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「クローズZERO」

 小栗旬主演の「クローズZERO」を WOWOW で見た。昨年劇場で見ようとして果たせなかった映画がこんなにも早くTVで見られるのは嬉しい。日曜日は明るいうちからビールを飲み始め、8時過ぎには人事不省になっていることが多いので、果たして見ることができるのか心配していたが、何とか倒れることなくTVの前に座ることができた。さあ、と気持ちを高めて見始めたが、もう始まった瞬間から引き込まれてしまった。とにかく面白い。全身の血が逆流してくるような気がするほどワクワクする。「面白い」と言っても、先日見た「ユメ十夜」の面白みとはかなり違う。別に「ユメ十夜」が高尚な映画だとは思わないが、「クローズ・ZERO」の持つ面白さは、暴力を主題にした映画の持つ典型的な面白さだ。一概に暴力と言っても、戦争から個人的な殴り合いまでかなりの幅があるが、この映画は鈴蘭高校という悪たれどもが集まってくる高校で頂上(てっぺん)を獲るためにひたすら殴りあう高校生たちを描いたものである。権謀術策による手管を使おうとする者もいるにはいるが、そんなものなど一気に突っ切って、拳ですべてを決めようとする高揚感に満ちている。やるかやられるか、そんなギリギリのところで凌ぎを削る彼らの姿に共感などもてはしないが、どうしても惹きつけられてしまう。何故だろう?
 私は、もともとこうした暴力を主題にした映画を見るのが好きである。私の愛する松田優作が名を成した初期の作品はみな暴力にあふれている。後期の一歩引いた演技が松田優作の真骨頂だと思いはするが、初期の荒々しい松田優作の作品にも今なお心ときめかしてしまう私であるから、こうした暴力を主題にした映画が松田優作なみにかっこいい俳優で演じられるなら、どうしても見たくなる。
 ならば小栗旬はどうだ?などという意気込みで見始めた私をあざ笑うかのように小栗くんはひたすらかっこよかった。何がどうかっこよかったなどとあれこれ詮索する者に耳を傾ける必要もない。とにかく絶対的にかっこいい。虚無的な殺し屋を演じた頃の松田優作に匹敵するほどかっこいい。
「顔の造作としてはそんなにきれいじゃないけど、演技に入るとすっとその役になりきっちゃうんだよね。そこがすごい!」と妻がよく言うが、彼の舞台を何度か見たことがあるだけに実感がこもっている。私もこの映画を見て、初めて「小栗旬てかっこいい!」と心から思った。


 しかし、どうしてこうした映画に惹かれてしまうのだろう。よく考えれば、全編暴力シーンばかり、ただただ殴りあうばかりなのに、不思議と嫌悪感は湧いてこない。だが、一つ気づいたことがある。これだけ殴り合っても誰一人として死なないのだ。あんなに本気で殴り合えば死人が出ても当然なのに、お約束といっていいほど誰も死なない。殺すまでは殴らない、という不文律があるかのようだ。そのためどれほどひどく殴り合っていても平気で見ていられたのかもしれない。言わば、プロレスをショーとしてみているような感覚、血も流れるしハラハラはするが、決して命のやり取りまではしないという安心感を見る者に与えてくれるのだ。残忍な結末には決してならないと分かっているから、己の意志を通すために殴りあうしかない彼らの姿に、潔さと爽快感さえ感じるのかもしれない。
 目を覆いたくなるような残虐な映画ではないし、殴りあった者たちが抱き合って友情を確かめ合う、などという安っぽい結末にもなっていない。ならば、入場料を払ってまで映画館で見たいか?と問われたら、一瞬迷うかもしれない。でも、やっぱり「うん」と答えてしまうだろう、だって私はもういつでも1000円で見られるから。



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ちょっとうれしかったこと

 24日から始まったSMAPのコンサートに、日曜日になって初めて参戦した妻が家にいないため、この週末はいたって静かに過ごした。息子の誕生日祝いをするために土曜日から出かけたので、寂しいのかほっとするのか、何だか分からない気持ちだった。結婚して25年近くもなるともうお互いが空気みたいな存在なんだろうが、空気だけになくてはならない存在でもあるわけで、ここまで来るともう説明の仕様がないし、説明する必要もない、まさしくそんな関係なんだろう。などと時々は思ったりするものの、普段はまるでそんなことを思ったりもしないのだから、それが空気たるゆえんでもあるのだろうが・・。
 
 妻がいようがいまいが、塾の授業に何らの影響もない。日曜日と言えども、3時までしっかり授業をした。もう年内は大晦日まで休みはない。しっかり体調を整え、気持ちをしっかり持って毎日臨んでいかねばならない。そのためにも日曜の授業が終わったらすぐにリラックスしたいのも山々だが、バスのガソリンを入れに行く仕事が残っていた。週末はセルフスタンドの特売日となることが多く、今週末もメールで告知があったため、早く休憩したいな、と言う気持ちを振り切って出かけた。
 そのおかげか、驚くことが起こった。カードを使って1! 160円、さらに特売割引で3円引き、おまけにスロットで・・、なんとなんと、BAR が揃って第2位の5円引き!!!!びっくりして、「すごい!!」と連発していたら、店員のお兄ちゃんが集まってきて、「初めて見た!」「すげえ!」と誰もが驚いた。私はちょっと鼻高々になったが、こんなもので運を使い果たすのもバカらしいので、なるべく目立たないようにしようと思ったけど、やっぱり自慢してしまう。


 結局はカード価格より400円近く安くなった。たまにはこんなことがあってもいい・・。
 家に帰る途中、市の中心部を通ったら人でにぎわっていた。「招き猫まつり」だ。小雨が降り始めていたので歩くのも面倒だと思って、そのまま通り過ぎてしまったが、前日に食べた「招き猫プリン」がおいしかったのを思い出した。


 新聞でこんなものがあるよ、と紹介されていたのを見つけてさっそく買ってきた。招き猫だけあって、ちゃんと左手を上げているし、イチゴで耳も作られている。プリンの上にのったクッキーに可愛い猫の顔が描かれていて、食べるのをちょっとためらってしまう。でも、食べたい、「よし!」と気合を入れてクッキーを丸ごと口に入れた。おいしい!普段クッキーは余り食べたいとは思わないが、このクッキーはやわらかくていい。あとは一気に食べてしまったが、このケーキ屋で買ういつものプリンよりもおいしかった。なんだかすごく満足した。

 その夜は小栗旬の「クローズ・ゼロ」を見てかなり興奮したら、いつの間にか眠ってしまっていた。最近の私にしては珍しいくらい熟睡した。少しは疲れが取れたかもしれない。よかった、よかった・・。
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「ユメ十夜」

 WOWOW で放送された「ユメ十夜」を録画して見た。06年3月31日の記事に、リンボウ先生が朗読する夏目漱石の「夢十夜」のことを書いたが、その際竜虎の母さんから「夢十夜」が映画化されるというコメントを頂いたのを覚えている。完成したら見に行きたいなと思ってはいたが、なかなか思うに任せずとうとう劇場で見ることはできなかった。それならいつかTVで放送されるのを待とう、と淡い期待を持っていたら、今年になって WOWOW で放送されるようになった。「見なくては」と思いながらもそのたびに見落としてしまったので、9月26日放送されるのを見つけた瞬間に、「今度こそは!」と予約録画しておいた。
 おかげで念願かなってやっと見ることができたのだが、正直がっかりした・・。面白くない。題名が「ユメ十夜」となっている時点でもう怪しいなとは思っていたものの、これほど漱石の「夢十夜」を換骨奪胎したものだとは予想だにしなかった。漱石の小説をモチーフにして、あるいはそれからインスパイアされたものを10人の監督・脚本家が一夜ずつ表現するという形式をとっているが、夢か現か判然としない境界を怪しくも美しく表現した「夢十夜」の世界を、単なる映像美のみで捉えようとした作品が多く、途中で早送りしてしまったものもいくつかあった(私の一番好きな「第一夜」などは台無しにされてしまった・・)

 ただ、市川崑監督が撮影した「第二夜」だけは出色の出来栄えだったように思う。うじきつよし扮する侍と中村梅之助の坊主の禅問答が白黒のスクリーンの上で繰り広げられる。ただし二人の声は一切聞こえてこず、せりふは無声映画のように画面いっぱいに文字で表される。そのやり取りは「夢十夜」の第二夜に書かれたものを概ねなぞっている。

  和尚「お前は侍である」
    「侍なら悟れぬ筈はなかろう」
    「お前は参禅に来たのだろう」
    「そういつまでも悟れぬところをみると、お前は侍ではあるまい」
    「人間の屑じゃ」
    「ははあ、怒ったな」
    「悔しかったら、悟った証拠を持って来い」
  チ~~ン(時計の音)
   侍「きっと悟ってみせる」
    「時計が次の刻を打つ前にきっと悟ってみせる」
    「そして悟りと和尚の首を引き換えにしてやる」
      (座禅を組む)
    「悟らねばならぬ、和尚の首を取る為に悟らねばならぬ」
    「しかし、悟れぬ場合は死のう」
      (座布団の下の短刀(朱色)を抜く 掛け軸に「無」という字が現われる)
    「無、無とは何だ!糞坊主め!」
    「無、無、無、無」
      (和尚が障子を破って覗く)
    「怪しからん坊主だ!どうしても首を取ってやる!」
    「無だ、無だ、無を悟るのだ」
  チ~~ン
    「あッ、時計が・・・」
      (短刀を取って)
    「死ぬ!」
      (切腹をしようとするも・・)
    「刺せない・・・」
      (何度やっても刺せない。泣き崩れる。そこへ和尚が現われる)
  和尚「腹を切ることすらできないのか・・」
    「それでいいのだ」

 この終わり方は原作とはまるで違う。「ユメ十夜」の他の作品は監督・脚本家のアレンジが相当量加味されていて、まるで原型を留めていないものさえあるが、この市川監督作品はほぼ原作の通りに話が展開している。ただ、二度目に時計がチ~~ンと鳴ってから侍がじたばたするシーンはまったくのオリジナルである。いったいどういう意図でこうした結末にしたのだろうか。これこそ禅問答のようであるが、もう少し考えてみよう・・。   
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new デジカメ

 昨年末に自分へのクリスマスプレゼントとして買ったデジカメが壊れてしまった。電源を入れても、開くはずのシャッターの扉が開いてくれない。指で開こうとしてもうまくいかない。写真は撮れるので何枚か撮ってみたが、盗撮をしているような感じになって気持ちが悪い。


 それと前後してストロボも発光しなくなってしまった。買ってまだ一年も経っていないのにどうしたことだ。ちょっと腹が立つが、一年経っていないということは保証期間中でもあるということだ。それなら修理してもらおうとこのデジカメを買ったY電機まで持っていった。売り場で一番安いデジカメを買ったのだから、こんな事態になるのも当然かもしれないが、それにしても一年持たないとは・・。文句を言ってやろうかと思ったが、受付の人の対応が丁寧だったので何も言えなかった。
 修理には3・4週間かかると言われた。その間どうやってブログに載せる写真を写そうかなと少々頭を悩ませた。娘のお古のカメラはバッテリーがすぐになくなってしまうから用を成さない。携帯のカメラで急場を凌げばいいのだろうが、デジカメの売り場を少しぶらついたら、新しいカメラが欲しくなってきた。元々壊れたデジカメはピントを合わせるのが難しく、特に少し離れた所を写そうとすると、どう合わせてもピントが外れてしまって、ボケボケの写真しか撮れなかった。このブログでも、「デジカメへの不満」という記事を書いたくらいだから、正直言えば壊れてしまったのを歓迎する気持ちが少しはあった。「これでもっとちゃんと写せる新しいカメラが買える!」などという下心がなかったと言えば嘘になる。それでも、直せるなら直さねば、と浪費を戒める気持ちで電器店までやって来たのに、修理にそれほどの時間がかかっては困ってしまう、どうしよう・・。
 「やっぱり買っちゃおう!」
 誘惑には勝てなかった。というか、始めから半分以上は買うつもりだったから、踏ん切りをつけただけだ。昨年の暮れにもうちょっとしっかりしたカメラを買っておけばよかったのだ、と後悔しても仕方ない。ただ、今度はY電機ではなく、行きつけの電器店で顔見知りの店員さんに相談して買うことにした。Y電機の店員さんは何だか信用できない・・。
 で、電器店に行き、「2万円くらいでボケずにちゃんと写るカメラをください」とお願いしたら、乾電池使用のもので一つ前の型の物でよければ、と言って勧めてくれたのが、Panasonic の Lumix LS75-s 。「光学ズームが3倍だから大丈夫だと思いますよ」と言われても、まるで分からないので彼を信じるしかない。娘のお古も Lumix だったので使い方はある程度分かっているから、ちょうどいいかもしれない。「じゃあ、お願いします」と、18,800円をカードで払った。(去年、3万円のカメラを買っておけばよかったんだ・・)
 
 取り寄せになっていたカメラが昨日届いた。さっそく何枚か撮ってみたが、比べるまでもなくこちらのほうがいい。遠距離モードなどにしなくても通常モードで十分取れるし、ズームで拡大してボケたりしない。高級機種などではないが、私にはこれで十分だ。それに比べ、壊れたカメラはいったい何だったんだ、Pentax!!

 

 近所に咲いているコスモスの花もきれいに撮れた。

 

 いいんでないかい?
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「曲芸師ハリドン」

 夏休みが終わったある日、久しぶりにゆりかりさんのブログに立ち寄った。「相変わらずゆりかりさんはすごいなあ・・」といくつかの記事を読んで思っていたところ、コメント数がものすごく多い記事を見つけた。それは「曲芸師ハリドン」(あすなろ書房)という本年度の中学生対象の課題図書になっている本についての記事で、コメントをざっと読んだところ、読書感想文を書こうとする中学生たちからの問い合わせが多かった。私も夏休みの終わりになると「何か感想文ありませんか?」と不埒なことを言ってくる生徒にヒントめいたものを言ったりするが、この「ハリドン」という本のことはまったく知らなかった。記事に添えられた表紙の写真を見ているうちに、一輪車に乗って銀の玉をジャグリングしているハリドンが妙に印象深くなってきて、一度読んでみようと思った。


 さすがゆりかりさんが取り上げられただけあって面白かった。児童書などという範疇を超えた深い味わいのある物語だった。なによりも訳者・菱木晃子の訳が良い。「訳者あとがき」で彼女は「作者ヴェゲリウスの硬質で淡々とした文体に惹かれた」と書いているが、原作者の文体のもつイメージを十分に表現できる、しかも読む者をぐいぐい物語世界の中に引っ張っていくだけの力を持った日本語に移植しているのは素晴らしい力量だと思う。原書を読みたくもなるが、スウェーデン語などまったく知らない私ではかなわぬ夢だし、ひょっとすると日本語訳の方が文学的な表現の緻密さは優っているかもしれない、と思いたくなるほど完成度の高い訳書である。
 あらすじは、
「曲芸師ハリドンが夜半に夢にうなされて目覚めると、父とも慕うかつて劇場支配人であった『船長』が帰宅していないのに気づく。ハリドンがいくら叫んでも『船長』の乗った列車は走り去って行く--そんな予兆夢ともいうべき夢見に胸をざわつかせながら、急き立てられるようにして『船長』を探しに真っ暗な闇の世界へ飛び出していくハリドン・・。
 途中、公園のベンチで<船長>が置き忘れた帽子の中で寝ていた犬がハリドンに加わり、『船長』探し協力しようとするが、かえって足手まといになったりもしながら、夜明け近くになってやっと『船長』の近くにたどり着くまで、ハリドンの後を影のようについていく」
 
 場面がテンポよく次々と展開していくため、たった一晩のことなのに様々な出来事が起こる。そうした試練を乗り越えるたびに、『船長』を探し出したいと願うハリドンの気持ちが強くなっていき、それを感じる私もいつの間にか、「こんなことをしてたら<船長>に会えないぞ、ハリドン!」と声をかけたくなるほど物語の中に入り込んでいた。船長が乗ってしまったとハリドンが思い込んだ貨物船エスペランサ号が出港して行った場面では、まさしく「エスペランサ=希望」がハリドンの手元から逃げていくようで、悲しくなってしまった。自分でもおかしいくらいこれほど物語の中に引き込まれてしまったのは久しぶりだ。
 などとかなり心動かされた物語なので、すぐにでもここに感想文を書こうかと思ったが、もう少し客観的に考えられるように時間をおこうと思った。それと感想を書き終えるまではゆりかりさんの記事は読まないでおこうと思った、感想文はやはり自分の言葉で書かなくてはいけないから・・(これが基本だよ、感想文に悩む学生諸君!) 
 で、少しばかり時間をおいて自分なりにまとめた感想を簡単に記しておく。
 
 「夢は実現させるものだよ」という<船長>の言葉はこの物語において重要な役割を果たしている。ハリドンは『船長』を探すうち、彼が己の夢を実現させるために家を出たのかもしれないと思うようになる。それがハリドンの見た夢のワンシーンとオーバーラップして自分が一人取り残されてしまうのではないかという強迫観念めいたものにまでなってしまい、狂ったように<船長>を探す。ハリドンは「船長と離れたくない」というのが自分の「エスペランサ=希望・夢」であることを実感し、その夢の実現のために凍えるほど寒い闇の中を走り回るのだが、今一歩のところで「エスペランサ=希望・夢」は去っていってしまう・・。
 だが、『船長』はハリドンの元に返ってくる!!結局はすべてハリドンの思い過ごしであり、一人相撲であったことが分かるのだが、ハリドンにしてみれば「己の夢=『船長』とともに暮らすこと」を実現できたことになる。「よかったね、ハリドン」とその労をねぎらいたくなるが、『船長』が帰宅したのも知らずにぐっすり眠っているハリドンの姿からは、自らの「エスペランサ=希望・夢」を全身全霊を賭して実現させた者のみが持つ充足感を感じ取ることができる。また、そうした満ち足りた気分が、この物語を読み終えた後に感じる爽快感に繋がっているのではないだろうか。

 ゆりかりさん、素敵な本の紹介ありがとう!!
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ゴーヤ

 今年は我が塾恒例の「サツマイモ掘り」ができないようだ。原因はイノシシ!ちょうどイモができ始めた頃に畑が荒らされて、ほとんど食べ尽くされてしまったそうだ。父がイノシシ対策に頭を痛めているのは知っていたし、フェンスで畑を囲ったとも聞いていたので、きっと大丈夫だろうと思っていたが、命がけのイノシシたちにはとてもかなわなかったらしい。毎年サツマイモ掘りを楽しみにしている塾生もいて、私も楽しい時間が過ごせるので残念極まりないが、父の落胆のほうがはるかに大きいだろうから、「仕方ないね」と諦めるしかない。憎きはイノシシ!と思いはするが、彼らも生き残るためには必死なのだろうから、ここは涙を飲むしかない・・。
 
 その代わりというわけではないだろうが、今年はゴーヤがやたらとできたそうだ。夏の盛りから今に至るまで、コンスタントに(時にはうんざりするほど山盛り)父が畑から持ち帰ってくる。それがどれも大きくて立派だから驚く。毎日せっせと畑に通って丹精込めた成果だと思うと有り難味もわくが、それにしても毎日の食卓にゴーヤでできた一品が必ずあるというのはかなり辛い。私はゴーや独特のあの苦さが苦手で余り好きではないが、手を変え品を変え食べやすいように工夫している妻の手前、半分目を瞑りながら一生懸命食べている。しかし、本当に苦い・・。
 それでも我が家だけではとても食べきれないので、機会があるといろんな人に手渡している。特に私の伯母がここ最近血糖値が上がって困っていたところ、その対策にはゴーヤを煎じて飲むといいと人から教えられて、「ゴーヤのお茶を飲もうと思っている」と言ったのを聞いた妻が、「じゃあ」と言って父がゴーヤを持ち帰るたびに、せっせと伯母のところへ運ぶようになった。父もそれに協力して、今までよりも多くのゴーヤを持ち帰るようになったから、さらにゴーヤが増えてしまい、家中ゴーやだらけのときもあるくらいだ。


 これでもか、というくらい持っていくので、ちょっと嫌がられたりはしないだろうか、と心配になるが、伯母はゴーヤを煎じて飲むようになってだんだんと血糖値が下がってきたと喜んでいる。自分の娘にも勧めて何人かで飲むものだから、いくらゴーヤがあってもいい、と持っていくたびに喜んでくれる。「どうやって作るの?」と私が聞くと、「ゴーヤを天日に干しておいて、水気が取れたなと思うくらいになったら、皮も種も丸ごと細かく切って、それを煎じるだけだよ。飲んでみる?」とコップに入れて持ってきてくれた。私は「苦くないの?」とかなり腰が引けたが、「苦いけど、飲めないほどじゃないよ」とすでに飲んだことがある妻が言った。「それじゃあ」と試しに飲んでみた。
 うん、確かに苦いがそれほどじゃない。咳止めの効果があるとされる露草を煎じたものよりもはるかに飲みやすい。煎じ薬独特の風味も仄かにして、いかにも薬効がありそうだ。「お父さんにも飲ませてあげて」と伯母がペットボトルに注いでくれたものを写真に撮ってみた。


 ペットボトルに入っているから濁っているように見えるが、実際はかなり透明度が高い。コップに注ぐと水と見間違えるほどだ。
 私の父は血糖値を気にしたことは今まで一度もないが、年が年だけに体にいいとされるものは何でも摂取したほうがいい。もらってきたものを飲ませてみたが、感想は一言、「まずくはないな・・」。このところ老化が進んできている気もするので、続けて飲んだほうがいいのかもしれない。
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いやな符合

 松井秀喜が左ひざの手術を終えた。これで今シーズン苦しんだひざ痛から解放されるなら、何よりもめでたいことである。松井がDL入りして離脱が長引くにつれ、こうなったら一日も早く手術して来季に備えて欲しいと思っていた私には、やっと一段落がついた思いでいっぱいだ。あとは、松井自身がリハビリに励み、来シーズンのキャンプには万全の体調で臨んでくれることを祈念するのみである。
 今さら松井の今季を総括しようとは思わない。もう今季のことなど忘れて来季の松井の活躍を思い描くのみだ。ただ今年で取り壊されてしまうヤンキースタジアムで打った最後のヒットの写真だけは記念に貼っておこうと思う。


 3年前からシーズンが終わるたびに「来季こそ!」と気持ちを切らさぬように努めてきた私であるが、もう来季こそが正真正銘、松井にとって最後の年だと思っている。それはヤンキースとの契約最終年などだからではなく、もし来年もだめだったら、もうMLBにいる資格はないと思っているからだ。「とっとと日本に戻って来い」と叫んでしまうだろう。松井も来年はもう35歳、野球選手としては肉体的にピークを過ぎてしまった年齢であるため、果たしてラストチャンスである来季に存分に力を発揮できるかどうか、正直心配な面は多々あるが、とにかく私としては雑念を振り切って一心に松井を応援して行こうと思っている。(9月にこんなこと考えたくなかったなあ・・。1ヶ月も早いよ!)

 松井の手術を遡ること数時間前、自民党新総裁に麻生太郎が選出され、次期内閣総理大臣に指名される運びとなった。また二世議員の、しかも政界随一とも言われる血統を持つサラブレッドがこの国の舵取りをするわけだが、内外に難題山積の折、どのような手腕を見せてくれるのか、まずはお手並み拝見といったところだ。自民党政治に大して期待していない私ではあるが、実は少しでも長く麻生太郎が自民党総裁でい続けていて欲しいと願っている。それは何も彼がその職にふさわしい人物だと思っているからではなく、来年こそ松井秀喜が全身全霊を傾けて、まさしく死に物狂いで奮闘せねばならない年だからである。奇妙な符合がある。松井が怪我や故障で長期間DL入りしたここ三年間は、毎年自民党総裁が変わっているのだ。一昨年左手首を骨折した年には安倍晋三が総裁に選ばれたものの1年で辞任、右ひざ痛で長期DLした昨年は福田康夫が安倍の後任に選出された。だが彼も一年足らずで職を投げ出し、そして今年は麻生太郎・・。ただの偶然にしても気づいてしまうと気持ちが悪くなる。まさに松井の体調が自民党政治の命運を握っているとでも言いたくなる。逆に言えば、自民党総裁が変わる年には松井がDL入りし長期離脱を余儀なくされてしまうということになってしまう。それはいやだな・・。
 こんなことを書いても、一笑に付されてしまうだろうが、私は心底心配している。麻生太郎が物議をかもし出すような失言を繰り返し、辞任に追い込まれないとも限らない。内閣支持率が少しばかり高いからといって、衆議院選挙に打って出るもあえなく惨敗してしまい、あっという間に引責辞任・・、などなど不安なシナリオはいくつでも頭に浮かんでくる(それはそれでかなり面白い事態になるが・・)。もし万一そうした心配が現実になってしまい、それに引っ張られるようにして、過去3年の如く松井がDL入りしてしまったら・・、などと自民党支持者・松井ファンの両方からお叱りを受けるようなことをつい考えてしまう。なにせ運命の糸がどこでどう繋がっているのかよく分からない世の中であるから、あらゆる事態を想定しておくことは大切だろう。
 超セレブ麻生太郎ならば、自民党総裁から陥落したところで痛くも痒くもないだろうが、松井がそんなものに巻き込まれたりしては、たまったものじゃない。松井の夢であり私の夢でもある、悲願のチャンピオンリング奪取が儚く消え去ってしまうなんてとても許せない。
 
 来年こそは、と最後の願いをかける私のためにも、松井秀喜も麻生太郎も十分ご自愛召されよ!!
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娘との絆?

 土曜の夜遅く娘が帰ってきた。「11時50分に駅に着くけど、タクシーで帰ったほうがいい?」などとメールが来たら、「お迎えに参上いたします」と返事するしかない。塾を終えて駅まで迎えに行った。
 1ヶ月前に京都で会ったから、久しぶりな気はしない。だが何となく痩せたように感じられた。「最近少し食べるとお腹いっぱいになるから・・」と説明してくれたが、元気そうなので少しくらいほっそりしたほうがいいのかもしれない。京都で友人と会っていたから帰りが遅くなったようで、家に着いたら12時を回っていた。私の父がまだ起きていたようなので、部屋の戸を開けて「おじいちゃん、ただいま」と挨拶していた。父が「おお、おかえり!」と答えた大きな声が聞こえてきたが、可愛い孫娘に久しぶりに会った喜びはその声にもあらわれていた。少しばかり会話をして、娘が「おやすみ」と言って戸を閉めたが、敬老の日に合わせたかのようなグッドタイミングな帰省だった。

 翌朝、喫茶店に行くことになって、玄関まで行って驚いた。ブーツだ!
「お前が履いてきたのか?」と私が聞くと、
「うん、でもぜんぜん暑くないよ」と娘が言う。
「お前が暑いとかはどうでもいいけど、こんな時期にブーツを見る周りの人たちが鬱陶しいだろう」と言う私に
「そうだよ、まだまだ暑いし」と妻も賛同する。
「平気だよ、そんなの」と言う娘を見ると、首に薄いショールのようなものを巻いている。
「何だよ、それ?」と私が聞くと、
「だって寒いじゃん」とわけの分からぬことを言う。
「寒くなんかないよ、暑いよ」と私が言ってもとろうとしない。こんな田舎に戻ってきてカッコつけたって仕様がないのに、と私などは思うが、娘は、家の外に出る限りはきちんとした格好をしなければ我慢できないらしい。誰がどう見たって暑苦しいのに、季節を先取りするファッション感覚とでも言うべきものをひけらかしたいのかもしれない。それ以上ブツブツ言っても仕方ないので黙ってしまったが、多少の無理でもしなければいけないのが今風のファッションなのかもしれない・・。(でも、変だ)

 日曜日は友達と会いに出かけていたし、月曜は私が塾で忙しかったから、ゆっくり話もできなかった。だが、妻とは夜遅くまで話し込んでいたようだ。SMAPのライブのチケット取りの相談や、来週出かける東京ドームのことなどをあれこれ話し込んだのかもしれない。何を話したのか聞かなかったし、聞いても教えてくれないだろうから、知らん振りをしておいたが、娘と母親の関係に父親が入り込むのはなかなか難しい・・。
 私と娘の関係は昔からさほど変わっていないように思う。仲がいいのかどうかは分からないが、悪くはないと思う。世間によく言われるような、「絶対お嫁に出したくない」などとは決して思わないが、私を父親として頼ってくるならばどんなことでもしてやろうという覚悟は常に持っている(口に出して言ったことはないけれど・・)。そんな父と娘をつなぐ絆の象徴と私が勝手に思い込んでいるものがある。それは、少し前にこのブログで紹介したことのあるガッチャピンの小さなフィギュアだ。この前娘が帰省した時に全部渡したが、しばらくして娘が写真を送ってくれた。


 研究室のデスクに飾ってあるそうだ。ガッチャピンが私の代わりに娘を見守ってくれているようで、この写真を見た時は、なぜかほっとした。
 
 火曜にはバイトがあるとかで、朝早く京都に戻って行った。相変わらずつむじ風のような奴だ・・。短い時間ではあったが、家に娘がいるのはやはり楽しかった。今度は年末にしか帰れないと言っていたが、それまで結構長い時間がある。
「それまでぼちぼち頑張ろうかな」
などと寂しさを紛らわすしかない私である。
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「本当の環境問題」

 昨年5月に池田清彦著「環境問題のウソ」を読んだ感想を書いた。環境問題について新しい座標を私に示してくれた書であったが、当時はなんだか天邪鬼の詭弁のように思えた。しかし、1年半近くたった現在、猫も杓子もエコを唱えるようになってしまうと、「エコ」という言葉が免罪符のようになってその裏に隠れている諸事情というものが見えなくなってしまっているのではないかと思うようになった。自分たちの住んでいる環境を住みやすいものに保とうとする思いは人間誰もが持つ本能のようなものであろう。しかし、そればかりを錦の御旗のように掲げ、それに反対するものはすべて切り捨ててもいい、というまさに大政翼賛的な雰囲気を醸成した勢力に異議を唱えることは大事ではないかと思う。
 そんな折、池田清彦が養老孟司との共著で出版した「本当の環境問題」(新潮社)を読んでみた。今年3月に初版が発行されて以来、私が買ったのが第16版であるから、相当な人が本書を買ったことになる。それだけ環境問題に多くの人がナーバスになっているとも言えるかもしれない。ノーベル平和賞を受賞したアル・ゴアの「不都合の真実」が明らかにした地球温暖化の「実態」は私たちに大きな衝撃を与えたが、本書の冒頭にそのゴア自身が豪邸に住み、毎月何十万円も光熱費を使っている事実を示して、「地球温暖化が脅威だなどとは本心では思ってはいない」などと軽いジャブで読者の多くが持つエコ神話を崩しにかかる。池田の展開する理論は「環境問題のウソ」を読んだ私には、何も目新しいものではないが、さらに舌鋒を鋭くさせた分だけかなりの説得力を持っている。
 
 「つくったあとのことしか考えないで、そこだけを強調して、それがエコロジカルだと言っているだけである。さまざまなエコグッズもそうだけれども、その「環境にやさしい」と言っている製品をつくるために、どれだけのエネルギーが投入されたのか、使われたエネルギーにそのエコグッズは見合っているのか、ということはあまり考えられていない。ただ「環境にやさしい」という言葉だけにつられて、エコグッズを使おうなどとキャンペーンに引っかかっている人が多い」(P.87)

などという一節を読めば、巷間喧伝されている「エコ」運動がなにやらまやかしのように思えてくる。もちろん限りある資源を節約して枯渇してしまう時期を少しでも先送りすることは大切であろうが、それよりももっと大切なことがたくさんある、というのが端的にいえば作者の考えである。
 一つの例としてCO2排出量の問題がある。日本は京都議定書で決められたCO2削減目標を批准したものの、自国の努力だけでは達成できる見込みなどとてもなく、CO2排出権を他国から大金を払って買わねばならない事態に陥っている。(こんなわけの分からぬ権利を買うのに多額の税金を投入するなと誰しも言いたくなるだろう・・)。日本の省エネ対策は世界で一番であるからこれ以上CO2を削減しようとすれば、産業を停滞させるしかない。それはできない相談であるから、排出権などを買うお金を、諸外国に優れた省エネ技術をどんどん紹介していくのに使うのが日本のなせる最大の国際社会、そして地球環境に対する貢献であるのかもしれない。

 「環境問題というのは、もともと各自がミクロ合理性を追求したことによって、マクロが非合法になるということでしょう。いまの環境問題というのは、環境問題自体がまさに大きな問題なんだよ。環境問題を理由にミクロ合理性を追求することによって、マクロに見るととんでもないような問題が生じているのだから。
 やっぱり、もっとシンプルに科学的に考えたほうがいい。エネルギー資源の問題をどう担保するか、とか、食べ物をどうするか、とか、本来はそれがいちばん問題でしょう。ところが、いまは、もはや個人の倫理観とか道徳とかモラルとかの話にまでなっている」(P.164)

 今の日本社会は「温室ガスによる地球温暖化」というシナリオだけで動いているように思える。だが、そこには必ずお金儲けをしようとする勢力が見え隠れしている。石油市場に流入した資金が次にはCO2排出権市場に向けられるという観測もあるようだが、そうした胡散臭さにも本書を読めば気付けるように思う。
 一読して損はない書だと思う。
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破綻

 先週はアメリカ金融市場の大混乱が大きく報道され、アメリカ経済の動向が日本経済にも深く影響を及ぼすことを改めて痛感した。リーマンブラザーズなる証券会社の経営が破綻したことには、「奢れる者久しからず」という「平家物語」の一節を思い出すだけで、結局は実体のないマネーゲームに狂奔した者たちの哀れな末路にも快哉を叫びこそすれ、一片の同情さえ浮かんではこない。だが、リーマンの破綻が明らかになった日に原油先物取引市場で1バレル=90ドルにまで暴落したのには笑ってしまった。アメリカ経済の失速により、石油の消費量が減少するとの見方から価格が下がったとのもっともらしい解説がついていたが、私には原油バブルを主導してきた金融投資家の没落の象徴であるように思えてならない。徒に一般庶民の生活に打撃を与えてきた報いを受けるときが来たのだ!!と因果応報の摂理に僅かながらも溜飲の下がる思いがした。(しかし、小売価格には一向に反映されない。以前これくらいの市場価格であった頃の小売価格は110円くらいだったと妻がどこかで調べたことを教えてくれた。この期に及んで儲けようと画策している輩がいるんだろうな、きっと・・)
 リーマンの破綻など、投資などとは無縁の生活を送っている私には直接的な影響はまるでない。しかし、これだけ経済がグローバル化した現在、そんなことで済むはずがないと思っていたら、翌日になって、経営の行き詰ったアメリカの大手保険グループAIGに対してアメリカ政府が大量の公的資金をつぎ込むとの報道が流れた。リーマンと違い、余りに巨大すぎて潰したりしたら経済システムそのものに測りしれない打撃を与えるため、潰すわけにはいかずに救済措置を講じねばならなかった、との解説を見聞きしたが、不良債権を抱えた大手銀行に公的資金を投入した何年か前の日本の再現のようで、対岸の火事がいつ何時どこに飛び火するのか分からない時代なんだと少々恐ろしくなった。特に今回のAIGに関しては、私の加入している生命保険がアリコであるためにその思いは強い。
 数年前に私にかけてあった生命保険が満期を迎え、新たな保険をかけねばならなくなった時、どうしたらいいのか保険代理店を営んでいる友人に相談した。子供も大きくなって、以前ほど死亡保障額を高額にする必要もなくなったため、掛け捨てでもいいから安い保険を、という私たちの希望を聞いた友人が「それなら、アリコにしたら」と勧めてくれた。そのアドバイスに従って現在に至ったが、その間に入院したこともなく、死んだりもしなかったので、ただただ掛け金を払い続けてきただけだが、別にこれといって不満は感じたことはなかった。だが、今年に入って妻が「アリコが危ないって噂だよ」とたびたび言うようになり、夏休み前には「サブプライム関連で本当にピンチらしいから、保険変えようよ」と訴えるようになったので、さすがに心配になって友人に電話をしてみた。
 「危ないって話は聞いてないけど・・」
と彼は言ったが、妻がどうしても変わりたいと言い張ったので、保険料の年払いが終わる秋までに別会社の新しい保険契約を結ぼうということになった。夏休み明けに友人が確認にやって来る約束になっていたが、まだ顔を見せない。きっと多くの人からアリコに関する問い合わせがあって、その対応に追われているのだろう。最近は「代理店は保険会社からの締め付けが厳しくて、仕事も楽じゃない」と会うたびにこぼす彼であるが、仕事に関しては至極まじめな男であるから、近いうちに話に来てくれるだろうと思っている。
 石油価格の高騰で消費者からの不平不満の矢面に立っているのがスタンドの従業員であるのと同じように、保険会社の放漫な経営のあおりを食らって保険加入者からの突き上げを食らうのは、加入者に直接対応する代理店の人たちである。末端ばかりが苦しんで、本体の人たちはのほほんと自分たちの懐だけ暖めているように思えてくる。責任ある立場のものが責任を負わずに、本来手足でしかない者たちに大きな責任がかかってしまうような仕組みはどう考えてもおかしい。「トカゲの尻尾切り」といういやな言葉を思い出してしまった・・。
 
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