ここでプレッシャーに負けたら、この一年間がまるで無駄になってしまう、それどころか、またもう一年つらい受験勉強をしなければならない。そんなことは本人が一番承知しているだろうから、どうにかこの悪循環を自分で断ち切って、土壇場の踏ん張りを見せてくれ、と心から祈っている。
 息子の高校の同級生には浪人したものが多い。中高一貫教育の私立高校はどうしても自分たちの実力以上の大学を狙おうとする傾向が強い。息子も、昨年、センター試験で失敗するまでは訳の分からぬことを言っていたが、失敗を糧にして、私から見ても相当の努力を重ねていくつかの大学に合格できた。今はサークルでずっとスキー合宿にでかけ、ここ1ヶ月近く長野のスキー場で暮らしている。同じように育ってきて、竹馬の友とも呼ぶべき息子たちがこの一年でまったく境遇が変わってしまったのは、見ていてかわいそうに思うこともたびたびだった。しかし、とにかく1年頑張れば何とかなる、という思いでずっと頑張ってきた友人の姿を見てきた私には、何とかこの重圧に耐え、どんなことがあっても負けないだけの強い気持ちを持ち続け、最後の最後まで粘っていってほしい。
 息子のほかの友人の中には、一年間の努力が実っていくつかの大学に合格した子もいる。やはり最後は強い気持ちを持っている者の方が受験では思いをかなえられると思う。精神論など語るつもりはないが、何をやるにしても、必ずやり遂げるんだ!という強い意志を持ち、最後まで貫き通すことが大切なのは言うまでもないことだ。
 
 "It is always darkest just before the dawn." (「夜明け前が一番暗い」)などと英語のことわざを持ち出すまでもなく、必ず日は昇る。決して自棄にならず、これからが自分の真価の見せ所だと思って、雑念を振り払ってただただ一心に勉強してもらいたい。
 
 「春は来る、絶対に来るから、あと少し思いっきり頑張れ!!」
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過去の亡霊

 「みうらかずよし」と聞けば、現代ではサッカーの「三浦知良」を思い浮かべる人が多いのだろうが、私にとっては最近サイパンで警察に逮捕された「三浦和義」がまず最初に頭に浮かんでくる。いわゆる「ロス疑惑」で日本中が大騒ぎになった頃、ご多分に漏れず私も毎日TV報道に釘付けになっていた。「週刊文春」で疑惑が報道されたときから、毎週欠かさず「週刊文春」は買った。TVのワイドショーでは疑惑についてのレポートが毎日繰り返し放送されたので欠かさず見ていた。安っぽい推理小説のような気もしたが、まったくのフィクションとは違った妙な現実感があって、殺人事件という血生臭いものに熱中していた。三浦和義の特異なキャラクターが私の好奇心をひきつけたこともあるが、いつの間にか自分自身がレポーターになったような錯覚さえ起こして、あれこれ知ったようなことを言っていたような気がする。まさしく一時期の私の心を占めていた事件であり、報道によって三浦和義が銃撃事件の犯人だと決め付けていた私には、彼が裁判で無罪と判決されたときには、「どうして?」と大いに憤ったものだ。だが、ここ数年はそんな事件のことはまったく忘れていた。
 そんな私だから、三浦和義の逮捕の報をTVで知ったときには、何でいまさら?と心から驚いた。過去の亡霊など現れなくてもいいのに、と最近の彼の映像が流されるのを見ながら思った。だが、それと同時に、名状しがたい「懐かしさ」を覚えたのも事実である。まったくの他人であり、とても仲良くなれそうもない人物ではあるのに、どうしてそんな気持ちになったのだろう、不思議だ・・・。すると、昔TVや週刊誌で見知った彼の姿や言動がふっと頭に浮かんできた。25年以上も前の記憶が鮮やかに蘇ったのは妙な感覚だが、そのとき脈絡もなく浮かんできたことをいくつか書き留めておこうと思う。

 フルハムロード・・三浦が経営していた会社。三浦はずっと「三浦社長」と報道されていたような記憶がある。
 ペーズリー柄・・三浦がよく着ていたシャツの柄。童顔である彼がサングラスをかけてこの柄のシャツを着ていると、なんだか危ない人物に見えた。
 ジミー佐古田・・ロス市警の担当刑事。日系人だったが余り日本語がうまくなかったような・・。
 トゥナイト・・毎週決まった曜日に「ロス疑惑」特集を放送していた。週刊文春の記者も出演して、核心に触れる報道が多かった(と当時は思っていた)
 水の江滝子・・ターキーと呼ばれた女優。石原裕次郎を見つけ出したといわれているが、三浦の実の叔母。つながりに関しては諸説言われていたが、真相は不明。
 双子の姉妹・・確か銃撃された三浦の奥さんは双子だった。
 殴打事件・・この事件では三浦は実刑判決を受け、何年かの獄中生活を送った。
 ヘリコプター・・意識不明の奥さんを日本に移送したときに空港で発煙筒を炊きながら誘導していた彼の姿は忘れられない。パフォーマンスは芸能人並だった。
 
 なんだかゴシップ記事の切り抜きみたいで書いていていやになったからこれくらいでやめておく。思えば、この事件を契機にして事件の渦中にいる人物が積極的に報道陣の前に現れるようになったような気がする。今では格闘家でさえ、マイクパフォーマンスと称して試合後にあれこれ叫んだりする世の中だが、当時は自分の無実をマスコミを利用して明らかにしようなどという人間はいなかった。そんな草分け的な人物であると、三浦を評価(?)できるかもしれない。だが、逆に言えば、その頃から誰もが己のことばかり主張し始め、世の中が喧しくなったとも言えよう。そのおかげで現代では、「沈黙は金」などという格言はとうに忘れ去られ、「言いたいことは言わなくちゃ損」という空気が蔓延している。確かに言いたいことを言わないでおけば自分に不利になることはたくさんあるが、言ったほうが損になることだってある。なんでも損得勘定で判断するのもいやな話だが、「あえてここで止めておこう」という気持ちでいたほうが得な場合だってたくさんあるように思う。
 などとTVで三浦の顔を再び見るようになったここ数日思っている。
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TASPO

 私はタバコを吸わない。息子が生まれた頃に吸えなくなってしまい、それ以来1本も吸っていない。吸いたいと思ったことは1度もなく、まったくタバコとは縁のない生活を送ってきた。我が家では父一人が吸うだけであるが、その父が TASPO を申し込まなければならないから、免許証をコピーしてくれと言ってきた。タバコのことなどまったく頭にない私であるから、TASPO のことはつい最近新聞で知ったばかりだ。未成年者の喫煙を防止するために自動販売機での認証制度を始める--大雑把に言えばそんな制度だろう。写真と身分証明書のコピーを貼り付けて書類に名前・住所などを書き込んで郵送すれば、TASPO というICの認証カードが送ってくるらしい。私にはどうでもいいことだが、若い頃からずっと吸い続けている父には重大なことらしく、写真も撮ってきて準備に余念がない。
 「コンビニでまとめ買いすればいいのに」
といい加減なことを私が言っても、
「いざって言う時に困るだろう」
ともっともなことを答える。喫煙者にとっては、いつでもどこでもタバコが買えるという安心感を持っていることは大切なことなのかもしれない。世の中の趨勢が禁煙に向かっている中、逆風にもめげずにタバコを吸い続ける人たちには、ちょっとした悲壮感さえ感じてしまうのは、吸わない者の僻目なのだろうか・・。
 
 そんな折、喫茶店の中に設置されているタバコの自販機に TASPO の申し込み用紙が何枚も備え付けてあるのを見つけて、何気なしに一部もらってきた。家に帰って、どんなものかなと思いながら見ているうちに、私も TASPO を申し込みたくなってきた。何もタバコを吸おうという気持ちからではまったくなく、話の種に TASPO を持っていたら面白いじゃないか、などと野次馬根性が騒いだのだ。そう思い立つと、なんだか面白くなって急いで準備してみた。

 

 写真は携帯のカメラで撮って、それをプリントアウトした。インカメラで自分を撮るのは妙な気分になるが、わざわざお金を払って証明写真を撮りに行くまではしたくないから、携帯の写真で間に合わせておこう。後は免許証をコピーして、住所・名前などを書き込めば簡単に出来上がり。同封されている封筒に入れて投函すればいい。まあ、簡単なことだ。私の住む愛知県では6月から TASPO が導入される予定だから、今出せば十分間に合う。すぐにでも投函して楽しみに待つことにしよう。
 でも、タバコをすわない者が持っていて一体どういう使い道があるというのだろう。身分証の代わりになるかもしれないが、常時持っている免許証があれば事足りる。せいぜい TASPO を携帯するのを忘れた人の代わりにタバコを買うことくらいにしか利用できないだろう。それも承知で申し込むのだから、ただただ話題作り・ブログのネタ作りのためだけである。それはそれで私には大事なことだから十分意味のあることだ。
 だが、このシステムの導入で一番困っているのは未成年の喫煙者たちだろう。昔ほど高校生や中学生がタバコを吸っているのは見かけなくなったが、一部のやんちゃな少年の間ではまだまだタバコは彼らの identity には重要なアイテムになっているから、自販機での購入が難しくなるというのは由々しき事態であろう。多くの少年がどうやってタバコを買おうかと、一生懸命考えをめぐらしているかもしれないが、何にせよ頭を使うのは大切なことだから、彼らの脳を活性化できる点だけでも TASPO の導入は意味あることのように思える・・。

 実際に TASPO が送られてきたら、またここで報告しようと思っている、ちょっと楽しみだ。
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THE POLICE

 THE POLICE の東京ドームで2月13日に行われたライブを WOWOW で見た。見たというか聞いた。ずいぶん前から THE POLICE が復活して日本で公演するのは知っていたので、WOWOW でその模様が放送されるのを知った時からずっと心待ちにしていた。土曜の夜の放送塾の授業があって見られないため、録画したものを見たのだが、ボーカル兼ベースのスティングとギターのアンディ・サマーズ、ドラムのスチュワート・コープランドの3人ですべての曲をまかない、バックコーラスや伴奏がまったくいないのには驚いた。コンサートと名の付くものには行ったことない私であるから、果たしてこんなステージがよくあるものかどうか明らかではないが、シンプルでありながら重層的な響きを奏でる3人の音楽的クオリティーの高さには驚いた。スティングののびのある歌声は、容姿に多少の老いは隠せないものの、かつて私が親しんだ頃とほとんど変わっていない。ギターのアンディ・サマーズが中年太りした印象と比べれば、筋骨隆々としたスティングは56才とは思えないほどのマッチョでかっこよかった。
 「Message in a Bottle」から始まったコンサートは、東京ドームに行かなかったことを後悔させるのに十分な迫力があった。よりによって私が一番忙しい時期に来日しなくてもいいのに・・、と少しばかり恨めしく思ったが、こうやってTVで見られたのだからまだ幸運だ、とあきらめることにした。次々と演奏される曲すべてが口ずさむことのできる曲ばかりで嬉しくなる。私が一番好きな「Wrapped around Your Finger」がステュワートの見事なアレンジで流れ始めたときには全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。すごい・・・。その後はもう、3人の奏でる魔力に身を任せているだけで、あっという間に最後の「Every Breath You Take」までたどり着いてしまった。東京ドームに詰め掛けた多くの聴衆たちもの過ごした濃密な時間を思うと、またまた羨ましくなったが、TVで見ても十分満足できた。
 
 私とTHE POLICE との因縁は彼らが初来日した1980年まで遡る。彼らは2月20日になんと京大西部講堂でコンサートを開いた。当時学生で、西部講堂付近のクラブボックスを根城に毎日その近辺を彷徨していた私は、その日ついぞ見かけたことのない長蛇の列ができているのに驚いた記憶がある。白塗りの怪しげな舞台芸術家たちが跋扈するのは日常見慣れていたが、ロッカーと思しき人たちが列を成す光景は珍しくて今でも鮮明な記憶として残っている。西部講堂自体がかなり怪しげな建物であるから、どうしてあんな音響設備が整っていない所で天下の THE POLICE がコンサートを開いたものかいまだに理解できないが、クラブボックスでマージャンをしながら彼らの楽曲を小耳に挟むことができたなんて、今となっては歴史的な体験であり、数少ない私の自慢話の一つとなっている。


 これが現在の西部講堂の雄姿のようだが、私が学生だった頃とほとんど変わっていない。ただ屋根瓦に描かれた3つの星が目立たなくなっている。私が学生の頃は、時計台の「竹本処分粉砕」という意味不明な文字とともに学生運動の名残として象徴的な存在であったが、そんなことを知る学生は今ではほとんどいないだろう。西部界隈に出入りしている我が娘が、親の薫陶よろしくかつての歴史を紡ぐ細々とした縁であるくらいだから、さほど経たないうちに忘れ去られてしまうことであろう。

 THE POLICE の西部講堂でのコンサートは宵闇迫る頃から始まった記憶がある。クラブボックスに集まった雀友たちも見慣れぬ多くの人出に興奮したのか、雀卓をはさんで激しい攻防が繰り広げられたように思うが、それも今となっては懐かしい思い出の一つとなってしまった。
 
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 雑誌「BRUTUS」を買った。こういう雑誌はめったに買わないが、表紙に我が家の愛犬弁慶と同じ顔をした秋田犬の写真が飾られていて、「犬のこと」と漠然と書いてあったりしたから、何かな?と思わず買ってしまった。犬に関する当世事情や「犬検定」なるものもあって、なかなか面白い内容になっている。その中で、映画「犬と私の10の約束」の原作・脚本を手がけ(そんな映画はよく知らないけど)、ソフトバンクのCMも作った澤本嘉光という人物が、自らが感じている「犬にまつわる10の違和感」について語っている記事があった。なるほど、と私が普段から感じているのと同じような意見がいくつかあったので、それについて私なりの考えを以下に記してみようと思う。

1.都会で暮らす犬は幸福か。 
 幸せかどうか犬に聞いてみなければ分からないが、生まれてきた以上生きていくに足るだけの食べ物が人から与えられるという状況は、無駄に殺されてしまうより余程幸せなような気がする。と言っても、これは人間としての感想なので、犬がどう思っているかなどは私には分からない。
2.犬の気持ちが分かるという言い方。
 1と関連しているが、少なくとも私には犬の気持ちは理解できない。例えば、弁慶を散歩に連れ出そうとすると、嬉しがるのは分かるが、何故クルクル回り続けるのか分からない。嬉しさ余って私に噛み付きそうになると、「いい加減にしろよ」と思わず叩いてしまう・・。弁慶も私の気持ちが分からないだろうな。
3.ペットショップで犬を買うこと。 
 これは現代の日本では仕方ないことだろう。よその家で生まれた犬をもらうなんてことは今ではなかなかできない。去勢した犬も多いだろうし、放し飼いなどしていないから、交配施設で半ば人工的に妊娠させるのが普通になっていて、昔のように子犬が道端に捨てられるなんてことは滅多に見なくなった。私が子供の頃は交尾している犬をよく見かけたものだが・・。
4.飼われているのはほとんど洋犬。
 私の家では、昔ボクサーを飼っていた。洋犬といえば洋犬だが、たいして和犬と変わらなかった気がする。確かに洋犬には人間の手が色々加わっていて、愛玩犬として人気があるだろうが、私個人の趣味からいえばあまり好きではない。しかし、人の言うことをよく聞くという犬としての特徴を持ってさえいれば洋犬とか和犬とかいう区別はさほど意味がないようにも思う。
5.室内で犬を飼うこと。 
 ミニチュアダックスやチワワを室内で飼うことには違和感を感じない。あんな小さな犬を室外で飼ったりしたらかえって違和感を感じる。それらは室内で飼うために作り出された犬種のような気がする。適度に散歩に連れて行くなら、そうした小型犬を室内で飼うのは至極当然のような気がする。もちろんゴールデンレドリバーなどの大型犬が室内にいたりしたら、驚いてしまうが・・。
6.犬に服を着せるということ。
 これは嫌だ。時々服(?)を着せた犬を散歩させている人を見かけるが、毛皮という十分な服を着ている犬にもう一枚余分に服を着せるというのは、どう考えても自然の摂理から外れているように思う。犬が生まれ持った力を損なうような気がして仕方がない。もしそんな飼い主が犬の気持ちが分かると言ったとしても、あまり信用したくない気がする。
7.年間118,000匹の犬が処分されている。 
 時々ペットショップを覗くと売れ残って大きくなった犬がいる。ショップはそうした犬をどうしてるんだろうと心配になったことがある。この数字を見れば、やはり売れ残った犬は処分されるんだろうな、と悲しくなった。もちろん諸般の事情があってやむをえないことも十分理解できるが、それでもやっぱり悲しい数字である。
8.犬は家族であるということ。 
 私にとって弁慶は、家族の一員であるとまでは言えない。弁慶は犬であり、人間ではない。人間でないものを家族と認めるのには少々抵抗がある。弁慶はかわいい、しかし、いつも一緒にいたいとは思わない。よく買い物に犬を連れてくる人たちを見かけるが、どうしても理解できない。家族の一員だから当然だと言うのだろうが、犬の嫌いな人だっているのだから、その辺りはきちんと弁えてほしい。
9.犬を飼うことを否定すること。 
 犬は、家族ではないが、友人にはなれる。気持ちは分からないが、仲良くはできる。服を着せようとは思わないが、時々は体を洗ってやる。そんな犬と時間を共有することは楽しい。思えば、私の家にはほとんど間断なく犬がいた。犬のいない生活っていうのは考えられない。 犬は「飼う」ものであって、そこに「いる」ものではない。
10.犬を猫かわいがりすること。 
 犬と楽しく暮らすには、やはりきちんとした躾をすることが大事だと思う。犬中心の生活など私にはできない。当たり前だが、人間あってのこの世の中だから、「お犬様」のような扱いをすることなどできない。甘やかすと付け上がるのは、犬に限ったことではないが、時には厳しい態度で臨まなければならないのは犬と接する上で大事なことだと思う。

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野菜ジュース

 朝食は相変わらず菓子パン1個で済ませているが、それと一緒にここ数ヶ月野菜ジュースを飲んでいる。それまでは菓子パンだけで何も飲んだりしていなかったが、どういうきっかけだか忘れたが、200ml入りの紙パックに入った野菜ジュースを1本ずつ飲むようになり、案外おいしかったものだから、それからずっと愛飲するようになった。最近ではペットボトルを買ってきて、それを数日に分けてラッパ飲みしている。

 

左が「野菜一日これ一杯」、右が「野菜生活100 オリジナル」、どちらも KAGOME の製品である。この2種類を交互に飲んでいる。
 

 この「野菜一日」には25種類の野菜が入っている。「にんじん、トマト、赤ピーマン、メキャベツ(プチヴェール)、はくさい、ケール、セロリ、アスパラガス、ブロッコリー、パセリ、ほうれん草、クレソン、たまねぎ、レタス、キャベツ、モロヘイヤ、かぼちゃ、ビート、だいこん、小松菜、しょうが、紫いも、あしたば、なす、ごぼう」と表示されているが、これだけ入っていると飲んでも何の味がするのかまったく分からない。コップ1杯(180ml)に350g分の野菜を使用しているらしく、飲むと濃縮された野菜がどっと口の中に入ってくる。それが原因で、最初のうちは飲むたびに「おえっ」と戻しそうになったが、我慢して飲んでいるうちに徐々においしく思えてきたから不思議だ。味はともかく、「日ごろ不足がちな食物繊維、カルシウム、鉄を補給することができます」とも書かれているから、体にいい飲み物なのだろう、やっぱり。
 

 もう一方の「野菜生活」には、21種類の野菜と3種類の果物がブレンドされている。野菜は、「にんじん、ほうれん草、アスパラガス、赤ピーマン、小松菜、クレソン、かぼちゃ、紫キャベツ、ブロッコリー、メキャベツ(プチヴェール)、ビート、赤じそ、セロリ、レタス、はくさい、ケール、パセリ、なす、たまねぎ、だいこん、キャベツ」、果実は「りんご、オレンジ、レモン」が入っていると表示がある。にんじんをメインにしているようで、「香味の良いオーストラリア産にんじんと、栄養価の高いアメリカ産にんじんなど、畑から選び抜かれた上質なにんじんを使用」と食材にこだわりを見せている。果物が3種類混ざっているのは一口飲めば、フルーティーな味わいからすぐに分かる。「野菜一日」の写真と比べてみれば一目瞭然だが、濃厚さが少なく、やわらかな飲み口ですんなり飲むことができる。

 最初の頃は「野菜生活」のほうが好きだったが、だんだんと物足りなくなってきて、今では「これぞ野菜ジュース!」と呼べる「野菜一日」の方が好みになってきた。それが高じて、以前は塾が終わって家に帰ってくると牛乳をコップ一杯飲み干していたのが、野菜ジュースに変わるようになった。野菜ジュースなどそれ以前はまったく飲んだことのなかった私がこれだけ野菜ジュースにはまり込むとは思ってもみなかったが、この年になって新ジャンルを開拓できたのは喜ばしいことだ。
 好き嫌いが激しく、偏食気味の私ではあるが、思い切って試してみれば意外な味に惚れ込むことが他にもあるかもしれない。いろいろ試してみるべきなんだろう・・。

 でも、鶏肉だけは絶対にNO!!

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卒業旅行

 免許証の書き換えをするために娘が帰ってきた。書き換えは誕生日を過ぎても1ヶ月間はできるそうで、卒論の提出で誕生日前には帰ってこられなかった娘もぎりぎりに間に合った。でも、免許習得後初めての書き換えには講習を2時間受ける必要があり、それは申し込んで1週間後に受講する決まりになっているということを市内の警察署に行って聞いてきた娘は、愕然としていた。とてもそんな時間に余裕のない娘は、名古屋にある運転免許試験場まで行けばその日のうちに講習が受けられることも教えてもらって、そちらに向かうことに決めた。しかし、いかんせん、道などまったく知らない娘であるから、そんなところまで一人で車を運転して辿り着けるはずもない。急遽母親を帯同して出かけて行ったが、無事着いた試験場では、講習中に居眠りを講師に見つかり、再三注意を受けながら何とか書き換えを済ませたそうだ。
 「もっと下調べをきちんとしろよ」、と文句を言ってやったが、来週からは卒業旅行と称してオランダあたりに出かけるそうなので、そちらの準備で頭がいっぱいなのかもしれない。
 「オランダに行ったら、フェルメールの家の写真撮ってきてよ」
 「行かない。アンネの家には行くんだけどね」
 「アンネって、アンネ・フランク?」
 「そう」
 「ドイツじゃないの、アンネって?」
 「オランダらしいよ」
 「へえ、知らなかったなあ」
 「それとレンブラントの『夜警』は見てくるけどね」

一瞬「夜景」かと思った。「オランダって夜景がきれいなのか」とたずねようと思ったが、すぐに『夜警』だと気づいてバカにされずに済んだ。ちなみにこんな絵だ。


 しかし、大学に入ってこれが何度目の海外旅行だろう。イタリア・スペイン・アメリカ・台湾・・・まだどこかに行った気もするが覚えていない。もう22だから、「どうぞご自由に」って感じだが、まだ後2年は世話しなきゃいけないから大変だ。
 正月に帰ってきたときは私に対して刺々しさが弱まって、妙にかわいらしい娘になっていたが、今回もそれは続いている。

 「バレンタインのチョコ!」と言って渡してくれた。毎年もらうが、今年は抹茶の生チョコだった。
 「何で抹茶なんだ?」とたずねたら、
 「京都らしくていいと思ったんだけど・・。おいしいって話だったし」
一つ食べてみたら、抹茶の味はあまりしなかったが、おいしい生チョコだった。今年はこれだけでなく、京都・出町ふたばの「豆もち」もおまけについてきた。


 久しぶりに食べたが、やっぱりおいしい。

 土曜の朝には京都に戻り、旅行の準備をするそうだ。いくら旅慣れていると言っても、やっぱり外国は日本とは違う。決して気を緩めずに楽しんでくるよう、忘れずに言わなくちゃいけない。

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「スウィーニー・トッド」

 映画「スウィーニー・トッド」を観た。長い間、ロバートデニーロとアルパチーノしか外国人俳優を認識できなかった私にとって、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック船長は3人目の贔屓の外国人俳優になった。とは言え、「パイレーツ」以外には「チャーリーとチョコレート工場」の怪しげなジョニーデップしか知らない私では、彼について何も知らないのと同じようなものだが、それだけにこの「スウィーニー・トッド」は必ず観たいとずっと思っていた。私立中入試が終わり、少しばかり息がつけるようになったこの頃を利用せねば上映が終わってしまうかもしれないと少々心配になり、妻を誘ってみた。しかし、「喉切るやつでしょう・・、見たくないなあ」となかなか承知してくれなかった。一人で映画館など行ったことのない私であるから、ここで引き下がったらもう観られない!、とさらに粘ったら何とか付き合ってもらえた。

 舞台は19世紀のロンドン。夏目漱石が留学した頃のロンドン。陰鬱な空と淀んだ空気、まさにここでしかこの猟奇的な殺人者は現れないだろうと思わせるに十分な舞台だ。そのロンドンに、15年前判事の奸計によって無実の罪を着せられ、辛酸を嘗め尽くしたジョニーデップ扮する理髪師スウィニー・トッドが戻ってくる。かつては妻と娘と暮らした家にたどり着いた彼は、妻がその判事に陵辱された挙句にヒ素を飲み、娘は判事の下で幽閉されていることを知り、復讐の刃を研ぎ始める。銀の剃刀の切れ味は鋭く、一閃すれば人の喉をかき切り黄泉の国へと送り届ける。しかし、いったん掌中に収めた判事の命をすんでのところでとり逃した彼は、理髪店にやって来る客を銀の剃刀の餌食としながら、再び判事と見える機会をじっと待つ・・・。
 こうしたストーリーではあるが、観ていてさほど恐怖を感じなかった。確かに喉をかき切り、血が吹き出すシーンが何度も繰り返されるが、身の毛のよだつような感覚は味わなかった。何故だろう?昨秋「パンズ・ラビリンス」を観た時には残虐なシーンに生理的に耐えられず、何度も目をつぶってしまったが、この「スウィーニー・トッド」ではそこまでは感じなかった。それに関して妻が面白いことを言った。「パンズはファンタジーの世界と現実の戦争の場面が交互に描かれていたから、想像と現実との切り替えがあったぶんだけ、現実の戦争のむごたらしさが強調されたんじゃないのかなあ・・」なるほど、そうかもしれない。「スウィニー・トッド」は一貫して19世紀のロンドンでの出来事を描いたものだから、観ているうちにこれは限られた世界で起こった特異な事件であると感じることで、自分が生きているこの現実世界とのつながりが次第に薄まり始め、同時にそこから受ける恐怖感も弱まっていったのかもしれない。R-15指定にするまでもないかな、などと思ったりもしたが、それは年をとって擦れてしまった私の感覚が鈍くなっているだけで、首を剃刀でかき切る場面などは子供たちに見せるべきものではないと思い直した。

 観終わった今、これは復讐劇なんだろうかと自問している。奪われた15年間と失った妻と子に対する無念を晴らすための劇なのだろうか。もしそうなら、スウィーニーが判事をめった刺しにした瞬間に物語は終わったはずだ。万感胸に迫る表情で宿願を果たした喜びに溢れるジョニーデップを大写しにして終わってもよかったはずだ。しかし、この物語の真の悲劇はこの時から始まる。時間にすれば、最後の10分ほどの場面だが、その短い間に復讐劇は愛の悲劇へと昇華する。自らが手にかけた女性を抱きながら、自らも死へ赴くスウィーニーから滴り落ちる血潮が女性の顔にかかるのを見て、それが真っ赤な涙のように見えたのはあながち私の錯覚だけではないように思う。
 そのとき私は、毒をあおったロミオの後を追って、彼の剣で自らの命を絶ったジュリエットがロミオの骸の上に斃れ伏す場面を思い出していた。
 「悲劇は1つの物語として完結していなければ人の心を打たない」
ラストシーンを見ながら、思わず涙ぐんでしまった私の胸の内は、こんな思いでいっぱいになっていた。
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お笑い

 かつて大江健三郎が「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」と問いかけた。時代は移り、TVでお笑い番組が氾濫する現代の日本では、「悲劇に悲しむ人々の前でお笑いは有効か?」という問いを発すること自体「空気が読めない」証拠なのかもしれないが、それでもイージス艦が漁船にぶつかった昨日の昼、ニュースが終わった後で「笑っていいとも」にチャンネルを変えたら、そんな問いかけがふっと頭に浮かんできた。確かにイージス艦の事故はスタジオ・アルタに詰め掛けて大笑いする人たちには関係のない話かもしれない。漁船に乗っていた親子の家族に防衛省や内閣の主だった人たちが謝罪してなし崩しに終わってしまう事件かもしれない。「そうじゃないだろう!」と声を荒げても、現代ではもっと大きな声にかき消されてしまう。そんな危なっかしい世界に生きているんだなあ、とこうした事件報道に接するたびに実感する。が、そんなものはその一瞬だけで、すぐに己の日常に埋没していってしまう・・、それが生きていくことなんだから仕方ない、などと言い訳めいた思いも浮かんでくるが、自分の顔を鏡で見る余裕もない暮らしを毎日しているのが実情だ。自分のことで精一杯だ・・。
 だが、こうしたことが少しずつ積もっていって、大きな鬱屈になるとするなら、どこかでガス抜きをすることがどうしたって必要だ。己が抱える鬱屈を忘れるためではなく、その鬱屈に立ち向かう気力を取り戻すためにも、何か己をリフレッシュする装置が必要なはずだ。それが古来から「命の洗濯」と呼ばれてきたものであろうが、それは人によって様々で、旅であったり、観劇であったり、友との馬鹿騒ぎであったりする。しかし、そうしたちょっとばかり大仕掛けなものではなく、簡単に「命の洗濯」ができるものは何かないかと考えてみたところ、「お笑い」というものが浮かんできた。それも小難しいことなど何も差し挟まぬ、頭の中を空っぽにして涙が出るほど笑い転げられるもの、そんなバカらしいお笑いがいい。
 
 そう思うと、この前の日曜日のフジTV系列の夕方からの番組はすごかった。4時から「R-1ぐらんぷり」が1時間半、7時から「レッドカーペット」が3時間、何がなにやら分からぬままに怒涛のように過ぎていった夜だった。「R-1ぐらんぷり」では芋洗坂係長なる見たこともないピン芸人が怪演で2位に入り、鳥居みゆきは何かに憑りつかれたのか?と言いたくなるようなアブナイお笑いを披露してくれた。優勝したなだぎ武はやっぱり面白かったが、残念なのは世界のナベアツを見落としたことだった。3位に入ったが、悔しそうな顔をしていたのでかなり自信はあったのだろう。
 その残念な気持ちも、「レッドカーペット」で2回も彼のネタを見ることができたのですっきりした。他にもアントキノ猪木、しずる、バナナマン、柳原可奈子などなどが息も切らせぬスピード感で次々と登場し、ずっと大笑いさせてくれた。1年程前にはこのレッドカーペットで、初めてムーディー勝山を知って思わずこのブログの記事にしたが、今回はエド・はるみという女芸人に驚いた。昭和39年生まれの彼女が若手芸人として売り出し中だというのもおかしい。



 ネタのおかしさもさることながら、彼女の外見から受ける印象とのギャップがいい。私が生きているこの世界とは次元の異なる世界に生きているような芸人が私は好きだ。

 笑い飛ばそうと思っても笑い飛ばせないことはいくらでもある。イージス艦に衝突された漁船に乗っていた漁師親子は私はいまだ行方不明だ。こんな現実を笑って忘れようなどと言いたいわけではない。かと言って、自分のこととして受け止めようというのも偽善的に思えてしまう。こんな私のような人間は中途半端なところでヘラヘラしながらどっちつかずで生きていくことしかできないが、それでもやっぱり知らないうちに心に重しができてくる。そんなときには思いっきり笑わせてくれるお笑いで我を忘れられれば一瞬なりとも爽快な気分になれる。などと言ったら、自分のことしか考えていないと顰蹙を買いそうだが、生きていくって現実的にはこんなものかな、とちょっとシニカルになったりもする。
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