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ホームラン、松井!

 日曜日に師匠さんからお借りした、「松井秀喜東京ドーム全ホームラン」という番組を録画したDVDを見た。1時間30分の番組を2回にわたって2枚のDVDに録画されたものだが、コピーワンスなため、わざわざ御自分の物を貸して下さった。日本時代の松井のすごさを再認識させられる貴重な映像を見ることができて、師匠さんには心から感謝している。
 ホームランのシーンばかりだから素晴らしいのは当たり前だが、それにしてもすごい。ヤクルト高津投手から打った初ホームランに始まって、同じヤクルト五十嵐投手から打った最後のホームランまで、合計146本のホームランを見ながら、何度「すごい!!」と声を上げたことだろう。松井のホームランといえば高い弾道を描きながらスタンド最上段まで達する豪快なホームランを思いがちなのだが、低いライナーでスタンドまで一直線というホームランがかなりの本数あったのには、意外な気がして驚いた。ヤンキースタジアムならば、きっと2塁打になってしまうだろうが、弾丸ライナーのホームランも松井の力強いスイングあってのものだろうから、今年はそんなバッティングをしてくれたらなと、思わずにはいられなかった。
 1993年から2002年までの松井の姿が収められていて、年々松井の体格が立派になって行くのが分かり、それもまた興味深かった。顔のでかさは今と同じくらいだろうが、それを支える上体や足腰が時が進むに連れて、太く逞しくなっていく。それに比例してホームランの数も多くなっていくのだから、体を鍛えながら、バッティングフォームを改良していった松井の努力がそこに表れているようで、彼の野球に対するひたむきさに改めて心打たれた。それでも、現在の松井の堂々とした体躯と比べればひ弱な感は否めないから、今の松井のすごさは日本時代とは比べものにならないだろうな、と実感できた。
 そう言えば、変わらないものがもう1つ見つかった。声やしゃべり方が今と余り変わらないのは当然かもしれないが、ヒーローインタビューを受けるときの様子が新人の頃から堂々として立派なのには驚いた。持って生まれた風格のようなものが感じられ、ゴジラと呼ばれるのにふさわしい男なんだなと改めて感心した。
 
 今年のヤンキースは、デーモン選手が加わって、予想されるラインナップが以下のようだと言われている。
            OBP(出塁率)
 1.デーモン    .366     
 2.ジーター    .389
 3.Aロッド     .421
 4.ジアンビー   .440
 5.シェフィールド .379
 6.松井      .367
 7.ポサダ     .352
 8.Bウィリアムス .321
 9.カノー      .320
松井が6番バッターというのは、はっきり言って納得できないが、活躍すれば打順はすぐに変わるだろうから、余り気にしないでおこう。しかし、この打順ですごいのは松井の前を打つ5人の出塁率の高さだ。1番から5番まで全員3割6分を越えている。単純に考えて、松井が打席に入るときにはランナーが1人か2人出塁している確率が高い。そこでどういうバッティングができるかが今年の松井の評価を決めるポイントになるだろう。トーリ監督も、「ヤンキースのユニホームを着ている以上、目標はつねにワールドシリーズ制覇である」と言い、今季の松井に求めるものは「走者を置いての勝負強い打撃」と話している。松井は、これまでヤンキース3年間、毎年100打点以上を記録し、クラッチヒッターと呼ばれるようにもなったが、今年はヤンキースの主力としてさらなる飛躍を求められる。打点王を取れ、という新聞記事も目にしたことがあるが、それくらいの活躍はしてほしいし、必ずしてくれるものと信じている。もちろん、東京ドームで放った数々のホームランに負けないくらいの豪快なホームランを何本も打ってくれるように願っている。
 もうすぐ、オープン戦が始まる。しっかり調整して、今年一年間万全の体調で臨んでほしい。しっかりした準備さえできれば結果は自ずとついてくるものだと私は信じている。頑張れ、松井!!
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日本の3択(2)

 2月9日に、毎日新聞創刊135周年を記念して現代の日本人像を探るために「日本の3択」と題する企画があったことを記事にし、その10の質問を掲載した。その集計結果が21日付けの朝刊で、別刷り12ページにも及んで特集されていた。一週間近くも前になるが、結果を知らせずにおいては片手落ちになると思い、以下に写してみる。
 
「日本を考える」 総回答数 4万2662件(携帯電話・インターネットによる)
①温泉に入る時、タオルはどうしますか?
  ・頭にのせる(51%)  ・湯船の中(10%)  ・タオル掛け(38%)
②昨日の夕飯は誰と食べましたか?
  ・家族(58%)  ・友人(11%)  ・1人で(31%)
③働く動機は何ですか?
  ・生き甲斐(28%)  ・お金(65%)  ・日本人の義務(7%)
④未来の子どもに残したいものは?
  ・美しい国土(30%)  ・有数の経済力(8%)  ・安全な社会(62%)
⑤これからも大切にしたい言葉は?
  ・ありがとうございます(90%)  ・いただきます(5%)  ・こんにちは(5%)
⑥今の日本の国民的スポーツは?
  ・野球(58%)  ・サッカー(28%)  ・大相撲(14%)
⑦これからの食に求めるものは?
  ・安全性(65%)  ・健康(24%)  ・美味しさ(12%)
⑧家の中で一番落ち着ける場所は?
  ・和室(51%)  ・洋室(43%)  ・キッチン(6%)
⑨高齢社会と聞いて連想するのは?
  ・介護(60%)  ・年金(28%)  ・医療(13%)
⑩国内旅行の魅力は?
  ・食(43%)  ・景観(40%)  ・歴史(17%)

設問自体にあまり面白味がないから、この集計結果を見ても大した感慨も湧かないが、一応これから現代の平均的日本人像を作り上げてみると、

「一日お金のために働き、帰宅すると家族とともに夕食を食べる。食べ物にはおいしさよりも安全性を求め、健康にも留意している。家の中では和室が一番落ち着くことができ、国民的スポーツはやはり野球だろうと思っている。家族、とくに子供たちには『ありがとうございます』と言う心を大切にするように話し、安全で住みよい社会を彼らに残していかなければならないと考える。高齢化社会が進行する中で、介護の問題が重要な課題であると思っている。
 たまには国内旅行に出かけ、その土地の美味しい食べ物に舌鼓を打ち、景観・温泉なども楽しみにしている。その時には、湯船にタオルを持ち込むなどという非常識なことはしない」

 なんだかこじんまりとした日本人像ができてしまったが、設問の関係上こうならざるを得ないだろう。毎日新聞はこうした日本人像を読者に提示することで、何を訴えようとしたのだろう。私にはよく分からない。
 しかし、別刷りの新聞としては、かなり読み応えがあった。2面に及ぶ養老孟司の「考えるということ」という文章はそれなりに興味が持てた。10の設問ごとに、各分野の人々10人がそれぞれ関連した話題を述べているのにも納得いくことが多かった。その中でも、永六輔の「気持ちよければいい言葉」という文はさすがだと思った。
 
 「言葉に正しさを求めないでください。正しい日本語なんてありません」
 「悪い言葉、汚い言葉がはやっても、それはそういうもんなんです。日本語が乱れているからどうしろ、こうしろ、という動きの方がよっぽど危険です。そんなことより、『読み』『書き』『算盤』の復活。日本の未来が明るくなる」 

沢村貞子もそうだが、江戸っ子は歯切れがいい。
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「断絶」

 私は井上陽水の古いファンである。彼が、アンドレ・カンドレと名乗っていた時期は知らなかったが、井上陽水として再デビューを果たしたすぐ後から彼のことは知っていた。たぶん、ラジオで再デビュー曲「人生が二度あれば」を聞いたのが最初だったのだろうが、張りのある高音で切々と歌い上げるその歌は、私の心を一瞬で虜にしてしまった。ファーストアルバム「断絶」をすぐに買って、何度も何度も繰り返し聞いた。当時中学2年生だった私は、「井上陽水って歌手はすごいよ」と友人たちに吹聴して回ったのだが、誰もその名前を知らなかった。「一回聞いてみてよ」と言っても、彼の曲がラジオで流れることは余りなかった。
 しかし、陽水がその頃ラジオ番組に出演したのを私は聞いたことがあった。全くの偶然だっただろうが、前田武彦が司会をする番組だったと記憶している。毎回2人の歌手が出演し、クイズか何か遊びごとをして、勝った方の曲が流れるといった内容だった。陽水は2、3日続けて出演したのだが、一度も勝てずに彼の曲は流れずに終ってしまい、大いにがっかりしたことを今でも覚えている。司会者が話をふっても、ぼそぼそとしか答えず、およそラジオ番組には不向きな一面を見せていた。現在、時々テレビ番組で見かける飄々としたイメージなどまるでなく、朴訥とした雰囲気が、初めて陽水の話し声を聞いた私には、新鮮で好ましく思えたものだった。
 陽水には名曲が数知れないくらいある。アルバムで言っても、「氷の世界」「9.5カラット」「GOLDEN BEST」の3枚がミリオンセラーとなっている。しかし、私にとっての陽水のベストアルバムはなんと言っても「断絶」である。その中に収録されている「断絶」「感謝知らずの女」「人生が二度あれば」「愛は君」「限りない欲望」「傘がない」は私の10代を象徴する曲だと言っても過言ではない。ならば、その中で今すぐに聞きたい曲はどれだと問われたならば、かなり迷うが、やはり「人生が二度あれば」をリクエストするだろうと思う。

 「人生が二度あれば」
父は今年二月で 六十五
顔のシワはふえて ゆくばかり
仕事に追われ
このごろやっと ゆとりが出来た
父の湯飲み茶碗は 欠けている
それにお茶を入れて 飲んでいる
湯飲みに写る
自分の顔を じっと見ている
人生が二度あれば
この人生が二度あれば

母は今年九月で 六十四
子供だけの為に 年とった
母の細い手
つけもの石を 持ち上げている
そんな母を見てると 人生が
だれの為にあるのか わからない
子供を育て
家族の為に 年老いた母
人生が二度あれば
この人生が二度あれば

父と母がこたつで お茶を飲み
若い頃の事を 話し合う
想い出してる
夢見るように 夢見るように
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
この人生が

私はこの曲をはじめて聞いた時、自分の心情を何の衒いもなく、ここまで素直に歌い上げた陽水に心から感動した。私の父と母の誕生日が歌詞と同じように2月と9月であったため、余計に身近に感じられたのかもしれないが、この詞だけで陽水の誠実で真摯な人となりが分かったような気がして、以後ずっとファンを続けている。
 陽水の曲作りで、面白い逸話がある。昭和55年発行の角川文庫、阿佐田哲也著「牌の魔術師」の解説を陽水が書いている。と言っても、本の内容には一言も触れずに、阿佐田哲也との交友録とも言うべき一文になっているのが陽水らしい。阿佐田から、「どうだね、純文学でも書いてみないか」と誘われた彼は次のように答えたという。

 「いままで歌の詩ばかり作ってきたせいでしょうか、言葉を削るのはいささか自信めいたものもなくはないのですが、これを広げるとなるとどうも・・・」

 陽水の曲が全てこういう思いをしながら作られたわけではないだろうが、陽水の曲作りの一端がほの見えたようで興味深い。
 言葉を削ることと広げること、イマジネーションを削ることと広げること、はてさてどちらが難しいのだろうか。
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「銀齢の果て」

 筒井康隆の最新刊「銀齢の果て」を読んだ。久しぶりに筒井を読んだが、その内容は凄まじいものだった。実を言えば、もう10日ほど前に読み終えて、もっと早く感想を記そうかとも思ったのだが、内容に圧倒されてどう評すればよいのか、心の整理がなかなかできなかった。今でも大したことは書けないだろうが、無理を承知で試してみる。
 時はいつのことだろう。はっきりとは記されていなかったと思うが、「今や爆発的に増大した老人人口を調節し、ひとりが平均七人の老人を養わねばならぬという若者の負担を軽減し、それによって破産寸前の国民年金制度を維持し、同時に、少子化を相対的解消に至しめる」ために、国が「老人相互処刑制度、つまり俗にシルバーバトルと言われて」いる殺し合いを70歳以上の老人にさせることになった時代のことである。そうやって殺人を強制された老人たちがひたすら殺しあう場面が、延々とまさしく延々と200ページ以上にもわたって書き連ねられている。私は途中何度読むのをやめようと思ったかしれない。主人公宇谷九一郎という77才の老人が、他地区でシルバーバトルを勝ち抜いた九一郎よりも1才年下の学友、猿谷甚一の力を借りて、宮脇町5丁目地区に住む男22人、女37人の老人たちの生き残りを賭けた戦いを勝ち抜くまでが描かれているのだが、時折他地区の戦闘場面も交えるため、殺戮場面がこれでもか、これでもかと続く。読みながら吐き気を催す人もいるのではないかと思えるほど、残虐なシーンの連続で、正直こんなものを書く筒井は大丈夫だろうかと心配になったほどだ。
 筒井康隆は1934年生まれであるから、今年72才、れっきとしたシルバーバトル対象者である。この作品が若者によって書かれたものではなく、己も対象者である筒井が書いたからこそ、凄みが増しているように思われる。当然、このシルバーバトルに対する批判も、対象者の視点に立って、随所にちりばめられている。
 
 「あの間の抜けた介護制度なんてものは、良識による悲劇の最たるものだったんじゃないのかな」
 「同感です」と猿谷も言った。「まだ歩ける老人に車椅子を与えて、歩けないようにしてしまう。自分で炊事ができないようにしてしまう。結局は何もできない老人の氾濫だ。一事が万事、ああいう良識こそがこのバトルの遠因ですよ。老後の金を貯め込んで使おうとしない老人から金を取らなければ景気は回復しない。だから、一律に税金や利息を取ろうというのも良識だったんですかね。あははは」
 
 最後の虚無的な「あははは」という笑いが老人の悲しみと怒りを象徴している。己のため、家族のため、ひいては日本のために粉骨砕身働き続けて老齢となった者たちに、感謝してこそ当然なのに邪魔者扱いするかのような現代日本の矛盾を筒井はこの作品によって告発しているかのようだ。
 しかし、生き残りを賭けた老人たちの生への執念は物凄い。ただ一人自分だけが生き残るために、彼らが企む権謀術策は読む者を唸らせる。老人たちの文字通り命がけの姿から、彼らの持つ生に対するエネルギーの大きさを読む者は実感できるし、彼らが持つこのパワーをもっと違う方向に向けられないだろうかと思えてくる。これだけの底力があるのなら、老け込んだりせず、自らの自立に向けてそれを使うべきだと筒井は訴えかけているのではないだろうか。体の動く間は、厄介者としてではなく、自立した人間として生きていくことなど、その気になりさえすればまだまだ十分にできるということを、殺人シーンを繰り返すことによって、自分も含めた老齢世代に訴えかけているように私には思えた。その考えは各地区で生き残った者たちが、この制度に対する怒りを表すために、シルバーバトルを管轄する厚生労働省を襲撃するという大団円にも表れているように思う。老人たちが自らの意志で、自らの死に場所を求めて突入していく、そうした己の命に対する誇りというべきものがそこに読み取れるように思う。
 私の父も今年73才。対象者に当たる。現実にこんな制度が施行されることなどありえないが、途中何度か登場人物に父をオーバーラップさせたことがあって、身につまされた。
 なんとも読後感の重い小説だった。
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ピカソの絵

 塾舎には、2枚のピカソの絵がかけてある。と言っても勿論複製画だが、1枚目は玄関を入って、階段を登りきった壁に「未来の鳩」という名のついた絵が、縦56cm、横76cmの額に納められて、かかっている。もう20年近く前に名古屋でピカソ展が開かれ、妻と二人で出かけた際に、一目でこの絵が気に入って、売り場で売られていたこの複製画を購入した。写真に収めたが、オリーブの葉をくわえた白い鳩が、翼を大きく広げ、刀や槍や銃の上を羽ばたいている。緑のオリーブの葉以外は黒い太い線で描かれた素描のように見えるが、鳩の背後に太陽が黄色で大きく描かれている。いらぬ装飾がないから余計に見る者の目をひく。
 初めてのデッサンは父のために描いた鳩の足だったと言われるほど、ピカソは若い頃から好んで鳩を描いてきたという。鳩といえば、現代日本ではフン害をまき散らす困り者と扱われることが多いが、昔から平和の象徴とされてきた。オリーブの葉も、平和と実りのシンボルとされている。鳩がオリーブをくわえている構図は、ノアの洪水が治まったときに陸地が再びあらわれたかどうかを調べるために箱舟から放れた鳩が、オリーブの小枝を持ち帰ったという「旧約聖書」創世記8章8~11節の記事に由来していると思われる。世界にこの故事が広まったのは、1949年パリ国際平和擁護会議でピカソのデザインによる鳩のポスターが作られてからだとも言われているようだ。
 この絵がピカソの、戦争のない平和な世界を願う気持ちを表したものであることは言うまでもないが、私には鳩の後ろに描かれた太陽が希望の象徴であるように思われる。日本人は太陽を赤く塗ることが多いが、西洋人は黄色く塗るという話を読んだことがある。太陽は全ての生命の源であり、その太陽を背にして飛ぶオリーブの葉をくわえた鳩が「武器よ、さらば」とばかりに銃器の上を飛んでいく、私はこの絵にピカソの平和への強い思いが見てとれるような気がする。「ゲルニカ」を持ち出すまでもなく、ピカソが生涯かけて世界平和を願っただろうことは、この絵が描かれたのが、91歳で亡くなった1973年の11年前1962年であったことからも分かる。
 もう1枚は、玄関を入ってすぐの壁にかけられた「ブーケ」の絵だ。こちらは鳩の絵を見た展覧会から10年ほど後に名古屋で開かれたピカソ展で見つけ、名だたる展示品よりもこの絵が一番気に入って、同じように額縁に入った複製画を買った。この絵は鳩の絵と違って、白地のキャンバスに鮮やかな色で描かれている。丸い花心の部分と花びらの部分が、黄・オレンジ・青・橙・ピンクなどの違う色で塗られた花が4本、束となって左右から伸びる2本の手によって握られている。じっと見つめると、手の平の向きや形から1人の人間の手ではないようだ。2人の人間が一本ずつ手を添えて花束を握り合っているように見える。手だけしか描かれていないので、男女どちらの手なのかは分からないが、ピカソはこの絵でいったい何を表現しようとしたのだろう。私には、美しいものを2人の人が支えあう姿を描くことによって、人間の連帯・協力の大切さを訴えようとしたように思われる。人間が長い時間をかけて築き上げてきた心の美しさを、友愛によって互いに支えあっていくことの大切さを描いたのだと、この絵を見るたびに感じてきた。
 私はこの2枚のピカソの絵を塾舎にかけることによって、生徒たちが何かを感じ取ってくれることを願っている。しかし、今までに「これは誰の絵なの?」と聞かれたことは余りない。美術とはまるでかけ離れた言動を常日頃からしている私を見ていては、生徒たちにそんな気は起こらないのかもしれない。
 
 今私がピカソに関して一番残念に思っていることは、昨年愛知万博開催期間中に、万博会場近くの愛知県陶磁器資料館で開催されていたピカソの陶芸展に行けなかったことだ。万博には最初から行くつもりはなかったが、ピカソの陶芸展だけは是非とも行こうと思っていた。それなのに、どうしても重い腰を上げることができなかった。本当に面倒くさがり屋はダメだ。もっとフットワークを軽くしなければいけない。残念なことをしてしまった。


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みっともない

 いささか古い記事ではあるが、1月29日の「中日新聞」朝刊1面のコラム「中日春秋」に「うむっ」と唸らせられる記事が載っていた。ずっとこのブログで紹介しようと思っていたが、いつの間にか今日になってしまった。下手な注釈をつけるよりも、全文を掲載したほうが筆者の意図がはっきりするので、以下に写してみる。

 「みっともないことだけはするな」。昔、浅草の親は口癖のように子どもに言ったものだと、浅草出身で十年前に亡くなった女優、沢村貞子さんは回想していた。
 お金が欲しいためにうそをつくな、自分がいい子になるために友だちを裏切るな・・・。当たり前でも実は守りにくいことも多く、人はみっともないことをする弱さがある。それを大人は知っていて、そういうしつけは厳しかったと「恥を知る」という随筆で書いている(『礼儀』作品社)
 玄関の壁を直しに来た親方が若い衆を「手前みたいな奴は豆腐の角に頭打っつけて死んじまえ」と怒鳴る場面も見たとか。失敗を弟分のせいにしたのに怒ったらしい。貧乏などは恥ではなく、みっともないのは「心の行儀の悪さ」。親方みたいな人たちはそう信じていたようだと沢村さんは語る。
 うそ、ルール違反、責任転嫁という心の行儀の悪さを何より嫌う心意気。浅草に限らず昔はあった。それで子どもは品性や恥というものを学んだが、今は大人からして行儀の悪さが目立つ。今度は大手ビジネスホテルチェーン「東横イン」の不正改造が発覚した。
 それも身障者用施設や駐車場を撤去してロビーを広くするなどした不正。障害者の怒りはもっともだが、社長は「そんなにわるいかな」。耐震強度偽装の関係者を連想させ、沢村さんの言葉も浮かぶようだ。「恥を知らない人は何でも出来るのね」・・・
 「もったいない」の言葉が注目されているように「みっともない」の教えも復活しないものか。少しは恥を知る世の中になるために。

 
そうした不正を犯して平気な顔をしている人をTVで見るたびに、彼らは自分の顔を鏡で見たことがあるのだろうかといつも不思議に思う。見ればきっと私欲で醜くゆがんだ顔が映し出されているはずだ。しかし、そんな顔が映っていても、「心の行儀の悪さ」が身についてしまった彼らの目には、決して見ることはできないのかもしれない。己の愚かさに気付かないからこそ愚行を重ね、それが発覚してもなお下らぬ言い訳を繰り返すだけ・・。最近のニュースに出てくる人々の顔は本当に正視に耐えない。
 そんな彼らに贈りたいのが、先日亡くなった茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩だ。「心で味わえ!」と言ってやりたい。


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


感受性が枯渇しているからみっともないことができるんだろうな、たぶん。
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とら

 我が家の飼い猫「とら」が猫エイズ(FIV)を発症していると診断された。
 先週の水曜日、妻がとらを病院に連れて行くから、車に乗せて行ってほしいと言った。「調子が悪いのか」とたずねる私に、「ちょっとね、食べられないみたいだから」と暗い顔で答えた。とらはもともと腎臓に結石ができやすい体質で、それを抑えるための注射を定期的に打ち、キャットフードもそういう対策のできたものを食べさせている。その辺りから調子が悪くなることはこれまで何度かあったため、今回もそうなのかと思った私は大して心配もしなかったが、妻は明らかに不安そうだった。
 病院での診断は、「エイズが発症し、腎不全を起こしている」というものだった。このままでは命に関わる深甚な症状であるらしく、血液検査をしてみてからどう対処するか決めたいと獣医は言った。「とりあえず、3日間ほど入院させてください」という獣医の指示に従って一旦とらを置いて帰宅した。その夜検査の結果を聞きに行った妻は帰宅して、「数値がとんでもないくらいひどいんだって。色々細かい説明は聞いたんだけど、とにかく危ないらしい。しばらくは点滴で栄養や水分を入れながら、薬で症状の改善を期待するって先生は言っていたけど、うまくいくのかなあ・・」妻は希望を持ちながらも、不安そうな顔をしている。私はただ「うまくいくさ」と言うしかできなかった。
 猫エイズというのはどんな病気だろうか、調べてみた。

 猫エイズは、ネコ免疫不全ウィルスの感染によって引き起こされる、免疫機能の低下を特徴とし色々な症状を出してくる症候群的な病気です。感染から発症までは非常に長いプロセスを経ます。
【急性期】 
猫エイズウィルスに感染すると、最初の数ヶ月軽い感染症(風邪を引いたり下痢をしたりします。)を引き起こしたり、リンパ節が腫れたりしますが、次第に無症状になってしまいます。幼弱で抵抗力の弱い猫や、既往症(なにか他に重大な病気にかかっている)を持っている猫以外でこの時期に死亡することは有りません。
【無症状キャリアー】
急性期を過ぎると一見健康な猫と見分けがつかなくなります。ただしウィルスはしっかり活動しており、ゆっくりではありますが病態は進行しています。この無症状キャリアーの期間は4~5年、場合によっては10年以上続きます。またウィルス増殖は続いていますから、多の猫への感染源になりますから注意が必要です。
【エイズ発症期】
無症状キャリアー期に進んだ病態が一定限度を超すと免疫不全症候群いわゆるエイズを発症してきます。この時期一番多い症状は口内炎です。そのほかにも怪我がなかなか治らなかったり、目やにや鼻水をいつも出しているようになることもあります。全てが抵抗性の低下が原因です。慢性の下痢を引き起こし次第にやせ細り最後には死に至ります。感染からここまで最短で5年ほどと言われています。

感染経路は、すでに感染している猫達との接触であり、一番多いのは喧嘩によるものらしい。このウィルスは、空気感染などはしないし、猫エイズウィルスが人に感染することはない。ワクチンがないため、現在では猫エイズを治すことはできないが、エイズ関連症候群は適切な治療を施しさえすれば治癒は可能だから、あきらめずに治療しなければならない。日本の外猫の感染率は10%を越えていて、外に出したら感染してくると思わなければいけないようだ。日本の外猫の平均寿命は5~6歳といわれているが、このように短い大きな要因に猫エイズがあると思われる。
 とらは今年で9歳になる。それまで何匹かの猫が連続して短命で死んでしまっていた我が家では、珍しく長寿の猫である。旅行先でふと立ち寄ったペットショップで、アビシニアンの血が入った雑種として、5000円で売られていたのを、猫好きの息子が自分でお金を出すから飼いたいと言って、我が家に連れてきた猫だ。おとなしい猫で、爪を立てたことはないし、暴れたこともない。しかし、近隣ではなかなかの存在感を示して、かなり広い縄張りを誇っているボス猫的存在だ。昔は生傷が絶えなかったから、エイズに感染したのは仕方のないことであるが、いざ宣告されてしまうと愕然とする。
 妻と息子は毎晩獣医まで見舞いにいっていた。その甲斐あってか、症状が改善されたため昨夜一週間ぶりに戻ってきた。かなりやつれていたが、「とら」と私が呼びかけると、ヨタヨタしながら近寄ってきた。うまくいけば、まだまだ十分生きられるそうだが、なんとか一日でも長く生きてもらいたいものだ。「頑張れよ」と体を撫でながら、とらの生命力を信じようと思った。

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訃報

 昨日、朝起きたら、PCの様子が変だった。前夜、PCの前でうたた寝をしてはっと気付いて起き上がり、ささっとブログを一巡してから電源を落として寝ただけなのに、何故か入力がローマ字変換してくれない。AREと入れて「あれ」となるはずが「ちすい」となってしまう。おかしいなあ、と思いながらあれこれ試してみたのだが、どこをどうやっても直らない。今までも時々 Caps Lock がかかって変換できなくなったことがある。PCを使い始めた頃は何がなんだか分からずあせったものだが、もう一度そのキーを押せば解除されることが分かって以来、それは克服できた。しかし、どう押したのかわからないが、いくら入力しても英語の大文字ばかりになってしまい、まるで変換できなくなることが最近はよくあった。こうなったら、今のところ直し方が分からないので、強制終了してリセットしてしまう方法しか私には思いつかない。落ち着いて研究すれば簡単なことだろうが、「落ち着いて研究する」ことが昔から苦手だ。私がこうやってPCを使っているのも、本当に勘に頼っていい加減にやっているだけだから、PCの能力のほんのわずかな部分しか利用していないだろう。いつも、暇になったらじっくり研究してみようなどと先延ばしにするばかりで、実行したためしがない。
 その因果がとうとう今日巡ってきてしまった。どうやっても直らない。昼過ぎまでない知恵を絞ってがんばってみたのだが、悲しいかな、基本的な知識がなさ過ぎる。こうなったら、しょうがない、できればそんなことはしたくなかったのだが、妻に頼み込むしかない。あきらめて、「PCのローマ字入力が出来ないんだけどどうしてだか分かる?」と尋ねてみたら、意外にも「まあ、たぶん分かると思うけど」とまんざらでもない感触だ。「じゃあ、直してくれないか」「いいけど、ここまで持ってきてよ」と何だか狐につままれたようだが、この機を逃してはならないと、走って塾舎までPCを取りに行った。私のPCはノートだけにこんなときは便利だ。妻の前に恭しく置くと、電源を入れ、ブツブツ言いながら作業を始める。妻はパソコン教室に何年も通っていただけあって、私の何十倍もPCには詳しい。でも、電源の入ったPCがやたらフリーズしてうまくいかない。何度か電源を入れなおした後で、「何、これ。何でこんなに訳の分からない物がいっぱい入ってるの?だからおかしくなるんだって。ちょっとエラーチェックかけてみるね。2、3時間はかかるかな」と言った。私は、ちゃんとローマ字入力さえできるようになればいいだけなので、「何でもやってくれ」とお願いするしかない。
 チェックの結果がどうだったかは知らないが、PCの動きがよくなって、妻が目的のページを開いた。そこを見ると、確かに入力方法が「ひらがな」になっている。「おかしいな、どこを触ったんだろうな?」と呻く私を尻目に、妻が「ローマ字」に直して「たぶんこれで直ったと思う」と言った。私は「ありがとう、サンキュー」と平身低頭した。「これで、ブログに記事を書き込める」と内心ホッとしたが、妻には「これであと少し残っている問題集を完成させることができる」と表向きのことを言っておいた。でも、本当に助かった、心から感謝している。
 さっそく塾舎に持ち帰ってネットにつないだところ、詩人の茨木のり子さんの訃報がゴジ健さんから伝えられていた。私は驚いた。茨木のり子さんといえば、私が前夜竜虎の母さんのところに、「マザー・テレサの瞳」という詩を紹介したばかりだったからだ。何たる奇縁・・・
 私は彼女の詩集を2冊持っている。しかし、私が彼女を知るきっかけとなった「わたしが一番きれいだったとき」という詩はどちらにも入っていない。だが、2冊の詩集に収められた詩は、どれも胸を打つ。私は彼女のことを「怒れる詩人」だと思っているが、そこには一本芯が通っている。原点は彼女が20歳のときに終戦を迎えた戦争体験にあると思うが、彼女の怒りの矛先は現代日本に鋭くむけられている。
 
  「疎開児童も」
疎開児童も お爺さんになりました
疎開児童も お婆さんになりました

信じられない時の迅さ
飢えて 痩せて 健気だった子らが
 
乱世を生き抜くのに せいいっぱいで
生んだ子らに躾をかけるのを忘れたか

野放図に放埓に育った二代目は
躾糸の意味さえ解さずにやすやすと三代目を生み かくて

女の孫は 清純の美をかなぐり捨て 踏み抜き
男の孫は 背をまるめゴリラのように歩いている

佳きものへの復元力がないならば
それは精神文化とも呼ベず

もし 在るのなら
今どのあたりで寝ほうけているのだろう



ご冥福を心よりお祈りいたします。
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福寿草

 ここ数日、日中はぽかぽかと暖まる日が多くなってきた。長くて寒かった冬ともやっとさようならできるかと思うと、心がホッとするが、朝晩はまだまだ相変わらず寒いから油断はできない。しかし、俗に言う三寒四温を繰り返しながら徐々に春めいていってくれればと願うばかりである。
 そんな気持ちでいたら、昨日の朝、待望久しい春の使者をようやく見つけ出した。妻が庭の中で、下草の間から、黄金色に輝く花びらを見つけ、「福寿草が咲いた!」と叫んだ。私はそれを聞きつけて、慌てて近づいて行って見ると、一輪だけだが可憐な花を咲かせている。「おお、今年も咲いたか」と私も喜びの声を上げたが、我が家にとってこの福寿草こそ、まさしく春の到来を告げるファンファーレである。毎年2月にはいると、3輪か4輪くらい花が咲き、殺風景な冬の庭に、まるでそこだけスポットライトが当たったような、鮮やかな彩りを与えてくれる。たぶん亡くなった母が生前植えたものだろうが、母の死後18年近くたっても変わらぬ美しさをたたえているのは、脈々と続く生命の悠久さの表れのようで、自然の雄大さを感じずにはいられない。それと比べれば人間の命などなんと他愛無いものだろう。
 しかし、よく考えてみれば「福寿草」とは本当にめでたい名前だ。「幸福と長寿」を併せ持っているのだから、さぞや昔から人々に愛されてきた花なのだろう。旧暦の正月(2月)頃に咲き出すことからこれほどの名前が付けられたのだろうか。福寿草について調べてみた。

「福寿草」
キンポウゲ科フクジュソウ属の多年草。
晩秋に芽を出し、冬に花が咲き晩春には種を落とし枯れてしまう。 種子から花を咲かせるのに五年以上かかり、繁殖は容易でない。
福寿草は春一番新年を祝う花として喜ばれ、別名ガンジツソウ(元日草),北国ではマンサクと呼ぶこともあり、 福を招く、縁起の良い花として喜ばれ,福寿草の名ができた。
短い根茎には黒褐色の堅い太い根が多数ある。 春一番に咲く花径は3cmほど,花弁は多数あり,黄金色で輝いており, 暖かさとともに茎を伸ばし,3回羽状に切れこんだ葉を広げ,頂花に続いて腋枝(えきし)の花も咲かせ,結実期には高さ30cmばかりとなる。

 なるほど、春を告げると同時に福をももたらしてくれる花なのか。それは素晴らしい。そんな花が毎年咲いてくれるのだから、なんと喜ばしいことであろう。しかも、我が家の庭には強力な助っ人が仁王立ちしている。写真にあるように、福寿草の傍らに鬼が控え、悪しきものが家内に入り込まないよう警護していてくれるのだ。写真では分からないが、黒鬼の横に同じ顔かたちをした赤鬼が並び立っていて、二人でにらみを効かしている。「彼らににらまれたら、大抵のものならほうほうの体で退散する・・・」という願いを込めて庭においてある。去年の今頃デパートで見つけ、愛敬ある顔が気に入って、我が家の守護を任せることにした。黒鬼を先に買ってきて、家に帰って開封したら、製造元が家の近くの工場だったことが分かった。妻と顔を見合わせて苦笑したのは後日譚だが、少し後に赤鬼も買ってきて並べたところ、なかなかの威容を誇って、この1年間雨の日も雪の日も怠りなく勤めを果たしてくれた。たまには労をねぎらって頭をなでたりしているが、末永く我が家族が安穏と暮らせるよう、彼らの力に頼るばかりである。
 たしかに寒さは緩んできた。玄関先に置いてある、手水鉢に湛えられた水に張る氷が日に日にうすくなってきた。庭の奥には、少し前から蝋梅が咲いている。これほど見事に咲いたのは今年が初めてだと妻が驚くほどに咲き誇っている。庭を訪れる鳥たちのさえずりも力強くなってきた。もう後少しの我慢だ。春は近い。暖かな日差しを浴びると、心が浮き立ってくる。

「早春の風」  中原中也
  けふ一日(ひとひ)また金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

  女王の冠さながらに
 卓の前には腰を掛け
かびろき窓にむかひます

  外吹く風は金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風
 
  枯草の音のかなしくて
 煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋(なよ)ぶ

  鳶色の土かをるれば
 物干竿は空に往き
登る坂道なごめども

  青き女の顎(あぎと)かと
 岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風・・・
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スカイレストラン

 「スカイレストラン」 詞 荒井由美 曲 村井邦彦
街灯り指でたどるの 
夕闇に染まるガラスに
二人して食事に来たけど 
誘われたわけはきかない
なつかしい電話の声に 
出がけには髪を洗った
この店でさよならすること
わかっていたのに

もしここに彼女が来たって 
席を立つつもりはないわ
誰よりもあなたのことは 
知っているわたしでいたい
長いこと会わないうちに 
あなたへのうらみも消えた
今だけは彼女を忘れて
わたしを見つめて

なつかしい電話の声に 
出がけには髪を洗った
今だけは彼女を忘れて私を見つめて
わたしを見つめて
 
 荒井由実の曲をハイファイセットが歌っているものは多い。この「スカイレストラン」の他にも、「冷たい雨」「卒業写真」など名曲が多い。その中でどれが一番好きかと問われたなら、私は「スカイレストラン」だと答える。何故なんだろう。詞にあるような状況に陥ったことなど私にはない。思えば恋愛の修羅場をくぐったことなどない。18のときからずっと妻と一緒にいて、他の女性に目移りしたことなど一度もないというのが、私の公式のプロフィールだから、それは当然なことである。だからこそ、こうした男女間の思惑が錯綜した場面を恨みがましくなく、かといって冷め切ってもいない調子で歌った曲が、心に残るのかもしれない。歌っているハイファイセットの山本潤子の声が、この曲とぴったりマッチしているからでもあろうが、いつ聞いても心に響く曲だ。
 この曲について書こうと思って、歌詞を検索しているうちに面白いエピソードが見つかった。2002年にユーミンが作詞家秋元康と対談した中で、「スカイレストラン」について言及している。「歌詞を全取っ替えする際に、前に書いた曲のイメージを引きずってしまうことはないんですか?」という問いに彼女が答える。

 「内容を引きずることは少ないけど、思い入れを引きずることはありますよ。デビュー当初に、「あの日にかえりたい」という曲を作ったんですけど、あの曲はもともと「スカイレストラン」というタイトルで歌詞も全然違っていたんです。“街あかり指でたどるの 夕闇に染まるガラスに…”という詞で。それでレコーディングも終えていたんですけど、秋吉久美子という当時バリバリの新進女優さんが初めて出るテレビドラマのテーマに私の作品を使ってもらえることになって、周りのスタッフが色めき立って…(笑)。それで何曲か聴いてもらったらどうしてもあの曲がいいと。ただし詞を変えてくれといわれて。ええぇ? って感じでしたけど、あれこれ言う間もなく、書き直すことになって現在ある「あの日にかえりたい」の詞が完成したんです。だからもともとこの曲についていた詞だけが浮いてしまったんですよ。でもあとで村井邦彦さんが拾ってくれて曲に仕上げてくれた。それがハイファイセットが歌った「スカイレストラン」なんです。“出がけには髪を洗った…”というフレーズもすごく気に入ってたし、執着もあったけど、結果的に変えられてしまった。ただへんに固執しすぎることなく、書き捨てに近い感覚でいるからここまでやってこれたのかも知れない。」

「あの日にかえりたい」のメロディーは次のようだ。これに合わせて、「スカイレストラン」の歌詞を歌ってみたらどうだろう。

http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/anohini_kaeritai.htm

歌ってみた。驚いた、ちゃんと歌える!当たり前のことなんだろうけどびっくりした。ユーミンの思い入れがあるように、サビの部分「出がけには髪を洗った」もしっかりと曲に馴染んでいる。名曲には不思議な運命が隠されているもんだなと感心した。
 でも、私は今の「スカイレストラン」のメロディーの方が好きだ。もし、メロディーが「あの日にかえりたい」のままだったら、きっと私にはそれ程好きな曲にならなかったように思う。

ちなみに「あの日にかえりたい」の詞は以下だ。

泣きながら ちぎった写真を 
手のひらに つなげてみるの
悩みなき 昨日のほほえみ 
わけもなく にくらしいのよ
青春の うしろ姿を 
人はみな 忘れてしまう
あの頃の 私に戻って 
あなたに会いたい
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