横浜 舞岡公園
1945年のことです。
私が子供の頃住んでいた静岡県西部の小さな町はアメリカ軍から激しい艦砲射撃と空襲を受け、穴だらけの焼け野原になりました。
攻撃が終わった後、私は防空壕から出て付近を歩きました。
煙がただよう黒々とした町をはっきりと記憶しています。
祖父の家は、平屋で、玄関に入ると広い廊下がずっと奥まで続き、その廊下の北側に和室がいくつか並んでおり、廊下の一番奥に井戸のある土間の台所がありました。
南に庭がある非常に明るい家で、私はよく遊びに行きました。
この思い出深い家が爆弾で完全に破壊されていました。
祖父母は防空壕に避難していたので危うく難を逃れました。
町の人々は焼け跡に小屋をつくって生活しました。
小屋はバラックと呼ばれました。
私が会社に就職してこの町を出たときもバラックが数多く残っていました。
当時まだ元気だった祖母もバラックに住んでいました。
戦後15年以上が経過したのにです。
そして驚くべきことにこのバラックは今でも横浜に数多く残っています。
戦後60年以上がたったのにです。
狭い敷地に密集して建てられたバラックの町を再開発することは非常に困難だったのでしょう。
ところで近年横浜で密集して建築されている敷地125㎡ちょっとの戸建分譲住宅群は、私の目にはバラック現代版に見えます。
終戦直後ならいざ知らず、日本が経済大国になった現代どうしてという感じがします。
戦後のバラックを見慣れてしまった結果、人々は、住宅とはこんなものと思っているのでしょうか。
もしそうだとしたら私達は住宅について意識改革が必要ではないでしょうか。